旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]94・・・酒匂川と国府津

 相模路

 

 小田原から先の街道は、相模湾のすぐ内側を通っている、国道1号線に沿って進みます。今では、海岸線には、西湘バイパスの自動車道路が延びていて、車で東に向かうには、この道を利用するのが便利です。国道は、整備が進んではいるものの、所々で渋滞も発生し、車の利用は気をつけなければなりません。

 その一方で、国道沿いには、史跡や松並木の名残など、往時の面影が残っています。由緒ある、名所や地名を確認しながら、相模路を東へと向かいます。

 

 

 小田原宿を後に

 かまぼこ通りを過ぎた後、街道は、国道1号線に入ります。低層の建物や住宅などが軒を連ねる国道沿いは、小田原の中心部から、次第に遠ざかっていく感覚です。

 

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※国道に合流した街道。

 

 国道を少し進むと、整備された歩道の脇に、「江戸口見附と一里塚」と表示された案内板がありました。この場所は、住宅地の1軒分を利用した、小公園のような格好で、敷地の中には、見附と一里塚を明示した、石柱なども置かれています。

 小田原宿の西側の入口は、光円寺のところにあった板橋見附だったのですが、いよいよここで、東の外れに到着です。この間、およそ数キロにわたって続いた小田原宿。その規模は、やはり、並々のものではありません。

 

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※江戸口見附と一里塚。

 

 酒匂川(さかわがわ)へ

 江戸口見附を過ぎた後、左手に、長い土塀で囲まれた、由緒がありそうなお寺がありました。相当な広さのこの寺院、昔の人も、この容姿を眺めつつ、相模の路を往き来していたのかも知れません。

 

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※宗福寺前。

 

 街道は、しばらく、国道沿いを進んだ後で、少しだけ、斜め右方向の旧道に入ります。元は、この先を真っ直ぐに進んだところが、酒匂川の渡しの場所だったのだと思います。

 今は、旧道をしばらく進むと、行き止まり。やむなく、国道へと戻らなければなりません。

 

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※左、常剱寺入口交差点。ここを右前方へ。右、本来の街道は直進です。

 

 国道に戻った先には、そこそこ広い川幅の、酒匂川が流れています。酒匂川は、前回のブログでも触れたとおり、10月から3月の渇水期には、橋が架けられ、徒歩渡り(かちわたり)で川を越えたそうですが、その他の時期は、川越人足の助けを借りての川越えです。

 安藤広重の浮世絵も、人足による川越えの様子が、見事に描写されているのです。

 

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※酒匂川。

 川辺本陣跡

 酒匂川を国道の橋で越えた後、しばらくは、このまま国道の歩道を歩きます。道沿いは、住宅が中心で、所々に小さなお店なども見かけます。単調な国道には、時折見かける寺院などが、わずかに歴史の空気を漂わせ、落ち着いた風景をつくっています。

 

 途中、国道の左側には、由緒ある立派な建物が目につきました。この建物は、川辺本陣跡の長屋門。街道に関する案内本の地図の中にも、この名称は記載されてはいるものの、どのような歴史があるのか、詳細は分かりません。

 おそらくは、酒匂川の近くに位置するこの場所が、川越しの、東の拠点だったのだと思います。川の増水などにより、やむ無く足止めを喰らう場合など、宿場的な対応が求められたことでしょう。その中で、川辺家が本陣のような役割を与えられ、名家の勇壮な門構えが、今に引き継がれてきたのだと思います。

 

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※川辺本陣跡の長屋門

 

 松並木

 国道をさらに東へと進んで行くと、印刷局入口と表示された交差点がありました。この左奥に、国の印刷局があるようです。

 この辺りには、所々に松並木の名残が見られます。それほど良く残ってはいませんが、開発の嵐の中で耐え忍んできたような、ひ弱ではありつつも、なぜか意志の強さを感じるような姿です。

 

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※開発に耐え忍んでいるような松並木。

 

 小八幡の一里塚

 住宅が連なる国道の細い歩道を歩き進むと、視線の先に稜線が近づきます。やがて、国道が少しカーブを描くあたりには、「小八幡の一里塚」と表示された案内板がありました。

 説明では、江戸より19番目の一里塚ということや、かつては塚の上に松の木が植えられていたことなどが書かれています。今は姿を消した一里塚。この案内が、かすかに歴史の証を伝えています。

 

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※左、東へと向かう街道(国道)。右、小八幡の一里塚。

 国府津

 街道は、この先、国府津(こうづ)の街に近づきます。相模の国の中心地、国府と言う名を冠した港が、この辺りにあったのか。稜線が迫る狭い平地と、海に近い地形を見ると、確かに、そのような役割を与えられた土地だったのかと、頷きたくなるようなところです。

 

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国府津への道。

 

 やがて、国道は、少し大きな交差点に入ります。ここは、親木橋の交差点。すぐ先で、森戸川に架けられた橋梁を渡ります。

 親木橋の交差点は、交通の要衝でもあるようで、交差点につながる道は、かなりの渋滞状態です。

 

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※左、親木橋交差点。右、国府津の街並み。

 国府津の街は、住宅地が中心です。国道は、僅かな傾斜となっていて、その道沿いには、民家やマンションなどが並んでいます。左から迫りくる小高い尾根が起伏を作り、前後に広がる相模の街を、その尾根の突端を通過する、国道がつないでいるという状態です。

 

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国府津駅前の交差点。


 国府津駅

 坂道をしばらく進むと、歩道の際に、国府津駅を案内する、表示柱がありました。

 私たちは、その先の交差点を左に折れて、わずか50メートルほどのところにある、JR東海道本線国府津駅の方向へ。

 ここで、この日の行程に区切りをつけて、宿泊先へと向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]93・・・小田原宿

 小田原

 

 小田原は城下町として有名ですが、関西人にしてみれば、その位置関係を正しく把握できているかどうかは微妙です。その原因は、点で結ぶ移動手段を主流とする、今日の観光の形態にあるのではないかと思います。そして、もう一つ、小田原の近くには、箱根や伊豆の一大観光地が控えているため、小田原を訪れる機会が、それほど多くはないということなのかも知れません。

 例えば、新幹線で東京方面に向かう時、小田原は、左手に富士山を認めた先で、幾つかのトンネルを抜けた直後にひらけた街、という捉え方が一般的。関東の入口だとは認識しても、それ以上の位置関係に思いを致すことはないのです。

 それでも、この小田原に足を停め、箱根や伊豆を訪ねてみると、あまりの距離の近さに、驚きを覚えます。箱根の東の玄関口、箱根湯本の駅までは、小田原駅から、わずか15分で到着します。箱根の山の芦ノ湖までも、それほど時間はかかりません。

 一方で、海伝いに車を走らせた場合には、30分も掛からずに、真鶴へ、そして湯河原や熱海の温泉地にも行けるのです。地理的にも、気候的にも、この上なく恵まれた小田原は、羨ましくもなるような、豊かな資源の宝庫です。

 

 

 板橋口から

 板橋口を左に折れると、すぐ左には、大木が印象的な、立派な寺院が構えています。このお寺、光円寺というようで、浄土真宗の寺院です。

 街道は、この先、国道1号線の歩道沿いを小田原の市街地に向けて進みます。

 

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※光円寺前の街道の様子。

 

 国道をしばらく歩くと、正面に、箱根登山鉄道東海道本線鉄道の軌道の高架が現れます。この高架を潜り抜けたところが、早川口の交差点。かつての宿場町の中心部は、この辺りから始まります。

