旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ[西国三十三所]27・・・播州清水寺

 有馬温泉

 

 次の札所は、加東市にある第25番目の播州清水寺。先の札所の中山寺から、50kmほど北東に位置しています。寺院の名にもある通り、兵庫県の瀬戸内側、播磨(はりま)の国に属してはいるものの、丹波の国にほど近い、山地の中に境内を構えています。

 有名な有馬温泉は、この2つの札所の中間地点。道筋はやや外れますが、これも旅の妙味です。中山寺の参拝後、温泉で一夜を過ごし、翌日に、播州清水寺へと向かうことになりました。

 彼の豊臣秀吉も、愛してやまなかった有馬の湯。黄金に輝く金の湯と透明感あふれる銀の湯の癒しの効果は絶大です。京阪神の大都会に程近い、六甲の奥に佇む温泉地。何度でも訪れてみたいところです。

 

 

 山地の道

 山際に静かに佇む有馬の地を後にして、兵庫県の中央部へと向かいます。途中、三田市を縦断し、さらに奥へと進んだ先で、加東市の領域に入ります。

 次の札所の播州清水寺は、加東市の北東隅。深い山の奥の地に、境内を隠しています。

 寺院に向かう最後の道は、右に左に蛇行を繰り返す山道です。そして、その先にあったのが、広く開けた駐車場。鮮やかな朱塗りの仁王門が参拝者を迎えています。

 

※駐車場から仁王門へと向かいます。

 

 参道

 仁王門をくぐった先で、参道は左奥へと向かいます。山の裾を辿るようなこの参道、緩やかな上り下りを繰り返し、数百メートル続いています。

 途中には、この寺院の縁起などが記された、案内板も置かれています。また、古い時代の石垣や山の斜面に築かれた小径など、歴史と自然が一体化した景観を眺めながら進みます。

 

※仁王門をくぐった先の参道。

 

 左右に並ぶ杉の木や、美しく整えられた低木に導かれて歩いて行くと、「西国第二十五番清水寺」と刻まれた、立派な石柱がありました。

 

※参道脇にあった立派な石柱。

 

 大講堂

 しばらくすると、道は、少し広い境内に入ります。右側は、山の傾斜が迫る中、辺りには幾つかのお堂が見られます。

 その中で、最も大きな建物が正面奥のお堂です。派手さはないものの、重みのある建物に見えました。

 近づくと、そのお堂の手前に池があり、右手には斜面を上る石段です。この石段のさらに上にも、お堂などがありそうです。おそらく、それこそ本堂に違いないと思いつつ、とりあえず、正面のお堂に近づきます。

 

※大講堂。

 

 正面にあった大きなお堂は、大講堂と書かれています。ここで参拝するのかどうか、不安ながら建物正面の階段を上ります。

 中を覗いてみると、意外にも、そこはまさに本堂のような状態です。納経所も脇にあり、ここでお参りをするようです。この講堂に祀られた本尊は、十一面千手観世音菩薩像。私たちは、ここで手を合わせ、御朱印をいただきました。

 

※大講堂の正面。

 

 根本中堂

 大講堂でいただいた資料を見ると、山の斜面の石段を上り進むと、そこには、根本中堂と名付けられたもう一つのお堂があるようです。

 資料には、推古35年(627年)に創建。大正6年再建、本尊十一面観音、と書かれています。先の大講堂が、神亀2年(725年)に創建された建物なので、根本中堂の方が歴史は古いということです。

 私たちは、大講堂を後にして、山の斜面の石段を上ります。

 

※大講堂の脇に続く石段。上には根本中堂があります。

 

 そう言えば、比叡山延暦寺にも根本中堂がありました。おそらく、寺院の中心となる建物なのでしょう。ここ、播州清水寺天台宗の寺院だということで、比叡山とのつながりも、あるのだと思います。

 

 石段を上り詰めると、正面奥に、根本中堂がありました。大講堂よりずいぶん小さなお堂ではありますが、こちらこそ、本来の本堂なのでしょう。

 深い山の奥に佇んでいる歴史あるお堂の前で、再び手を合わせたものでした。

 

※根本中堂。

 

 帰路

 根本中堂での参拝を終えた後、右手に延びる斜面の道を辿りながら、仁王門へと向かいます。

 途中には、もう一か所、少し開けた境内がありました。奥に見える石垣で囲まれた敷地には、かつて、多宝塔があったそう。今は、このような状態ではありますが、かつては、幾つもの建物が、この山の中に林立していたのでしょう。

 

※多宝塔跡を眺めながら、帰路の途につきます。

 

 縁起

 ここで少し、播州清水寺の縁起について記しておきたいと思います。

 お寺で頂いた資料には、「御開山法道仙人は印度の僧で、今より千八百年前、人皇十二代景行天皇が治められていた時に中国、朝鮮を経て、御嶽山に住まわれ鎮護国家豊作を祈願されました。」と書かれていますが、その頃は、日本に仏教が伝わったとされる6世紀中頃よりはるか昔にあたります。

 むしろ、その次に記載されているように、「推古三十五年(六二七年)推古天皇勅願により、根本中堂が建立され」た、という方が、説得力があるように思えます。

 

 また、清水寺の名前については、その由来について次のように書かれています。「もともとこの地は水に乏しく、仙人、水神に祈ったところ、霊泉が湧出し、そのことに感謝して『清水寺(きよみずでら)』と名付けられました」。

 

 源義経

 境内を後にして、駐車場に戻ってみると、隅の方に下のような加東市の案内地図がありました。そこには、「義経伝説の加東市」と、大きな文字で書かれています。

 説明書きを見てみると、義経が活躍した「一の谷の戦い」の前哨戦となる戦いが、寺院近くの三草山の麓において繰り広げられたということです。そんなことから、播州清水寺にも、弁慶の伝説などが残されているというのです。

 長い歴史を見続けてきた、山寺に思いを巡らせ、次の札所へと向かいます。

 

義経伝説が記された案内地図。