"六波羅(ろくはら)"という言葉を聞くと、まず頭に浮かぶのが、歴史で習った”六波羅探題(ろくはらたんだい)”と呼ばれる組織です。鎌倉時代の重要な役所だったと思うのですが、学んだのは遥か昔こと。恥ずかしながら、言葉だけしか頭に残っていないのが現状です。西国三十三所の次の札所、六波羅蜜寺を訪れて、それとなく、孫が使った教科書を紐解いた次第です。
時は、鎌倉三代将軍源実朝が、鶴岡八幡宮で暗殺された後のこと。機に乗じ、朝廷(後鳥羽上皇)は討幕を企てます(承久の乱)。結果として、この試みは失敗し、時の後鳥羽上皇は、隠岐島に流されます。こうした情勢の下、混乱した京の都と朝廷を監視するため、鎌倉幕府が設けた組織が、”六波羅探題”だったのです。
京都らしい、奥ゆかしさの響きを感じる”六波羅”という地名。その場所は、鴨川の東側、五条通り辺りの地域を指すようです。古くからの街中に、姿を隠すようにして、西国三十三所霊場の第17番目、六波羅蜜寺は佇みます。
六道之辻
清水寺から六波羅蜜寺へと向かうには、清水坂を真っ直ぐに下り切り、東大路通りを横断します。その先も、松原通りを西進し、”六道之辻”と呼ばれる角へ。
反対の、鴨川の方向からは、松原通りを東進です。細長く蛇行した、古くからのお店が並ぶ通りを抜けて、“六道之辻”に至ります。
この界隈、市街地の大通りから少し離れた位置にあり、幅の狭い、幾つもの路地が入り組んだところです。間口の狭い住宅や小さなお店が軒を連ねて、いにしえの京都特有の香りを感じます。
このような街中にある、“六道之辻”。そこから僅かに南に向かうと、右側に、松の木が配さた立派な寺院が見えました。
六波羅蜜寺の境内は、実に小じんまりとしています。寺院の敷地の前だけが、美しく整備された路地を進むと、すぐ右側が本堂です。
本堂前の歩道の際には、立派な門柱が配されて、そこには、篆書体(てんしょたい)のようにも見える、古い書体で刻まれた、”六波羅蜜寺”の表示がありました。門柱の上部には、多宝塔を模したような彫刻があり、門の左右は、鉄の柵が張られています。
通常の寺院では、あまり見たことがないような、珍しい外観の入口から、境内へと入ります。
※六波羅蜜寺の正面。
六波羅蜜寺の参拝には、拝観料など、不要だったような気がします。境内に足を踏み入れ、そのまま本堂に直行です。
立派な構えの本堂は、基礎部分はコンクリート造りでしょうか。歴史的な奥ゆかしさをあまり感じない建物で、比較的新しい建築なのかも知れません。
私たちは、本堂で参拝し、御朱印をいただきます。
※六波羅蜜寺の本堂。
帰路、少しだけ境内を巡ります。本堂の南には、小さなお堂。福寿弁財天堂と書かれています。そして、本堂と福寿弁財天堂の間には、十一面観音菩薩像がありました。この像は、もちろんレプリカです。おそらく、本尊の観音像を模したものだと思います。
資料には、本尊は、12年に1回の御開帳だと言うことで、なかなか、目にすることはできません。ご本尊のレプリカ前でも手を合わせ、参拝を終えました。
※観音像と清盛公の塚、そして本堂です。
清盛公の塚
少し分かりにくい状態ですが、上の写真の観音像の背後の部分をご覧いただければと思います。そこには、背丈の低い、石の柱で囲まれた一角があり、朱塗りの細い柱に支えられた屋根が見えると思います。
その屋根の下には、石造りの像が置かれています。五輪塔のようにも見える石の像。朱塗りの柱のところには、「清盛公之塚」と書かれています。
”清盛”とは、言うまでもなく、平清盛その人です。この、六波羅蜜寺周辺は、平氏一門のお屋敷だったということで、その総帥の供養塔が設置されているのです。
錢洗い弁財天
本尊のレプリカや、清盛公之塚とは反対の、北側の一角には、「錢洗い弁財天」が納められた、小さな祠がありました。
どのようなご利益かは分かりませんが、金運に恵まれそうなお名前です。
※銭洗い弁財天が納められたお堂。
六波羅蜜寺のこと
西国三十三所霊場の、第17番目の札所である、ここ六波羅蜜寺は、空也上人(くうやしょうにん)により開かれた寺院です。
空也上人のことについては、歴史の教科書にもその写真が掲載されていて、御存じの方も多いでしょう。私自身は、貧相な格好の旅姿のお坊さんが口を開いて、そこから、木の枝のような棒が延び、六体の小さな仏像が並んでいる像の姿を記憶しています。
実は、その空也上人像が、ここ六波羅蜜寺の宝物館に展示されているというのです。
冒頭でも少し触れた六波羅探題や、空也上人、さらには、平清盛の座像など、歴史に残る重要な地であった証明が、目の当たりにできる六波羅蜜寺。
いつかまた訪れて、宝物館にも、足を運んでみたいと思います。