旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[北国街道]22・・・篠ノ井宿へ

 旧篠ノ井

 

 街道は、千曲川を渡った先で長野市に入ります。長野市の最初の街は、篠ノ井というところ。この街は、かつては、篠ノ井市という独立した自治体でした。資料を見ると、この自治体は、1959年に市政が敷かれ、1966年には長野市になりました。この間わずか7年という、短命な市であったわけですが、篠ノ井は、多くの人が知っている、名の通った街なのです。

 そのわけは、おそらく、篠ノ井駅にあるのでしょう。JRの路線を見ると、名古屋駅から塩尻駅へ、そして、塩尻駅から東京駅へと繋がっている中央本線。この路線を通る特急は、塩尻駅を経由した後、篠ノ井線を利用して、松本駅、あるいは、長野駅までその先線を延ばしています(新宿駅松本駅間を走る特急あずさ、名古屋駅長野駅間を走る特急しなの)。この、塩尻駅長野駅とを結んでいる路線こそ、篠ノ井線と呼ばれていて、その路線の中心駅が篠ノ井駅になるのです。

 篠ノ井駅は、かつてのJR信越本線起点の駅で、この駅と東京方面がJRの軌道によって繋がれていましたが、今は、北陸新幹線が主流となったため、JR信越本線は姿を消して、篠ノ井ー軽井沢間をしなの鉄道が繋いでいます。主流となった北陸新幹線。実は、篠ノ井駅の構内を通過していながらも、篠ノ井駅には新幹線の駅はありません。何とも残念な、かつての路線の中心地。今も、重要な場所であることに変わりはないのだと思います。

 

※地図の最下部で千曲川を渡り、東に向けて川越し跡の地点へと向かいます。

 

 千曲川

 街道は、千曲川の川越しの場所ですが、今は、国道の橋を渡ります。国道18号に架けられた篠ノ井橋。正面には、なだらかな山並みが見渡せます。

 

篠ノ井橋を利用して千曲川を渡ります。

 長野市

 篠ノ井橋を渡り終える直前には、「長野市」と記された標識がありました。街道は、いよいよ、長野市の領域に入ります。

 ただ、正規の街道は、千曲川の川越しの先。今は、迂回して国道の橋を渡っているため、本来の街道筋の東側を遠巻きに進んでいるところです。この先で、橋を越え、千曲川の左岸伝いに数百メートル西(左方向)に向かった先で、川越しの地点に到着します。

 

長野市に入る街道。

 

 千曲川左岸

 千曲川左岸道路は、整備されたきれいな道が続いています。堤防も、新しく、頑丈にできているのが分かります。

 おそらくこの辺り、2019年、本州を襲った台風19号の影響で、堤防がダメージを受けたのだと思います。そのために新しい護岸が整備され、堤防の強化が図られてきたのでしょう。

 

※新しく整備された千曲川左岸堤防。

 

 矢代の渡し

 上の写真の堤防を右下に下るところに見える小さな森。この森は、鎮守の森らしく、奥には神社が見通せます。

 この神社の入口のところにあったのが、「矢代の渡し跡」と記された説明板。そこには、次のように書かれています。

 

 「江戸時代には、ここ軻良根古(からねこ)神社のあたりから千曲川対岸の矢代(現在の屋代)へ渡るための『矢代の渡し』があった。ここは北国街道篠野井追分宿と矢代宿を結ぶ松代藩七渡しの一つで、この近くの人々には『矢代の渡し』と言われていた。天保十四年(1843)にだされた『善光寺道名所図絵』のなかに、『是より矢代宿まで一里なり 其間 千曲川繰船の渡しあり』とある。その頃は渡し船であったことがわかる。」

 

※堤防下の神社前に置かれた「矢代の渡し跡」の説明板。

 

 篠ノ井宿へ

 ようやく、矢代の渡しの地点に戻り、正規の街道歩きを続けることになりました。道は北へと向かい、道沿いには、リンゴの木やその他の果樹が植わっています。

 目線の先は、住宅地。果樹園は、わずかな空間を埋めているという状況です。

 

※矢代の渡し跡から北に向かって進みます。

 更級郡制の中心地

 街道が、住宅地に入ったところには、ひとつの石標が置かれています。その石標、「←郡役所跡 →警察署跡」と彫られています。

 この石標傍に建てられた説明板を見てみると、「明治時代の更級郡制の中心地」と表示され、幾つかの建物の解説と、簡単な地図がありました。

 そこに記されていたのが、明治の時期の役所など。この一角に、更級郡役所や塩崎警察署、その他、地租改正取調所や蚕病予防事務所などの建物が固まっていたということです。

 

※更級郡役所などを示す石標と説明板。

 

 篠ノ井宿

 おそらくは、この郡役所などが置かれた場所は、元々は、篠ノ井の宿場町の一角だったと思います。今は、何も残ってはいませんが、明治になって設置された役所の跡だけが、今も語り継がれているのです。

 街道は、更級郡制中心地を過ぎた後、T字路の交差点に入ります。そして、そこを右折して、今度は東に向けて進みます。

 東向きの街道は、篠ノ井宿の真っただ中。それでも今は、住宅が建ち並び、宿場町の面影はひとかけらもありません。

 

篠ノ井宿を通過する街道。

 

  街道は、この先で、しなの鉄道線の踏切を越え、さらに隣接する場所を通っている、北陸新幹線の高架下を潜り抜け、篠ノ井宿の東の部分に入ります。

 

篠ノ井宿の東部に入った街道。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]21・・・千曲川へ

 千曲川

 

 千曲川は、長野県を流れ下る河川です。やがて、この川は、長野県の飯山市から新潟県津南町に入ります。そして、信濃川と名前を変えて、十日町市長岡市へと流れをつないで、新潟市日本海注ぐことになるのです。

 千曲川信濃川、2つの名前を合わせ持つこの川の総延長は367キロあって、日本では一番長い河川であると言われています。

 北国街道の道筋は、小諸市辺りからこの川の流れに沿って北西へと向かいます。そして、更埴市で川を越え、北寄りに進路をとって川中島へと向かうことになるのです。一方の千曲川は、更埴市から方向を変え北東へと流れます。この、地理的な相違から、街道は、この後、千曲川に近づくことはありません。

 現在の更埴市から川中島へと渡っていた、千曲川の川越しである矢代の渡し。この渡しを最後にして、北国街道の道筋は、千曲川に別れを告げることになるのです。

 

 

 矢代の枡形

 矢代の宿場を通る街道は、クランク状に折れ曲がる、枡形に入ります。須須岐水神社の正面で右折して、そのすぐ先の角を左折です。

 左折する角にあったのは、横町の交差点。その交差点辺りの一角だけに、古くからの木造家屋が残っています。交差点手前にあった老舗の酒屋とともに、この一角は、微かながらも街道の面影を残しています。

 

※横町の交差点。街道は、ここを左折し北方面に向かいます。

 