 街道は、早川口の交差点を真っ直ぐに渡って行きますが、左の先には、トンネルの道も見られます。小田原城小田原駅がある方面は、トンネルの先の方。宿場町は、城下町の中心部を、南側に回り込むような格好で続きます。

 

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※早川口の交差点。街道は真っすぐ正面の道。左のトンネルは、小田原駅方面です。

 

 小田原宿

 小田原の宿場があった街道は、今は、美しく整備された舗装道。片側2車線を擁している、道幅の広い国道です。歩道も広く確保され、歩きやすい道筋です。

 道端には、所々に、昔の町名などの標示がありますが、この辺りの街並みは、かつて宿場町であったことなど、想像すらできません。後ほど、少し触れますが、第二次世界大戦時の空襲で、街の姿は変貌することになったのです。

 

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※小田原宿があった街道。

 

 国道をしばらく進むと、左手に、お城のような建物が見えました。”ういろう”と書かれた看板から推測すると、老舗の”ういろう”店なのでしょう。

 そう言えば、この道を歩いていたら、どこかで小田原城も見えるかも、と期待を膨らませていましたが、結局、街道筋からは、捉えることは出来ず仕舞いとなりました。

 

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※お城のような容姿のういろう店。

 

 小田原城

 小田原城は、街道の左手奥に佇みます。以前訪れた時、少し高台のようなところに、天守閣があったような記憶があって、離れていても、その姿は見えるものと思い込んでいたのです。

 小田原と言えば、小田原城。別の機会に撮った写真をご覧いただければと思います。

 

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※北側から見た小田原城

 

 旧街道

 国道は、この先で、一旦左に曲がります。そして、さらに右方へと進路を変えて進むのです。

 一方で、街道は、左折をせずに直進です。この先しばらく、旧市街地の建物が、軒を連ねる旧道の道を歩きます。

 国道と別れる辺りには、幾つかの、木造の建物がありました。その一つが、「小田原宿なりわい交流館」。私たちが通った時は、閉じられていましたが、宿場町の情報などが入手できるような施設です。

 

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※小田原宿なりわい交流館。

 小田原宿について

 小田原宿は、東海道53次の宿場のなかでも、有数の規模を誇っていた様子です。街角に置かれていた説明板には、次のような記載がありました。 

 

 「江戸時代の小田原は、城下町であるとともに東海道屈指の宿場町として発展しました。小田原宿は、東海道起点の江戸日本橋からおよそ80Kmの距離にあり、第一宿の品川宿から数えて九番目の宿場で、通常は途中一泊してここに到着します。東は徒歩渡り(かちわたり)(10月から3月の間は橋が架けられていました)の酒匂川、西は東海道一の難所箱根越えが控えていたので、小田原で宿泊する人が多く、常時90軒前後の旅籠が軒を連ねていました。また、参勤交代で往来する大名行列も同様で、彼らが休泊に利用した本陣4・脇本陣4の計8軒という数は東海道随一を誇ります。」

 

 江戸から80Kmの行程を、わずか1泊で歩き進んで、小田原が2泊目になるという強行軍。駅伝ならまだしもと思いつつ、一般人が歩くには、相当過酷なスピードです。その昔、人々は、よほどの健脚だったということです。

 

 小田原空襲

 旧市街地の街道を歩いていると、道端に、「8月15日の小田原空襲」と記された、説明板がありました。

 記載によると、ここ小田原が空襲を受けたのは、1945年8月15日の深夜1時か2時の頃。この日は、誰もが知る、敗戦の日そのものです。直前に、熊谷市と伊勢崎市が攻撃を受け、米軍の帰還途中に、小田原が標的になったのです。

 約400軒の家屋が壊れ、12人が亡くなるという悲劇。おそらく、宿場町の姿を残した建物なども、その巻き添えになったことでしょう。

 

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※小田原空襲の説明板。

 困難な歴史を乗り越えて、今は、整然とした街並みが続きます。私たちは、小田原宿の後半に差し掛かり、かまぼこや干物のお店などが軒を連ねる、”かまぼこ通り”を進みます。

 

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※左、かまぼこ通りのはずれ。右、かまぼこ通りを終え、国道1号線と合流する地点。

歩き旅のスケッチ[東海道]92・・・小田原宿へ

 相模路

 

 箱根湯本を過ぎた後、街道は、比較的平坦な道を進みます。これからは、相模の国の名所をつないで、一路、武蔵の国を目指します。先ず訪れるのは東海道53次の9番目の宿場町、小田原です。

 小田原は、戦国時代に、北条早雲が治めた城下町。豊臣秀吉の城攻めは、有名なお話しです。関東の入口の要衝として、箱根山を西に睨んだこの場所は、地勢的には、大変重要な場所だったのだと思います。

 小田原を押さえた秀吉は、その後、奥州をも平定し、天下統一を成し遂げることになるのです。

 

 

 入生田(いりゅうだ)へ

 早川の三枚橋を越えたところを右折して、少しの間、国道1号線の歩道上を歩きます。この道は、東から箱根を目指す人たちが、主に利用している幹線道路。交通量も頻繁です。

 しばらく歩くと、国道は、高架道路への坂道と、旧来の国道の道に分かれます。街道は、右手に高架道路を眺めながら、左側の道筋へ。高架道路は、湘南海岸を突き進む、西湘(せいしょう)バイパスを始めとした自動車専用道路に接続し、旧道は、小田原の市街地へと向かうのです。

 その後、旧国道に入った先で、街道は、さらに左の旧道に入ります。

 

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※国道から分かれた旧道。

 

 旧道沿いは、古くからの集落の様相です。道沿いには、民家がまばらにつながって、時折、左上に、箱根登山鉄道の軌道敷が迫ります。

 のどかな里の集落を進んだ後で、街道は、一旦旧国道に入ります。そして、再び左に延びる旧道へ。この辺りが、箱根町小田原市の境界になるようです。

 

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※左、国道の歩道。(少し高いところも通ります。その先で左の旧道へ。)右、旧道の様子。

 入生田駅

 箱根登山鉄道の踏切を越え、小田原市入生田の町中に入ります。狭い幅の道沿いに、民家が張り付く入生田の町。道なりに進んだ右手には、入生田駅がありました。この地の名前は入生田(いりゅうだ)ですが、なぜか駅は入生田駅(いりうだえき)。それぞれに、それなりの理由があるのでしょう。

 私たちは、この日の朝、箱根の関所近くを出発し、一気に山道を駆け下り、夕刻に、ここ入生田駅に到着です。14Kmほどの行程を終え、電車に揺られて、この日の宿泊地へと向かいます。

 

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入生田駅

 

 風祭

 一夜明け、少し遅い時刻に、入生田駅に舞い戻り、再び街道歩きを続けます。

 先ず、静かに佇む、入生田の町中を歩きます。この辺りには、民家が道沿いに建ち並び、人々の生活感が伝わるようなところです。

 

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※入生田の町並み。

 

 狭い道を、数百メートル進んでいくと、左手に、美しく手入れされた、木々が植わる斜面が現れ、そこには、箱根病院を案内する表示板がありました。ここは、風祭(かざまつり)というところ。箱根登山鉄道風祭駅もすぐ近くにあるようです。

 

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※風祭にある箱根病院前。左の丘の上に病院はあります。

 

  箱根病院は、小高い丘の上にあり、街道は、丘の裾野を通ります。この先しばらく、静かな住宅地の中を通過しますが、時折、お家の前に、柑橘類を販売する、無人の棚が置かれていて、果物の豊かな収穫地であるということを、実感したものでした。

 

