旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ32・・・中山道、高崎宿から倉賀野宿へ

 高崎宿と高崎の街

 

 高崎市は、群馬県北西部に位置する中核都市。軽井沢方面に向かう信越本線*1と、水上や新潟の湯沢方面に向かう上越線が合流する都市です。東京方面にも、高崎線などの路線が集まり、関東の北の玄関口の様相です。

 中山道は、この高崎の市街地を北西から南東へと、ぐるりと半周するように街中を通過しています。

 

 高崎宿へ

 烏川に架かる、君が代橋を渡った後は、幹線道路を右方向に横切って街の中に入ります。旧市街地のような住宅が密集する路地を進んで行くと、街道は、交差点で直角に左方向へ。交差点の左角には、レンガ造りの塀と、その奥に、由緒がありそうな建物が佇んでいました。案内には、山田文庫と記されていて、今は図書館のようになっているとのこと。

 

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※山田文庫。街道は、赤坂に続いていきます。

 

 山田文庫から先の街道は、赤坂と呼ばれる坂道です。昭和風の家並みが続き、道幅も広くはありません。坂を上って行くと、広い通りに出て行きますが、その直前の右手には、木立に包まれた稲荷神社や、高崎神社がありました。

 

 13番高崎宿

 街道が通りと合流するところは、本町1丁目の交差点。ここから、真っ直ぐ東に向かい、本町3丁目の交差点を南下(右折)するのが、中山道の道筋です。

 この大きな通り沿いが宿場町の跡。今はもう、近代的な建物が並び、宿場の面影は見当たりません。

 

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※本町1丁目交差点から2丁目、3丁目方向を望む。

 

 本町3丁目の交差点を南方向に右折すると、ここも幅広い計画道路です。ビルなども増えていき、やがて左方向に、高崎駅が見えてきます。ここは、あら町交差点。

 この交差点、左に向かうと高崎駅。反対の、右方向が高崎城址公園と高崎市役所方面です。

 

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※あら町交差点から南方向を望む。この左方向が高崎駅で右方向が高崎城址公園です。

 

 高崎城址

 中山道は、近江路や美濃路では、城下町からある程度の距離を保って通過していましたが、上州路では、城下町の中を通っている様子です。*2

 高崎駅からほど近いところにある中山道、そこから、わずか150mほどしか離れていないところに、高崎の城址公園がありました。街道は、城郭から至近距離のところを通っているのです。

 

 中山道、よく考えてみると、大名なども良く利用した道です。宿場は、こうした要人たちの宿泊地でもありました。だとすれば、城下に要人が宿泊することについて、宿泊する者、される者の両者にとって、不都合なことはなかったのでしょうか。

 このことを考えると、城下と街道の距離を保った、近江路や美濃路中山道は、うまく街道筋が配置されていたと思います。

 

 高崎城は、下の案内版にもあるように、井伊直政によって築かれた城。関ヶ原の戦いの10年前、1590年に、高崎の北西、榛名山に向かう途中の箕郷町にある箕輪城に配置された直政は、1598年に高崎に居城を移したとされています。

 井伊直政は、関ヶ原勝利の後、石田三成の居城であった、近江佐和山の地を治めることに。そして、井伊家は、佐和山に隣接する彦根の地に新たな城を築きます。

 高崎城下には高崎宿が、そして、彦根城下から少し離れたところには、鳥居本宿*3。遠く離れた地でありながら、2つの城下は中山道でつながっているのです。

 

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※高崎城の説明版。

 

 高崎城址は、今は、そのほとんどが市役所や医療センターなどとなっています。わずかに残る堀の跡や石垣が、城の風景を、何とか後世に伝えようとしているようです。

 私たちは、この日、安中駅から歩き始め、高崎駅で行程を終了。10Kmほどの道のりでしたが、後は、高崎の街歩きを楽しみました。

 

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※高崎城址の堀。

 

 倉賀野宿

 翌日は、高崎駅前の、あら町交差点から倉賀野宿を目指します。ここから先、しばらくは、県道である主要道路を進みます。上越新幹線の高架下を通って東の方角へ。JR高崎線と並行した車道の歩道は、かつての街道の雰囲気はありません。

 

 

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倉賀野宿への道。

 

 倉賀野宿までの道中は、殺風景な自動車道路。たまに、植林された杉の若木も現れて、何となく、良い雰囲気も感じます。

 

 12番倉賀野宿(くらがのじゅく)

 県道は、そのまま倉賀野の宿場に入っていきます。道幅はやや狭まるものの、自動車が行き交う街中です。

 

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倉賀野宿の入口。

 

 倉賀野宿は、ところどころに、宿場町を彷彿とさせる建物などもありますが、全体的に、整備された家並みです。それでも、関東平野を縦断する中山道の宿場の中では、まだ、往時の雰囲気を感じ取ることができるところです。

 

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倉賀野宿の様子。

 

 倉賀野宿で、特に、往時を偲ぶ史跡としては、宿場の出口にある焔魔堂と倉賀野追分の道標です。この追分は、江戸に向かう中山道と、日光に向かう街道の分岐点。二手に分かれる道の角に、今でも残る街道の名残は、歩く者の心を和ませてくれるような気がします。

 

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※倉賀野の追分。右が中山道、左が日光へ続く街道です。

 

 高崎宿から倉賀野宿へは、6Kmの道のりです。私たちは、次の新町宿を目指して歩みを進めました。

*1:信越本線は、かつては軽井沢方面までつながっていましたが、今では横川以遠は廃線となっています。

*2:安中、高崎は、その典型のようです。信濃路の岩村田も、街道は、城下町の近くを通っています。

*3:歩き旅のスケッチ15」を参照下さい