 高見町交差点

 矢代の宿場町は、新しい住宅が建ち並ぶ道筋です。この辺りの沿線には、往時の名残りはありません。

 しばらくすると、高見町の交差点を迎えます。その交差点のところには、「雨宮渡2.6km」と記された案内表示。おそらく、距離といい、方向と言い、北国街道の渡しではないのだと思います。

 街道は、この交差点を通り過ぎ、真っ直ぐに北に向かって進みます。

 

※高見町交差点。

 

 新しい住宅が続く街道を進んで行くと、街道から左に折れる細い路地が現れます。その路地の入口付近にあったのが、「北国街道矢代宿」と表示された説明板。

 そこには、次のように書かれています。

 

 「矢代宿(ママ)は、北国街道と松代街道の分岐点で、こ地点から松代街道が始まります。この街道の両側には本陣と脇本陣があり、加賀藩の殿様の大名行列佐渡からの金銀の輸送にも使用され、多くの人や荷物でにぎわいました。このように屋代(ママ)は昔から栄えた歴史と伝統を誇る町です。」

 

 なるほど、と言うことは、先の”雨宮渡”は、もしかして、松代街道がどこかの川の川越しを行うための渡しだったのかも知れません。

 

※矢代宿の説明板。

 

 屋代交差点

 街道は、真っ直ぐに北へと進み、やがて、屋代の交差点に入ります。この辺りはもう、矢代の宿場町は通り過ぎているのでしょう。道は、この先で、国道18号線に合流し、ほんの少し、国道に沿って歩きます。

 

※屋代の交差点。街道はここを右方向へと進みます。

 

 更埴インターチェンジ

 国道に合流した街道の様子をご覧いただければと思います。この先に見える高架の橋は、北陸新幹線の軌道です。そして、その軌道と重なるようにして、更埴インターチェンジが設けられているのです。

 

※国道に入った街道。

 

 街道は、少しの間、国道伝いに進みます。そして、その先で、更埴インターチェンジの脇の道に入ります。

 インターチェンジを利用する自動車は、この脇道には入らずに、もう一つ先にあるランプの道を使うことになるようです。

 

※国道から離れて脇道に入る街道。

 

 インターチェンジの脇道は、どこか雑然とした感じのところです。途中、新幹線の高架の軌道と沿うようにして進みます。

 道沿いには、道路建設の事業所らしい建物もありました。

 

インターチェンジ下をすり抜ける街道。

 

 千曲川

 街道は、インターチェンジの高架道路を上に見て、脇道を進みます。やがて、建設会社の敷地の間の向こうには、空間が開けた状態に。そして、そこには、千曲川の流れがあるのでしょう。

 小諸あたりから、この川の右岸伝いに進んできた街道は、いよいよここで川を越えることになるのです。

 

インターチェンジの脇道の最後、千曲川の流れの直前のところです。

 

 街道は、ついに、千曲川を迎えます。この川の中流か上流域の場所ですが、随分と川幅があり、さすがに大河川という感じです。

 川の向こうは低い山並みが続いていますが、さらに奥にも標高の高い山々が控えているのだと思います。その山々の先にあるのが白馬など北アルプスの山脈です。

 手前の低い山並みの左手は、有名な姥捨て山があるところ。千曲川は、幾つもの山並みを見つめるように流れています。

 

千曲川に出た街道。

 

 矢代の渡し

 街道は、千曲川の流れに当たり、その辺りから川越しでこの川を渡っていたのでしょう。

 対岸にあった「矢代の渡し跡」の説明板には、渡し船による往来だったことが書かれています。

 

 今、川の渡しはありません。私たちは、千曲川右岸の土手を数百メートル東に向かい、国道18号線に架けられた篠ノ井橋を渡らなければなりません。

 距離的には、大変なロスをする区間ではありますが、それも仕方がありません。千曲川の堤外に植えられた果樹を見ながら、国道へと向かいます。

 

※渡しが無いために、国道の橋まで東へと向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]20・・・矢代宿へ

 旧更埴市

 

 更埴市(こうしょくし)の事については、ほとんど知識がありません。それでも、信州の松本市から長野市に向かう途中で、高速道路のインターチェンジにその名前があった記憶がありました。更埴市という変わった地名。そのいわれは何なのでしょう。   

 Wikipedia で調べてみると、1959年に、更級郡(さらしなぐん)稲荷山町八幡村、そして、埴科郡(はにしなぐん)埴生町と屋代町が合併して誕生した、比較的新しい街だそう。級郡の”更”の字と科郡の”埴”の字から「更埴」と名づけられたということです。

 今は、千曲市と名前を変えて、新しく船出をした旧更埴市。どのような街なのか、興味を持って歩きます。

 

 

 寂蒔水除土手(じゃくまくみずよけどて)

 旧更埴市の領域に入った街道は、住宅地を通り過ぎ、新しい家が点在する集落に入ります。

 右側から尾根が迫る山裾の道。尾根が突き出す手前には、「寂蒔水除土手」と表示された説明板がありました。その説明板の後ろには、由緒がありそうな石碑などが置かれています。

 

 「この土手は、千曲川の氾濫から田畑や家屋を守るために、元禄6年(1693)寂蒔・鉢物師屋・打沢・小島の四か村によって築かれたものです。指導埴生本線(北国街道)と土手が交差するところは、非常時には土のうや石で道の部分を埋めて、ひと続きの土手として水害を防いだものです。当時の四か村民の水害に対する苦労と、工夫がしのばれるこの土手は、この地域にとって貴重な文化財です。」

 

 説明板に書かれた記事を読みながら、この地域にも、千曲川の洪水が襲っていたということを、改めて知ることになりました。

 

※寂蒔水除土手。

 

 芭蕉句碑

 寂蒔水除土手を過ぎた後、今度は、「浄海と芭蕉翁の碑」と記された表示板がありました。そして、ここにも、土手を思わせる石積みの名残とともに、幾つかの石碑などが置かれています。

 表示板に書かれている内容は、次の通りです。

 

 「名月や児(ちご)達ならぶ堂乃掾(えん)  翁」

 「ひと時も大事な世たれ木げ(もくげ)咲く  舟山

 「暮れて行く月日あらわに秋の山  松風」

 「翁とは芭蕉翁のこと 舟山とは戸倉の人で 宮本八朗といい 松風とは寂蒔の人で 地蔵庵主浄海という」

 

 芭蕉と信州の接点は、何と言っても更科紀行。元禄元年(1688)に、岐阜から木曽路を経て善光寺へと向かいます。その後に、北国街道を経由して追分へ。そこからは、中山道を辿りつつ、江戸への帰路につくのです。

 おそらく芭蕉はこの途中、北国街道沿線の寂蒔の村を訪れて、地元の歌人、浄海達と親交を深めたのだと思います。

 

※浄海と芭蕉翁の碑。

 

 幾つかの集落

 寂蒔(じゃくまく)の集落を過ぎた後、街道は、鉢物師屋(いもじや)、打沢の集落を通ります。これらの集落は、寂蒔水除土手の説明板にもあった場所。この辺りが一体となり、千曲川の氾濫に備えていたのだと思います。

