旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]14・・・景行天皇陵へ

 大和の王権

 

 古代の歴史を連綿と描き続けた作家の黒岩重吾氏は、『白鳥の王子 ヤマトタケル』の長編で、主人公の倭男具那(やまとのおぐな=倭建・やまとたける、或いは日本武尊)が伝え聞いた大和王権のことについて、次のように綴っています。

 

 「男具那の父のオシロワケ王(景行天皇*1)が王になるまで、三輪山麓の王達にはイリの名がついていた。新しい西方の勢力が大和に入りこんで来た、ということを示すために、イリの名がついた、と男具那は聞いていた。女王を盟主とする邪馬台国(やまたいこく)という国だった。」

 「九州の邪馬台国の東遷、三輪山麓におけるイリ王朝の始まりは、男具那にとっては遥か昔のことだった。・・・約百年前にヤマトトトビモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)*2を王とする初期大和政権が三輪山麓に宮を造った。モモソヒメは邪馬台国の女王・卑弥呼の親族、台与(とよ)の妹ともいわれている。・・・本当に妹であったかどうかは確かめることはできない。史実は彼方の霧の中に消えかかっているのだ。

 「ただ、三輪山麓に生まれたイリ王朝の最初の王が、女王であったことだけは間違いない。八世紀に出来た『日本書紀』や『古事記』の編纂者はそのことを、すでに微かな伝承としてしか知らなかった。彼らはためらったあげく、モモソヒメと呼ばれた女王を抹殺し、イリ王朝の初代王を、ミマキイリビコイ二ヱ王(崇神*3)としてしまった。」

 

 このように、遥か昔の三世紀、三輪山山麓に始まった大和の王権。実在の天皇系譜の始まりとも言われています。邪馬台国の東遷のことについては、見解が分かれるところではありますが、この地で王権による統治の形が始まったことについては、概ね、事実なのだと思います。

 

 この先、山の辺の道は、大和王権の中心地、数々の史跡が残る纏向(まきむく)と呼ばれる地域に向かいます。

 

 

 崇神天皇

 前日、崇神天皇陵の直前で、行程を終えた私たち。この日は、宿泊地からJR桜井線(万葉まほろば線)の柳本駅に舞い戻り、続きの道を歩きます。

 山の辺の道の歩き旅も、いよいよ最終日。目指す先は、桜井市にある初瀬川の右岸の地。河内の国と水路で結ばれ、仏教が伝わった、古代の道の起点とされるところです。

 

 駅を出て、緩やかな坂道を上って行くと、右前方には、こんもりとした丘陵と整然と整えられた堰堤が近づきます。

 よく見ると、西方向が角ばっていて、反対の山側は曲線状。これこそ、大和の王権の初代の王である、崇神天皇の陵(みささぎ)です。

 

※壮大な崇神天皇陵。

 

 道は、この先で、前日の区切りの場所に到着します。そして、そこから、崇神天皇陵の後円部分の方向へ。

 途中には、柳本のひとつの大きな集落が控えています。民家が連なる坂道を、すり抜けるように進みます。

 

天理市柳本町北別所の集落。

 

 集落を抜け出ると、その先が崇神天皇陵。円形の小高い丘が目前に広がります。道は、この陵(みささぎ)を、周り込むようにして、南へと向かっています。

 

崇神天皇陵の後円部分。

 櫛山古墳

 古墳の周囲は、石畳で美しく整えられて、歩きやすい道筋です。この辺り、右には崇神天皇陵。そして左には、櫛山(くしやま)古墳が位置しています。

 櫛山古墳は双方中円墳と言うらしく、特異な形をしています。誰の墓かは分かりませんが、もしかして、崇神の時代よりさらに遡るのかも知れません。

 

崇神天皇陵と櫛山古墳の間を、山の辺の道の石畳が通っています。

 

 丘陵地の農村

 木々が覆う古墳のすき間を辿って行くと、小さな分岐点を迎えます。左に向かうと、龍王山。ここから4kmの距離を示しています。

 山の辺の道は直進で、この先、景行天皇陵まで1.4kmの表示です。

 

※木々が覆う丘陵地の道。

 

 道は、農地や果樹園が入り混じる地域に入ります。途中、石碑の横に設けられた案内板には、「大和の集落」と記された、簡単な説明書きがありました。

 

 「青垣山に囲まれた大和の田園風景は整然とした美しいたたずまいを見せています。集落は奈良時代の条里制にもとづいて、配置されてきました。この山の辺の道沿いの古い集落も条里制に対応しています。」とのこと。

 

※農地や果樹園を通ります。

 

 道沿いは、小さな農地が点在し、果樹なども見られます。丘陵地の緩やかな斜面に広がる景色は、いかにも長閑さを感じます。

 

※農地と農家が点在する中、古代の道は南へと続きます。

 

 景行天皇

 やがて正面に、こんもりとした小さな山が現れます。そして、道端のところには、「渋谷向山(しぶたにむかいやま)古墳」と表示された説明板。そこには、そこそこ詳しい説明書きがありました。

 

 「渋谷向山古墳は天理市渋谷町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は『景行天皇陵』として宮内庁により管理され、上の山古墳を含む周辺の古墳3基が陪塚に指定されています。」

 

 景行天皇は、崇神天皇から2代下った天皇で、冒頭でも少し触れているように、倭建(日本武尊)の父にあたる方だと言われています。大和に置かれた古代の王権。その源流の一人の王が、この陵(みささぎ)に眠っているのです。 

 

景行天皇陵と説明板。

 

 道は、景行天皇陵の東側を周り込み、桜井市への境界の地へと向かいます。

 

景行天皇陵の東側、後円部分を周り込むように進みます。

 

*1:第12代天皇

*2:倭迹迹日百襲姫のことについては、いずれどこかでもう一度触れてみたいと思います。

*3:一般には第10代天皇