紀ノ川へ
紀三井寺の次の札所は、紀ノ川の中流にある粉河寺(こかわでら)。谷あいではあるものの、平地が残る粉河の町の、すぐ北の辺りに境内が佇みます。背後には、なだらかな丘が続いて、その先は、泉州との国を分ける、急峻な山脈です。
一方で、東に延びる紀ノ川の上流は、奈良の吉野に端を発する吉野川。古代から、大和政権の人々が、様々な動きを展開してきたところです。
西国三十三所の道筋は、この後、川伝いに大和へとは向かわずに、険しい和泉の山脈を突き進み、空海も滞在した、槙尾山へと向かいます。
粉河(こかわ)
粉河寺は、寺院の名前と同様の、紀の川市粉河町に位置しています。粉河の町は、元々は、独立した自治体でしたが、平成の合併で、紀の川市になりました。
境内は、JR和歌山線の粉河駅から、北に1キロ進んだところ。車では、京奈和道紀の川東ICのすぐ南。国道24号線も、アクセス道路のひとつです。
門前
私たちは、門前にほど近い駐車場に車を停めて、正面の大門に向かいます。門前の道沿いは、かつては、門前町で賑わっていたのでしょう。ただ、今では、どこか寂しさが感じられる通りです。
※門前の道。
大門
大門は、渋い感じの朱色に塗られ、落ち着いた重みを放っています。門の左右は仁王像。静かに参拝者を迎えています。
※粉河寺山門の正面。
年代を重ねた姿の仁王像を、近くからご覧いただければと思います。朱の建物とは対照的に、木地姿の仁王像。長い歴史を見守られてきたのでしょう。
※大門の仁王像。
境内
大門を潜った先を少し進むと、道は右方向に曲がります。整然と敷き詰められた石畳の参道や、手入れされた植え込みは、鮮やかな景観をつくっています。
参道の右側には、石垣で整備された小さな川が流れています。この川は、粉河の町を縦断し、その先で、紀ノ川に注ぐことになるようです。
※参道の様子。
参道の左には、太子堂や幾つかのお堂が並んでいます。そして、少し進むと、貴賓ある屋根を配した、美しい荷葉鉢(かようばち)がありました。
蓮の形のこの鉢は、いわゆる、手水鉢。ただ、粉河寺では盥漱盤(かんそうばん)と呼ばれていて、市指定の文化財にも指定された、有名な工芸品だということです。傍に置かれた説明板には、1775年の作品だと書かれています。
※雅やかな荷葉鉢。
中門
盥漱盤(かんそうばん)を通り過ぎると、正面の一段高いところに中門がありました。こちらの門は、大門とは対照的に、モノクロの風合いです。
※中門。
本堂
中門を通り抜けると、少し広めの境内が広がります。そして、その左上の方向に、見事な本堂の建物が見えました。
本堂に向かう石段の両側は、美しい石組の庭園です。国の名勝にも指定され、粉河寺を象徴するスポットのひとつです。
※本堂と石組庭園。
次に、正面から、本堂の姿をご覧いただきたいと思います。堂々とした間口を有し、2層の屋根も勇壮です。
この本堂、傍に置かれた説明板には、「西国札所の中では最も大きいといわれ」ていると書かれています。
※正面から見た本堂。
私たちは、本堂で参拝し、納経帳に御朱印を頂きます。
粉河寺の本尊は、千手千眼観世音菩薩です。先の案内板には、「内陣の厨子の内深くに秘仏の本尊千手千眼観世音菩薩が祀られている」と記されており、おそらくは、誰も見ることはできないのだと思います。
本堂の左には、小さなお堂がありました。よく見ると、千手堂と書かれた案内板。ここには、千手観音様が祀られているということです。
※本堂近くにある千手堂。
本堂の右側にも、六角堂など、小さなお堂が並んでいます。木々とお堂が配された、美しい境内を眺めながら、帰路の途に向かいます。
※樹木に囲まれて佇む六角堂。
芭蕉の句碑
本堂のあった境内から、一段下りると、右側は先ほど潜った中門です。私たちは、中門に向かう前に、左側の方向へ。そこには、芭蕉の句碑が置かれています。
年月を重ねたような句碑の周りは、木々がやさしく囲んでいます。
ひとつぬきて うしろにおひぬ ころもかへ
”少し暑くなってきたので、衣を一つ脱いで、背負ったことよ” というような意味のように思えます。
※芭蕉の句碑。
前回の、紀三井寺の記事の中でも触れたように、芭蕉は、『笈の小文』の旅の中で、和歌山を訪ねています。桜が散った直後の時期に訪れた紀三井寺。そこからは、奈良を目指します。
おそらく、芭蕉は、紀ノ川に沿った道を辿りながら、あるいは、紀ノ川の舟に乗って、吉野の方へと向かって行ったことでしょう。
奈良に向かう途中に位置する粉河寺。芭蕉は確かに、この古刹に立ち寄ったのか。詳しい資料はないようです。
粉河寺の句碑の意味も、寺に関したものではありません。
ただ、確かに、この辺りを通られたことだけは、間違いないのだと思います。
続く札所は、和泉山脈の向こう側、和泉の国、槙尾山施福寺です。