 街道は、ゆっくりと弧を描き、これらの集落を繋いでいます。

 

※街道は、寂蒔から鉢物師屋、打沢の集落を通ります。

 

 旧来の集落から、次第に、新しい町並みに変わります。町並みが変わる辺りのところには、埴生小学校がありました。

 この先は、道も広がり、屋代の町が近づきます。

 

※埴生小学校前を通る街道。

 

 屋代

 街道は、やがて、随分と開けた町に入ります。歩道も良く整備され、区画された町並みが現れます。

 この辺り、旧屋代町の中心地だったと思われます。と、言うことは、矢代の宿場町があった場所(今は、屋代という地名ですが、宿場町の頃は矢代だったようです)。宿場町は、まだもう少し先なのか。歴史の香りが漂う場所ではありません。

 

※屋代の町の中心部に近づきます。

 

 屋代駅前交差点

 近代的な町並みを進んで行くと、やがて、屋代駅前交差点を迎えます。ホテルやちょっとしたビルも並んで、市街地を形成しているようなところです。

 

屋代駅前交差点。

 

 屋代駅前交差点から右手を見ると、しなの鉄道線屋代駅が見えました。そこそこ立派な駅舎の様子。通勤通学時間帯には、多くの乗降客で賑わっているのでしょう。

 私たちのこの日の街道歩きはここまでです。屋代の駅から宿泊地へと向かいます。

 

屋代駅の駅舎。

 

 矢代宿

 翌日は、再び屋代駅の舞い戻り、続きの行程を歩きます。

 街道は、屋代駅前交差点を通り過ぎ、さらに北へと向かいます。おそらく、この辺りから、矢代の宿場が始まっていたのだと思います。ただ、今は、全く宿場町の面影はありません。

 街道も、整備された綺麗な道路。道沿いには、新しい住宅が軒を連ねて並んでいます。

 

※屋代の宿場が始まる辺りでしょうか。今は新しい住宅地の様相です。

 

 須須岐水神社

 かつての宿場町を進んで行くと、正面に、立派な鳥居が見えました。街道は、この先、神社前を右折してすぐ左折する、いわゆる、枡形の状態です。

 この枡形がある位置に、ひとつの神社が位置しています。

 

※ 須須岐水神社が正面に見えます。

 

 この神社、須須岐水神社と呼ぶようです。立派な鳥居のところには勇壮なしめ縄が架かっています。奥には、大きな社殿も見えて、きっと由緒ある神社なのだと思います。

 ただ、私たちは、今回は立ち寄らず、宿場町の枡形へと進みます。

 

 須須岐水神社と枡形(クランク状の道)に入る街道。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]19・・・更埴へ

 戸倉上山田温泉

 

 千曲川左岸の河畔近くに出湯を有する戸倉上山田温泉は、多くの観光客が訪れる有名な温泉地。川伝いに築かれた緑地公園のはずれには、五木ひろしが歌っていた、「千曲川」の曲を奏でる歌碑なども置かれています。

 温泉の泉質は、宿によってやや異なっているようですが、私たちが利用した宿の湯は、白濁したエメラルドグリーンの神秘な湯。単純硫黄泉ということで、しっとりとした肌触りの名湯でした。

 この、戸倉上山田温泉は、「善光寺参りの精進落としの湯」として知りわたり、大変賑わってきたようです。特に、高度成長の時代には、温泉街の繁栄はピークに達し、様々な娯楽施設や宿などが賑わいの絶頂にあったと言われています。

 今は、その頃と比べると、随分と平穏な様子に感じます。静かに出湯を味わえる温泉地。そんな印象を受けるような場所でした。

 

※エメラルドグリーンの温泉。

 

 国道伝い

 本来の街道は、おそらく、国道の左手にある住宅地内を通っていたのだと思います。ただ、前回も触れたように、洪水の影響なのか、今はその先線が判然としていない状況です。

 従って、私たちは、国道18号線の道に沿って、街道歩きを続けます。この先の街道ルートは、下の地図のような状況で、戸倉町から北方向、かつての更埴市へと向かいます。

 

※かつての戸倉町から更埴市へと向かう街道ルート。

 

 国道をしばらく進むと、戸倉上山田温泉入口と表示された、T字路の交差点。ここを左に向かうと、温泉街になるようです。

 

戸倉上山田温泉入口の交差点。

 

 戸倉の町

 国道をさらに進むと、長野まで22kmと標示された道路標識がありました。この辺り、戸倉の町の中心地近くになるのでしょうか。道沿いは民家が並び、道の左右は、住宅地が広がっているようなところです。

 

※戸倉の町の中心地近くを通る国道。

 

 萱葺屋根の建物

 さらに国道を北へ北へと向かいます。やがて、左前方に、萱葺の勇壮な建物が現れました。あまりも大きな萱葺の建物は、屋根の部分が重そうで、不安定な感じです。

 この建物は何なのかと、不思議に思っていたところ、どうもお蕎麦屋さんみたいです。近づいて、その様子を確認します。

 

※勇壮な萱葺屋根の建物。

 

 年代を感じてしまう萱葺の屋根。屋根には苔が張り付いて、その古さを助長しているようにも見えました。ただ、入口はおしゃれな様子。暖簾がかかり、明るい感じの幟旗にも「そばプリン」との表示です。

 このお店、蕎麦屋さんか喫茶店かはわかりませんが、きっと、人気のお店なのだと思います。

 

※萱葺屋根が立派なお店の前を通ります。

 

 戸倉駅

 萱葺屋根のお店の前を通り過ぎたその先は、戸倉駅入口交差点。この交差点から右方向に、しなの鉄道線戸倉駅があるようです。

 駅前に設置された歓迎ゲートには、「戸倉上山田温泉」と記載された看板なども見て取れます。

 

戸倉駅入口交差点から戸倉駅を見渡します。

 今井交差点

 戸倉駅前交差点のその先で、今井の交差点に入ります。そして、そのすぐ先で、街道は、右前方の旧道へ。

 これまで、国道の左手を通っていたと思われる街道の道筋をそれ、国道伝いに歩き進んできましたが、ここからは、再び、本来の北国街道の道筋に戻れるという訳です。

 どのような道が待っているのか、楽しみにして足を運びます。

 

※今井の交差点。このすぐ先で右方向に進路を変えます。

 旧道

 旧道に入った街道は、落ち着いた雰囲気の民家などが並んでいます。道は、右から迫りくる山の尾根に向かって進み、その山に沿った道筋へと変わります。

 

※旧道に入った街道。

 

 この辺り、街道が通るルートは、千曲川から離れています。地形的には、山の裾野と河川敷との間には、ちょっとした盆地状の平地が開け、街道は、洪水の影響をあまり受けない場所を通っているのかも知れません。

 山裾の道の右手はしなの鉄道線の軌道も見られます。民家は飛び飛びで、農地なども見掛けられるところです。

 