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※左、風祭駅。右、風祭の町並み。

 街道は、緩やかに弧を描きながら、民家が連なる町中を進みます。やがて、右方向に大きく曲がると、その先に小田原厚木道路の高架道路が横切ります。高架下へと足を向けると、箱根登山鉄道の踏切です。

 

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※自動車専用道路の高架下。踏切を渡り、国道1号線に入ります。

 

 小田原板橋

 踏切を渡った先は、旧来の国道1号線。私たちは、左に折れて、しばらく、国道の歩道を歩きます。

 この辺りの道筋は、右に早川が相模湾をめざして河道をつくり、左手は、山際に敷設された、箱根登山鉄道の軌道が走っています。わずかに開けた狭隘な土地を辿って、街道は、小田原へとつながっていくのです。

 

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※小田原に向かう国道と箱根登山鉄道

 

 国道を進んで行くと、やがて、上板橋の交差点を迎えます。この先、国道は真っすぐに延びて行きますが、街道は、左側の細い道に入ります。

 この先の500mほどの区間は、街道と国道は別々のルートを辿ります。その後、二つの道は再び合流することになるのです。この、500mほどの間の町は、板橋と呼ばれています。中山道の宿場町、東京の板橋と、その名前は同じです。

 

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上板橋交差点。左に向かう道が街道。

 

 板橋の町に入ると、何かしら歴史の香りを感じます。地蔵堂を始めとした、幾つかの寺院などが、左手の山の斜面に点在し、家並みも植栽が施され、落ち着いた雰囲気の空間が広がります。道はやがて、大きく右にカーブして、その先は、真っすぐな直線道路。

 途中、内野邸と表示された土蔵造りの建物は、中々立派で珍しく、街道の雰囲気を盛り上げます。この建物は、元は、醤油醸造経営者の住宅だったということです。

 

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※板橋の町並み。写真中央の建物が内野邸。

 街道は、やがて正面に、東海道新幹線の高架を捉えます。その後、高架下を潜った先で、緩やかに右方向に屈曲し、国道1号線との合流地点に達します。

 

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※新幹線の高架を捉えた街道。

 板橋見附

 街道が、国道と合流した地点には、板橋(上方)口と表示された説明板がありました。この地点の位置づけを紹介するため、その内容に少し触れさせて頂きます。

 

 「戦国時代の末期、小田原北条氏は東海道をも取り込み、城下の外周を土塁や空堀で囲んで防御する壮大な総構(大外郭)を築きました。この辺りは、東海道に対する小田原城外郭の西側の出入り口が設けられていた場所です。江戸時代においても、この口から内側は城下府内の山角町、外側は板橋村で、遠くは京都に通じたので、板橋口または上方口と呼ばれ、・・・厳重な構造をもっていました。」

 

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※板橋見附交差点。街道はここを左折します。

 

 板橋見附の交差点を左折すると、いよいよ、小田原の宿場町。小田原城を遠巻きにして、街道は、続きます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]91・・・箱根湯本へ

 箱根の里

 

 箱根の山の玄関口は、西は三島の初音ケ原の杉並木。反対の東側は、箱根観光の基地である、箱根湯本の温泉町といえるでしょう。この間、およそ25キロの道のりは、三島宿と小田原宿をつないでいる、箱根八里(32キロ)の行程の、最も険しい区間です。

 畑宿の集落を出た後は、厳しい道の、最後の下り坂を迎えます。あと一息、箱根の里の温泉地として有名な、箱根の東の玄関口、箱根湯本を目指します。

 

 

 須雲川へ

 畑宿は、本陣跡を過ぎた先で、集落が途切れます。街道は、集落はずれのところから、右側の旧道へ。古くからの道筋は、細くて木々に覆われた、山道のようなところですです。

 

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※旧道の様子。

 

 街道は、旧道と県道を、交互に繰り返すようにして、麓の里へと向かいます。途中には、割石坂と表示された坂道があり、そこを抜け出たところの県道からは、朱塗りの鳥居が目に入ります。

 鳥居のところに行き着くと、その右下に、神社のような建物が見えました。

 この神社、箱根聖天稲荷大権現神社というようです。地図を見ると、神社へと向かう道と、そのまま県道を進む道があるようですが、私たちは、右下の神社がある方向に向かいます。

 分かれ道のところには、箱根旧街道の目印があったように思うのですが、写真がないため、今となっては、道案内の所在は不明です。

 

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※ 箱根聖天稲荷大権現神社の鳥居が右側に見えます。

 

 鳥居を過ぎた街道は、舗装された下り道。途中で、稲荷神社でお参りをするつもりでしたが、そこへ通じる道が分からず仕舞い。結局、神社を回り込むような格好で、須雲川の河原に下り立ちました。

 この先は、せせらぎを、簡単な板の橋で渡るところや、森の中の自然道がしばらく続く、自然遊歩道のようなところです。

 

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※木々に覆われた街道や、須雲川のせせらぎを越えて進みます。

 

 須雲川IC

 やがて街道は、再び県道に戻ります。その後、舗装道を下っていくと、箱根新道の須雲川インターへの案内表示が現れます。

 箱根峠の先のところで、国道からそれた箱根新道有料道路。東海道の旧道伝いに箱根の山を下りながら、旧道と、時に顔を合わせるようにして、一気に小田原へと向かうのです。

 旧東海道と箱根新道が通るルートは、先ほどの、須雲川が形成した谷に沿って下っています。一方、箱根駅伝で有名な国道1号線が通るルートは、早川の谷伝い。2つのルートは、箱根の山の険しい尾根で分断されているのです。

 

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※箱根新道須雲川IC近く。

 

 近づく里

 須雲川のインターへの分かれ道を過ぎた後、街道は、次第に里の景色に変わります。坂道が、緩やかに下っていったところには、天聖院(てんせいいん)と表示された、派手なお寺が現れました。

 あまりにも鮮やかな色彩の山門や本殿などは、私たちの感覚では、少し引いてしまうような容姿です。

 

 やがて、旅館などの看板も、目立ち始めてくる辺りには、温泉宿の看板や、建物の姿も目に留まります。

 

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※次第に里の雰囲気に。

 

 旧道へ

 県道を下っていくと、右上に、箱根新道の高架道路も目に入ります。随分と標高が下がってきた雰囲気で、空が次第に開けてきます。

 途中、左手には、「福寿院」の案内柱。そして、その傍に、箱根旧街道の入口の案内板もありました。街道は、ここからしばらく、旧道を進みます。

 

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※旧道への入口。

 箱根旧街道

 旧道の入口ある案内板には、「江戸幕府は1680年に箱根旧街道に石を敷き舗装をした。この先から役255メートルはその面影を残しており国の史跡に指定されている。」と記しています。

 記載の通り、ここからの街道は、石畳の細い道。急な坂道を下った先で、上り道も現れるというような、谷沿いの山裾を辿るような道筋です。

 

 箱根湯本
 この旧街道の道沿いは、既に、箱根湯本の里に入った雰囲気です。街道を進むにつれて、宿やお店の建物などが目立ってきます。

 街道の左下には、須雲川の右岸道。その道沿いには、食堂の看板も見られます。

 旧道は、石畳の坂道を少し上って、その先で県道に合流です。そこからは、町並みは一気に変わり、住宅や観光施設が連なります。ただ、県道沿いには、大型の旅館などはありません。有名な温泉地の旅館街は、この道の左奥。須雲川と早川が合流する辺りの川沿いです。

 県道沿いの道伝いには、かつては、宿場のような町並みがあったような感じです。地名も、中宿とか下宿とかと呼ばれる地域があるようで、間の宿だったのだと思います。

 

