旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)7・・・讃岐路(80番→79番)

 再び讃岐路へ

 

 白峰寺を後にして、五色台を横断する山中の道路を一気に西側に下ります。そこは再び讃岐平野が広がる地域。丘陵地なども見えますが、その先は、平地が広がります。

 この辺りは、住宅地や集落が中心で、高層ビルはそれほど多くはありません。四国霊場も数キロ置きに配置され、テンポよく参拝できる区間です。

 

 80番国分寺

 五色台の西側は、坂出市の市域となりますが、次の札所の国分寺は、高松市の領域です。白峰の山道を下り切って、県道33号に入り、高松方面に戻ります。国分寺は、五色台の南の裾を回り込むように続くこの県道を、西から東へと進み、高松市に少し入った辺り。落ち着いた雰囲気の街中に佇みます。

 駐車場は、県道からすぐのところ。仁王門の正面です。

 

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国分寺仁王門。手前が駐車場。

 

 国分寺

 wikipediaによると、「国分寺は741年に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院」です。今でも全国各地に残っていて、あちこちで、この名の寺院を見かけます。

 実は、四国八十八か所霊場でも、国分寺は4か所あって、讃岐・伊予・土佐・阿波の各地に1か寺ずつ存在しています。

 この、80番札所の国分寺は、讃岐の国の国分寺。この辺りは、かつての中心地だった様子です。国分寺に隣接する坂出市側の町の名前は府中町空海が子どもの頃、勉学に励んだ国府があった場所かも知れません。

 

 国分寺の仁王門をくぐると真正面に参道が延びていて、両側は、松の並木が続きます。松並木の後ろには、八十八か所霊場の本尊を彫った石像が整然と配置され、四国霊場の結束を誇っているような光景です。

 

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※左、正面の参道。右、八十八か所霊場の本尊石造。

 

  国分寺の境内は、かなり広い敷地です。周囲には幾つものお堂があって、中ほどには優雅な池もありました。また、境内には、七重の塔の礎石も残り、かつてはそこに、誇らしく塔がそびえていたということです。寺の案内によると、国分寺に建てられる塔は、五重の塔ではなく、七重の塔。これが国分寺のランドマークだったのかも知れません。

 池にかかる石橋を渡って、真っ直ぐ続く参道を進むと、正面が本堂です。そしてその右方向に大師堂。国の権威を誇った寺院だけに、全体として勇壮な構えです。

 本堂は、元は講堂であったということです。鎌倉期の建物で、歴史の重みを感じます。

 

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※本堂。

 

 79番天皇寺高照院)へ

 県道33号線をもと来た方向に戻り、今度は坂出市の中心部に向かって走ります。この道はそこそこ交通量はありますが、結構真っ直ぐに延びていて、走りやすい道路です。

 途中、JR予讃線の八十場(やそば)駅の所で左に折れると、白峰宮天皇寺に到着です。

 

 天皇寺 

 天皇寺という名称は、少し特異な響きもありますが、ここは崇徳天皇*1崩御される直前に住まいされていたところです。天皇が(実際にはこの時期は、崇徳上皇が)暮らしておられた寺院ということで、後に、このように名付けられたということです。

 崇徳天皇は、1164年、この寺院の近くで亡くなられ、遺体はこの寺院に安置されたとされています。その後に、81番目の札所、白峯寺で荼毘に付され、その境内に天皇陵が築かれることになるのです。

 

 天皇寺の入口は、仁王門ではなく、鳥居です。朱塗りが鮮やかな、一風変わった格式ある鳥居の姿は、八十八か所霊場を訪れる者に、少し違和感を与えます。

 ただ、ここは同時に、崇徳天皇を祀る白峰宮も鎮座していていて、神と仏が共に祀られた境内です。歴史を背負って、両者が共存しているのです。

 

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 ※天皇寺の鳥居。

 

 鳥居をくぐると、真っ直ぐに参道が続きます。そして、その先は、白峰宮。広い敷地のその奥に、本殿が見えました。

 天皇寺は、参道の途中を左に入ったところです。こちらの境内は小じんまりしていて、正面の大師堂と、右手奥の本堂がかぎ型に並びます。

 天皇寺の納経所は、鳥居に続く参道を挟んで本堂とは反対側。白壁の、真ん中あたりに、唐破風様の門があり、そこをくぐったところです。

 

 天皇寺は、また、高照院とも呼ばれていて、八十八か所霊場の案内本によっては、こちらの名称も用いられています。この理由については、少し複雑な経緯があるようで、歴史の流れを感じます。

 いずれにしても、四国霊場の参拝に訪れた人を迎える玄関が、朱塗りの鳥居であることは、少し不思議な感じです。それだけに、この天皇寺は、印象深い霊場の一つです。

 

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※、左、白峰宮。右、天皇寺の境内。右手が本堂で、左にあるのが大師堂です。

 

 次回は、天皇寺を後にして、次は78番郷照寺に向かいます。引き続き、県道33号を坂出方面に向かい、坂出市を通り抜けた西隣、宇多津町を目指します。

 

*1:崇徳天皇のことについては、前回の「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)6」で触れたように、保元の乱の敗北を経て、讃岐の地に流されたという不幸な出来事がありました。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)6・・・讃岐路(81番)

 白峰寺崇徳上皇

 

 五色台の西の端、白峰の中腹辺りにある81番白峯寺は、先の根香寺と同様に弘法大師と智証大師が開いたという霊場です。そして、この白峯寺はもう一つ、平安時代の後期に即位した、崇徳天皇(後に上皇)にゆかりがある寺院でもあるのです。

 境内には、崇徳天皇の廟所である頓証寺殿や崇徳天皇陵などがあって、四国巡礼の人たちだけでなく、保元の乱に敗れ讃岐に流された上皇の菩提を弔うため、多くの人が巡拝に訪れるということです。

 

 

 81番白峯寺

 根香寺を後にして、山中の道を坂出市方面に向かいます。81番白峯寺は、五色台の西のはずれ、白峰の中腹にある、山中に佇む霊場です。

 五色台の横断道路を右にそれて、少し狭い斜面の道を進みます。途中、山の傾斜には、一面にアジサイの花が咲き誇り、何とも麗しい景観です。幾つかある駐車場を通り過ぎ、最も奥にある、舗装された駐車場に到着すると、そこには弘法大師像が待ち構え、像の左手には趣ある山門がありました。

 

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※駐車場と弘法大師像、山門。

 

 白峯寺

 山門をくぐって境内に入ると、幾つかの建物が並びます。参道の途中を左に折れ、奥に進んだ正面が頓証寺殿(とんしょうじでん)で、その入口に、勅額門と呼ばれる立派な門が構えます。

 白峯寺(しろみねじ)の本堂は、ここから右手上に続く石段の上。途中、幾つかのお堂を通り過ぎ、本堂へと向かいます。この途中のお堂には、干支である十二支をそれぞれ守る本尊が安置されているようで、例えば、ひつじ年とさる年の人は、薬師堂でお参りくださいというような案内がありました。

 

 長い石段を上り詰めると、本堂です。そして、本堂の右手が大師堂。山の斜面の狭いところに2つのお堂が並びます。

 

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※左、本堂に延びる石段。右、本堂。

 

 頓証寺殿

 本堂に向かう石段の下には、先ほども少し触れた、勅額門。そして、その門の奥には頓証寺殿が佇みます。頓証寺殿は、崇徳天皇の廟所であり、正面拝殿の裏手には、崇徳天皇陵が築かれているのです。崇徳天皇が亡くなられたのは、1164年。弘法大師の没後、250年ほど後のこと。あるいは、大師の加護の中で天皇の安らかな眠りを祈願する人たちが、この地に祀ることを思い立たれたのかも知れません。