※山裾に沿って街道は続きます。

 

 更埴市(こうしょくし)へ

 やがて、街道は、ひとつの集落に入ります。ゆったりと弧を描き、道は集落内をすり抜けます。

 

※集落に入った街道。

 

 集落の一角には、背の高い白壁の塀を配したお屋敷なども見られます。道幅は、街道筋そのものの様相で、趣が感じられるところです。

 街道は、この集落のはずれ辺りで、旧戸倉町の領域を過ぎ、旧更埴市の領域に入ります。

 

※背の高い白壁を配した塀を有するお屋敷。

 

 千曲駅

 旧更埴市に入った街道は、しばらく、新しい住宅地を通ります。下の写真の辺りの右側には、しなの鉄道線千曲駅が見えました。この千曲駅、まだ新しそうな駅舎です。もしかして、駅自体、最近設けられた新しい駅なのかも知れません。

 

千曲駅付近にある新しい住宅地。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]18・・・戸倉宿へ

 旧戸倉町

 

 戸倉上山田温泉で有名な戸倉町(とぐらまち)。この町は、2003年に、上山田町更埴市を含む3市町が合併し、千曲市という新しい自治体を形成することになりました。町自体、千曲川の流域伝いに開かれて、かつては、北国街道の戸倉の宿場町がありました。街道は、千曲川の東側を北上し、かつての更埴市へと繋がります。

 一方で、千曲川の西側は、戸倉上山田温泉がある温泉地。多くの人が、出湯を求めて訪れます。

 この戸倉の町は、左右から山が迫る狭い場所であるために、古くから、洪水などで苦しめられてきたことでしょう。そのためなのかどうなのか、町の姿そのものは、歴史の面影を感じるところは少なくて、新しい町並みが続いています。

 

 

 葛尾城跡(かつらおじょうあと)

 坂木の宿場を過ぎた後、街道は、一旦西へと進路を変えて、迫る尾根の麓近くを通ります。

 見上げると、山の上には切り立った崖地のような場所があり、随分と険しい山だと分かります。この辺り、戦国時代に名を馳せた村上氏の居城であった、葛尾城があった場所。坂城駅で頂いた資料を見ると、坂城の町を起点としたトレッキングコースがあるようで、城跡からの眺望は、千曲川が見下ろせる見晴らしの良い場所だということです。

 

※坂木の宿場を過ぎて西に向かう街道。

 

 尾根に迫る道

 しばらくの間、西へ北へと進路を変えて、ジグザグに進みます。その先は、さらに、切り立った尾根の先へと向かう道。目前には、しなの鉄道線の軌道とトンネルが見られます。

 

※尾根が迫る街道。

 

 尾根の先端が近づくと、道は、旧道から国道に入ります。国道のさらに先には、千曲川が流れをつくり、川の右岸は、国道だけの僅かなスペースがあるのみです。

 

※国道に入る街道。

 

 国道18号

 街道は、尾根の下の僅かな場所を通過する、国道18号の歩道伝いに続きます。この辺り、千曲川の左岸には、飛び飛びではありますが、ある程度の平地が見られます。

 左に見える山並みの向こうには、安曇野が広がる位置関係。街道は、千曲川の流れとともに、戸倉の町へと向かいます。

 

千曲川を左に見ながら国道18号線を進みます。

 

 迫り出す尾根を通り過ぎ、ひとつの集落を通ります。途中、「虎杖の句碑」と記された、標柱前を通り過ぎ、もうひとつの尾根の麓に近づきます。

 

※虎杖の句碑と記された標柱前を通ります。

 

 千曲市

 国道をさらに北へと進んで行くと、やがて右側から、尾根がせり出す地点を迎え、そこには、「千曲市」と記された表示板がありました。

 この辺り、かつての戸倉町が始まるところだと思います。冒頭で触れた通り、千曲市は、戸倉町上山田町、そして、更埴市が合併して誕生した新しい自治体です。いよいよ、千曲市の戸倉の町に入ります。

 

 尾根が迫るこの場所は、国道としなの鉄道線の軌道だけのスペースで、わずかな平地しかありません。左手下には千曲川が流れをつくり、その対岸は、かつての上山田町になるのでしょうか。

 尾根の先には、青空が広がります。

 

千曲市に入った街道。

 

 舟つなぎ石

 しばらく進むと、右方向に踏切が現れます。そして、その手前のところには、「苅屋原の七不思議(伝説) 舟つなぎ石」と表示された標柱がありました。

 舟をつなぎ留める石があるということは、千曲川の川越しの場所だったのかも知れません。この場所は、先に触れた葛尾城に近いため、戦国時代の伝説が残されているのでしょうか。詳細は分からず仕舞いではありますが、地理的に、重要な場所だったことが分かります。

 

※舟つなぎ石を表示した標柱。

 

 戸倉宿

 街道は、踏切を越え、旧道に入ります。この辺り、道は、尾根を回り込むようにして続いています。

 詳しくは分かりませんが、どうもこの道筋が戸倉宿になるようです。旧道の入口付近は、新しい民家が軒を連ねているために、宿場町の面影は見られません。ただ、しばらくすると、古い木造の建物なども見られるようになるのです。

 

※踏切を越え、旧道伝いの戸倉宿と思われる道筋を進みます。

 

 やがて、旧道の道筋には趣ある民家が現れます。古い木造の建物なども見かけられ、かろうじて、宿場町の名残りがうかがえます。

 

※緩やかに弧を描きながら続く戸倉宿を通る旧道。

 

 旧道の道筋は、やがて、集落を抜け出します。ここまでは、案外短い宿場の通り。戸倉の宿場町はこの程度で終わっていたのでしょうか。あるいは、この先も、かつては宿場町が続いていたのかどうなのか。

 資料がないたいため分かりませんが、あるいは、この先も、もう少し宿場町が続いていたのかも知れません。

 

※集落が途切れた宿場町。

 

 国道へ

 街道は、この先で磯部の交差点を迎えます。実際、北国街道の道筋は、国道を横断し、斜め左の旧道へと向かうようではありますが、地図で見ると、その先が問題です。

 ここから先の道筋は、千曲川の流れに近づき、その先が不明瞭な状況です。おそらく、いつの日かの洪水で旧道は流されて原形を留めていないのだと思います。町の形も新しい開発地の区画です。

 従って、私たちは、旧道へとは進まずに、このまま国道18号の道筋を進むことになりました。

 

※磯部の交差点。旧道はここから斜め左にはいるはずですが、私たちは国道伝いに進みます。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]17・・・坂木宿へ

 坂城町

 