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※県道に合流した街道。

 

 静かな箱根湯本の県道伝いを進んで行くと、左手には、早雲寺の山門が見えました。その名称から、北条早雲に由来するお寺でしょうか。木立に囲まれ、ひっそりと佇みます。

 

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※早雲寺山門。

 街道は、次第に緩やかな坂道となり、賑やかな空気感が漂う場所に近づきます。下宿と表示されたバス停を越えた先では、観光客の姿も見られます。

 

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※下宿の町。

 

 下宿を過ぎた先には、須雲川と合流した、早川です。早川に架かる三枚橋を渡っていると、左先には、よくテレビにも登場する、箱根登山鉄道の、箱根湯本の特徴ある駅舎が望めます。

 有名な、箱根観光の拠点の地、箱根湯本の市街地を避けるように、街道は、早川の流れに沿って、小田原の宿場へと向かいます。

 

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※早川に架かる三枚橋

 

歩き旅のスケッチ[東海道]90・・・畑宿へ

 寄木細工

 

 箱根には、古くから親しまれている、寄木細工のお店が並ぶ町があり、道ゆく人の目を惹きつけます。この町は、畑宿というところ。有名な温泉などが点在する、国道沿いの町ではなくて、国道から尾根を挟んだ南側。街道と肩を並べて斜面を下る、県道沿いの集落です。

 畑宿と呼ばれるように、かつては、宿場と宿場の間にあった、間の宿だったのかも知れません。

 東海道中膝栗毛の、やじさんときたさんは、挽物細工(今の寄木細工)を買いますが、その場所は、箱根の麓の湯本の町。可愛いお店の娘さんにうつつを抜かし、売値より高い値段を支払って、煙草入れを買ってしまうお話です。

 江戸の頃から名が知れた、寄木細工の本場の町は、この畑宿です。元箱根から湯本までの中間地点に位置していて、街道歩きの節目となるところです。

 

 

 親鸞上人

 甘酒茶屋を後にして、再び、茶屋裏の街道に戻ります。そこから先は、少しの間、概ね平坦な道となり、山の中の、小さな庭園のような空間を進みます。

 その後、右手に下る階段状の坂道を、県道に向かって下ります。街道が、県道に下り立つ直前には、石碑とともに、「親鸞上人と笈ノ平(おいのだいら)」と記された、案内板がありました。

 詳しくは記載されていませんが、親鸞上人が東国の教化を終えての帰路、4人の弟子とともにこの場に差し掛かった時、上人が、東国の門徒のことが心配になり、一人の弟子を、ここから東国に戻すことにしたというのです。この場所は、その弟子との別れの地として、後世に伝えられました。

 

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親鸞上人に関する石碑など。

 

 親鸞上人は、浄土真宗の開祖として有名です。この方が、東海道の箱根の地を通られたのは鎌倉時代、上人が60歳あたりの頃でした。おそらく、常陸の国(今の茨城県)から都へと、居所を移す途中のことだったのだと思います。

 30過ぎで越後に流され、その後、許しが出た後で、東国に向かうのですが、常陸での長期の逗留を終えた後、故郷の都へと足を向けることになったのです。

 

 偉大な宗教指導者の、箱根の山での出来事に触れ、悠久の歴史的に思いを馳せて、県道に合流した坂道を下ります。

 

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※県道と合流した街道。石畳の歩道が街道であることを示しています。

 追込坂と猿滑坂

 この先の街道は、国道の歩道に沿ってしばらく進み、その後、一旦山の中に入ります。その後、山の際を抜け出して、県道に併設された、階段状の歩道の道を下ります。

 この辺りまでの坂道を、追込坂と呼ぶそうですが、狩りに適した場所だったのか、ある程度、平坦なところだったような気がします。

 

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※山際の道から県道に下る歩道。

 

 街道は、県道につながる階段を下りた後、横断歩道を渡ります。そして、そこで県道から、右にそれ、旧道の坂道に入るのです。

 この先は、猿滑坂と呼ばれている、急な坂道が続きます。途中、緩やかな道もありますが、谷底に、一気に下っていくような、勾配ある坂道が中心です。

 

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 新旧の道を経て

 どこまでも続く下り坂。体力的には、それほどの負担ではないものの、下っても下っても、なかなか先が見通せない道中です。

 途中では、県道に合流し、或いは、有料道路の高架下をくぐりながら、変化に富んだ道筋を進みます。

 

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 かなりの落差を下ったと思います。体力よりも、精神的な負担の重みが増す頃に、坂道は平坦な場所に到着します。空が広がり、明るい日差しを感じると、そこには、見事な一里塚がありました。

 これは、畑宿の一里塚と呼ばれるもので、見事に、往時の形を残しています。左右双方に塚が残り、その間に街道が通ります。江戸時代の街道が、そのまま残っているような、一里塚と一体化した風景は、値千金とも言えるような、貴重な場所だと思います。

 今の時代にありながら、往時の街道の風景が味わえる、特別な場所だと言えるでしょう。

 

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※対をなす塚が残る、畑宿の一里塚。

 畑宿

 畑宿の一里塚を過ぎたところで、街道は、県道につながる導入路に入ります。そこにはいきなり、寄せ木細工のお店が並び、辺りには、伝統ある集落の空気感が広がります。

 

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※中央地道の道が、一里塚がある街道。私たちは、中央から手前に向かって進んでいます。

 

 街道は、その先で、県道に合流です。合流地点の近くには、公衆のトイレなども整備され、ひと休みするのには、恰好のところです。私たちは、しばらくの間、足を休めて、体力を蓄えます。

 畑宿の町を通る県道は、それほど、広い道幅ではありません。歩道もない道路に沿って、寄木細工の工房や土産物店が並びます。

 静かな山間の集落は、のどかな光を浴びながら、ゆったりとした時の流れを刻んでいます。

 

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※畑宿の町並み。

 

 寄木細工の展示品を眺めながら、畑宿の街道をあるいていると、”本陣跡”と表示された、バスの停留所がありました。この名前を目にすると、やはり、畑宿は、間の宿だった様子です。

 芦ノ湖の畔にある箱根宿の次の宿場は、相模湾のほど近く、小田原の宿場です。この間は、17Kmの距離が開き、大変な長丁場。途中には、幾つかの休憩地(間の宿)が必要です。おそらく、この畑宿と、山の麓の箱根湯本は、重要な休憩地だったのだと思います。 

 

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※畑宿の本陣辺り。

 私たちは、畑宿から、箱根の東の玄関口、箱根湯本を目指します。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]89・・・箱根の里へ

 東の坂道

 

 箱根の山の東側は、かなり厳しい坂道です。芦ノ湖がある盆地から、外輪山の峠に上り、その後は、一気に下り坂に入ります。今は、階段の場所もありますが、延々と、下りの道が続きます。

 私たちが箱根の山へと辿った道は、三島からの上り道。その道中も、坂また坂の大変な道でした。ところが、東への坂道は、西側以上に厳しい斜面の連続です。

 

 

 身替わり地蔵

 葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚を後にして、国道を東へと進みます。左には、芦ノ湖が見え、港の施設も近づきます。

 近代的な街が始まるこの場所は、元箱根と呼ばれています。その新しい観光の街の道路脇に、歴史を背負った、石像群の一角がありました。

 石像の中央には、お地蔵様が据え置かれ、説明板には、”身替わり地蔵”と書かれています。このお地蔵様の謂れについては、次のような言い伝えがあるようです。

 