 

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※勅額門と、その奥には頓証寺殿の拝殿が。この拝殿の裏に崇徳天皇陵があります。

 

 私たちが訪れたとき、勅額門の左手の小道は工事のために閉鎖中。従って、境内から直接天皇陵へと向かうことができません。やむなく一旦山門を出て、白峯寺の外周の道を、天皇陵へと向かいました。

 

 崇徳天皇

 この外周の道、そこそこ幅の広い土の階段を下っていくと、砂利引きの広場に下り着きます。そこから右手に石段が延びていて、そこを上がると天皇陵。先ほどの、頓証寺殿の真裏にあたります。

 天皇陵は、陵の正面に鳥居が置かれ、石柱などで仕切られていて厳かな佇まい。周囲は木々に覆われていて、陵の奥を見渡すことはできません。

 

 五色台の西の麓からも天皇陵と白峰寺の山門に上る道が続いているらしく、その道は、”西行法師のみち”と呼ばれている、との案内板がありました。天皇の死後、四国を訪れた西行法師が旧知の天皇の菩提を弔うため、この地を訪れたときに通られた道ということです。

 

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※左、崇徳天皇陵。右、”西行法師のみち”の案内。

 

 崇徳天皇

 崇徳天皇は75代目の天皇です。保元の乱(ほうげんのらん、1156年)で後白河天皇(77代目)と対立して敗退し、四国の讃岐に流されました。その後、都に戻ることを強く望んでおられたようですが、結局、望み叶わず讃岐の地で崩御されたということです。

 崇徳天皇の上洛への思いは強く、成就叶わなかった晩年は、時の為政者への怨念を強く抱いておられた様子です。また、天皇の没後には、都では様々な事件や災厄が起こったために、世の人は、崇徳天皇の怨霊の仕業と怖れられたという話も有名です。

 

 私自身、このお話は、内田康夫氏の「崇徳伝説殺人事件」というミステリー小説で初めて知った次第です。色々と、資料などを見てみると、どの時代にも共通する政争を彷彿とさせる話ではありますが、当時は、複雑な血縁関係なども重なって、より混沌としていたことでしょう。

 そんな逸話も重なって、今も白峯を訪れる人は多いとか。四国霊場白峯寺。四国巡礼とは少し異なる背景を合わせ持つ霊場です。

 

 崇徳天皇は、多くの方が親しまれている、百人一首の読み手のひとりとしても知られています。その歌は、一字決まりと言って、和歌の最初の一文字で札が拾える七首のうちの一首です。子どものころからこの和歌は、私の大好きな歌の一つで、いつまでも忘れることができません。

 

 ”瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢わむとぞ思う”

 

 この歌は、恋歌として解説されているもので、世の流れの中で引き裂かれた男女であっても、思いがあればいつか必ずまた巡り会えるものだというものです。

 しかし、崇徳天皇の怨霊の話を思い起すと、あるいはこの歌は、世の中枢から排除された天皇が、いつかまた、元の権力の中枢に戻るのだという、回帰の念を込めたものとも捉えてしまいます。

 この歌自身は、保元の乱よりはるか以前に詠まれたもの。従って、私の勝手な想像は的を射たものではありません。それでも、崇徳天皇の心の内が感じ取れるような奥の深い一首です。

 

 次は五色台を離れて、讃岐平野の西側に向かいます。この地こそ、空海の生誕地。農地の中に集落が点在し、椀を伏せたような小山とため池が散らばる、のどかな景色が広がります。

 

 

 

 

 

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)5・・・讃岐路(83番→82番)

 高松へ

 

 屋島寺を後にして、高松の市街地に向かいます。高松市は、人口40万人を超える四国有数の大都市です。市街地にはビルが密集し、街中は車が行き交います。

 高松城跡は海の近く。街の中心部を南北に貫く大通りを南に向かうと、通りの右手には栗林公園の森が広がります。

 

 

 83番一宮寺

 高松市の中心部から南に向けて数キロ走ると、郊外の住宅地が広がります。次第に農地が見られるようになると、一宮の町が近づきます。主要道路を西に入り、少し細い道路を進んだところ、高松南高校のすぐそばに、一宮寺の駐車場がありました。農業用水が清らかに流れるその際に車を停めて境内に向かいます。

 駐車場から境内までは、少しだけ水田が残っていて、緑濃い稲の間の水面には、愛らしいオタマジャクシの姿が見えました。

 境内への入口は、西門で、門をくぐると左手が本堂です。

 

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※左、駐車場からのアクセス。右、西門。

 

 一宮寺

 一宮寺(いちのみやじ)は、それほど大きな境内ではありません。それでも、木々が美しく整備され、お堂などの建物とほどよく調和しています。本堂近くのクスノキは、枝葉が大きく茂っていて、真夏の陽光を和らげます。

 本堂に向かって右手には大師堂。仁王門は、本堂正面から真っすぐ延びる境内のその先です。

 

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※左、本堂。右、仁王門。

 

 車でこの寺を訪れるとき、仁王門は裏手となってしまうのですが、四国霊場第八十三番札所を告げる石柱は、一宮寺の存在感を誇っているように感じます。

 平幡良雄氏の「四国へんろ」という解説書には、一宮寺にはかつては人気の宿坊が完備されていて、多くのお遍路さんたちが利用されていたと紹介されています。境内には、今も「三密会館」と呼ばれる施設があって、講習会などに活用されているようです。

 

 宿坊

 宿坊は巡拝者の宿として、かつては多くの霊場に設けられていたようです。特に歩き遍路の場合は、夜遅くに目的地に辿り着くこともあるでしょう。夜露をしのぐばかりでなく、温かい食事や寝枕は、疲れた体を休めるために不可欠だったに違いありません。

 ところが近年は、その役割は次第に薄れてきている様子です。私たちのような、車で巡る遍路では、街中のホテルや温泉宿などを気ままに選ぶことが可能です。いかにも今日的な巡拝が主流になってきている中で、宿坊の役割もさらに変わっていくのかも知れません。

 宿坊は、基本的にはそれぞれの霊場が営まれている施設です。今でもお遍路さんたちを受け入れておられるところもありますが、既に閉鎖されている施設も見かけます。朽ちかけたかつての宿坊らしき建物を眺めると、一抹の寂しさも感じます。

 

 霊場の近くや遍路の道中には、巡拝者のために設けられた、それと分かる旅館や民宿なども見かけます。歩いて八十八か所を訪ねる道中では、そうした宿や宿坊が頼りです。私たちも、一度そのような宿を利用したことがありますが、普通の旅館やホテルでは味わえない温かさとおもてなしがありました。

 施設自体は質素ながら、見知らぬ人と食卓を囲い遍路の会話を楽しむことも、また一つの四国巡礼の姿です。

 

 82番根香寺

 一宮寺を後にして、再び高松市の中心部に向かいます。その後、進路を西に向け、坂出市との間に立ちはだかる五色台の山道に入ります。

 五色台は、北は瀬戸内の水際まで張り出している一種の山地。その山地には、幾つかの峰があるようです。中でも、青峰・赤峰・白峰・黒峰・黄峰と称される五色の峰の愛称は、いかにも五色台を象徴するような名称です。

 見晴らしの良い展望所は黒峰にあるようで、主要道路の北側の山中です。一方の根香寺は青峰にあり、展望所とは反対の位置。主要道路から南に入り、鬱蒼と茂る木々の間の道路を進みます。*1

 

 根香寺

 山道を3Kmほど上ったところに根香寺(ねごろじ)は佇みます。駐車場は仁王門のすぐ脇です。車から降り、すぐに境内に入れます。

 仁王門をくぐった正面には、一段低くなった地形の中を、参道がつづきます。左右から木々が覆うこの参道は、本堂に向かって真っ直ぐに延びていて、それこそ厳かな雰囲気です。視線の先の石段を上ると、さらにその先も石段です。傾斜の上に向かって境内がのびていて、その奥が本堂です。

