山を越え
粉河寺(こかわでら)に続く札所は、和泉の国の施福寺(せふくじ)です。紀伊の国の北端の、険しい山々を北に進んで、なお平地には程遠い、槇尾山(まきのおさん)の山の中。かつて、遣唐使から帰国した空海が、京の都に赴くまでに、およそ2年の年月を過ごしていたところです。
今でこそ、近くまで、車で向かうことができますが、それでも、その先は、深い山に向かって歩き進まなければなりません。
坂道が続く参道には、所々に、本堂までの距離を示した丁石が置かれています。ひとつずつ、その目印を確認しながら、4番札所を目指します。
山門へ
私たちが施福寺を訪れたのは、昨年*1の2月半ばのことでした。まだ、寒気が残る時期、山の中へと進むにつれて、冬の気配が強まります。
山あいの谷間に沿って奥に向かうと、門前の駐車場がありました。そこからは、徒歩で境内に向かいます。
※駐車場から境内に向かいます。
山門へ
山門へと向かう道は、コンクリートで舗装された坂道です。それほど急勾配ではないものの、延々と上り坂が続きます。
※山門へと向かう道。
駐車場から、10分ほど上り進むと、木立の向こうに山門が見えました。門の手前の右手には、石造りの層塔が立ち、参拝者を迎えています。
道端には、小さな石柱が置かれていて、よく見ると、そこには「六丁」の表示です。この時点では、それが何を意味しているものなのか、知るよしもありません。ところが、山門を越えてしばらくすると、今度は「五丁」の石柱です。なるほど、これは、本堂までの道のりに違いない、と、その時初めて知ることになりました。
※正面の石段の上に山門があります。右下手前の石柱は丁石(六丁)です。
山門から参道へ
施福寺の山門は、それほど大きくはありません。それでも、山が迫る僅かな土地に、関所のように構え建つ、威厳ある姿を見ると、霊場につながる玄関口の、厳粛さを感じます。
※施福寺山門。
山門の先の参道は、土道に変わります。初めのうちは、なだらかな坂道で、それほど負担は感じません。
ところが、道は次第に急坂に。山の中へと分け入るような、険しい道に変わります。
※山の中に向かって行く参道。
杉の木に覆われた参道は、次第に、その幅を狭めます。苔の生えた石垣や、朽ちかけた建物などを横に見て、つづら折れの坂道を上ります。
※苔むした石垣を見ながら参道を上ります。
石と土の階段を、少しずつ上り進むと、やがて、参道の両際は雪模様。この日の朝降ったのか、淡い名残の雪の景色に変わります。
次第に、冷えた空気が覆ってはくるものの、坂道を上る運動で、身体はそれほど寒さを感じません。ただ、参道は、まだ続く気配です。ひとつずつ、数字を減らす丁石を確認しながら、残りの距離を推し量り、少しずつ、本堂に近づきます。
※雪景色の参道。
愛染堂へ
参道は、この先で、急な階段を迎えます。その先は、少し明るい光も差して、境内が近づく気配を感じます。
※急勾配の石段を上る参道。
山肌は、ところどころで、薄っすらと雪化粧。何となく、空も開けてきた様子です。
※薄っすらと雪を残す斜面。
空が開けて、もう間もなく本堂か、という位置に、「弘法大師御剃髪所跡」と刻まれた石柱と小さなお堂がありました。
冒頭でも触れたとおり、施福寺は、空海ゆかりの寺院です。西暦806年に、唐から帰国した空海は、大宰府の観世音寺に逗留します。そして、そのおよそ1年後、ここ施福寺(槇尾寺とも呼びます)に入山し、2年の月日を送ることになるのです。
愛染堂と名付けられた小さなお堂。ここが、空海の剃髪場所だったのか。真偽のほどは分かりませんが、空海ゆかりのお堂であるということは、間違いはないのでしょう。
私たちは、愛染堂で手を合わせ、本堂に向かいます。
※愛染堂。
本堂へ
参道は、愛染堂を過ぎた後も、まだもう少し続きます。正面上には、大きなお堂の屋根があり、その建物が、本堂の様子です。
参道は、いよいよ、最後の坂道に入ります。
*1:2022年