 「源頼朝の配下であった梶原景季(かげすえ)がここを通った時に、平景時と間違えられ、誰かに斬りつけられました。ところが、地蔵様が身替りとなり、梶原景季は命拾いしたというものです。」

 

 お地蔵様をよく見ると、肩の辺りに割れ目があるのが分かります。これが、身替りの証なのでしょう。道端に密かに佇む史跡から、不思議な、伝説じみたお話を知ることができました。

 

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※身替わり地蔵。

 

 一の鳥居

 元箱根の港には、駐車場やバスの中継所などが整備され、芦ノ湖観光の中心地となるところです。その施設前の国道には、箱根神社の’’一の鳥居"が道路を跨ぎ、箱根を代表する景色を作っています。

 街道は、一の鳥居を潜らずに、その直前で、右方向の上り坂に入ります。この後、国道とはしばらく別れを告げて、古くからの道を伝って、箱根湯本へと向かうのです。

 

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※一の鳥居と東海道。左の道が国道で、斜め右に向かっているのが街道です。

 

 舗装道から旧道へ

 しばらくの間、蛇行する、舗装された坂道を上ります。道の脇には、杉の並木が姿を現し、箱根の道の趣きを感じます。

 そこそこ急な上り坂。それほど長くはない坂道だと、自分自身に言い聞かせるようにして、一歩一歩進みます。

 やがて、街道は、舗装道から斜め左の方向へ。地道の旧道へと向かいます。

 

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※元々の旧街道の道。

 

 ここからは、往時のままの姿を残す、旧街道に入ります。時折、階段や橋なども設けられてはいるものの、辺りは木々が覆い、土道や、石畳の道が続きます。

 

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※橋や、木の柵が設けられた街道。

 

 峠への道

 街道は、権現坂と呼ばれている、石畳の坂道を上ります。この道は、外輪山の峠へと向かうのですが、前日に、箱根峠を下ってきた、挾石坂と比べると、比較的緩やかな勾配です。

 前日の疲れも癒えて、朝の涼しい空気の中を、心地よく歩きます。

 

 箱根八里の歌碑

 しばらく進むと、道端に、少し変わった形をした、石の碑が目につきました。この石碑、箱根八里の歌碑だそうで、よく耳にする、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」の歌が刻まれたものでした。

 私はこれまで、この一節は、東海道の難所を告げる、慣用句だと理解していましたが、実は、馬子唄の一節だということを、この時はじめて知りました。

 

 峠の道は、馬に乗ったり、駕籠に揺られた旅人も、少なくはなかったと思います。厳しい坂であるからこその、馬を曳く生業(なりわい)に力を尽くした馬子たちは、峠越えはいつの日も不可能ではないのだと、誇りを持っていたのでしょう。

 この馬子唄の一節は、自らの仕事に対する自信の所在を、鼓舞するような内容に思えます。

 

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※左、権現坂の様子。右、箱根八里の歌碑。

 峠を越えて

 やがて、街道は峠を迎えて、その後は、下り坂に変わります。一気に下る街道は、谷底に落ち込むようなところもありますが、まだこの辺りには、緩やかな坂道もあったような気がします。それでも、次第に標高を下げ、相模の里を目指します。

 

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※石畳の急な坂道。

 

 山の中の旧街道を進んだ先に、突然、舗装道路が現れます。この道は、国道と、有料の箱根新道の間を走る県道で、箱根の山に点在する、集落間をつないでいます。

 国道は、北方向の尾根を越えた向こう側。芦ノ湯や強羅などの有名な温泉地、或いは、小涌園など、有名な観光施設も、国道の沿線近くに位置しています。箱根駅伝のコースもまた、国道を辿っているのです。

 どちらかと言えば、裏道のような県道沿いは、賑やかさはありません。静かな、落ち着いた道が流れています。

 

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※左、旧街道が県道に出くわす地点。右、県道を越えて先に進む山道の街道。

 甘酒茶屋

 街道は、県道を横切って、再び山の中に入ります。この先は、勾配は少し緩まるものの、足元は、少し荒れた地道です。道幅も、幾分狭くなり、山道のような状態です。

 しばらく、緩やかな道を進んでいくと、右側に、茅葺屋根の建物が見えました。街道から、建物の方を窺うと、縁側に腰掛けて、お茶をたしなむ人の姿です。私たちも、丁度良いタイミングということで、裏口から敷地に入り、少しの間の休憩です。

 

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甘酒茶屋の裏側。

 

 茅葺の趣ある建物は、甘酒茶屋と呼ばれています。甘酒や、甘いお菓子もいただける、昔の喫茶店のようなお店です。

 ここには、街道歩きの方の他にも、県道伝いを往き来するドライブの方たちも、数多く立ち寄られている様子です。後々分かったことですが、この施設、テレビのドラマなどでもよく登場していて、知る人ぞ知る、有名なお店なのだと思います。

 

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※県道側から見た甘酒茶屋

 

 私たちは、お餅をいただき、ひと時の安息の時間を過ごします。山間に、今も残る茶屋の姿を愛でながら、往時の面影を偲びます。

 

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甘酒茶屋でいただいたお餅。

 

 甘酒茶屋のことについては、敷地内に設置された説明板に、その歴史などが書かれています。元々、箱根地域の9か所に茶屋があり、この地には4軒が営まれていたということです。今では、ここ1軒だけですが、それでも、古くからの建物が、その姿を残しつつ、営業までされているとは、驚きでしかありません。

 それは、その通りであるとして、私がさらに驚いたのは、説明板に、大正時代の街道と甘酒茶屋が写る写真が掲載されていたことです。木造の壊れそうな建物には何人かの人の姿も写っています。よく見ると、人々は、マスク姿の様子です。スペイン風邪が流行したのは、1918年から1920年。恐らくそれは、その頃の写真でしょう。

 店の前には、地道の街道が通過して、向かいには長椅子も見られます。鶏が道に群がり、のどかな山の中の店の様子を写しています。

 

 100年の時を越え、古の懐かしい風景を味わいながら、先の行程に向かいます。

 

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甘酒茶屋の説明板。カラーの方は、江戸時代の様子の絵。下方の白黒写真が、大正時代の様子です。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]88・・・箱根の関所と杉並木

 芦ノ湖辺り

 

 箱根には、たくさんの観光スポットがありますが、中でも、芦ノ湖の東の地域は、観光の中心地。

 そこには、芦ノ湖の水上観光の基地があり、湖と富士山の絶景が味わえます。また、箱根の関所があったところは、往時の施設などが再現されて、興味深いところです。

 この地域には、たくさんの土産物店を始めとして、飲食店や観光施設も豊富です。箱根駅伝の往路復路の起終点も、芦ノ湖のほとりにあるため、駅伝を記念する施設などもあるようです。

 街道は、湖の東の地域をかすめるように通過して、再び、外輪山の峠へと向かいます。

 

 

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箱根駅伝の往路ゴールを示す石標。

 

 箱根駅伝の石標

 国道1号線に戻った街道は、真っすぐな直線道路を進みます。この辺りは、箱根駅伝の往路最後の区間として、また、復路の最初の区間として、よくテレビに映る場所。国道から、湖近くの、駐車場に続く道路が、起終点となるところです。そこには、駅伝の折り返し地点を明示する、石柱の目印が置かれています。

 私たちは、箱根の宿で一夜を過ごし、駅伝の石柱近くの国道から、次の日の歩き旅を始めます。

 