 坂城町(さかきまち)は、元々は、坂木宿が置かれていたところです。明治になって、”木”の文字が”城”の字へと書き換えられて、坂城町となりました。

 この坂城町しなの鉄道線坂城駅で頂いた資料には、「坂城町の概要」として、次のように書かれています。

 「坂城町は、長野県の東信地域と北信地域の結節点に位置し、町の中央には千曲川が流れ、周囲を1000m級の山々に囲まれた自然豊かな町です。町の主要産業は工業であり、機械・金属加工業を中心に多種多様な技術を持つ約200社の企業が集積しています。・・・また、日本で最も降雨量が少ない地域であり、晴天の日が多い気候を活かして、りんごやぶどうの生産も盛んに行われています。」

 人口は、1万3千人ほどの小さな町ですが、コンパクトにまとまった印象を受けました。

 街道は、古くからの集落を通り抜け、坂木の宿場を目指します。

 

 

 逆木

 中之条の交差点から国道に入った街道を進みます。国道沿いの道筋は、概ね民家が並んではいるものの、ところどころに事業所なども見かけます。また、立派な門構えのお屋敷などもありました。

 途中にあった交差点は「逆木」と書かれた表示板。坂城町にある「逆木」とは、どこか不思議な気持ちになったことを覚えています。

 

※国道18号に入った街道は逆木の交差点を迎えます。

 

 四ツ屋

 国道をさらに北上すると、次第に、正面から山並みが迫ってきます。山々に囲まれた坂城の町。空は大きく開けていますが、次第に山際へと近づきます。

 「逆木」の次にあったのが、四ツ屋の交差点。この交差点には、右方向から3本の道筋が国道へと繋がります。

 街道は、この交差点から右前に入る旧道です。国道から一段下った位置にある、旧道へと向かいます。

 

※四ツ屋の交差点。街道は、ここを斜め右前に進む旧道に入ります。

 

 甘泉碑

 四ツ屋交差点から旧道に入るところには、「甘泉」と刻まれた由緒ありそうな石碑がありました。傍には、他にも幾つかの石碑が置かれ、街道の名残りのように感じます。

 

※旧道(左に進む道)の付け根に置かれた「甘泉」の石碑。

 

 石碑に近づくと、傍には「甘泉碑の由来」と記された、説明板が置かれています。その内容は、次のようなものでした。

 

 「古来四ツ屋地籍旧北国街道筋には、名沢川に由来する伏流水が清水となって湧出し、人々の生活用水であり名水でもありました。さかのぼること江戸時代は文化・文政(1814~1819)の時代、四ツ屋組頭塚田甚九郎が時の代官男谷燕斎に清水の命名を請願したところ『甘泉』と命名し詩文を揮毫して与えられました。この時、碑が建設されたのです。」

 

※甘泉碑と説明板。

 

 旧道

 街道は、甘泉碑を右に見て旧道に入ります。その先は、しばらく古くからの集落を通るのですが、やがて、道幅が広がって新しい住宅が建ち並ぶ町に変わります。

 

※旧道の道幅もやや広がった感じです。

 

 坂木宿へ

 新しい町並みを眺めながら進んで行くと、やがて道は四辻を迎えます。ここから真っ直ぐに向かう道と右方向に折れる道は、共に集落内の道のよう。メインは、ここを左に折れる道。街道も、この左方向に進みます。

 

※四辻を左に折れると坂木の宿場町です。

 

 街道は、この先で、坂木の宿場に入ります。道は、整備された状態で、宿場町の面影はありません。それでも、意匠を凝らした街灯や、ところどころに目についた、白壁風の建物などが、往時の名残りを伝えているようにも感じます。

 

※坂木宿の様子。

 

 坂木の宿場を西に向かって進んで行くと、やがて、街道は右に大きく進路を変えて、北方面へと向かいます。

 一方で、進路を変える起点のところを左に折れる道があり、そこを少し入っていくと、しなの鉄道線坂城駅がありました。

 私たちは、この日の朝、信濃国分寺駅を出発し、上田宿、鼠宿と経由して坂木の宿場まで、およそ15キロの道のりを歩いてきたところです。時刻も夕方近くなり、この日の街道歩きは、ここでひと区切りすることになりました。

 

※坂木宿の中間地点。右から歩いてきた街道はここを右折し正面の方向へと向かいます。

 

 坂城駅

 街道から左にそれて、少し下ったところにあった坂城駅。駅舎自体は小さくて、正に地方の駅といった感じです。駅員さんも常駐ではない様子。私たちは、この駅を利用して、この日の宿泊地へと向かいます。

 

しなの鉄道線坂城駅

 

 坂木宿の後半

 翌朝は、再び坂城駅へと舞い戻り、そこを起点に街道歩きを続けます。まず、坂木の宿場の中間地点。東から西へと進んだ街道が北方向に折れ曲がる角の地点に向かいます。

 下の写真は、前回の最終写真と同じもの。右方向からやってきた街道は、坂木の宿場の中間地点で、北方向の正面奥へと向かいます。

 

※坂木宿の中間地点の屈折点。

 

 後半の坂木の宿場も、それほど宿場町の面影はありません。ただ、途中には、「ふるさと歴史館」と記された建物があり、その一角だけは趣ある雰囲気を感じます。

 建物の入口には、立派な長屋門が配されていて、その奥には少し変わった建ち前のお屋敷が見えました。この長屋門、坂木宿の本陣のものだということですが、この奥の建物は、江戸時代のものではありません。今は、資料館として活用されているみたいです。

 

※ふるさと歴史館前の様子。

 宿場町は、緩やかな上り坂。正面の山の際へと向かうように、真っ直ぐに北に向かって進みます。

 やがて、宿場町が途切れるような辺りには、格子戸が美しい、何軒かの木造の民家もありました。この辺り、僅かに宿場町の雰囲気が漂ってくるような風景です。落ち着いた民家の中を、静かに街道が通っています。

 

※坂木の宿場町が途切れる辺りの風景。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]16・・・鼠宿へ

 鼠宿

 

 上田市の西隣りにある坂城町(さかきまち)。元々は、坂木という宿場町だったところです。今も坂城の町は宿場町の面影が微かながらも残っています。

 この坂城町、実はもう一つの宿場町が存在します。その宿場の名前は鼠宿(ねずみじゅく)。何とも変わった名前の地名です。この鼠宿、元は、間の宿(あいのしゅく)と呼ばれるもので、宿場と宿場の間にあって休憩所を提供していたところです。最終的に正規の宿場となったかどうかは分かりませんが、今も厳然としてその名前が残っています。wikipediaによると、「宿として成立したのは元和8年(1622)真田信之が上田から松代に移封されてからである。」「私設の宿であるため、泊まりは松代藩主の真田氏だけだったが、他の大名も中休(昼休)や小休等に利用していた。」と書かれています。

 真田氏は、元は上田の出身です。江戸期に入って長男の信之は松代を治めることになりますが、参勤交替を挙行する時、江戸との間の経路にあった上田の城下を通らなければなりません。父である真田昌幸が築城した上田城。その町で一夜を明かすということは、忍びなかったのかも知れません。そのためなのかどうなのか、鼠宿を私宿として管理していた真田氏は、この宿場で宿をとることにしたと捉える事は、あながち間違いでは無いような気がします。

