東へ
足摺岬を後にして、海岸近くの国道を、一路東へと向かいます。この先は、思いもかけず、道路整備が進んでいて、快適なドライブです。
以前訪れた段階では、まだ、自動車専用道路区間も限られていましたが、ここ数年で大きく状況が改善された様子です。
ただ、余りにも道路整備が進んでしまうと、巡礼の形は、点から点の立ち寄りになってしまいます。線でつなぎ、面を感じる歩き遍路の方々が見る風景とは、随分と違っていることでしょう。
足摺から四万十町へ
足摺岬を離れた後は、先ず、四万十市の中村に向かいます。その後、中村を流れる四万十川を横切って、国道56号線へ。その先は、美しく整備された国道のドライブです。やがて、太平洋が望める海辺の道。どこまでも碧く広がる、空と海を視界に入れて、気持ちよく東へと進みます。
途中からは、谷あいの道となり、今度は、木々が覆う山並みをすり抜けます。やがて町並みが現れると、四万十町の窪川です。足摺から、2時間の行程は、距離にしておよそ80Km。この間を歩いてつなぐと、最低でも3日はかかります。
37番岩本寺は、窪川の町中にある寺院です。窪川は、JR土讃線の終点でもあり、愛媛の宇和島に向かう予土線の始点ともなる重要な鉄道の拠点です。この窪川駅を中心に、盆地状の空間に小さな町が広がります。
岩本寺の駐車場は、町中を東西に貫く国道の、一筋南の道沿いです。車を停めて、直ぐ近くの角を南に折れると、門前町が現れます。
何軒かのお店が並んだ参道の正面奥には、石段と仁王門。私たちは、この日最初の霊場へと向かいます。
仁王門を通り抜けると、右手奥には大師堂。本堂は、真っ直ぐ進んだ右側です。
※本堂。
格天井
岩本寺の本堂は、珍しく、お堂に入ってお参りします。お堂自体は、それほど大きくはなく、煌びやかでもありません。それでも、なんとなく、明るい雰囲気を感じる空間で、見上げると、華やかな幾つもの美しい絵がありました。
これは、格天井(ごうてんじょう)と呼ばれる天井様式。その格子の枠に、昭和の時代に公募された、575枚の絵がはめられているのです。
※本堂の格天井絵。
大師堂
本堂から、仁王門側に少し戻って、大師堂の参拝です。岩本寺の大師堂は、小じんまりとしたお堂です。お堂の手前の左手には、弘法大師の像が立ち、右側には、少し変わった、円形の祠のような、小さなお堂がありました。
※大師堂とその周辺。
青龍寺へ
岩本寺の次の札所は、36番青龍寺(しょうりゅうじ)。新しくつながった、自動車専用道路を使い、一気に高知の近郊に迫ります。
青龍寺は、須崎市の東にある、浦ノ内湾を抱き込むように東に延びた、半島の先端近くに位置しています。
高知自動車道がつながるまでは、東西に長々と延びた半島を横断する、黒潮ラインを利用していましたが、今では、高速道路が便利です。土佐市にある、インターチェンジと宇佐大橋を利用して、半島へと向かいます。
少しだけ、横道にそれますが、高校野球の強豪校、明徳義塾は、この細長い半島の真っただ中にキャンパスを構えます。黒潮ラインをドライブすると、半島の山の中に広大な学園の敷地や建物を望むことができるのです。
人里から遠く離れた、孤立した環境の中の学校は、通学するには、とても厳しい条件のように思えます。交通が発達した、都市や都市近郊にある学校と比べると、その環境の違いに驚きを感じます。
青龍寺の麓
半島の先端を回り込む道から山の麓を少し伝うと、青龍寺の駐車場に行き着きます。先の岩本寺から60Km。この間も、歩いてつなげば、気が遠くなるような長さです。
青龍寺の駐車場から山側を見上げると、多宝塔や朱塗りの塔の姿が望め、深遠な霊場の雰囲気を感じます。
※青龍寺の境内を望みます。
駐車場奥の石段を、少し上がったところの左手が納経所。そして、その先の石段をもう少し上ったところに、仁王門がありました。
※補陀り、納経所と仁王門(奥)。右、仁王門。
仁王門をくぐり抜けると、左には、朱の色が鮮やかな、三重の塔がそびえます。そして、正面には、真っ直ぐに、本堂へと続く長い石の階段です。木々が茂る石段は、陽の光が薄らいで参拝者を霊場へと向かわせます。
※左、三重の塔。右、本堂へ延びる石段。
石段を上り切ると、その正面が本堂です。大師堂は、本堂の左のお堂。何れも、山の中腹に、ひっそりと、身を隠すように佇みます。
※本堂(手前)と大師堂。
青龍寺(しょうりゅうじ)は、四国八十八か所の霊場の中でも、特筆すべき名刹です。そもそも、青龍寺という名称は、空海が唐の都長安で、真言密教の伝授を受けた寺院の名。この青龍寺も、長安の青龍寺からその名を頂いているのです。
浦ノ内湾を抱き込むように突き出した半島の先端に、この寺を構えたいきさつは、伝説として残ってはいるのですが、ここでは、その話には触れません。それよりも、実際に、どうして都に近い場所でなく、敢えてこの地に青龍寺を造営したのかということです。
本当に、長安の南の地に境内を構えた青龍寺を模すためには、平安京の類似の場所にその地を求めた方が、もっともらしく思えます。ただ、空海という人は、俗な考えで、理解できる方ではありません。その答えを見つけることなど、私には決してできない世界です。
想像を許されるのなら、浦ノ内湾の外側に突き出した半島の姿そのものが、青龍と映ったのかも知れないということを、密かに一文とするのみです。
恵果堂
青龍寺は、長安の同名の寺院を思い描いて造営された寺院です。そのためか、境内には、恵果和尚(「えか」、あるいは、「けいか」)の墓がある他、階段下の納経所の裏手には、「恵果堂」と呼ばれている、恵果和尚をお祀りしたお堂も残っています。
※恵果堂。
空海が、恵果和尚から、真言密教の伝授を受けたお話は、実に壮大な歴史ドラマのような世界です。(密教伝授の時の話は、いずれどこかで、少し詳しく触れてみようと思います。)空海は、長安の青龍寺で、真言密教の教えを得た喜びに浸りつつ、その情景を脳裏に描いて、土佐のこの地で、寺院を造営したのではないかと思います。