空海を追って
空海は、774年に、讃岐の国(今の香川県)善通寺で生まれます。その後、若くして奈良に赴き、大学に入るのですが、早々に大学を辞し、修行の道に進みます。
紀伊の辺りの山中や、阿波の国の舎心嶽(しゃしんがだけ)で修行を積んで、いよいよ、室戸にある最御崎(ほつみさき)へと向かうのです。
最御崎の洞窟は、御厨人窟(みくろど)と呼ばれていて、今もその姿を残しています。空海は、その洞窟で明星を得たことを契機として、真言密教の修得へと一気に行動を起こします。
間を置かず、空海は、遣唐使として長安に向かいます。そこで、密教のすべてを伝授され、2年ほどで日本へと戻るのです。
その後、幾つかの寺院を足掛かりとして、遂には、高野山を開きます。
「巡り旅のスケッチ」は、最後に、京都にある2つの古刹を紹介します。空海が、唐から帰還し、高野山を開くまで、拠点にしていた寺院です。
唐からの帰国
空海が遣唐使として大陸に渡ったことや、唐の都、長安の青龍寺で恵果和尚から真言密教の伝授を受けたことについては、すでに「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)」で紹介してきたところです。
その後空海は、長安を去り帰国の途につくのです。当初は、20年間という長期間の滞在を予定していましたが、僅か2年ほどで遣唐使の役目を終了します。
帰国した空海は、まず、大宰府に赴きます。そして、大宰府の観世音寺で2年ほど(1年ほどという説明もあります)の時を過ごすのです。この理由については、様々な見方があるようですが、朝廷からの入京許可が出されなかったということが、最も大きな原因だったのかも知れません。
空海は、入京の許可を得て、まずは、和泉の国の槇尾山寺(まきのおさんじ)に入ります。この寺院がある槇尾山は、紀の川を南に挟んで高野山と向き合う位置で、山深いところです。
この槇尾山寺は、空海の仮住まいの位置づけです。ここでさらに時を過ごした空海は、一気に京へと向かうことなく、様々な準備に専念します。この理由について、司馬遼太郎の「空海の風景」では次のように書かれています。
「空海はやっと筑後からうごいたが、それでも京に入らない。空海にすれば、経典の整理もさることながら、請来した密教を、どういう攻撃にも堪えられるだけの堅牢な組織に組みあげてから敵地ともいうべき京に入りたかったのではないか。」
高雄山寺
2年ほどの期間を費やした後、空海は、朝廷の命により、京に入ります。そして、洛北の高雄山寺を今後の拠点とするのです。
高雄山寺は、今は高雄山神護寺と呼ばれていて、秋には紅葉で賑わうところです。
※神護寺の入口。
神護寺へ
神護寺への道筋は、例えば、五条通りを利用すると、西京極運動場のすぐ近く、天神川の通りと交差するとこころを北に向かって進みます。この道は、国道162号線。仁和寺のある宇多野を通り、福王子神社の角を北西に向かいます。
その後は、次第に山が迫る坂道です。ヘアピンカーブの急坂を繰り返し、梅ケ畑の集落に入ります。この辺り、国道沿いには、食堂などのお店も見かけます。
国道の、高雄神護寺前の信号は、小さな三差路の交差点。ここから国道を左にそれて、道なりに細い道を進みます。やがて、清滝川が見えてきたら、その先に、高雄観光ホテルの駐車場。ここに車を停めて、その先は、徒歩で神護寺へと向かいます。
神護寺の入口は、清滝川に架かる小さな橋を越えた先。石の階段でできた参道が、山の上へとつながります。
この参道は距離も長く、急坂が続きます。やがて、広くなった石段の上方に、修理中の楼門の囲いが見えてくると、いよいよその先が境内です。
※急坂の参道。
私たちが神護寺を訪ねた時、生憎と、楼門は大規模修理の真っただ中。勇壮な、その姿を目にすることは叶わない時期でした。
足場が囲われた楼門の、左の社務所で入場料を購入して、境内へと進みます。
神護寺の境内は、これまでの急坂と比べると、一転した光景です。そこには、広々とした空間が広がって、開放的な雰囲気が味わえます。
それでも、山の中の寺院です。周囲は緑に囲まれて次第に厳かな様子に変わります。
※楼門の先の境内。
神護寺は、奈良時代末期から平安初期に活躍した、和気清麻呂(わけのきよまろ)の私寺と言われています。和気清麻呂は、日本史でその名前を聞いたことがありますが、平安遷都に関わった人という程度の知識しかありません。
空海が神護寺に拠点を置いた10年前に、清麻呂は既に逝去をしているものの、平安京に大きな影響力を持った貴族の寺院で、空海は、密教の絶大な威厳を固めていくことになるのです。
神護寺の境内を先に進むと、右側に、朱塗りの建物が目に止まります。山の斜面に抱かれるようなその建物こそ、和気清麻呂を祀った霊廟です。この霊廟を通り過ぎると、お堂が並ぶ、寺院の中心部に至ります。
※和気清麻呂霊廟。
金堂と大師堂
境内の中心部の右側には、幅広い急傾斜の石段が続きます。その階段を上って行くと、正面奥に立派なお堂が現れます。
このお堂が金堂で、神護寺の本堂とも言えるところです。
かつて、比叡山で天台密教を確立した最澄が、空海から真言密教の教えを請うたところです。
空海と最澄の関係は、非常に複雑なものがあり、私などが軽々に記すことはできません。ただ一般に、最澄は、年下の空海を師と仰ぎ、空海から密教の教えを授かったということは、事実なのだと思います。
※金堂。
金堂での参拝を終え、石段を下っていくと、そこには幾つかのお堂が並びます。そして、その隅に、慎ましく、大師堂が佇みます。
空海は、神護寺で、この大師堂を拠点として、真言密教の大きな力を蓄えていくことになるのです。
この大師堂の姿を見る時、四国八十八か所の大師堂とは一味違った、威厳のような迫力を感じてしまうのは、私だけではないような気がします。
※大師堂。
空海は、この神護寺を中心に活躍を続けることになりますが、一時期、長岡京の乙訓寺(おとくにでら)に赴きます。
次回は、「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)」の最終回。早良親王にもゆかりがある、乙訓寺を紹介します。