 大師堂は、本堂の手前の右手にあって、この辺り、幾つかのお堂などが配置されています。

  

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※左、仁王門。右、入り口付近の参道。

 この寺の特徴は、本堂をとりまく回廊です。本堂から回廊に下りると、薄暗く伸びる空間に、たくさんの手のひら大の観音像が並べられています。整然と並ぶ、万体観音と呼ばれる無数の像は、寄進とつながりがあるのでしょう。

 信仰厚い方々が寺院に寄進することで、観音像を据え置いて、そのことにより、いつもここで祈りを捧げられているような情景です。

 

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※左、本堂。右、本堂に続く回廊内。

 

 智証大師

 根香寺の縁起は、空海のこの地への訪問にあるとされているようですが、後に智証大師(ちしょうだいし)による伽藍の建立が行われ、寺院としての確立をみて今に至っているということです。

 智証大師は、元の名を円珍といい、最澄天台宗を引き継いだ人。従って、今もこの根香寺天台宗の寺院です。四国八十八か所霊場は、その大半が真言宗の寺院でありながら、そうでないところもあるのです。

 

 円珍空海と同じく讃岐の出身です。しかも空海の親戚にあたり、空海の姪が円珍の母ということです。76番目の札所である、善通寺市金倉寺(こんぞうじ)辺りで生を受けられ、金倉寺円珍ゆかりの寺院です。

 後の「巡り旅のスケッチ」でも、もう少し智証大師について触れてみようと思います。

 

*1:次回紹介する81番白峯寺は、名前の通り白峰にある霊場です。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)4・・・四国遍路と空海

 四国遍路と弘法大師信仰

 

 四国八十八か所の巡拝は、弘法大師ゆかりの寺院を巡る旅と言われています。しかし実際は、弘法大師の弟子たちや後の人々によって徐々に形づけられてきたもので、弘法大師信仰の象徴です。

 今からおよそ1250年前、西暦774年に、讃岐の地で誕生した空海は、遣唐使として唐の長安に渡り、そこで真言密教を伝授されます。空海は、言語や文章力、思想・芸術に至るまで、天才的な能力を発揮されたということで、まさに神の領域の人だったのかも知れません。

 高野山奥の院で即身成仏されたと伝えられる空海。後に、醍醐天皇により弘法大師号を授けられました(西暦921年、空海の死後80数年の後のこと)。

 平安時代の初期に活躍した空海は、各地に数多くの足跡を残されて、人々に親しまれ崇められてきたのです。四国遍路の旅を続けていると、1200年もの長きにわたり、人の心を引き付けてやまない、弘法大師の魅力を実感します。

 

 

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※左、空海の故郷近くの讃岐の遠景。右、高野山奥の院への入口。
 

 

 空海のこと

 空海真言宗の開祖であることは、中学校の歴史でも学んだと思います。比叡山延暦寺天台宗を開いた最澄とともに、密教の双璧として記憶したものです。

 ところが、私の空海に関する知識はその後長い間、そこで止まったままでした。もちろん、最澄のことも同様で、たとえ比叡山延暦寺を何度か訪れたとしても、観光地訪問以上のものではありません。空海最澄の生き方について、興味を持つことはありませんでした。

 

 その後、今から20年ほど前のこと、私は、司馬遼太郎の『空海の風景』という小説に巡り会いました。この作品は、小説というよりも空海の伝記のような内容で、特に空海の哲学的な思考の変遷が見事にまとめ上げられているのです。

 弘法大師と言えば、仏教の高僧であると信じて疑わなかった私にとって、この小説は衝撃的なものでした。空海という人の見方を、それこそ根本から変えてしまった一冊です。

 

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空海の生誕地、善通寺の駐車場敷地にある”空海記念碑”。

 

 空海は、讃岐の国、今の香川県善通寺市で生を受け、若くして奈良で勉学に励みます。仏教の経典や儒教はもちろんのこと、語学など幅広い知識や技能を身につけられた様子です。

 その後、密教の存在に触れ、四国の阿波の国から室戸岬を渡り歩いて、自身を自然と一体化するような修行を行います。室戸の最御崎(ほつみさき)の洞窟で明星を認めた体験は有名な話のようですが、この体験が契機となって、密教を極める道にまい進したということです。

 

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室戸岬。この近くには、今も御厨人窟(みくろど)という名の空海修行の洞窟が残っています。

 

 空海密教

 空海が辿り着いたのは、仏教の教えを超越する人と宇宙の真理の探究です。

 仏教に関してほとんど知識のない私などが、どうこうと語れる身ではないものの、阿弥陀如来を崇めてその力で救われるという”他力本願”や、欲望から解き放たれることが人間の幸福につながるという仏教の本質とは、随分と趣が異なる観念が密教にはあるようです。

 このあたり、空海が「華厳経」や「大日経」と出会い、そこから真言密教を確立するに至る第一歩の思考について、『空海の風景』では次のように記されています。

 

 「もっとも重要なのは、華厳経に出現する廬舎那仏(るしゃなぶつ)が、大日経にも拡大されていることである。廬舎那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの、思想上の存在である。・・・あたかも日光のごとく宇宙万物に対してあまねく照らす形而上的存在という意味であり、ごく簡単に宇宙の原理そのもとといっていい。この思想を、空海ははげしく好んでいた・・・」

 

 実在した仏教の祖、釈迦をも超越した宇宙の真理である廬舎那仏。大日如来とも称されていて、真言密教の本尊です。奈良東大寺の大仏は華厳経によるものですが、その先に空海が見たのが真言密教だったのです。

 後に空海遣唐使として唐に渡ることになりますが、それは、「大日経」からさらに進んだ真言密教に辿り着くためだったと言われています。

 

 同行二人

 少し話が難しくなってきたようです。ただ、私がお伝えしたかったことは、弘法大師への信仰の深さや広がりがどこから来ているのか、ということです。

 真理を追究していけば、生身の人間でありながら、宇宙の原理にも成りえる。ここから、”即身成仏”という考え方が導かれ、空海自身が仏となっていくのです。

 四国遍路を行う人々の多くは、”同行二人”(どうぎょうににん)と言う言葉を印した菅笠や金剛杖を携行します。これは、弘法大師その人が、信仰する人の心の中に存在する、弘法大師がいつも自分の傍にいて、見守っていてくれるという思想です。

 巡礼を続ける中で、弘法大師は常に自分の傍にいてくれる。そして、遍路を通じて自分自身を見つめなおし、あるいは、何かを発見する。これこそ、空海が追求した真理と重なる、四国遍路の極みといってよいでしょう。

 

 三密 

 今年に入って、新型コロナウイルスが猛威を振るい、人々は、この見えない敵とどのように立ち向かうのか、知恵を絞り対策を講じてきています。

 その中で、どうも、3密という対応が基本的に有効だという認識が広がって、密閉・密集・密接の空間を避けることが推奨されているのです。この3密という言葉、いったい誰が考案されたものなのか。言葉の響きは、いかにも、人の心に浸透しやすい表現です。

 

 実は、この三密、真言密教の原理でもあるのです。地元で販売されている、四国遍路を巡る作法と地図が掲載された冊子には、「自分の言葉身体の三密がいつも清らかで一つであるよう心掛けると・・・願いがかなえられるのです。」と記されています。

 また、『空海の風景』においても、この三密について次のように記されています。

 

