埼玉から東京へ
中山道は、鴻巣宿を過ぎた後、上尾、大宮、浦和という、埼玉県の中心部に向かいます。駅近くには、マンションやビルが立ち並び、近代的に整備された街並みが続きます。大型の商業施設や、公共的な施設なども目立ってくると、人の往来も頻繁です。
日本橋まで、残すところあとわずか。名残を惜しみながらの歩き旅です。
6番桶川宿(おけがわじゅく)へ
中山道は、この辺り、JR高崎線を右に見て、軌道と並行して延びていく、県道伝いを進みます。鴻巣の宿場を後にして、間もなくすると、高崎線の北本駅。その先で、県道同士が交差する、広い交差点付近が本宿(もとじゅく)です。
元々、本宿は宿場が設けられていたとのこと。地名の由来も納得です。
県道の歩道をどんどん進むと桶川宿。幾つかの古い建物も目につきますが、全体的には街並みが整備され、昔の面影は薄まっています。ここまで、鴻巣宿から7Kmの道のりです。
5番上尾宿、4番大宮宿へ
桶川宿から上尾宿までは、わずかに3.5Kmです。県道を、そのまま、ほぼ真っ直ぐに南東に向かって進みます。上尾宿は、道標などで、ここがかつての宿場であったことを感じる程度。駅近くの街道は、マンションなどのビルが空間を埋め尽くしています。
上尾宿の次は大宮宿です。街道は少し蛇行しながら、基本的にはJR高崎線に沿って南下していきます。途中、JR東北本線の高架の下を潜ると、左手は北大宮駅。街並みは、次第に都会の様相に変化します。
街道の左手奥には、氷川神社とその参道があるようで、人の数も膨らみます。私たちが歩いた時期は、丁度、5月のゴールデンウイーク真っ盛り。大勢の人々で賑わっていました。
大宮の宿場は、最早、都会の街の中。大宮駅近くにはビルが立ち並び、かつてこの宿場がどのような様子だったのか、窺い知ることはできません。
大宮駅を右に見て、しばらく進むと、左手に朱塗りの鳥居が見えてきます。ここは、氷川神社の参道の入口です。鳥居の傍には、少しスペースがあって、道標や石碑、案内板などが並んでいました。*1
3番浦和宿へ
大宮を後にすると、道幅は急に広がります。それとともに、空間も一気に開けた感じで、新しい近代的な街が広がります。街道のすぐ右手には、さいたま新都心駅。その向こうには、さいたまスーパーアリーナの姿も見えました。
思えば、かつては、大宮市と浦和市は別々の行政区域。それが今では、共にさいたま市です。さいたま新都心は、大宮と浦和の中間にあって、市の統合を象徴するかのように、新たに生まれた近代都市。首都圏における、存在感を誇示する姿のようにも見えました。
※さいたま新都心駅付近。
JR高崎線や東北本線などの鉄道の動脈が、束のようになってつながるすぐ脇を、中山道は東京を目指して延びていきます。
さいたま新都心を過ぎると、北浦和駅。その後、ちょっとした上り坂です。街道は、高架となって、鉄道をまたぐと、その先は、左手に軌道を見ながら浦和の街を南下です。
やがて道筋が、再びビルに囲まれた街中に入ると、浦和宿。浦和の宿場は、大宮宿と同様に、宿場町の面影を感じるところはありません。道標や、奥まったところにひっそりと佇む寺院のみが、歴史の香りを漂わせています。
浦和は、街道筋の印象だけで比べると、大宮とは、少し規模が小さく感じます。人通りも、何となく少ない様子です。
2番蕨宿(わらびじゅく)へ
浦和宿を過ぎると、住宅地の中を縫うように進んでいきます。街道は、蛇行しながらも、時折、交差点を折れ曲がる道。位置を確認しながら、地図に従って歩きます。
街中を抜けて、久しぶりに国道17号と出会うと、国道を横断です。その先に、国道を迂回するように、1Kmほど、弓型になって回り込んでいる道筋が、蕨の宿場です。
蕨宿は、街道の雰囲気が感じられる道筋です。幾つかの建物は、宿場町風に整備され、街道沿いの歩道には、中山道69次のタイルが、等間隔にはめ込まれています。
江戸を目前にした宿場町。今も、往時の様子を伝えようとされている、地元の方々の熱意が感じられるところです。
東京へ
弓なりに国道を迂回している街道は、蕨宿の出口で国道17号に吸収されます。その先は、主に国道伝いに歩きます。
やがて、荒川に近づくと、一旦、左手の細い住宅地の路地に入り込み、荒川の堤防に上がります。そして、荒川に架かる戸田橋へ。広大な川幅を有する荒川を、戸田橋で横断です。
※荒川の横断。その先は東京です。
中山道は、いよいよ東京都に入ります。荒川を渡り終えたところは、東京都北区。次の宿場は、日本橋に向かう最後の宿場。京の都を目指す人にとっては最初の宿場の板橋宿です。
上尾、大宮間は8Km。大宮、浦和間は5Km。そして、浦和、蕨間が5.5Kmの道のりです。残すところ、あとわずか。板橋を経て、巣鴨、本郷、神田などを歩き進んで、最終の目的地、日本橋に向かいます。