旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]20・・・最終回(仏教伝来の地へ)

 初瀬川

 

 初瀬川(はつせがわ、或いは、はせがわ。泊瀬川とも書くようです)は、正式には、大和川と呼ばれています。上流は、三輪山の背後にあたり、古代から神聖な場所でした。そこには後に、長谷寺が興隆し、都からも、多くの人が訪れていたということです。

 百人一首にも歌われた初瀬(はつせ)の地。山おろしが吹き下ろすこの川は、宇陀につながる深い山に端を発して、三輪山を取り巻くように流れています。その先は、大和盆地を横断し、大和郡山辺りから、王寺町を経由して河内の国へ、そして、瀬戸内へと注ぎこんでいるのです。

 古代には、この流れを利用して交易が行われ、また、人々の重要な交通手段でもありました。大陸から伝わった仏教も、初瀬川を遡り、三輪山麓に展開した古代の宮へと、その教えや教典などが届けられたということです。

 

 

 海石榴市(つばいち)

 古くからの街道筋を南へと向かって行くと、小さな三叉路の角のところに、「海石榴市」と表示された案内板がありました。

 「ここ金屋のあたりは古代の市場海石榴市のあったところです」と書かれている通り、この辺りに、有名な市が置かれていたのです。

 

※海石榴市の案内板。

 今はもちろん、市の名残りはありません。ただ、三叉路を左に入ったところには、「海石榴市観音堂」と名づけられた小さなお堂が今も残り、”海石榴市”という貴重な名前を残しています。

 

 海石榴市観音堂

 私たちは、三叉路の左脇道へと歩を進め、海石榴市観音堂に向かいます。

 細い坂道を100mほど進んで行くと、民家の奥に、それらしき建物が見えました。さぞかし、歴史あるお堂かと想像していましたが、意外と近代的な建物です。敷地もそれほど広くはありません。長い歴史の経過の中で、何とか、維持されてきたのでしょう。

 古代の町の名前を冠したお堂の前で手を合わせ、遠い昔の市の様子を思い浮かべたものでした。

 

※海石榴市観音堂

 

 観音堂の敷地には、幾つかの石像や石仏が並んでいます。いかにも歴史を感じる石像などを見ていると、やはり、歴史の重みを感じます。

 敷地内の説明板の内容を、少し紹介させて頂きます。

 

 「海石榴市は、古代から栄えた交易都市です。大陸の使節も大和側の舟運を利用して、この地まで遡りました。」

 「この市は歌垣で有名です。人々は歌を通じて愛を交歓したのです。」

 「王朝以来、ここはまた長谷寺詣での宿場として栄え、『枕草子』『源氏物語』『かげろう日記』などにも登場します。」

 「古くからあった観音堂が老朽したので、近似建てかえられました。」

 

 断片的ではありますが、古代からの海石榴市の状況が何となく見て取れる説明です。

 

※海石榴市観音堂の境内。

 

 終着点へ

 海石榴市観音堂を後にして、再び三叉路に戻ります。その先は、もう少し先に続く、金屋の集落を進みます。

 しばらくすると、正面奥で民家は途切れ、その先に、緑の帯が見えました。おそらくそこが、山の辺の道の終着点。初瀬川の右岸の堤になるのでしょう。あと少し、最後の行程を歩きます。

 

※金谷の集落の最後の区間。正面に初瀬川右岸の堤が望めます。

 

 集落が途切れた先は、T字路の交差点。左右につながるこの道が、伊勢街道なのだと思います。道端に置かれた標石は、「左 いせ」と刻んでいます。

 ただ、直進の方向にも、極く幅の狭い、通路状の小径です。この小径、初瀬川へとつながっている山の辺の道の先線です。私たちは、小径を真っ直ぐ突き切って、堤防に向かいます。

 

※伊勢街道との交差点。

 

 初瀬川(大和川

 堤防に辿り着いたら、そこには、初瀬川が流れています。この場所が、山の辺の道の終着点。奈良公園から始まって、桜井市のこの地点まで、およそ35kmの道のりを歩き通すことができました。

 

※山の辺の道の終着点。中央の案内表示「→山の辺の道」が目印です。

 

 山の辺の道の道筋は、それほどの苦労もなく、ハイキングの気分の中で楽しく歩けるコースです。初瀬川の流れを見ながら、ここまでの道の景色を思い返したものでした。

 

※山の辺の道の終着点、初瀬川。

 

 仏教伝来の地

 山の辺の道の終点から、少し上流を眺めていると、立派な石碑が屹立する一角がありました。

 近づいてみたところ、「佛教傳来之地」との表示です。

 対馬の海を越え、瀬戸内海を横切って、初瀬川へとやってきた大陸百済(くだら)の人々は、この地で、舟を下り、当時の大和の政権に仏教を伝えたということです。

 

※仏教伝来の地の石碑。

 石碑が置かれたところには、幾つかの説明板も置かれています。ここでは、分かり易く記された、桜井市観光協会の説明書きを紹介させて頂きます。

 

 「金屋から城島(しきしま)小学校にかけての泊瀬(はせ)川一帯は欽明天皇・磯嶋金刺宮(しきしまかねさしのみや)が置かれたところで、西暦552年に百済から初めて仏教が公式に伝えられた地であります。」

 「この時期は盛んに外国との交流があり、当時の桜井市は国際都市として栄え、いわゆる『しきしまの大和』といって日本国の称号(たたえな)と呼ばれる中心地でありました。」

 

※仏教伝来の地の説明板。

 桜井駅へ

 山の辺の道を踏破して、仏教伝来の地の石碑などに感銘しながら、私たちは、桜井駅へと向かいます。

 終着点から駅までは、まだ、1キロ以上の道のりです。帰路の途は、少し疲れ気味ではありますが、仕方がありません。最後の力を振り絞り、桜井の街なかを歩きます。

 

 

 次回

 今回で、「歩き旅のスケッチ[山の辺の道]」のシリーズを終わります。

 次回からは、「巡り旅のスケッチ[西国三十三所]」の第3章。これまでの第1・2章に引き続き、第19番札所から最終の33番札所まで、観音霊場巡拝の旅を描きます。

 なお、私は現在「北国街道」歩き旅の真っ最中。信濃追分を起点として、中山道の宿場町、近江鳥居本を目指してはいるのですが、さて何処まで歩けるか。今回は、川中島から上越市高田までの行程です。その中で、今日は長野善光寺から飯綱町の牟礼宿までを歩く事ができました。

 と言う訳で、次回のブログは1週間のお休みを頂いて、4月15日から再開させて頂きます。