 「空海は三密という。三密とは、動作言葉思惟のことである。仏とよばれる宇宙は、その本質と本音を三密であらわしている。宇宙は自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、そして宇宙としてのすべての活動という”三密”をとどまることなく旋回しているが、真言密教の行者もまた、その宇宙の三密に通じる自分の三密=印をむすび*1真言(宇宙のことば)をとなえ、そして本尊を念じる=という形の上での三密を行じて行じぬくこと以外に、宇宙に近づくことができない。」

 

 宇宙は、動作(身体)と言葉(口)と意思(心あるいは意)が飛び交うように入り乱れ旋回している。このことを理解して真理を求め続けること以外に真理に到達できないという意味でしょうか。

 実に哲学的内容で、とても私には俄かに理解できない内容なのですが、いずれにしても、四国遍路を続ける人たちは、真言密教において基本的なこの「三密」を心に据えて巡拝の旅を進めているのです。

 

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弘法大師最御崎寺の仁王門。   

 

  空海のことについては、折に触れ記していきたいと思います。とりあえず、次回は高松市の南部に位置する、83番一宮寺(いちのみやじ)から巡拝の旅の続きです。

 

*1:真言宗において行者が念じるときに、手指を色々な形で組むことを意味する言葉です。ここでは、動作のことを指しているのでしょう。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)3・・・讃岐路(86番→84番)

 瀬戸内を望む

 

 瀬戸内の志度湾と湾を挟んだ西側には、急峻な岩が突き出す八栗山の五剣山。さらに、西には半島状に連なる屋島の台地が見渡せます。

 ここから3か寺は、瀬戸内に面した霊場です。潮風を受けながら、夏の遍路の旅を続けます。

 

 

 86番志度寺

 長尾寺から、一気に瀬戸内海の沿岸に。さぬき市の志度の町は、海が少し入り込んだ湾沿いに家並みが続く静かなところ。小豆島を向かいに望み、この辺りは潮の様子も穏やかです。

 

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志度湾から八栗山(中央)を望み、さらに左奥には屋島の遠景が確認できます。

 

 志度湾沿いの道端に志度寺(しどじ)の駐車場の案内がありました。駐車場に隣接する境内は、木々に覆われ中の様子は窺えません。この道沿いの裏口から境内に入ることもできますが、私たちは、小道を少し南に入り、仁王門の方向へ。

 

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※左、志度寺の仁王門へのアクセス。中、仁王門と五重の塔。右、仁王門をくぐると、森の中のような境内です。

 小道の左手には志度寺の大きな石門が立ち、左右に延びる白壁のその奥に、仁王門が見えました。そして、門の左奥には、深い朱色の五重の塔。歴史を感じる重厚感が漂います。

 白壁に挟まれた進入路を真っ直ぐ進み、仁王門をくぐって境内に入ると、そこはまるで森の中。境内は無数の木々に覆われて、鬱蒼としています。蝉時雨が響き渡り、先の長尾寺とは対照的な光景です。

 小道を奥へと進んでいくと、ところどころに祠などもありました。そして左手に続く径の先に大師堂、その隣には本堂です。それぞれのお堂で参拝し、改めて辺りを見回すと、木々植物の密集度に驚きます。境内には、所々に散水や手入れが進む跡などが残されていて、管理の大変さがうかがえます。

 参拝の後は、仁王門方面に戻って納経です。納経所がある書院建物の奥には、枯山水や曲水式の庭園があるそうで、次に訪れた時は、ぜひとも訪れたいと思います。

 

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※右手が大師堂。左が本堂です。

 

 平賀源内の墓

 仁王門を出ると、左手に常楽寺というお寺がありました。寺の案内板の記述には、江戸時代の発明家、平賀源内の墓があるということです。せっかくの巡り合わせ。常楽寺におじゃまして、源内さんの墓参りをさせていただきました。

 平賀源内は、この寺の檀家であったとのこと。さぬき市のこの近くには源内の旧邸など、ゆかりの場所があるようです。

 

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常楽寺の正面入り口と平賀源内のお墓。

 

 85番八栗寺 

  志度寺を出て湾伝いの道を少し走って左折すると、突き当りにJR志度駅が見えました。駅前を横切る主要道路は国道11号。ここから国道を西に進みます。

 その先は牟礼の交差点で国道を離れ、八栗山の麓、八栗ケーブルの駅を目指します。

 八栗寺(やくりじ)は八栗山の中腹にあって、麓の駐車場から徒歩で登ると1時間はかかるでしょう。体力も必要で、多くの参拝者はケーブルカー*1を利用します。

 ケーブルカーで山上駅に到着すると、境内への小道が続きます。以前は、この道の両脇に土産物店などが幾つか並んでいましたが、今はもう、お店は閉じられている様子です。店仕舞いされ、商品棚を古いシートで覆った姿を見ると、時の流れを感じます。

 

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※左、ケーブルカー。右、八栗寺境内図。


 八栗寺

 小道をしばらく進むと、八栗寺の境内案内が置かれていて、そこから先が岩山の下に続く境内です。岩陰にある小さな祠や朱塗りの多宝塔を右に見て、大師堂が続きます。その奥が本堂を擁する境内で、それこそ八栗山の五剣山の真下に位置します。

 

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※左から、多宝塔、大師堂、本堂。

 

 境内は、本堂のところでかぎ型になっていて、左に向かうと正面の仁王門。本来は、歩いて山を登り切り、この仁王門から本堂に向かいます。

 

 仁王門をくぐってその先の様子を窺うと、”お迎え大師”と名付けられた弘法大師の座像と展望台がありました。この展望台からは、高松の街の郊外や屋島を見渡すことができ、その景観は見事です。

 もともと、かつて空海がこの五剣山を訪れたとき、岩間の清水で喉を潤したという言い伝えがあって、以来、水大師として親しまれていた由来があるようです。”お迎え大師”は、そんな伝説を引き継いで名付けられたということです。

 

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 ※左、仁王門。奥には八栗山が見える。右、お迎え大師と屋島の遠景。

 

 84番屋島寺

 八栗寺の次の札所は屋島寺です。平安時代末期、都を追われた平氏が拠点を置いたこの屋島において源義経が戦功をあげた戦いは、その詳細は知らずとも、屋島の戦いとして記憶の片隅に残っています。一の谷、屋島、壇之浦の戦いを経て、世の中は平安時代から鎌倉の武士の世に移ります。大きく時代を変えた舞台を見据えるように、84番屋島寺は佇んでいます。

 

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屋島の古戦場を望みます。左奥の山が八栗山。

 

 八栗寺のある牟礼の半島と対面する屋島の半島。その姿は扁平な台地状になっていて、特徴ある姿です。半島に入ると、右手に海を見ながらしばらく上りの坂道が続きます。途中には、屋島の古戦場跡もありました。

 道路が大きく左にカーブしたその先に、広い有料の駐車場が現れます。ここは、屋島寺だけでなく、水族館や展望台などもある観光地。様々な目的で観光客が訪れるようなところです。

 屋島寺は、駐車場の少し奥、朱塗りの立派な門が参拝者を誘います。

 

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※左、朱塗りの門。東門でしょうか。右は境内の様子。

 

 屋島寺

 屋島寺は、唐の高僧鑑真が、奈良に向かう途中に屋島に立ち寄ったのが始まりとされているようです。後に、日本の偉人空海が唐に渡り、真言密教の祖、恵果(えか、または、けいか)から後継指名を受けるとともに、この寺が空海信仰の霊場の一つとなることなど、時の鑑真には思いもよらなかったことでしょう。

 

 屋島寺の境内は、空が開けた開放的なところです。朱の門をくぐって右に向かうと、右側には幾つかのお堂が並び、その端に大師堂。本堂は左手奥の歴史を感じる朱塗りの建物です。熊野神社なども境内にあって、神仏混合の様子が窺えます。

 

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※左、本堂。右、右奥が大師堂。

 