 箱根宿

 国道の直線道路は、かつて、箱根の宿場が置かれていたところです。今は、お店や食堂などが建ち並び、往時の面影はありません。

 私たちは、舗装された国道の歩道に沿って東へと向かいます。しばらく進むと、左手に、「箱根関所」の標示です。

 箱根では、宿場の町並みが見られないのは残念ですが、一方で、関所跡が整備され、その様子を味わうことができるのは、ありがたいことだと思います。

 

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※国道のすぐ傍に掲げられた関所の標示。

 

 箱根の関所

 意匠を凝らした、関所跡の標示のところを左に曲がると、そこは、たくさんの土産物店が軒を連ねる観光地。時期が良ければ、多くの観光客で賑わう場所なのだと思います。

 私たちが訪ねた時は、人の姿は限定的。閑散とした状態でした。

 土産物店が並ぶ道の正面には、関所の建物が構えています。木造の黒塗りの門に向かって、街道は続きます。

 

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※箱根の関所の京口御門前。

 

 箱根の関所の西口は、京口御門と呼ばれています。門の辺りは厳格そうで、通行料でも取られそうな雰囲気ですが、誰でも入れて、通行は自由です。そこは、かつての街道で、今も、公の道なのだと思います。

 ただ、道の両脇に設けられた、関所の施設への入場は有料です。そこは、見学ゾーンとなっていて、ビジュアルに復元された関所の内部などを見学することができるのです。

 

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※箱根関所資料館となっている関所の施設。

 

 箱根の関所は、江戸幕府を守る目的で、1619年に設けられました。特に、江戸に留め置いていた、西国大名の子女の出国を防止する役割が大きかったということです。今の施設は、2007年に、史料に基づき、完全復元されたもの。史跡として、観光の施設として、多くの人が訪れます。

 

 箱根の関所が置かれたところは、かつては、街道の右手が山の崖地になっていて、左側は芦ノ湖に阻まれます。砂時計の首のような地形のところに、旅人は、吸い寄せられるようにして、この関所に入ることになったのです。

 

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※箱根の関所の案内とその概要図。

 

 関所を通過した街道は、東の出入り口である、江戸口御門を潜り抜け、東側の宿場町へと向かいます。

 

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※江戸口御門。

 

 恩賜箱根公園駐車場

 江戸口御門を出た先は、元は、宿場町があったとのことですが、今は、整備された、遊歩道のような状態です。

 木々が連なる道筋を、心地よい、朝の空気を浴びながら歩きます。

 

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※関所の先の道筋。

 

 遊歩道状の道の先には、大きな駐車場がありました。そこは、恩賜箱根公園の駐車場。芦ノ湖に面した公園や、関所などへの基点として、利用されているところです。

 

 杉林へ

 駐車場前の国道をしばらく歩き、その後、山側の反対車線に渡ります。街道は、そこで国道から少しそれて、山裾の道に入ります。

 国道と平行して、すぐ脇を通るこの道は、昔からの街道で、立派な杉の並木道。歴史の重みを感じるような道筋です。

 

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 この杉並木、東海道では唯一のものということです。東海道には、松の並木は至るところにありますが、貴重な杉の並木道。その樹形は、どの一つをとってみても、重厚感を感じます。

 並木が少し途切れたところで左を見ると、芦ノ湖の湖面が広がり、その後方に、雪をいただく、美しい富士山の姿がありました。

 

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※杉並木の途中から見えた芦ノ湖と富士山。

 

 やがて、杉並木の道が終わると、街道は、国道1号線に合流します。そして、その先には、箱根の一里塚がありました。この一里塚は、葭原久保(よしわらくぼ)の一里塚。そこには、見事な杉が勇姿を誇り、一里塚の石標などが置かれています。

 

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※葭原久保の一里塚。

 

 芦ノ湖湖畔

 街道は、この後しばらく、国道を歩くことになりますが、この辺りの道筋は、芦ノ湖湖畔の素晴らしい景観が続く道。

 湖のほとりに足を向け、その景色に酔いしれながら、次の峠への道に向かいます。

 

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芦ノ湖元箱根港近く。遊覧船の姿も見えます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]87・・・箱根峠と箱根宿

 峠から箱根の宿場へ

 

 峠を越えると、道は一気に下り坂。芦ノ湖の水面が広がる、箱根の盆地に近づきます。以前にも触れた通り、箱根は火山状の地形です。外輪山とカルデラが、見事な自然景観を醸し出し、多くの観光客を迎えます。

 それでも、かつては、厳しい取り締まりで有名な、関所が置かれていた所です。旅人達にとってみれば、不安の中での箱根路だったことでしょう。

 三島から峠までの道のりは、緩急の勾配を繰り返しての上り坂。そして、峠から内側に続く道は、崖地を転げるような急坂です。江戸に向かうも、都に向かうも、箱根八里はたやすい道ではありません。

 

 

 箱根峠へ

 旧道の甲石坂が閉鎖され、やむなく国道の歩道に沿って、箱根峠を目指します。国道は、勾配こそ、それほど急ではないものの、大きく迂回を繰り返し、なかなか峠が見えません。単調な坂道を、あと少し、我慢の上り坂に挑みます。

 

 やがて、勾配が緩んでくると、辺りは広々とした空間が開けます。そこには、峠茶屋の休憩所。その先に、「箱根エコパーキング」と名付けられた、かなり大きな駐車場がありました。

 

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※峠茶屋を過ぎた辺りからエコパーキングを望みます。

 旧道は、峠茶屋とエコパーキングの間の道につながります。従って、エコパーキングから先の道は、本来の東海道に戻るのです。

 私たちは、街道のルートである、パーキングの左隅の歩道に向かいます。歩道は、石畳風の舗装です。これにより、そこが元々の街道筋だと、改めて確認することができました。

 

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※エコパーキングの隅にある歩道。

 

 箱根峠

 石畳の歩道をしばらく進むと、左手に、「新箱根八里記念碑」と記された案内板と、石のモニュメントが目に止まります。このモニュメント、”峠の地蔵”と呼ぶそうですが、よく見るお地蔵様の姿ではなく、石を重ねた造形物。

 新たな峠の名所として、2003年に、この地に置かれたということです。

 

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※新箱根八里記念碑。

 

 相模の国へ

 この、記念碑がある辺り一帯が、箱根峠となるようです。東海道を代表する、有名な峠でありながら、そこには、往時の面影が残るものはありません。人工の広い道路や駐車場があるのみで、少し興ざめな場所でした。

 因みに、東海道には、鈴鹿峠や小夜の中山峠がありますし、宇津ノ谷峠や薩埵峠も歴史を背負った峠です。これらの峠は、今も旧道が続いていて、趣ある雰囲気を残しています。

 街道は、いよいよ、伊豆の国とお別れし、相模の国、神奈川県に入ります。

 

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※箱根峠の交差点。街道は、右に見える緩やかな坂道の方向です。

 

 複雑な道

 箱根峠の交差点は、少し複雑な状況です。国道1号線の道筋は真っすぐに延びていきますが、斜め左は、芦ノ湖スカイラインが接続します。さらに、交差点を右折すると、県道の熱海箱根峠線。眺望が素晴らしい、十国峠へと向かうのです。

 そして、もうひとつ、交差点の斜め右には、緩やかな上り道。この道は、ゴルフ場につながります。

 さて、東海道はどの道か。表示もなく、地図で入念に確認します。迷いながらも、結局、私たちが頼っている、「人力」というサイトに従って、ゴルフ場の方向へ。

 少しの間、坂を上ると、その先でもう一つの分かれ道が現れます。右方向に回りこむ方向は、ゴルフ場へと向かう道。左手に下る道が箱根に通じているようです。

 緩やかに下る坂道を歩いて行くと、国道1号線に合流します。そして、その先で、国道は、左に大きくカーブして、芦ノ湖や、箱根の温泉地へと向かうのです。

 

