松山の郊外へ
松山は、夏目漱石の”坊っちゃん”で余りにも有名な街ですが、漱石の友人で、この街に生まれた正岡子規も、松山を代表する人のひとりです。
藩士の子として生を受け、黎明期の明治時代に幼少期を送った後、東京へと向かった正岡子規。文化人として記者として活躍しつつも、若くして病を患い、わずか34歳で他界してしまいます。
松山の霊場はあと5か寺。49番浄土寺には、子規の句碑も残されていて、故郷を想う俳人の姿が偲ばれます。
50番繁多寺へ
石出寺から繁多寺(はんたじ)へは、10分ほどの道のりです。石出寺からは、ほぼ真南の方角で、郊外の住宅地へと向かいます。どこにでもありそうな、新興住宅地の中の道を進んで行くと、山の麓の一角に繁多寺の山門が見えました。
この辺りは、松山市域に広がる平地の東の端、境内からは松山の街も見渡せます。
※左、駐車場から山門へ。右、山門を抜けたところの境内。
繁多寺
駐車場からすぐのところの山門をくぐって境内に入ります。砕石が敷かれた境内は、明るい感じの空間で、左手には庫裏と納経所がありました。
本堂などのお堂が並ぶ境内は、正面奥の石段を上った、一段高くなったところです。大師堂は本堂の右隣り。山の木々を背にして、厳かに二つのお堂が並びます。
この境内から振り向くと、左側にはため池が広がります。この辺り、あまり農地は見られませんが、今は住宅地となっている山裾の平地には、かつては水田が広がっていたのでしょう。
※左、本堂。右、大師堂前から本堂などのお堂を見渡します。
49番浄土寺へ
繁多寺から浄土寺(じょうどじ)へは、僅か5分ほどの道のりです。市の中心部からさらに離れて、徐々に南下していきます。途中、八幡神社の交差点は少し複雑な5差路の辻。左に見える日尾八幡神社の真っ赤な鳥居が目印で、その鳥居を回り込むように、最も左側の細い路地に入ります。
この路地を少し進むと、左側に繁多寺が見えました。繁多寺と浄土寺は、どちらも松山の平地の東側、山の裾野に境内が佇みます。
※仁王門。
浄土寺の駐車場は、仁王門のすぐ前です。車を停めて、立派な金剛力士の像が迎える仁王門に向かいます。
門をくぐると、正面にはさらに一段高い境内に続く石段が。そして、その奥には本堂の姿が見えました。本堂の前に進むと、それほど広くはない境内に、幾つかのお堂などの建物が並びます。
大師堂は本堂に向かって右側です。一回り小さな建物ではありますが、本堂と肩を並べるように参拝者を待ち受けます。
※左、本堂とその右が大師堂。右、大師堂前から見た境内。
空也上人ゆかりの地
浄土寺は、空也上人ゆかりの地。寺院に掲げられた説明によると、西暦960年に、空也上人はこの浄土寺で3年ほど滞在されたということです。その間、自身の木造りの像を彫って残されたと記されています。
空也上人と言えば、口から”南無阿弥陀仏”の6文字を表す小さな仏様が突き出た木像を思い起します。中学校の社会の教科書にも出てくるこの像の写真は、念仏を唱えることの大切さを説いたとされる空也上人の教えを、視覚的に覚えられる画像です。
空也上人は、浄土教の祖とされていて、浄土寺というこの寺院の名称は、ここに由来するのでしょう。*1
※左、浄土寺の起源などを記した説明版。右、正岡子規の歌碑とその解説。
子規の句碑
浄土寺の境内では、ひっそりと置かれた一枚岩の句碑が目に止まりました。その句碑は、正岡子規の俳句を刻んだもの。この浄土寺で詠まれたと思われる次の一句が刻まれたものでした。
霜月の 空也は骨に 生きにける
句碑の脇に掲げられた解説では、明治29年12月3日の雑誌「太陽」に載った冬の句と記されています。
実際にいつ詠まれたのか、定かではないものの、”霜月”とあるために、11月の句に違いはありません。それが明治29年の作なのか、あるいは、もっと以前の作なのかは分かりません。仮に、明治29年の作だとすると、子規自身、病を患う中での一句だったということです。
この句の解説を調べたところ、「空也の肉体は骨になっても、人々の胸には念仏の教えが今も生きている」ということだと書かれています。
病が癒えず、あと数年で夭逝することとなる自分の運命をも重ね合わせたかのようなこの一句は、どこか寂しくもあり、また、力強くもあるような不思議な魅力が宿っています。