 屋島寺からは国道11号に再び戻り、次は高松の市街地に入ります。

 次回の巡り旅は、霊場巡りから少し離れて、弘法大師空海)について少し触れてみようと思います。

 

*1:ケーブルカーは、15分間隔で運行されています。往復千円。片道5分程度の乗車です。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)2・・・讃岐路(88番→87番)

 讃岐路へ

 

 弘法大師ゆかりの寺院を巡るとされる四国遍路。閏年の今年は、88番札所から逆方向に周ります*1。四国巡拝の最終番の札所は大窪寺。讃岐の山中に重厚な姿を潜ませます。

 讃岐の国は弘法大師の出生地。空海という名で平安時代の初期を駆け抜けて、密教を極めた偉人です。1200年もの長きにわたり、多くの人に崇められ信仰の対象となった高僧を偲び、讃岐路に入ります。

 

 

 88番大窪寺

 讃岐山脈は、南に横切る吉野川と北に広がる讃岐平野に挟まれた、香川県徳島県の県境に東西に連なる山脈です。この山脈の東のはずれ、高松自動車道の引田インターチェンジを下りて一路西へ向かいます。

 道は、ほどなく山間の蛇行した山道に。ところどころに点在する集落を越え、20㎞ほど進んで行くと、右手方向に大窪寺への侵入道路が現れます。急坂のこの道を少し進むと、四国八十八か所の最後の札所、大窪寺に到着です。

 大窪寺は、讃岐山脈の北東部に位置します。この霊場は、山裾の斜面に境内が広がって、その下の僅かに開けた空間に、門前町が佇みます。

 

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※左、大窪寺門前町。右、境内への階段(東側の入口)。階段の上り口右にある石碑は、「八十八番結願所」の案内。

 

 四国八十八か所霊場門前町を抱えるところは、実はそれほど多くありません。大窪寺は、特に最後の札所ということで、訪れる参拝者も他の寺院より多いのでしょう。今でも、数件の大きな土産物店や飲食店が軒を連ねているのです。

 

 大窪寺

 大窪寺は、東から階段を上って境内に向かう方法と、西から仁王門をくぐって境内に入る方法の2通りのアクセス路が存在します。本堂は、東の階段を上り山門をくぐった正面です。西の仁王門から入ると、大師堂などを通り過ぎ、東奥の境内へと進みます。

 この寺の本堂は、規模としては一般的。多宝塔が本堂奥に位置しているのが特徴です。多宝塔の姿は、正面からは分かりにくいのですが、本堂の屋根の奥に見える法輪でその存在が分かります。

 

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大窪寺本堂。屋根の奥に法輪が覗きます。

  本堂の少し手前から西に進むと、大師堂がある境内です。大師堂は、Wikipediaの解説では、「日本における仏堂の呼称の1つで、大師号を贈られた僧を礼拝の対象として祀る」とされ、四国八十八か所霊場では、例外なくその境内に大師堂が配置されています。

 本堂の本尊は、薬師如来阿弥陀如来千手観音菩薩など霊場によって様々ですが、四国霊場の大師堂は、例外なく弘法大師が祀られているのです。

 四国巡拝では、本堂にお参りし、次に大師堂にも参拝してから納経帳に御朱印を頂くというのが正しい順序。ただ、この札所の納経所は本堂のすぐ隣。私たちは、本堂参拝後、先に納経を済ませて大師堂へと向かいました。

 

 大師堂近くには、かなり大きな弘法大師像が置かれています。四国霊場では、これもほぼ例外なく*2境内に大師の像が配置されていて、弘法大師信仰の厚さを感じます。

 

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 ※左、大師堂。右、弘法大師像。

 

 仁王門

  大窪寺の西側からの入口には、仁王門が構えています。大師堂からさらに西方向に少し進んだ位置にあり、この寺随一の荘厳な造りです。四国霊場の各寺院には、これも基本的に仁王門が配置され、参拝者を境内へと誘います。

 ”醫王山”と、正面大屋根の下に掲げられた扁額が勇壮で、88霊場の中でも、この仁王門は規模としては最大級と言ってよいでしょう。

 

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 原爆の火

 大窪寺には、その境内に”原爆の火”という記念碑が置かれています。この記念碑の由来は、石版に記されている通りですが、核兵器の廃絶を願う思いは、弘法大師の信仰とも相通ずるところがあるのでしょう。

 四国の霊場には、戦没者慰霊碑などが配されているところもあって、寺院の参拝と併せて、平和への思いを馳せる人も多いのではないでしょうか。

 

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原爆の火の記念碑。

 

 87番長尾寺

 大窪寺を出て、山間の道路を西に向けて少し走ると、道路は南北に延びる主要道路に突き当たります。この道を北に折れ、讃岐平野方面へ。

 途中、鴨部川のダムのところには、”道の駅ながお”がありました。この道の駅は小規模ながら、地元の野菜などが販売されていて、良い雰囲気のところです。また、道の駅のすぐ側には、”前山おへんろ交流サロン”という資料館のような施設もありました。先を急ぐ私たちは、このサロンには立ち寄ることなく通り過ぎたものの、四国遍路に関する展示が充実し、人気の施設の様子です。

 

 主要道路をさらに北に向けて進んで行くと、次第に平地が広がります。この辺りは、もう讃岐平野。さぬき市の長尾という町に入ります。87番目の札所、長尾寺は、高松市から延びている琴電長尾線の終着駅、長尾駅のすぐ側です。

 

 長尾寺

 長尾寺(ながおじ)は、ちょっとした運動場のような境内で、その隅に、本堂や大師堂が並びます。駐車場から直接境内に入ることもできますが、少し回り込んだところにある仁王門から入るのが作法です。

 仁王門に面する道路際には、経幢(きょうどう、あるいは、きょうとう)と呼ばれる古い石柱が左右に2基あって、屋根で覆われています。長尾寺の経幢は由緒があるものらしく、重要文化財に指定されているということです。

 

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長尾寺の仁王門(正面)と経幢(左右の屋根の下にある)。右はその経幢。

 

 仁王門を入ると正面が本堂です。そして、その右に大師堂。境内はシンプルな印象です。

 

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※左、境内の様子。右、手前が大師堂で奥が本堂。

 

 四国遍路と各地の見どころ

 四国遍路では、四国4県のおおよその外周を巡ります。所々で寄り道が許されるのなら、遍路をしながら四国一周の旅を楽しむことも可能です。

 本来は、巡礼の旅は神聖なもの。観光気分の参拝は慎むべきかも知れません。ただ、せっかくの四国の訪問です。巡拝は巡拝として、観光地に立ち寄ることも考えてみてはと思います。

 

 香川県では、敢えて観光地を目指さずとも、源平合戦で有名な屋島(84番屋島寺)とか、弘法大師の生誕地とされる75番善通寺などは必ず訪れるところです。また、”寛永通宝”の砂の造形で有名な琴弾浜は、69番観音寺のすぐ近く。スキー場のある雲辺寺山頂公園には、その名の通り66番雲辺寺の境内が広がります。

 さらに、坂出では瀬戸大橋の勇壮な姿を見ることができますし、順路のほど近くには、”こんぴらさん”として有名な金毘羅宮なども鎮座しています。

 

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※左、瀬戸大橋。右、琴弾浜。

 

 87番長尾寺を出ると、次は86番志度寺です。讃岐平野を縦断し、一気に瀬戸内海を望む遍路道へと向かいます。

 

*1:逆回りの理由については、前回の記事で紹介したとおり。閏年の習慣みたいです。

*2:100%かと言われると自信がありません。現在、何らかの理由で大師像が配置されていない所があるかも知れません。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)1・・・四国遍路について