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※カーブする国道1号線。街道は、グリーンベルト沿いの道になります。

 

 国道がカーブを描くところには、右方向に自動車道路が接続します。この道は、箱根新道と呼ばれる有料道路。箱根の名所を脇に置き、一気に小田原へと向かいます。

 

 挟石坂(はさみいしさか)

 街道は、国道のカーブに沿って、少しだけ、危険な車道の区間に入ります。道路の隅には、グリーンベルトが設けられてはいるものの、安心できる道ではありません。駆け足でその区間を擦り抜けます。

 カーブの先は、要注意。国道をそのまま歩いてしまいそうになりますが、標識を頼りにして、崖地の坂へと向かわなければなりません。僅かに、ガードレールが途切れた位置に、道とは思えないような、細い急な崖路があり、そこを下っていくのです。

 

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※挟石坂の入口。

 おそらくは、かつては、もう少し整備された坂道だったと思います。今は、通る人も少なくて、笹や草木が覆うような道筋です。

 挟石坂の入り口付近の説明板に、「峠は当時の浮世絵をみますと伊豆の国を分ける標柱とゴロゴロした石、それに一面のカヤしか描かれていません。まことに荒涼たる峠でした。」と書かれているところから推測すると、多かれ少なかれ、この坂道は、今と近い状態だったのかも知れません。

 

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※挟坂石と説明板。

 

 急勾配の坂道を下って行くと、石畳の道に入ります。勾配も幾分緩まり、歩きやすい傾斜です。

 その後、国道下を潜り抜けて、さらに、草が覆う坂道を、直線的に下ります。

 

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※国道下をすり抜ける街道。

 

 芦川石仏

 坂道をさらに下ると、ようやく、舗装道路に下り立ちます。その先には、民家や神社なども目に止まり、箱根の町に入ったことが分かります。

 坂道を下り切った左には、幾つかの石仏がありました。この石仏は、芦川の石仏群と呼ばれています。近くに置かれた説明板では、もとは、芦川の集落内の駒形神社の境内にあったもの。いつの日か、この場に移されたのだということです。

 石碑には、江戸時代初期の庚申塔や、江戸後期の巡礼供養塔などがあるようで、石仏造立にかかわった、地元の方々の名前も刻まれ、地域の信仰の様子を知るための貴重な史跡だと書かれています。

 

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※箱根への下り口。写真は、坂の上を見ています。石仏群も右に見えています。

 

 箱根の宿場へ

 舗装道路を先に向かうと、住宅地に入ります。そして、その先を左折すると、国道1号線に合流です。

 箱根の宿場町は、住宅地辺りからということですが、今は、往時の面影はありません。国道も、道は真っ直ぐに延びていて、新しい住宅やお店などが、道沿いに連なっている状況です。

 

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※左、坂道を終え、住宅地に向かう道。右、国道1号線。箱根の宿場に入ります。

 ようやくたどり着いた箱根の町。三島から、長い坂道を歩き進めて、この日の目的地に到着です。

 私たちは、バスに乗り、宿泊先に移動して、翌日の街道歩き回りに備えます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]86・・・箱根峠へ

 峠の風景

 

 箱根峠は、三島と箱根の2つの宿場を、直線状につなぐ街道の最高地点。標高は、846mのところです。この峠を境にして、街道は、芦ノ湖を湛えている、箱根の盆地に向かいます。

 箱根の山は、火山地帯とも言える土地。熊本の阿蘇山と同じように、カルデラを形成しています。峠は、壮大な外輪山の一角ですが、付近は、広々としています。なだらかな丘陵のようなところには、休憩所や大きな駐車場も見られます。

 昔から、茶屋なども設けられていたようで、東海道膝栗毛の”やじさん”と”きたさん”も、峠茶屋で甘酒をすするのです。広大な箱根の山と裾野の斜面を眺めながら、箱根の峠を目指します。

 

 

 山中城跡の側面道

 山中城跡の木柱の門を左に見ながら、真っすぐ延びる街道を進みます。道沿いは、山中新田の集落で、左右に民家が並びます。石畳を模した舗装道や、広い屋敷の佇まいは、街道の雰囲気を盛り上げますが、左の民家の裏側は、山中城の廓です。

 山中新田の位置づけは、江戸の時期は、街道沿いの集落だったはずですが、城郭があった時代(1560年~1570年頃)には、城下町の一部だったのかも知れません。

 

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※山中新田を通る街道。

 

 街道は、集落を過ぎた辺りで、左に大きく曲がります。その角地には、「史蹟 山中城跡」の石標です。おそらく、この奥が、山中城の本丸辺り。西からの敵を最後に迎える、最も高い位置の廓です。

 道沿いには、鳥居なども見られるように、そこには、神社もあるのでしょう。私たちは、城跡の側面を通過する、集落の道を通り過ぎ、次の坂道へと向かいます。

 

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山中城の高台の付近。

 

 山道へ

 舗装道路の少し先には、道路を跨ぐ歩道橋。あまり、利用価値がないような、山の中の施設を見ながら、その先の山道に入ります。

 ここから先、しばらくは、古くからの石畳の道が続きます。そして、この辺りの道沿いには、杉の木が植えられた、並木道のような道筋です。
 

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※左、歩道橋の先で山道に入ります。右、石畳の山道。

 次の坂へ

 街道は、やがて、国道1号線に顔を出し、100mほどの間だけ、国道の歩道を歩きます。その後、左斜面に小さな集落が現れて、そこにつながる、国道の横断歩道を渡ります。

 

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※国道1号線との合流地点。

 横断歩道を過ぎた先は、そのまま真っ直ぐ、集落の方へと進みます。そして、途中で右折です。この辺りは、民家の畑に踏み込んでいくような道となっているため、少し気兼ねしながら歩きます。

 やがて、畑地も遠ざかり、道は急な坂道に変わります。草地や土道の街道は、足場が悪く、体力の消耗とも重なって、歩く速さは失速の状態です。

 

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※小さな集落に入った後、右折して山道へと進みます。

 街道は、やがて石畳道に変わります。杉の木々が道を覆い、わずかながら下り道も現れます。ただ、ほんのわずかの優しい道も、すぐにまた、厳しい上り坂に戻るのです。

 

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※杉木立を進む街道。

 念仏石とかぶと石

 街道の途中には、国道を見下ろす場所もあり、国道と平行して、旧道が通過しているのが分かります。旧道が直線状に延びる中、国道は、大きく蛇行を繰り返し、峠へと向かいます。

 

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※峠が視野に捉えられるようになった街道。国道近くを並走します。

 

 この先、再び山の中に入った街道は、相変わらずの坂道です。地図を見ると、幾つかの史跡などもあるようで、そこを目指して、あと一息と、疲れた体を慰めます。

 

 山道を少し進むと、念仏石が現れます。ごく普通の、大きな岩の塊ですが、脇に置かれた解説では、岩には”南無阿弥陀仏・宗閑寺”と刻まれているというのです。旅の行き倒れの人を、宗閑寺という寺院で供養して、この碑が建てられたと書かれています。

 

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※念仏石。

 

 念仏石から先の街道は、少し道幅が狭まります。木々が覆う山道を、さらに進むと、今度は、かぶと石の姿が見えました。コケに覆われた岩の姿は、その形そのものが兜のような姿です。

 傍に置かれた解説では、その名が、岩の姿に由来するという説以外に、次のような記載がありました。

 

