発心の道場
阿波の国の巡礼は、「発心の道場」と呼ばれます。四国八十八か所の霊場巡りを始めるところは、一般的には阿波の国。1番札所の霊山寺を皮切りに、阿波にある23か寺を巡るのが、まず最初の目標です。
巡礼を心に発し、1番札所の霊山寺を訪れた後、2番、3番と進むにつれて、霊場巡りの味わいが深まります。
今回の私たちの巡礼は逆回り。いよいよ終着点へと近づきます。
金泉寺へ
大日寺と地蔵寺がある羅漢の町から、再び県道12号線を利用して、東へと向かいます。家並みがまばらな道を進んだ先で、板野町の中心部に達すると、左に折れて町の中へと入ります。
金泉寺(こんせんじ)は、古くからの集落が連なる交差点から、少し北にはいったところです。交差点の先に見える仁王門は色鮮やかで、訪れる人の目を引き付けます。
※仁王門。
金泉寺の駐車場は、仁王門の左奥。駐車場から境内へは、門をくぐることなく行けますが、ここは一旦後戻りして、仁王門から境内に入ります。
境内では、真っ直ぐ延びる参道に、極楽橋が架かります。朱塗りの欄干が鮮やかな橋を渡ると、境内の中心部。その先の正面奥が本堂で、右側に大師堂という配置です。
※左、本堂。右、大師堂。
また、境内には、お堂の裏手に、これも朱塗りの柱が美しい、多宝塔などの建物がありました。金泉寺は、木造のお堂と朱色の建物のコントラストが印象的な寺院です。
金泉寺は、名前の通り、水にまつわる伝説が残ります。その内容は、四国霊場でよく耳にする、弘法大師の井戸に関わるお話です。干ばつに苦しむ人々を救うため、弘法大師が井戸を掘り、地域に潤いを施すというもので、黄金の井戸と呼ばれるその泉こそ、金泉寺の由来です。
※金泉寺の境内。
極楽寺へ
金泉寺から、再び県道に戻ります。そして、わずか1~2分のドライブで、極楽寺前に到着し、仁王門の左側の駐車場へと進みます。
2番札所の極楽寺と、1番札所の霊山寺の最後の2か所は、徳島県鳴門市にある寺院です。本来の巡礼は、1番札所がスタート地点。鳴門市は、四国八十八か所の起点の地でもあるのです。
私たちは、駐車場に車を停めて、仁王門の入口へ。極楽寺(ごくらくじ)の仁王門は、金泉寺とよく似ていて、朱塗りの柱が鮮やかです。豪華にも見える仁王門をくぐり抜け、境内へと向かいます。
※仁王門。
仁王門を過ぎた先で、すぐ右手に延びる参道を進みます。左側の境内の中央部分は、綺麗に手入れされた庭園です。右側には、幾つかの石像などが配されて、まるで極楽の世界を歩くような感覚が味わえます。
※極楽寺の境内の様子。
極楽寺の本堂と大師堂は、参道の先をさらに左に折れて、その正面の石段を上り切ったところです。仁王門の位置からは、対角線上の場所となり、境内の最も奥の一角です。
少し長い石段を上り詰め、2つのお堂に参拝です。
※石段と本堂。
大師堂は、本堂の右奥に位置します。一段上がった位置にある2つのお堂は、庭園などが配された、下の方の境内とは少し趣が異なります。この場所は、静かな雰囲気に包まれて、それこそ、参拝の地と言う感じです。
※左、本堂。右、本堂から見た大師堂。
安産祈願
極楽寺は、安産祈願の寺院としても名が通っているようです。これも、弘法大師にまつわる伝説に由来しているとのことですが、いずれにせよ、お遍路さんだけではなく、多くの参拝者が訪れます。
極楽寺の参拝を済ませると、いよいよ逆回りの巡礼の最後の札所、霊山寺(りょうぜんじ)へと向かいます。四国八十八か所を巡る千数百キロの道のりは、途方もなく長い距離。この行程を、何を思い、何を求めて周るのか。人それぞれではありますが、弘法大師に思いを馳せることだけは、多くの人に共通していることだと思います。
この長い道のりを思う時、ふと、空海が加わった遣唐使の苦難の道を考えてしまいます。
元々、空海自身は、深い山や荒波の岬において修行を重ねているために、少々の苦難など何事でもないことだと思います。それでも、遣唐使の道のりは、生死を賭けた旅だったと言っても過言ではないのです。
空海は、804年5月*1、第16次の遣唐使として唐の都長安に向かいます。この時、4隻の船で中国の揚子江の河口を目指すのですが、結局、うまく辿り着けたのは、第2船のみと言われています。この第2船は、空海と、密教の祖として対比される、最澄が乗船した船でした。
空海は、正使らとともに、第1船への乗船です。この船は、途中、嵐にみまわれて、ひと月以上も放浪します。挙句の果てに、8月に、福州長渓県に流れ着くことになるのです。
この時の遣唐使の4隻は、結局、第1船と第2船が辛うじて大陸に到達し、後の2隻は、消息不明になりました。
それはさておき、福州では、遣唐使一行は冷遇されてしまいます。海賊か何かと間違えられたのかも知れません。地元政府と再三の交渉の末、空海が嘆願を綴った文章が認められ、2か月近くの逗留が解かれます。
その後、11月初旬、一行は陸路で長安を目指します。途中、川や運河も利用したとは思いますが、直線距離でも実に千数百キロの道のりです。この距離を克服して、空海らが長安に入るのは、12月末のことでした。
気が遠くなるような大陸の旅程を、どのような気持ちで歩まれたのか、想像すらかなわない、過酷な道中だったことでしょう。
思えば、四国八十八か所の巡礼も、空海が大陸で長安に向かった距離に匹敵するのかも知れません。そんなことを思いつつ、地図を地図を広げてみたところ、恐らく大陸の行程は、島国の、四国の外周とは比べ物にならないほどの難行です。
想像を超える苦行こそ、空海を、宇宙の真理に違いない、大日如来に昇華させたのかも知れません。
*1:元々、803年の出航でしたが、船の損傷により翌年の804年に再出発しています。