 旅に出難い時節になって、私のブログも数か月途絶えることになりました。ようやく、僅かに外出が許される狭間を狙って、歩みの途中になっている東海道の陸行を少し東に進め、静岡市の中心部にある府中宿の西隣り、丸子(まりこ)の宿場に至ることができました。この状況で、いつになったら江戸に到達できるのか、定かではないものの、踏破のあかつきには、歩き旅のスケッチ(東海道)シリーズを始めたいと思います。

 

 その前に、同じく遠出が可能な時期を利用して、四国へと足を伸ばしてみることに。車で、四国八十八か所霊場巡りです。通常は、1番札所から順番に88番札所を目指す人が多いようですが、閏年には88番札所から逆方向で巡るとご利益が多いとか‥。迷信を信じない身でありながら、あるいは何か感じることがあるかも知れないと、世の習いに従って一念発起。四国讃岐の地に向かいました。

 

 四国遍路について

 

 四国八十八か所の巡拝は、弘法大師ゆかりの霊場を巡るもので、四国遍路として親しまれています。徳島県鳴門市にある1番札所霊山寺(りょうぜんじ)から、阿波、土佐、伊予の各国を時計回りに進み、讃岐の国、香川県さぬき市の山中にある88番大窪寺(おおくぼじ)に至る古刹の巡礼です。

 1,400Kmにも及ぶ四国遍路。信じられないことですが、すべての道のりを徒歩によって進める人も少なくありません。車で僅か10分ほどの距離であっても、1時間以上かかる道のりです。札所から札所まで、70Kmを超す区間もあって、気の遠くなるなるような道筋です。それだけではありません。霊場となる寺院の多くは、深い山中に密かに佇んでいるために、険しい山道を登ることも強いられます。

 白装束に菅笠をかぶり、金剛杖をつきながら先を目指す歩き遍路の方の姿を車窓から認めると、頭が下がる思いです。

 

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 この四国遍路は、弘法大師自身が手掛けられたともされているようですが、実際は、大師の死後*1、その弟子たちが大師を偲んで四国各地を訪れたことが起源のようです。

 平安時代の初期に活躍した弘法大師。別名は空海(くうかい)です。真言密教を極め高野山を開いたこの高僧は、後々、多くの人々の信仰の対象となっていくのです。そして、弘法大師を偲びながら、あるいは無心で、あるいは何かを求めて、四国の寺院を巡拝するする風習が受け継がれ、今日の四国巡礼に至ったということです。

 

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 四国遍路の今

 今日、四国巡拝を行う人の多くは、車での遍路が中心です。8日~9日で88か所の霊場を訪れることができるため、自家用車での巡拝は最も効率的な方法です。また、マイクロバスや大型バスのツアーなども準備されていて、集団で参拝されるグループも少なくありません。この場合、バスが札所近くまで近づけないような、狭いアクセス道路が何か所もあるために、小さな車への乗り換えなども必要で、2週間程度はかかるでしょう。

 その他、自転車やバイクで巡拝されている方や、先ほども少し触れたように、徒歩で巡拝される方も見かけます。徒歩による歩き遍路は、少なくとも40~50日はかかります。歩き遍路に挑んでおられる方の多くは若い人たちで、単独行がほとんどです。ただ、中には年配の方の姿を認めることも。黙々と歩みを進める歩き遍路は、あまりにも過酷な行程です。

 

 参拝と納経

 四国八十八か所の巡拝は、それなりの作法があるようようです。身に着ける衣装などもその一つ。白装束に袈裟をかけ、菅笠をかぶります。白布でできたずた袋を肩から下げて、金剛杖をついて霊場を巡るのが基本です。

 持ち物も、蝋燭と線香、それに、納め札と呼ばれる短冊状の紙でできたお札などがあるようです。

 霊場では、本堂と薬師堂の最低2か所に参拝します。それぞれにお灯明、お線香、お札納めをして”般若心経”の読経をするのが一般的。

 ただ、こうした厳格な参拝は、あくまでも作法に忠実な場合のこと。信心にさほど執着しない私などは、お堂に向かって無心に手を合わせることだけで、十分だと納得しています。

 バスツアーに参加される方たちは、恐らくほぼ忠実にこうした作法に沿った巡拝を実行されている様子です。ツアーには、ガイド役、あるいは、リーダー役の方がおいでになって、その人の指導の下に厳格に行動されている光景をよく見かけます。

 

 四国巡礼に欠かせないのが納経帳です。お参りの印に寺院名などの筆を頂き、御朱印を押印してもらいます。一種のスタンプ帳のようなものですが、そのような例えを口にするだけでお叱りを受けそうな、厳粛で重みのある有難い帳面です。

 八十八の古刹を巡り、最後に高野山奥の院奥の院については、折につけ、どこかで触れると思います。真言密教にとって最も重要な場所です。)で満願を叶うという、四国巡礼の足跡の証明でもあるのです。

 巡拝者によっては、納経軸や白衣などにお印を受けられる方もおられます。*2

 

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※左、納経帳表紙。右、納経帳のお印。

 納経帳への記帳が終わると、”おすがた(御影)”と呼ばれる短冊状の紙を頂きます。この紙には、それぞれの霊場に祀られているご本尊が印刷されていて、信心深い方々は、大切に保管したり、額に飾ったりされているようです。

 また今年は、弘法大師の姿が印刷されたお札も頂けます。2020年は、空海弘法大師の名を授かって1100年の記念の年。こちらには、寺院ごとに伝わる”御詠歌”と呼ばれる和歌が印刷されています。

 

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※左、弘法大師のお姿。右、ご本尊の御影。

 

 二度目の四国遍路

 私たち夫婦は、10年ほど前に、徒歩や電車、バスなどを組み合わせた遍路の旅に初めて挑戦。何回かに分けて徳島の阿波の霊場巡りを終えました。その後しばらく間を空けて、数年前に車で高知から香川までの残りの行程を完結したのです。

 今回は二度目の巡拝。できるだけ人混みを避けるため、すべて自家用車の行程です。先に記したように、今年は4年に1度の閏年。88番札所から、逆回りの周回です。お遍路さんたちの間では、”逆打ち”と呼ばれている回り方。香川から時計とは反対回りで阿波の国、徳島へと向かいます。

 

 

 「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)」のシリーズでは、四国八十八か所の各霊場を紹介するだけでなく、ルートの情景や観光の見どころなどもお伝えしたいと思います。そして、弘法大師空海)に思いを馳せ、その生涯を偲びながら、遍路の魅力を探ります。

 

*1:弘法大師は、”入定(にゅうじょう)された”と言われているように、亡くなられたのではなく、即身成仏されたと信じられています。このことについては、どこかで少し触れてみようと思います。

*2:納経帳などのお印は、境内にある納経所というところで頂きます。

歩き旅のスケッチ(中山道シリーズの索引)

 中山道の「歩き旅のスケッチ」は、2015年10月からおよそ3年半にわたって、少しずつ歩き刻んだ足跡を、気ままな記事で紹介してきたブログです。

 本編は38回、総集編が12回。綴った記事は、都合50回に及びます。

 こうなると、自分でも、どの回にどこの記事を書いたのか、分からなくなる始末。この索引を利用して、読み返したい記事を探したいと思います。

 皆さんにも、ご活用いただければ幸いです。

 

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第1章

歩き旅のスケッチ・・・中山道

歩き旅のスケッチ2・・・中山道、御嶽宿から大井宿へ(前編)

歩き旅のスケッチ3・・・中山道、御嶽宿から大井宿へ(後編)

歩き旅のスケッチ4・・・中山道、大井宿から木曽路へ

歩き旅のスケッチ5・・・中山道、三留野宿から福島宿へ(前編)

歩き旅のスケッチ6・・・中山道、三留野宿から福島宿へ(後編)