 「また別の説として傍の碑銘によれば豊臣秀吉小田原征伐のとき休息した際、兜をこの石の上に置いたことからかぶと石とよばれるようになったともいわれている。」

 

 どうも、前者の方が説得力があると思うのですが、真相はわかりません。東海道膝栗毛では、源頼朝にゆかりがあるともされていて、その憶測は、尽きることがありません。

 ただ、この岩は、元々は、この位置から少し離れたところにあったようで、国道の拡幅工事のとき、この場に移されたということです。

 

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※左、かぶと石に向かう街道。右、かぶと石。

 

 接待茶屋

 街道は、やがて、少し開けた場所に行き着きます。そこには、箱根旧街道の説明板や、”接待茶屋”の表示版などがありました。

 かつては、この辺りにも、旅人の足を休める茶店などがあったのでしょう。もう間もなく、峠を迎える位置ですが、最後の休憩地として、重宝されていたのかも知れません。

 

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※接待茶屋。

 

 峠へ

 街道は、この後、国道1号線に吸収されて、ほんのしばらく、国道の歩道を歩きます。そして間もなく、左方向の旧道に入り込み、甲石坂と名付けられた、峠への最後の坂道に向かうのです。

 ところが、私たちが訪れた時、旧道は閉鎖中。その入り口は封鎖され、国道伝いに迂回せよとの表示です。旧道は、令和元年10月の台風19号の影響で道が荒れ、通行不能ということですが、令和3年の春になってもこの状態とは、よほどの被害だった様子です。

 

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※左、国道に吸収された街道。右、甲石坂への旧道の封鎖状況。

 

 この先、旧道には入れずに、残念な思いをしながら、やむを得ず、国道の歩道を進みます。

 それほど急な勾配ではないものの、単調な道の調子と、迂回による距離の遠さも重なって、疲労感は倍増です。あともう一息、峠を目指して歩きます。

 

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※峠にほど近い国道の様子。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]85・・・スカイウォークと山中城

 峠への道

 

 峠に向かう街道は、上り坂の連続です。次から次に、姿を変えた坂道が現れて、体力を奪います。

 石畳の坂道や、土道の凹凸が激しい坂道などもありますが、国道の単調な道筋は、かえって疲れを誘います。着実に、峠に近づいてはいるものの、思うほど容易な道ではありません。

 難所と言われる、箱根八里の山越えの厳しさを、今更ながら、実感したものでした。

 

 

 スカイウォーク

 街道は、三島スカイウォーク前の、導入路の歩道に入ります。その左側が、スカイウォークの駐車場。歴史ある街道と、近代的な観光地とのコントラストに違和感を覚えつつ、妙に感慨じみた空気感を、味わうことになりました。

 私たちは、ここでしばらくの休憩です。昼食のおにぎりを食べ、次への体力を養います。

 

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※左、スカイウォーク前の道路。右の歩道が東海道です。右、スカイウォークの正面入り口と駐車場。

 

 三島スカイウォークは、全長400メートルもある、日本一長い歩行者専用吊り橋です。駿河湾や富士山など、その絶景を味わうために、観光施設として開発されたところです。この施設には、吊り橋の他、アスレチックスや併設のお店なども多くあり、シーズンには、観光客で賑わいます。

 今や、三島・箱根地域の、一大観光地と言っても過言ではないしょう。

 

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※私たちが街道歩きをするおよそ1月前、たまたま、息子家族とスカイウォークを訪れた時の1枚です。この時は絶景の富士山が見えました。

 

 実は、今回の訪問の1月ほど前のこと、理由あって、私たちは、息子家族と、この施設を訪れました。その時は、絶好の快晴で、富士山や駿河湾など、見事な景色を味わうことができたのです。

 ところが、今回は、少し雲が多めです。と、いう訳で、スカイウォークの写真については、1月前のものを利用させていただきます。

 

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※全長400mの吊り橋。

 駿河湾

 スカイウォークからの絶景は、駿河湾も見事です。湾に沿った街道を、これまで歩いてきましたが、今、目に止まる景色の中には、中央奥の清水の街(江尻宿)や、由比、蒲原なども望むことができるのです。

 さらに、愛鷹山の陰に隠れた富士市(吉原)を通過した後、原宿や沼津を通り、三島の街に至るルートも、目の前に広がります。

 足跡を辿るだけで、感慨深く眺めてしまうこの景色。いつまでも、その場を離れることができません。

 

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駿河湾の絶景。

 再び山道へ

 スカイウォークを後にして、前面道路の歩道伝いの、東海道に戻ります。街道は、その先ですぐ、山道に入ります。入り口辺りは、石畳が敷かれている、緩やかな坂道ですが、次第に急勾配に変わります。

 この近くには、国道1号線が、つづら折れの状態で、箱根峠を目指しています。街道は、蛇行する国道を嘲笑うかのように、ひたすら真っすぐ、直線的に箱根峠を目指すのです。

 

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※スカイウォークを出た後の街道。

 石畳の坂道は、時に、歩きやすい感覚を受けることがありますが、この先は、少し凸凹とした状態だったように思います。歩きにくさを感じつつ、勾配を増す坂道をゆっくりと進んだような気がします。

 やがて、擬木でできた、階段に行き当たり、そこで一気に標高が上がります。

 

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※街道に設けられた擬木の階段。

 芭蕉の句碑

 階段を上った先は、国道の旧道のような舗装道。そこを横切り、真っすぐに山の方へと向かいます。

 舗装道を渡った先には、存在感ある、芭蕉の句碑がありました。

 

   霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き

 

 この句は、1684年の旅の途中に詠まれたということです。江戸から故郷の伊賀に向かう、『野ざらし紀行』の旅の中の一句です。

 私たちがここを歩いた時も、富士山は、雲の向こうに姿を隠していましたが、そのような状態でも、箱根の風景は雄大で、素晴らしく感じます。

 

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※左、車道を横切り、向かいの山道に進みます。右、芭蕉の句碑。

 山中城

 街道は、国道1号線を横切りながら、ほぼ真っすぐに続きます。途中、ほんのしばらく、車道に沿って歩いていくと、すぐ右側に、旧道の入口です。

 ここから再び、山の中の石畳道に入ります。

 

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※しばらく車道の歩道を歩き、右に入る旧道へと進みます。

 

 八里記念碑

 杉木立の中の石畳道。木漏れ日を受けながら、心地よく歩きます。途中、石畳の道端には、司馬遼太郎の石碑がありました。よく見ると、八里記念碑と題されたこの石碑。そこには次の一文が。

 

 「幾億の足音が 坂に積り 吐く息が谷を埋める わが箱根こそ」

 

 小説『箱根の坂』の一文のようですが、北条早雲の息吹がかかる箱根の坂は、戦国時代へと突き進む、混沌とした時代の流れを、見つめ続けていたのでしょう。

 

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※八里記念碑と石畳の街道。

 

 山中城

 石畳の街道をさらに進むと、山中城跡と表示された駐車場。そして、その先の道路を越えた左手に、城跡の入口のような木柱の門がありました。

 山中城は、戦国時代の1558年から10年ほどの年月をかけて築城された山城です。小田原城主の後北条氏北条早雲を祖とする家系)が築いたものですが、石を使わない構造は珍しく、貴重なものだということです。

 この山中城豊臣秀吉の小田原攻めを前にして、落城してしまいます。箱根の坂で、西国の天下取りたちの侵攻を食い止めきれず、その後、小田原も陥落することになるのです。

 歴史の音を感じながら、私たちは、次の坂道に向かいます。

 

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山中城跡の駐車場と入口。