 

 

 坂城町の経路

 坂城町を通っている街道の道筋をお示ししたいと思います。下の地図の右下の辺りから、街道は、しばらく西に進みます。その後は、坂城の町に入った後で、一気に北上することになるのです。

 この道筋は、千曲川の流れに沿ったもの。街道は、坂城の町を千曲川流れとともに下ります。

 

坂城町を通過する街道。

 

 坂城町

 崖地がせり出す山の尾根の先端を回り込むようにして延びている国道18号。街道は、しばらくの間、国道の歩道伝いに進みます。

 山の尾根が西に向かって延び切った辺りには、「坂城町」と記された標識がありました。標識の下の方には、「ここは標高415m」と書かれています。

 

坂城町に入る街道。

 坂城町をしばらく進むと、右方向に旧道が現れます。旧道に入ったところには、「くらかけばし」と記された、標柱がありました。小さな川を渡った先の標柱です。この川を渡る橋を「くらかけばし」と呼ぶのでしょうか。それとも、かつてこの辺りの川に架けられた、由緒ある橋があったのか。

 おそらく、後者の方が正解だとは思うのですが、定かな証拠はありません。この辺りから民家が始まる道沿いを、北に向けて進みます。

 

※旧道に入った街道。

 

 鼠宿(ねずみじゅく)

 左に国道を見て旧道を進んで行くと、やがて、道は国道と合流します。その、合流地点の直前にあったのが、「北国街道鼠宿跡」と記された立派な造りの説明板。

 そこには、鼠宿の事に関して次のように書かれています。

 

 「ここ鼠宿は、北国街道の上田宿と坂木宿の間宿(あいのしゅく)であった。」

 「上田・坂木の両宿は幕府公認の本宿で、鼠宿は、松代藩が設けた私宿であった。藩主の参勤交代・領内見分、藩士の日常出張等の際の宿泊・休憩の接待や、藩の荷物の継ぎ立てに当たらせ、口留番所を設けて人や物の出入りを取り締まった。」

 「本陣(正式には御茶屋)、脇本陣、問屋、馬宿のほか、一般旅人の休息する茶屋もあって、宿場はにぎわった。」

 

※「北国街道鼠宿跡」の説明板。

 

 鼠宿跡の説明板が置かれた辺りは、ちょっとした修景が施され、宿場町の雰囲気を僅かながらも伝えています。

 そして、旧道が国道と合流するところでは、再び小さな川を渡るのですが、その橋のたもとには、先ほどの「くらかけばし」と同様に、「みやまえばし」と記された標柱が置かれています。

 

 「みやまえばし」を渡り過ぎると、国道18号線に入ります。そして、そのすぐ先にあったのが、ひとつの小さな神社です。

 街道は、神社の前を通り過ぎ、国道の歩道に沿って進みます。

 

※国道18号線と合流した街道。

 

 南条

 鼠宿を通り過ぎた街道は、南条と呼ばれる地域を進みます。街道は、国道の整備された道ですが、ところどころに由緒がありそうなお屋敷なども見掛けます。

 

※南条の町を通過する街道。

 

 国道をしばらく進むと、やがて、右方向に旧道が現れます。街道は旧道の方向へ。

 この辺り、右手の山は後退し、盆地のような広々とした空間のところです。

 

※旧道に入る街道。

 

 旧道に入った街道は、集落の中を通る道。ただ、家並みは、新しく建て替えられた建物が多いように思えます。

 民家が並ぶ道筋をひたすら北へと向かいます。

 

※集落の中を北へと向かう街道。

 

 金井

 南条の地域を越えた街道は、金井の地域に入ります。途中、道端には、小さな馬頭観音のような石像も置かれています。

 道は緩やかに弧を描き、街道筋の雰囲気が味わえるところです。

 

※家内の集落を通る街道。

 

 中之条交差点

 旧道を進んで行くと、その先で、国道と合流です。合流地点は、中之条の交差点。この交差点から左に向かったところには、しなの鉄道線テクノさかき駅があるようです。

 街道は、この後しばらく、国道の歩道伝いに坂木の宿場を目指して進みます。

 

※中之条の交差点。ここで旧道は国道に合流します。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]15・・・西上田へ

 塩尻

 

 しなの鉄道線西上田駅があるところ周辺は、塩尻と呼ばれています。町名は、上田市の市街地に近いところが上塩尻で、西に向かうと下塩尻になるようです。この、塩尻と言う地名、諏訪湖の西、松本市の南側にある都市と同様の名前です。今は、その塩尻市こそ有名な街ですが、上田市にも同じ名前の町名が存在していたのです。

 この塩尻と言う地名、かつて、日本海から運ばれてきた塩に由来しています。運ばれてきた塩については、信州各地で販売されて、無くなってしまう辺りが塩が尽きる町、塩尻と呼ばれるようになったとか。こう聞くと、上田市塩尻も、何となく塩が尽きる辺りと言えなくもありません。地形的にも、両脇から山が迫って行き止まりのようなところです。

 街道は、この塩尻を通過して、上田市の隣町、坂城町へと向かいます。

 

 

 常盤(ときわ)

 上田城の北の地域を通過する街道は、常盤の町でクランク状に折れ曲がる、枡形(ますがた)と呼ばれる道に入ります。

 先ず、右に折れるのですが、その突き当たりには、歴史がありそうなお屋敷と蔵などの建物がありました。この屋敷、今は食堂として営業されているようです。

 

※クランク状に折れ曲がる道(枡形)に入ります。

 

 道は、右折した後、運河のような小さな川を渡ります。そして、その先で左折です。さらに、川伝いに少し進んで、もう一度右折することに。

 枡形と呼ばれているクランク状の道筋は、城下町や宿場町に特有の道の構造だと言えるでしょう。

 

※枡形の道筋では、小さな運河のような川を渡ります。

 

 生塚(うぶつか)

 街道は、その先で、国道18号線に入ります。街道と国道が交わるところは、生塚の交差点。ここから、僅かに数十メートルの区間だけ、国道の歩道に沿って歩きます。

 

※生塚の交差点。ここを左折し、数十メートルだけ国道を進みます。

 

 秋和

 国道伝いにしばらく進むと、斜め右方向に旧道が現れます。旧道の入口辺りには、智徳山正福寺と刻まれた石柱です。この右手には、広々とした境内が広がって、由緒ありそうな正福寺の建物が並んでいます。

 道はこの先、旧道特有の、ゆったりと弧を描く道筋に変わります。

 

※秋和の集落へと向かう街道。

 

 旧道を進んで行くと、道沿いには、白壁を配したお屋敷や、蔵などの建物が見られる地域に入ります。ただ、この辺り、建物自体はそう古くは感じません。古くからの建物を修復されているのでしょうか。

 手入れが行き届いた感じに整備された、秋和の道筋を進みます。

 

※秋和の集落。

 

 塩尻

 旧道は、やがて2手に分かれます。この分岐のところを左に向かうと、国道18号に入ります。街道は、左ではなく右方向。その先は、相変わらず旧道が続いています。

 

