柳本
山の辺の道の南コースは、この先の柳本辺りが中間点。そこには、大和王権の初代の王、崇神(すじん)天皇の陵(みささぎ)が残っています。付近には、数々の立派な古墳が築かれていて、古代の権力の重要な土地だったことが分かります。
この辺り、すぐ西側には、JR桜井線(別名、万葉まほろば線)が通っています。最寄りの駅は天理駅から2駅南の柳本駅。この駅の近くにも、美しい容姿を誇る、黒塚古墳が見られます。
余談ながら、松本清張が、古代飛鳥の石造物の謎に迫ったミステリー『火の路』にも、この辺りの古墳の様子が綴られていますので、少し、紹介したいと思います。
「櫛山古墳は崇神陵の背後に連なる一連の丘陵上にある。この二つの古墳は南北に小さな丘陵を控え、その背後には急斜面の山が重なり合っている。そこから西にむかって派生する支脈のうち、南方では景行天皇陵があり、また、北の方には継体天皇の皇后手白香(たしらか)皇女の陵がある」
念仏寺
古代の道は、丘陵地を緩やかに下りながら、自然と、念仏寺の墓地の中に入ります。幾柱もの墓石が建ち並ぶ場所ですが、どこか、清々しさも感じます。
この地に安置された魂は、さぞ穏やかな大和の景色を眺めながら、悠久の時の流れを見届けているのでしょう。
※念仏寺の裏斜面に広がる墓地。山の辺の道はその中を通っています。
墓地の坂を下った先には、念仏寺の山門です。立派な塀と門の奥には、美しく整えられた境内が見えました。私たちは、山門前で手を合わせ、門前から真っ直ぐ延びる古代の道を辿ります。
※念仏寺の山門。
念仏寺門前の角に置かれた案内表示は、この先、長岳寺まで1.1kmを示しています。
※山の辺の路から長岳寺を振り返ります。
大和神社御旅所(おおやまとじんじゃ・おたびしょ)
念仏寺を後にして、真っ直ぐ南に向かって行くと、その先に、大和神社の御旅所がありました。
大和神社の境内は、前回にも触れたように、萱生(かよう)の環濠集落の、西側に位置しています。由緒ある神社であり、御旅所の標柱にも、「最古の御社」と書かれています。
※大和神社御旅所。
ちなみに、御旅所とは、「神社の祭礼において神様が休息する場所のこと」(ホームメイト・リサーチ)で、神輿などに参加された方ならば、およそのイメージはお持ちだと思います。一般には、神輿を担いで町中を練り歩き、御旅所で休憩して、元の神社に戻るのが、お祭りの行程です。
ポケットパーク
道は再び、農地の中の丘陵地を横切ります。途中には、農地の中に張り出した、木造の休憩所も置かれています。
粋な計らいの休憩所。遠方には、生駒の山並みが見渡せます。
※道沿いに設けられた木造の休憩スペース。
二上山(ふたかみやま)
天理市中山町の集落を通過しながら、道は、南へと向かいます。途中、わずかではありますが、西方向に向かった時に、正面の遥か向こうに、二上山の麗しい姿が見えました。
雄岳(向かって右)と雌岳(向かって左)が、寄り添うように並ぶ山。古代の人は、日が沈む山として、畏敬の念を持ちながら、この山々を崇めていたと言うことです。
※道の正面奥に見える高低の見栄を有する山が二上山。
柳本町
丘陵地の農地の道を南に向かうと、その先で、天理市柳本の集落に入ります。そこは、小高い山の裾。雑木林も点在し、道はジグザグに進みます。
やがて、長岳寺まで0.4kmの表示です。細く続く坂道は、弘法大師開祖とされる、古刹の門前に向かいます。
※長岳寺に向かう道。
道はこの後、長岳寺の入口に当たります。ただ、ここでは、古刹へとは向かわずに、境内前で右に折れ、長岳寺の駐車場の方向へ。
※道は長岳寺の入口で右折です。
しばらくすると、左には、長岳寺の駐車場へと向かう道。そして、その分岐点を通り過ぎると、道の先は視界が開け、整備された駐車場やお店などが見えました。
この辺り、霊園などが点在する他、ハイキングで訪れる人も多いのか、美しく整った感じのところです。道案内や山の辺の道の説明板など、観光への対応にもぬかりなどはありません。
一区切り
古代の道は、この先、角地を左折して、崇神天皇陵へと向かうのですが、南コースの中間点。ここで、この日の歩き旅を終了です。
私たちは、崇神天皇陵とは反対の右方向へと進路をとって、およそ1キロ西にある、JR柳本駅へと向かいます。
※崇神天皇陵へと向かい道。
この日の昼近く、天理の駅から歩き始めて3時間。石上神宮から夜都伎神社を経由して、萱生の環濠集落へ。そして、目前には、崇神天皇陵が迫ります。
この先の行程は、翌日に残しておいて、私たちは、宿泊所へと向かいます。
途中、左奥には、鬱蒼と木々が茂る小高い丘が見えました。おそらくそれが、崇神天皇陵なのでしょう。
古代史に卓越した慧眼を持つ、作家の黒岩重吾氏が、『古代浪漫紀行』の中において、「『日本書紀』では、・・・崇神天皇が初めて日本の国を治めた天皇であると記しています。」という一文は、厳然とした歴史の重みを伝えています。