旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ[西国三十三所]5・・・施福寺(後編)

 空海施福寺

 

 4番札所の施福寺は、空海ゆかりの寺院です。前回にも少し触れた通り、遣唐使として長安に赴いた空海は、真言密教の正統な後継者として認められ、わずか2年で帰国の途に着きました。帰国後は、太宰府辺りでしばらく過ごし、その後、ここ施福寺に居を移すことになったのです。

 時は、9世紀初頭の頃。世の中は、先の天皇平城上皇と、嵯峨天皇の対立が激しさを増していた時期でした。混乱する都を避けて、和泉の国の槇尾山に身を置いた空海は、この地で密かに暮らしながら、世の動向を窺っていたのかも知れません

 

 

 御髪堂

 空海の剃髪場所と伝えられる愛染堂。参道は、そこから斜面を横切るように、向かいにある、御髪堂(”みかみどう”とようむのでしょうか。)の方向へ。石段の参道が延びる左手に、そのお堂はありました。

 御髪堂は、空海の髪の毛が祀られているお堂とか。ここにも、空海の痕跡が残されているのです。

 

※御髪堂と本堂に続く石段の参道。

 

 本堂

 御髪堂から本堂までは、急な石段を上ります。参道最後の難所道。ここをのり切り、いよいよ、目的地に到着です。

 駐車場に車を停めて30分。そこそこ厳しい道のりでした。

 

 石段を上り切ると、左手に本堂です。「西国第四番 槇尾寺」と刻まれた石柱と、厳かな本堂が、ひっそりと佇みます。

 槇尾山施福寺(まきのおさんせふくじ)は、別名、槇尾寺(まきおでら)とも呼ばれています。石柱の表示はその表れで、どことなく、親しみを感じる名前です。

 

※本堂。

 施福寺は、空海とつながりがあるものの、今の宗派は天台宗。元々は、大和の時代に遡る、由緒ある場所であり、様々な変遷を経て今日を迎えているのでしょう。

 本尊は、十一面千手千眼観音立像です。参道に置かれた丁石は、この本尊までの距離だとか。

 もう一度、正面から見た本堂をご覧いただければと思います。深い山にありながら、堂々とした佇まい。私たちは、本堂で手を合わせ、御朱印を頂きます。

 

※正面から見た施福寺本堂。

 

 眺望

 本堂のある境内には、観音堂や大師堂など、いくつかのお堂が建ち並び、石像なども見られます。山の中に、わずかに開けた平坦地。本堂に背を向けて、少し進むと、紀州泉州を切り分ける、深い山並みが見渡せる、展望地がありました。

 どこまでも続く山並みの眺望は、気が遠くなるほどの厳しさを感じます。その昔、人々は、この山をかき分けて修行をし、あるいは、移動の途についておられたのだと思います。

 

施福寺境内からの眺望。

 帰路の参道は下り道。前回もお伝えした丁石が、駐車場へと導きます。上り道と比べれば、それほど時間はかかりません。あっという間に、山門に到着です。

 空海の影を追いながら、西国三十三所の4番目、施福寺の参拝を終えました。

 

※参道脇に立てられた丁石の様子。

 

 空海のこと

 ここで少し、空海のことについて、触れたいと思います。

 冒頭で触れたとおり、空海は、遣唐使を終えた後、大宰府観世音寺でおよそ1年暮らします。そして、都へと戻る旅。瀬戸内の航路を辿り、難波ノ津へと向かいます。ただ、その後は直ぐに都には向かわずに、徒歩で、槇尾山を目指すのです。

 この時の、移動時の光景を、司馬遼太郎は、『空海の風景』で、次のように綴っています。

 

 「(難波ノ津)は、空海にとって、懐かしい津だった。若いころ、奈良と故郷の讃岐を往復するときも、この津を出たり入ったりしたことを思えば、風景のすみずみまで知っていたはずである。さらには唐にむかって出てゆくときも、この津からであった。おそらく空海は台上の松林や、台下の白沙の浜をみて、ようやく故国に帰りついたという感慨をあらためて持ったかと思える。」

 「下船したひとびとの多くは、ここから京へのぼっていく。」

 「が、空海は、南の道をめざした。朝命はーー官符は遺っていないがーー入京せよ、ということではなく、和泉国大阪府南部)の槇尾山寺に仮に住め、ということだったのである。」

 そして、

 「南河内から和泉にかけては古墳(つか)とよばれる築山が野に臥せている風景が多く、やがて古い聚落の信太村になる。その村内を走る道を南にさしてむかうと、道はすこしずつのぼり坂になり、一時間もゆくうちに、和泉のようにひらけた国にこれほどの深山があったのかと思えるほどの山林に入ってしまう。」

 「登りがけわしくなり、足もとの渓流を落ちてゆく水がはやくなるうち、やがて槇尾山に入りこんでしまう。このような人界から離れた山中に寺をひらいた最初の人物はたれであったかということが疑わしくなるほどの場所だが、伝承されるところは、・・・役小角(えんのおずぬ)であるという。」

 

 空海槇尾山入りについては、色々と、複雑な事情があったようで、詳しくは、先の作品をお読み頂ければと思います。

 いずれにしても、この深い山の中で、空海は2年の月日を過ごします。そして、その後、都にのぼり、嵯峨天皇の命により、高雄山神護寺へと本拠地を移すことになるのです。

 

※京都の北、高雄山神護寺の参道。

 

 神護寺は、空海が名を馳せる、ひとつの礎となった場所。この後、多くの業績をあげ、遂には、高野山をひらきます。

 西国三十三所の古刹、施福寺は、このように、空海と、密接に関わっていたのです。

 

神護寺境内にある大師堂。