旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)37・・・土佐路(26番金剛頂寺)

 真言密教

 

 神峯寺(こうのみねじ)に続く3か寺は、室戸にある霊場です。空海は、讃岐に生まれ、都に出た後、若くして阿波の国の山中で、厳しい修行を行います。

 四国山地の東部を覆う峰々の様子を見れば、どれほどの難行か、想像に難くはありません。それでも、彼の空海は、より一層の苦行を求めて、室戸の岬を目指すのです。海と岩、風と空がすべてのような、自然そのものが残る地で、再び修行を続けます。

 御厨人窟(みくろど)と呼ばれる洞窟は、空海の修行と生活を支えた空間です。ここで明星を得た空海は、唐に渡り、真言密教の第一人者、恵果和尚から密教のすべてを伝授され、日本において真言密教を確立することになるのです。

 室戸とは、空海が求めた真理を探る原点とも言える場所。密教にとって、重要な意味を持つ、室戸の地に向かいます。

 

 

 金剛頂寺

 険しい山道を下った後は、再び国道55線を辿ります。ところどこに集落もありますが、山と海に挟まれた、海岸伝いの快適な道が続きます。

 途中、国道に掲げられた、金剛頂寺(こんごうちょうじ)への案内標識に従って左折です。その先で、再び山道に入った後は、つづら折れの急な坂道を上ります。

 先の神峯寺からおよそ50分。山の斜面に切り拓かれた駐車場に到着です。

 

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※駐車場から延びる本堂への石段。

 

 金剛頂寺

 急な斜面に真っ直ぐ延びる石段は、参詣者を霊場へと導く修行の場でもあるのでしょうか。一歩ずつ歩みを進め、境内へと向かいます。

 石段の途中には、それほど大きくはない仁王門。その先の、さらに一段上がったところが境内です。

 

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※仁王門。

 

 金剛頂寺の境内は、急な斜面の上にあっても、比較的空が開けたところです。あるいは、一つの山の頂上近くに、境内が設けられているのかも知れません。

 境内を進んで行くと、正面奥に、立派な本堂がありました。入母屋の豪壮な屋根の造りは、天平の香りが漂うような容姿です。

 

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金剛頂寺の境内と本堂。左の建物が納経所。

 

 金剛頂寺の寺名の由来

 ここで、少し、この古刹の名称について触れてみようと思います。金剛頂寺という寺院名。この名こそ、空海の生涯と最も密接に結びついていると思うのです。

 

 空海が、遣唐使となり、唐の国の長安に赴いたことについては、私のブログで、既に何回か触れたように思います。先の27番神峯寺(こうのみねじ)の大師堂に掲げられた、空海の伝記にも、そのことが記されていて、特に、恵果和尚から真言密教の伝授を受けた場面について、次のように描かれています。

 

 「空海の胸は高鳴った。密教の正統祖、恵果和尚に面会できるというのである。空海が恵果和尚を尋ねると、恵果和尚は、空海を心待ちに待っていた。『われ、先より汝の訪門(ママ)を心待ちしていた。』恵果和尚は、体力の衰えを感じ、空海に灌頂(かんじょう)*1を授け、空海阿闍梨位の伝承を総て相承した。ここに密教正系の法統、第八祖となったのである。」

 

 つまり、空海は、正統な密教を継承する唯一の後継者として、恵果和尚から、密教の奥義のすべてを受け継いだというのです。

 

 空海が灌頂を授かった後、恵果は空海に「遍照金剛(へんじょうこんごう)」という号を与えます。このことについて、司馬遼太郎の「空海の風景」では、次のように描かれます。 

 

 「恵果は・・・空海に対し、『遍照金剛』という号を与えた。遍照金剛とは大日如来の密号で、金剛とはその本体が永遠不壊であることを言い、遍照とは光明があまねく照らすことを指す。」

 

  先の神峯寺に掲げられた伝記でも、同様に、

 

 「『南無大師遍照金剛』の遍照とは、恵果阿闍梨が、弟子の空海につけた密号である。恵果和尚は空海に付法すると大役をすべて果たした様に、その年、即ち永貞元年(12月15日)大日如来の法印を結んで60歳で遷化(せんげ)した。」

 

 と記されています。

  空海は、恵果和尚から「遍照金剛」の号を授かり、そして、今も「南無大師遍照金剛」という号は、弘法大師の代名詞として多くの人に慕われているのです。

 

 このように、金剛頂寺の寺院名の「金剛」は、この号こそが、その名の由来の一つと見ても、間違いでは無いように思います。(因みに、四国八十八か所霊場で、「金剛」がつく寺院としては、他に、38番金剛福寺があります。)

 

 恵果和尚は、空海こそ、密教を引き継いでいける唯一の人間であることを喜んで、総てを空海に託されました。そして間もなく息を引き取るという、ドラマのような事実の展開が、何とも運命的に思えます。

 翻って考えると、空海という方の超越した能力が、密教伝授に影響したと理解することこそ、相応しいのではないか、とも思えるのです。

 

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※本堂から少し離れたところにある大師堂横の弘法大師像。

 

 密教のこと

 もうひとつ、寺院名を考える上で、簡単に、密教について触れておきたいと思います。空海は、正統な密教の伝承者とされるのですが、その思想の流れは、空海の師であった恵果和尚が第一人者と言われています。

 つまり、恵果和尚のその先は、密教は二つの流れがあったとされていて、片方が「金剛頂経系」と呼ばれるもので、もう一方が「大日経系」というのです。恵果和尚の師匠については、「金剛頂経」が不空和尚で、「大日経」が玄超和尚。つまり、二つの密教が、恵果和尚の中において、一つに統一されたたということです。

 

 密教の二つの流れの意味については、非常に難しい内容で、私などには、軽々に触れられるものではありません。

 ただ単純に、「金剛頂経」という思想の名こそ、金剛頂寺の名前の由来に違いないと思うのです。

 「遍照金剛」という法号と、「金剛頂経」という密教思想が、この霊場の名の由来としたら、金剛頂寺こそ、空海と極めてゆかりが深い場所であると言えるのかも知れません。

 

 空海自身が大日如来となり、宇宙の真理そのものになるという、壮大な世界観。「遍照金剛」という号とともに、時空を超えて、今も弘法大師信仰の中に引き継がれているのです。

 

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金剛頂寺の大師堂。

 

 大師堂

 金剛頂寺の大師堂は、その正面は、室戸岬に向いていると言われています。大日如来に昇華した空海は、この地から、若くして明星を得た修行の場を見続けているのかも知れません。

 

*1:Wikipediaによると、「密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正当な継承者とするための儀式」ということです。