旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ[西国三十三所]24・・・総持寺

 大阪府

 

 西国三十三所の札所巡りは、京都府から大阪府に移ります。和歌山県から始まった巡礼は、第4番目の施福寺(せふくじ)と第5番の葛井寺(ふじいでら)で大阪府の地を踏みました。その後は、奈良、京都の南部を経て滋賀県へ。そしてもう一度京都に戻り、東山から西山へと巡り進んだところです。

 今回からは、再び大阪府に入ります。残りの大阪府霊場は、第22番総持寺(そうじじ)と第23番勝尾寺かつおうじ)。いずれも、大坂府の北部の地域に位置しています。

 まず訪れるのは、大阪府茨木市(いばらきし)。JR京都線と阪急の京都線が通過する、京阪神の要の都市のひとつです。駅付近には大きなビルが建ち並び、都会の街並みが広がります。

 

Google Mapsより。黄色の☆が大阪府の残り2つの札所です。

 

 茨木市総持寺

 次の札所の第22番総持寺は、茨木市総持寺と呼ばれる地域に位置しています。元々寺院が先にあり、後から地名がついてきたのだと思います。この地域には、JR京都線総持寺駅や阪急京都線総持寺駅が設けられ、新しい住宅などが、2つの軌道の狭間の土地を埋め尽くしている状況です。

 交通が頻繁な都会の街を辿りながら、総持寺に近づきます。辺りは、マンションが建ち並び、お寺の姿は見えません。入り組んだ細い道を右に左に折れながら、ハンドル操作を続けます。

 

 総持寺

 しばらくすると、左手の上方に、鮮やかで立派な山門が見えました。道沿いは、石垣などが配されて、直接は境内へと進めない状況です。山門下を通り過ぎ、境内の東へと周ります。

 

総持寺の石柱と山門。

 

 東側に周ってみると、そこには、有料の駐車場がありました。料金は忘れましたが、それほど高くは無かったように思います。私たちは、そこに車を置いてすぐ横の総持寺の境内へと向かいます。

 

 山門

 まずは、道路から一段上の歩道上を歩きます。ほどなく右手に石段が現れて、その上に、先ほども確認した、見事な山門がありました。山門と呼ぶよりも、楼門の威風を放つ建物は、堂々と建ち聳え参拝者を迎えています。

 

総持寺山門。

 

 角度を変えて山門を見上げると、その麓には、「補陀落山 総持寺」の石柱です。よく見ると、亀の石像がその石柱を背負っています。

 亀との逸話が縁起とされる、総持寺ならではの組み合わせなのでしょう。

 

※亀の石像の上に総持寺の石柱が乗っています。

 

 本堂

 石段を上り進んで、山門を潜ります。その先の境内は、それほど広くはありません。山門とは対照的に、落ち着いた雰囲気が漂います。

 砕石が敷き詰められた境内は、周囲を囲うように、お堂などが取り巻きます。そして、本堂は、山門の真正面。すっきりとした大屋根が本堂を包んでいます。

 私たちは、本堂で参拝し、御朱印をいただきます。

 

※境内の全容と本堂、金堂など。

 

 閻魔堂など

 境内を見回すと、山門のすぐ傍に鐘楼が見られます。そして、その右側に、少し変わった小さなお堂がありました。周囲は、日本庭園のように整備され、その一角は特別な場所のようにも思えます。

 このお堂、植え込みの中の表示には「閻魔堂」と書かれています。お寺で頂いた資料には、有形文化財の建物リストがありますが、その中に閻魔堂はないために、まだ新しいお堂なのかも知れません。

 

※山門近くの鐘楼と閻魔堂など。

 

 大師堂

 閻魔堂の対面側には、大師堂もありました。総持寺は、高野山真言宗の別格本山だということで、弘法大師もお祀りされているのでしょう。

 

 総持寺の縁起

 ところで、ここで少し、総持寺の縁起について触れておかなければなりません。

 「当山縁起ー『亀の恩がえし』」と表示されたお寺の資料。その中で、総持寺の成り立ちがかなり詳しく書かれています。

 要約すると、平安時代、この寺の創設者、藤原山蔭(やまかげ)の父高房(たかふさ)は、淀川で亀を助けたことがあったとか。後に、息子の山蔭が淀川に落ちた時、高房は一心に観音菩薩に祈ったところ、幼い山蔭を背に乗せた亀が現れ、子どもの命を救ったというのです。

 このことが契機となり、後に山蔭は、この地に観音菩薩をお祀りするようになりました。

 

 このお話そのものは、おとぎ話のようですが、確かに、亀にまつわるエピソードなどもあったのだと思います。今も、総持寺の本尊である観世音菩薩像は、亀を台座にしているということで、興味は尽きないところです。

 山門の石段下に置かれていた、亀の背中の石柱も、これで納得できた次第です。

 

 

※大師堂など。

 

 伊達家

 因みに、仙台藩主の伊達家については、この寺の開基である藤原山蔭の末裔であるということです。お寺で頂いた資料には、「江戸時代には伊達公は、一族の祖ゆかりの総持寺を厚く信仰され、当山に多くの寄進を寄せられました。」と書かれています。