歩き旅のスケッチ7・・・中山道、福島宿から藪原宿へ

歩き旅のスケッチ8・・・中山道、鳥居峠と奈良井宿

歩き旅のスケッチ9・・・中山道、奈良井宿から塩尻へ

歩き旅のスケッチ10・・・中山道、塩尻峠と和田峠(前編)

歩き旅のスケッチ11・・・中山道、塩尻峠と和田峠(中編)

歩き旅のスケッチ12・・・中山道、塩尻峠と和田峠(後編)

 

第2章

歩き旅のスケッチ13・・・中山道、草津宿から武佐宿へ

歩き旅のスケッチ14・・・中山道、武佐宿から高宮宿へ

歩き旅のスケッチ15・・・中山道、高宮宿から番場宿へ

歩き旅のスケッチ16・・・中山道、番場宿から醒井宿へ

歩き旅のスケッチ17・・・中山道、柏原宿から美濃路へ

歩き旅のスケッチ18・・・中山道、今須宿から関ヶ原宿へ

歩き旅のスケッチ19・・・中山道、関ヶ原宿から赤坂宿へ

歩き旅のスケッチ20・・・中山道、東赤坂から各務原へ(前編)

歩き旅のスケッチ21・・・中山道、東赤坂から各務原へ(後編)

歩き旅のスケッチ22・・・中山道、各務原から御嶽宿(前編)

歩き旅のスケッチ23・・・中山道、各務原から御嶽宿(後編)

 

第3章

歩き旅のスケッチ24・・・中山道、芦田宿から塩名田宿へ(前編)

歩き旅のスケッチ25・・・中山道、芦田宿から塩名田宿へ(後編)

歩き旅のスケッチ26・・・中山道、塩名田宿から追分宿へ(前編)

歩き旅のスケッチ27・・・中山道、塩名田宿から追分宿へ(後編)

歩き旅のスケッチ28・・・中山道、追分宿から軽井沢宿へ

歩き旅のスケッチ29・・・中山道、碓氷峠と上州路

歩き旅のスケッチ30・・・中山道、横川から安中宿へ

歩き旅のスケッチ31・・・中山道、安中宿から高崎宿へ

歩き旅のスケッチ32・・・中山道、高崎宿から倉賀野宿へ

歩き旅のスケッチ33・・・中山道、倉賀野宿から本庄宿へ(前編)

歩き旅のスケッチ34・・・中山道、倉賀野宿から本庄宿へ(後編)

歩き旅のスケッチ35・・・中山道、本庄宿から深谷宿へ

歩き旅のスケッチ36・・・中山道、深谷宿から鴻巣宿へ

歩き旅のスケッチ37・・・中山道、鴻巣宿から東京へ

歩き旅のスケッチ38・・・中山道、江戸道中と日本橋

 

総集編

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]1・・・馬籠と妻籠(前編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]2・・・馬籠と妻籠(後編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]3・・・宿場町(前編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]4・・・宿場町(中編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]5・・・宿場町(後編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]6・・・峠道(前編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]7・・・峠道(中編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]8・・・峠道(後編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]9・・・間の宿(前編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]10・・・間の宿(後編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]11・・・街道筋(前編)

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]12・・・街道筋(後編)

 

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歩き旅のスケッチ[中山道総集編]12・・・街道筋(後編)

 街道筋の四季

 

 街道筋の後半は、信州と上州の山々を望む景色が素晴らしく、見晴らしは最高です。特に、気候の良い春や秋には、峰の残雪と花々のコントラストや色とりどりに燃え上がる紅葉など、風景を愛でながら気持ちよく歩ける道筋です。

 そんな街道も、江戸に近づくにつれ、次第に街中の道に変わります。近代的な都市の中では、どこそこも、それほど景色は変わりません。所々に残された、社寺や老舗の建物などが、僅かにアクセントとなって、日本橋に続きます。

 

 

 木曽の桟(かけはし)と御嶽神社

 38番上松宿(あげまつじゅく)を出て、しばらく北に向かうと、T字路のようになっていて、東西に走る国道19号線に突き当たります。街道は、一旦この国道に合流し、少しだけ、歩道のない危険な自動車道を西の方角へ。そして、しばらく進むと、木曽川です。

 その先は、国道はそのまま橋を渡って木曽川右岸の方向へ。一方の中山道は、国道から離れ、橋を渡らず右折して、木曽川の左岸に沿って上流へと向かいます。この左岸道路は、かつては国道だった様子です。車道はきちんと整備され、歩道も途切れることははありません。ただ、その昔は、川伝いに北に続く崖地のような道だったに違いなく、木曽川の上流域に向かう険しい道の面影が残ります。

 

 街道は、川にせり出すように作られた歩道に沿って、延々と上流に向かって進みます。この川沿いは、秋には紅葉が美しく、川筋に迫る巨石の造形と重なって、見事な景観が望めます。

 特に紅葉が映えて美しかったポイントは、木曽の桟(かけはし)と呼ばれるところ。桟は、川伝いの道幅を広げるため、川側に広げられたかつての人工の道。赤い鉄橋を越えたところの歩道がそれで、対岸から見なければ、その姿をうまく捉えることはできません。

 

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※木曽の桟辺りの紅葉。

 

 木曽川の左岸道路を進んでいくと、やがて再び、国道19号線に合流します。そして、その先には”道の駅木曽福島”がありました。この道の駅は、広い駐車場が整備され、19号線沿いの、絶好の休憩地点となっています。

 道の駅は、木曽川の渓谷を見下ろす位置にあり、川を挟んだその正面には、御嶽山木曽本宮の、眩しいような神社の姿が迫ります。道の駅には参拝所があって、川向いの本宮に向け、柏手をたたくことも可能です。恐らく、社の裏山のそのまた奥に、木曽の神聖な御嶽山が控えていることでしょう。

 御嶽山木曽本宮を見ていると、厳しい自然の中に生きてきた人々が、自然を畏れ、神聖化して、崇め奉ってこられた信仰を、何となく理解できるような気がします。

 

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御嶽山木曽本宮。

 

 街道から見る浅間山

 浅間山は、信州を代表する名山のひとつです。中山道からは、塩名田宿を過ぎた後、遠方左手に、その美しい姿を捉えることが可能です。新雪を冠した浅間山は、富士山に決して負けない、魅力を持った名峰です。

 岩村田宿から追分宿へと坂道を上って行くと、山の姿は見る見ると迫ります。追分の宿場を越えて、沓掛宿に向かう時、それこそ絶景の浅間山を望むことができました。この景観は、見事という他はなく、いつまでも見とれてしまう景色です。

 

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※追分駅近くからの浅間山

 

 追分宿の次の宿場は沓掛宿。今は、中軽井沢の街であり、宿場の面影はありません。この沓掛宿から軽井沢に向かう時、もう一度、絶景の浅間山が見られます。その姿の見事さは、それこそ超一級の絶景です。

 

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※中軽井沢の東で湯川を渡る橋から望む浅間山

 

 安中原市の杉並木

 15番安中宿の少し手前に、間の宿(あいのしゅく)原市の町があり、そのはずれには、原市の杉並木が残っています。街道の松並木は、浮世絵などでよく目にする風景ですが、杉並木が見られる所はほとんどないと思います。

 原市の杉並木。かつては、安中宿まで数百本の大木が連なる並木道だったということです。街道に掲げられた案内板には、天保15年(1844年)には、原市に345本、安中に387本の杉があったと記されています。

 この杉並木、今では原市に14本が残るのみ。若木が少し植え足されているようですが、往時の様子を思い描くと、それは見事な街道筋だったことでしょう。

 

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※安中原市の杉並木。

 

