再び讃岐路へ
白峰寺を後にして、五色台を横断する山中の道路を一気に西側に下ります。そこは再び讃岐平野が広がる地域。丘陵地なども見えますが、その先は、平地が広がります。
この辺りは、住宅地や集落が中心で、高層ビルはそれほど多くはありません。四国霊場も数キロ置きに配置され、テンポよく参拝できる区間です。
80番国分寺へ
五色台の西側は、坂出市の市域となりますが、次の札所の国分寺は、高松市の領域です。白峰の山道を下り切って、県道33号に入り、高松方面に戻ります。国分寺は、五色台の南の裾を回り込むように続くこの県道を、西から東へと進み、高松市に少し入った辺り。落ち着いた雰囲気の街中に佇みます。
駐車場は、県道からすぐのところ。仁王門の正面です。
※国分寺仁王門。手前が駐車場。
wikipediaによると、「国分寺は741年に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院」です。今でも全国各地に残っていて、あちこちで、この名の寺院を見かけます。
実は、四国八十八か所霊場でも、国分寺は4か所あって、讃岐・伊予・土佐・阿波の各地に1か寺ずつ存在しています。
この、80番札所の国分寺は、讃岐の国の国分寺。この辺りは、かつての中心地だった様子です。国分寺に隣接する坂出市側の町の名前は府中町。空海が子どもの頃、勉学に励んだ国府があった場所かも知れません。
国分寺の仁王門をくぐると真正面に参道が延びていて、両側は、松の並木が続きます。松並木の後ろには、八十八か所霊場の本尊を彫った石像が整然と配置され、四国霊場の結束を誇っているような光景です。
※左、正面の参道。右、八十八か所霊場の本尊石造。
国分寺の境内は、かなり広い敷地です。周囲には幾つものお堂があって、中ほどには優雅な池もありました。また、境内には、七重の塔の礎石も残り、かつてはそこに、誇らしく塔がそびえていたということです。寺の案内によると、国分寺に建てられる塔は、五重の塔ではなく、七重の塔。これが国分寺のランドマークだったのかも知れません。
池にかかる石橋を渡って、真っ直ぐ続く参道を進むと、正面が本堂です。そしてその右方向に大師堂。国の権威を誇った寺院だけに、全体として勇壮な構えです。
本堂は、元は講堂であったということです。鎌倉期の建物で、歴史の重みを感じます。
※本堂。
県道33号線をもと来た方向に戻り、今度は坂出市の中心部に向かって走ります。この道はそこそこ交通量はありますが、結構真っ直ぐに延びていて、走りやすい道路です。
途中、JR予讃線の八十場(やそば)駅の所で左に折れると、白峰宮と天皇寺に到着です。
天皇寺という名称は、少し特異な響きもありますが、ここは崇徳天皇*1が崩御される直前に住まいされていたところです。天皇が(実際にはこの時期は、崇徳上皇が)暮らしておられた寺院ということで、後に、このように名付けられたということです。
崇徳天皇は、1164年、この寺院の近くで亡くなられ、遺体はこの寺院に安置されたとされています。その後に、81番目の札所、白峯寺で荼毘に付され、その境内に天皇陵が築かれることになるのです。
天皇寺の入口は、仁王門ではなく、鳥居です。朱塗りが鮮やかな、一風変わった格式ある鳥居の姿は、八十八か所霊場を訪れる者に、少し違和感を与えます。
ただ、ここは同時に、崇徳天皇を祀る白峰宮も鎮座していていて、神と仏が共に祀られた境内です。歴史を背負って、両者が共存しているのです。
※天皇寺の鳥居。
鳥居をくぐると、真っ直ぐに参道が続きます。そして、その先は、白峰宮。広い敷地のその奥に、本殿が見えました。
天皇寺は、参道の途中を左に入ったところです。こちらの境内は小じんまりしていて、正面の大師堂と、右手奥の本堂がかぎ型に並びます。
天皇寺の納経所は、鳥居に続く参道を挟んで本堂とは反対側。白壁の、真ん中あたりに、唐破風様の門があり、そこをくぐったところです。
天皇寺は、また、高照院とも呼ばれていて、八十八か所霊場の案内本によっては、こちらの名称も用いられています。この理由については、少し複雑な経緯があるようで、歴史の流れを感じます。
いずれにしても、四国霊場の参拝に訪れた人を迎える玄関が、朱塗りの鳥居であることは、少し不思議な感じです。それだけに、この天皇寺は、印象深い霊場の一つです。
※、左、白峰宮。右、天皇寺の境内。右手が本堂で、左にあるのが大師堂です。
次回は、天皇寺を後にして、次は78番郷照寺に向かいます。引き続き、県道33号を坂出方面に向かい、坂出市を通り抜けた西隣、宇多津町を目指します。