※左に向かうと国道18号に合流します。街道は右方向です。

 

 右へと向かった街道は、秋和の集落内を縫うように進みます。途中には常夜灯も置かれていて、街道の名残りを感じます。

 

※秋和の集落を縫うように進みます。

 

 塩尻

 しばらくすると、崖地の斜面のような道になり、正面には、山が迫ります。よく見ると、北陸新幹線の軌道が走り、その手前には、高架道路の下を潜るトンネルがありました。

 この辺りから、地名は上塩尻になるようです。山が近づき、平地は狭まる印象です。街道は、この山の裾野を這うように続いています。

 

塩尻に迫った街道。新幹線や高架道路(道の正面)が見えます。

 

 高架道路をくぐった後で、新幹線の軌道下を通ります。そして、その先にあったのが塩尻小学校。街道は、小学校を過ぎたところを右折して、正面の山裾へと向かいます。

 

塩尻小学校を越えた所を右折して山裾へと向かいます。

 

 山の裾に繋がる道は、正に、街道の様相です。古くから集落が張り付いていたのでしょうか、道沿いは石垣で整地された住宅地などもありました。

 

塩尻の集落。

 

 国道へ

 やがて街道は、一旦、国道に合流します。歩道のない国道ですが、わずかの距離だけ歩きます。

 この国道の左手には、しなの鉄道線西上田駅があるようです。上田駅の西隣りのこの駅は、かつては、北塩尻駅と呼ばれていたようで、今の塩尻市の北側に位置しているのだと思います。

 ただ、塩尻市からは距離があり、その繋がりは分かりません。

 

※国道と合流した街道。

 

 塩尻

 街道は、国道をわずかに進んだその先で、再び旧道に入ります。旧道の道沿いは、下塩尻の集落です。右方向から山の尾根が迫り来て、左手は、国道のすぐ先が千曲川。両方向から山が迫る狭いところを、千曲川は流れています。

 

※左から山が迫る場所に下塩尻の集落が並んでいます。

 

 やがて道沿いから民家は無くなり、事業所が点在する地域へと変わります。山の尾根はさらに迫ってくる感覚で、もうこの辺りには、平地は僅かしかありません。

 正面を見ていると、険しい崖地が道路際に迫っています。いつ崩れてもおかしくはないような、厳しい地形のところです。

 

※山の尾根が迫りくる地形の裾を通る街道。

 

 道はこの先で、険しい崖地の裾を通って、上田市の隣り町、坂城町に入ります。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]14・・・上田宿と柳町

 上田城

 

 真田氏の居城であった上田城。戦国の世が終末を迎えると、その領主も代わります。元々、真田昌幸の手によって築かれた城であり、関ヶ原の戦いの時、徳川秀忠軍を足止めにしたお話は有名です。この時、真田昌幸は、次男である真田幸村と運命を共にして、西軍に入ります。そして、長男の信之は、徳川方につくことになるのです。

 関ヶ原の戦いで敗戦した昌幸と幸村は、和歌山の九度山に幽閉され、隠遁生活を送ります。そしてその後に、大坂の陣に参戦し、大坂夏の陣で幸村はその命を落とします。

 そんな中、徳川方に味方した長男の信之は、上田城に入るのですが、その後まもなく、松代の地に配されて、上田の地を退きます。その先の上田城には、仙石氏・松平氏が領主となって、明治維新まで上田の地を治めることになるのです。

 北に上杉がいて、南東には武田氏が力を誇示した戦国時代。信州の上田の地で、家督の行く末を思案した昌幸ですが、結局、長男信之が上田の地のほど近く、松代城を任されて、真田の血を絶やすことなく江戸時代を生き抜くことになりました。

 

 

 横町交差点

 横町通りを北へと進み、その先で、横町交差点に入ります。街道は、ここを左折し、海野町へと向かいます。

 

※横町交差点。

 

 横町交差点を左に折れると、その先は、商店街が続きます。この道沿いが、海野町と呼ばれていて、かつて宿場町として賑わったところです。

 今では、宿場町の面影や城下町の名残りなどは見ることができません。新しいビルが建ち並び、商業の町として活気ある街並みを作っています。

 

※かつての上田宿があった海野町。

 

 中央2丁目交差点

 海野町を西に進んだその先で、今度は、中央2丁目交差点を迎えます。街道は、ここを右折し、再び北方面へと向かいます。

 この交差点を左に折れると、その先が上田駅になるようです。さらには、交差点を直進すると、上田市役所や上田城があるようで、この辺りが、街の中心地になるのでしょう。

 

※中央2丁目交差点。街道は、右方向から交差点に入り、真っ直ぐ向かいの道へと向かいます。

 原町

 北に向かった街道は、原町という地域を通ります。この道沿いにあったのが、「成澤家の蔵」の建物です。少し奥まったところにあるために、分かりにくい状態ですが、江戸期からの幾棟かの蔵が見られます。

 表に置かれた木製の案内板には、「奥の蔵は、江戸時代から昭和にかけて、上田紬の問屋万屋萬伍を営んでいた成澤家が保存してきました。」との記載がありました。

 

※成澤家の蔵。

 

 柳町

 原町の通りをしばらく進むと、中央3丁目の交差点。街道は、ここを左折し、少し先で右折です。

 このように、右折左折を繰り返し、街道は、上田の城下を巡っています。

 

 さて、最後に右折した先は、柳町と呼ばれています。この通り、今も古い町並みが残っています。『北国街道柳町』というウェブサイトには、「慶長の初年北国街道が設けられ上田が宿場になると、・・・原町分に柳町田町ができた」。そして、「商家が多かった柳町は原町に属していて、伝馬賃など原町問屋の指図を受けていた」と記されています。

 

柳町通の入口に置かれている案内板。

 

 元々、宿場町というよりも、商家が多かった柳町。今も、江戸時代を感じさせる建物が並んでいます。

 町の通りは石畳風に舗装され、感じの良い通りです。

 

柳町の通り。

 

 道沿いには、旧家を改装したような、喫茶店や食堂などが点在します。上田城下の全体像がどのようなものなのか、よく分かってはいませんが、確かに、この柳町の通りについては、往時の面影が味わえる、良い観光スポットだと思います。

 

 上田大神宮

 柳町通りの途中のところで、街道は左に折れるのですが、そのまま真っ直ぐ進んで行くと、突き当りには上田大明神と記された、大きな神社が見えました。

 せっかくの上田市の訪問です。上田の名を冠した神社にお参りをということで、しばしの間街道をそれ、上田大神宮を参拝させて頂きました。

 

※食堂などのお店が点在する柳町の通り。

 

 紺屋町

 さて、柳町の通りの途中で、街道は左方向に進路を変えて、紺屋町に入ります。道が方向を変える場所には、「武田味噌 菱屋」の看板がありました。

 紺の暖簾が掛けられたこのお店、お味噌が売られているのでしょうか。白壁と格子窓が情緒を誘う建前です。

 