 妙義山

 18番軽井沢宿を通り過ぎ、碓氷峠を越えていくと、妙義山が現れます。碓氷川の渓谷が関東平野に注ぐ辺りに、その奇妙な山は位置します。

 妙義山は、頂がギザギザに尖った岩山で、浅間山とは対照的な姿です。近くで見ると、そそり立つような岩の壁。あまり見かけない山の姿に畏敬の念も抱きます。

 碓氷峠を下りたって、坂本宿、松井田宿へと向かう時、この山は背後になるため、目に止まる機会はそれほど多くはありません。安中宿を通り過ぎ、14番板鼻宿に入るとき、振り返ると、はるか彼方に、妙義の山々を望むことができました。

 江戸方面から都に向かう場合には、この奇妙な山に向かって、最初の難所、碓氷峠に向かいます。見るからに、荒々しい山を目にして進む道。目前の峠の道の厳しさを暗示しているように感じるのかも知れません。

 

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 ※遠方の山並みの中央部が妙義山

 

 巣鴨の街

 街道筋の最後は、巣鴨の街の姿です。中山道最後の宿場、板橋宿を通り過ぎ、本郷方面に向かう途中に巣鴨の街を通ります。お年寄りが多く集う商店街というイメージがある巣鴨の街。この商店街こそ、中山道の街道筋にあたります。

 巣鴨には、庚申堂やとげぬき地蔵などがあり、縁日にはたいそうの賑わいです。都と江戸の間を結ぶ中山道の道中で、商店街風の街も幾つかはありますが、巣鴨ほどの賑わいのある所は、それほど多くは見かけません。

 いよいよ、江戸の中心に向かう場所。最後の休憩地として、ホッコリとするところです。

 

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巣鴨の商店街。

 

 

 中山道69次の総集編。これまで、宿場町、峠道、間の宿、街道筋の、4つの見どころで振り返ってきたところです。

 昔の人は、この長い道のりを、どのような思いで歩いてきたのか、その興味は尽きることはありません。厳しくもあり、美しくもある街道は、今も私たちに様々な姿を見せてくれる歴史の証と言えるでしょう。

 

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]11・・・街道筋(前編)

 街道筋の風景

 

 今回からは、中山道総集編の最後として、街道筋を振り返ります。中山道は、都から江戸日本橋まで、530Kmを超える道のりです。この長い道中で、宿場町や間の宿、峠道以外にも、心に残る風景は少なくはありません。

 往時が偲ばれる街道筋や、雄大な山の風景など、魅力ある中山道のスポットをお伝えしたいと思います。

 

 

 瀬田の唐橋

 近江の中山道は、逢坂の関を下って大津の宿場に入っても、自動車道路や市街地の街中を歩くため、街道の雰囲気をそれほど感じるところはありません。僅かに、膳所の沿道に、古い家並みや由緒ある寺院がある程度。どちらかと言えば、普通の町中の道筋です。

 続く石山も、商店が並ぶ道。中山道は、完全に近代道路に吸収され、往時の面影はありません。

 そんな街道も、石山の商店筋を通り抜けて左折すると、その先に、瀬田の唐橋が現れます。この橋は、琵琶湖から流れ出る唯一の川である、瀬田川に架かる橋。琵琶湖や比叡の山並みが望める景勝地です。

 橋そのものは、今は、近代的な構造ですが、欄干などに意匠が凝らされ、良い雰囲気が漂います。

 中山道には、数々の橋があり、それこそ歴史を語り継ぐ橋も幾つかありました。それでも、思い起すと、往時の意匠が施された趣のある橋は、それほど多くはありません。歴史が偲ばれる姿を見せているのは、この瀬田の唐橋と、板橋宿の象徴である板橋ぐらいだと思います。 

 

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瀬田の唐橋から大津方面を望む。

 

 番場の宿と伊吹山

 63番鳥居本宿を過ぎた後、摺針峠の山道を越え、62番番場の宿場に向かっていくと、正面に、伊吹山が望めます。

 伊吹山は、標高は、1,300mほどの山。それほど高くはないものの、勇壮な姿です。周辺の山並みが少ないため、独立峰のようになっていて、遠くからでも目立ちます。

 かつての旅人は、歩みの目印として、伊吹山の姿を追っていたのかも知れません。

 伊吹山は、信州の浅間山を彷彿とさせる姿です。規模や雄大さは、浅間山にはとても及びはしませんが、この辺りの風景は、山と街道との位置関係なども含めて、信州の東部の街道筋とよく似た風景のように感じます。

 

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※番場宿の入口辺りから望む伊吹山

 

 関ヶ原の松並木

 次は、関ヶ原の松並木。58番関ヶ原宿を出たすぐ後に、国道21号線から左手の旧道に入ると、この松並木が現れます。

 中山道には、元々、どれほどの松並木があったのか、定かではありません。今では、所々に僅かな名残はありますが、並木道として、それと分かるところは極めて限られていると言って良いでしょう。この関ヶ原以外には、26番芦田宿の直前にある、笠取峠の松並木が、唯一、見所あるところです。

 東海道が、多くの場所で立派な松並木を残しているのと比べると、随分様子が異なります。美濃、木曽、信州と、山の中を進む中山道は、そもそもその大半が木々に囲まれているために、並木の道はそれほど必要がなかったのかも知れません。

 

 関ヶ原の松並木は、車でも訪れることが可能です。舗装道路の一部には、インターロッキングの意匠が施され、景観づくりの工夫が見られます。途中には、休憩所や案内板などもあり、街道の雰囲気が味わえる道筋です。

 

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関ヶ原の松並木。

 小野の滝と寝覚の床

 木曽路中山道、38番上松宿(あげまつじゅく)の少し手前に、安藤広重が、木曽街道69次の浮世絵に描いた、小野の滝がありました。この滝は、国道19号線沿いにあることから、車でも訪れることができますが、今は、JR中央線の高架の陰に隠れていて、車では少し分かりにくい所です。

 ただ、街道を歩いていると、標識や広重の浮世絵に関する説明板なども整備され、すぐそこに美しい滝の姿を目にすることが可能です。細いながらも、一筋に落ちる滝の姿は、そこそこの落差もあって、見とれてしまうような可憐さも。39番須原の宿から8Kmほどの場所にあり、長距離の歩みの疲れを癒してくれるところです。

 

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※小野の滝。

 

 小野の滝を後にして、しばらく旧道の山道を進むと、寝覚の集落に入ります。この集落は、間の宿とも思えるような家並みが少しだけ残っていて、良い雰囲気の道筋です。

 寝覚の集落は、浦島伝説で知られる寝覚の床(ねざめのとこ)で有名です。切り立った、木曽川の谷間には、大きな岩盤があらわになって、その岩の隙間を縫うように、水の流れがつながって、下流へと流れているのです。

 浦島太郎は、竜宮城から戻った後、この木曽の地で暮らし、いつしか谷間にある岩盤の上で玉手箱を開けてしまったという伝説が残る寝覚の床。海からは、遠く離れているにもかかわらず、どうしてこのような伝説が生まれたのか、不思議でなりません。

 日本の幾つかの場所に残る浦島伝説は、その土地土地で、物語が派生して、アレンジされながら語り継がれていったことでしょう。

 不思議なことに、寝覚の床を見下ろす位置に、臨川寺というお寺があって、そこには、浦島太郎にまつわる資料などが保管されているのです。境内にある、小さな資料館には、浦島太郎の釣り竿や、助けた亀の甲羅などが展示され、まことしやかに語り継がれる伝説に、心が和んだものでした。

 

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※左、寝覚の床の流れ。右、臨川寺の入口。 

 

 小野の滝と寝覚の床は、上松宿まであと一息のところにある景勝地中山道の旅を続けた先人たちも、この地でひと時の安らぎを得たに違いないと思います。