※紺屋町通り。

 

 紺屋町の道筋は、真っ直ぐに西に向けて進んでいます。もうこの通りには、江戸時代の面影はありません。旧市街地の住宅が軒を連ねて並んでいます。

 

※紺屋町通りの町並み。

 

 西脇

 紺屋町通りの先は、西脇という地域に入ります。ただ、道沿いは同じような家並みが続いています。

 この辺り、左奥の方向が上田城という位置関係。お城の建物が見えないものかと窺っていましたが、城の緑があるだけで建物などは見られません。

 そう言えば、上田城の櫓などの建物は、お城の南の方に偏っているようです。今歩く北国街道の道筋は、お城の北を通っています。残念な思いを持って、先の道へと進みます。

 

上田城の真北を西に向けて通っている街道。

 

歩き旅のスケッチ[北国街道]13・・・上田市へ

 上田市

 

 上田市は真田氏の居城である、上田城の城下町として有名なところです。長野県では、長野市松本市に続く人口規模を誇る街。千曲川上流地域の中心都市と言えるでしょう。街の中心は、千曲川のすぐ北側。菅平の高原が狭い平地に迫ります。

 一方で、千曲川の南の地域は広く開けた土地が延び、そこを、上田電鉄の別所線が走っています。別所線の終着駅は、北向観音(きたむきかんのん)で有名な別所温泉駅。その北向観音には、”花も嵐も踏み越えて”、で有名な愛染かつらの名木が、今もその姿を残しています。

 

別所温泉にある北向観音参道の入口と北向観音本堂。

 

 街道は、上田の街の中心の東側を通過して、その後、街の北西へと向かいます。上田城近くを通ってはいるものの、それほど接近することはありません。城域と距離を置きながら、街道は、城下町の一角を縫うようにして通り過ぎているのです。

 

 

 上田市を通る街道

 上田市を通る街道の道筋は、下の地図の通りです。右下が、しなの鉄道線信濃国分寺駅があるところ。そこから北西に向かうのですが、途中、上田城に近づくと、やや北向きに進路を変えて、城域の北の地域を通ります。

 私たちは、街道歩きの第3日目。信濃国分寺駅を出発し、千曲川右岸道路に舞い戻り、街道歩きを始めます。

 

上田市を通過する北国街道の道筋。

 

 国分の町

 千曲川の右岸道路に戻った先で、街道は、旧道に入ります。そこは、新しい民家が建ち並んではいるものの、古くからの集落なのかも知れません。家の敷地はそこそこ広く、庭のあるお屋敷なども見られます。

 

※国分の集落を通り抜けます。

 

 途中には、立派な鎧板を配した塀が囲んだお屋敷もありました。この屋敷、門構えも見事な造りで、中には、倉庫風の建物なども見られます。おそらくは、由緒あるお屋敷なのだと思います。

 

※見事な塀で囲まれたお屋敷もありました。

 

 新幹線

 旧道は、やがて、北陸新幹線の軌道に沿った道に出て、その後しばらく、軌道伝いに進みます。

 この新幹線、軽井沢から佐久平(さくだいら)を経て上田へと繋がりますが、佐久平駅から上田駅の間の路線は、千曲川の南地域の山中を通っています。そして、上田市の国分の地で、千曲川に架けられた上田ハープ橋を通過して上田市へと向かうことになるのです。

 

北陸新幹線の軌道伝いの道に出た街道。

 

 上堀(うわぼり)交差点

 新幹線の軌道伝いにしばらく進んだその先で、街道は、新幹線から離れます。この辺り、新幹線は千曲川の右岸伝いに上田駅へと向かうのですが、街道は、やや、内陸を進みます。

 新幹線の軌道と離れた街道は、その先で、上堀の交差点を迎えます。この交差点、左右の道は、千曲川の右岸と左岸を繋ぐ道。街道は、真っ直ぐに、北西方面に向かいます。

 

※上堀の交差点。

 

 上堀交差点を過ぎた後、街道は、旧道の雰囲気に変わります。狭い道幅の街道が、ゆったりと弧を描くようにして続きます。

 道沿いは、古くからの民家が並び、かつての街道筋の面影が見られるようなところです。

 

※旧道の雰囲気が漂う街道筋。

 

 旧市街地へ

 道は旧道の状態から、やや広めの道へと移り変わって、住宅地が広がる地域に入ります。

 ゆるやかに上る道。千曲川からやや距離を開けた地域へと向かって行くような感覚です。

 

※住宅が広がる地域を進みます。

 

 道は、住宅地をすり抜けるように続いています。もう随分と、上田の城下に近づいてきたのでしょうか。道沿いには、格子戸に覆われた、旧家なども見られるようになりました。

 

※格子戸に囲まれた旧家の前を通る街道。

 

 信州大学

 しばらくすると、街道は、クランク状に折れる道に入ります。先ずは右に折れ、その先で左に折れて進むのですが、左に折れるところには、「信州大学繊維学部」と記された、立派な看板がありました。

 なるほど、信州大学は一つのキャンパスに統合はされておらず、長野市松本市、そして、ここ上田市にもキャンパスがあったのです。

 私たちは、信州大学前を通り過ぎ、上田市の中心地へと近づきます。

 

信州大学繊維学部があるクランク状の道筋。

 

 科野大宮社

 信州大学前を過ぎた後、直線状に区画された道筋を通ります。そして、その先で、やや変則の交差点を迎えます。

 この交差点、突き当りのところには神社の境内です。そして道は、神社の境内の左手の側面に沿い、真っ直ぐ延びていくのです。

 

※街道は、科野大宮社に突き当たります。

 

 この神社、科野大宮社と呼ばれています。由緒などは分かりませんが、”科野”とつくからには、信濃の国の由緒ある神社なのでしょう。私たちは、神社に立ち寄り、本殿前で参拝です。

 さて、神社の左側面は、実は、神社の正門前。この先の街道は、この正門前の道筋を北西方向に向かっています。

 

※科野大宮社正門前。

 

 城下へ

 科野大宮社を後にして、北西方面へと向かいます。道は、それほどの広さはないものの、旧道というよりも、やや整備された道筋です。

 道沿いは主に民家が並び、ところどころでお店なども見られます。次第に、上田の城下が迫ってきた感じです。

 

※城下町に近づいてきた感じの町並み。

 

 横町

 北西に進んで来た街道は、その先でT字路となり、一旦北東方向に向かいます。この道は、横町と呼ばれていて、城下町の一角を構成していたところです。

 今は、中層のビルが建ち並び、もう、城下町の面影はありません。

 

※横町の通り。

 横町の通りには、下のような案内板がありました。これを見ると、この先の海野町(うんのちょう)が発展するに至ったために、旅籠屋や商家などが増加して、この横町にも町並みが広がってきた様子です。

 街道は、この横町を通り過ぎ、海野の町へと続きます。

 

※横町の道沿いに置かれた案内板。