旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]11・・・佐久山宿から大田原宿へ

 大田原

 

 街道は、大田原市の佐久山から、市街地へと向かいます。この都市は、栃木県の北部に位置し、その北は、那須町那須塩原市に接しています。市の中心部には鉄道の駅は無く*1、最寄りの駅は、隣接する、那須塩原市の西那須野駅になるようです。

 鉄道からは、やや距離を置く大田原市の中心地。かつては、甲州道中沿線の、主要な宿場町であったとともに、関東地方北縁の城下町でもありました。

 芭蕉も通った大田原。次第に、陸奥の地が近づきます。

 

 

 佐久山宿

 佐久山の宿場町を歩いていると、消防団の分団車庫の敷地のところに、「旧奥州道中 佐久山宿 下町」と刻まれた、新しい表示柱がありました。

 道筋には、往時の名残りの建物などは見かけませんが、このような案内表示が、宿場町の証を伝えています。

 

※分団車庫前に置かれた表示柱。

 

 那須与一

 町中を進んで行くと、今度は何やら、派手な絵が描かれた建物がありました。この建物は、バス停傍の公衆トイレ。絵の中には、「与一の里大田原」と書かれています。

 なるほど、この絵は、那須与一屋島の戦いに従軍し、平氏が掲げた扇の的を、見事に射落とすシーンです。

 彼の人が、どのような方だったのか。私などは、その名前と扇の話を知るのみです。ただ、この絵を見たことにより、この地が那須与一の故郷だったのだと、改めて実感することになりました。

 

※公衆トイレの壁に描かれた那須与一の絵。

 

 宿場の外れ

 街道は、宿場町をさらに進んで、変則の分岐点に至ります。道は、左手が真っ直ぐ延びる県道で、道なりに右方向に下って行くのが、県道48号線の道筋です。

 街道は、右側の道。弓なりの坂道を下ります。

 

※道が変則に分岐するところ。街道は右方向に下ります。

 坂道を下って行くと、その先に、由緒ありそうなお寺がありました。立ち寄りはしませんでしたが、ここには、芭蕉の句碑があるようです。

 前回にも触れたとおり、芭蕉曾良は、矢板から大田原へと向かっています。おそらく、この地には、足を踏み入れていないはず。どうして、句碑があるのかと、不思議に感じた次第です。

 

※宿場町の外れの坂道を下ります。

 箒川(ほうきがわ)

 やがて街道は、箒川に差し掛かり、そこに架かる岩井橋の歩道橋を渡ります。この箒川、那須山中に源を持ち、塩原温泉の渓谷などを流れ下って、ここ佐久山に至ります。

 思ったよりも川幅広く、とうとうとした流れをつくっています。

 

※箒川に架かる岩井橋。

 

 橋の途中で上流を眺めると、清冽な流れの向こうに、緑豊かな丘陵地。そして、流れる雲の向こうには、麗しくも感じられる、那須の連山が見えました。

 絵になるような空間は、見事と言う他ありません。歩かなければ得られない、貴重な景観の醍醐味を味わうことができました。

 

※箒川から見た風景。

 

 私たちは、箒川の河川敷きで、昼食を兼ねた休憩です。この日の朝、喜連川の宿場を発って、随分時間が経ちました。途中のコンビニで手に入れたおにぎりを、絶景の景色の中で味わいます。

 

 県道

 休憩後、再び県道伝いに歩きます。箒川の前後の地形は、一段低い谷状のため、県道は、坂道を上り進んで、台地状の小高い位置に戻ります。

 その先は、真っ直ぐ延びる直線道路。広々とした農地が続き、その合間に、民家などが点在します。

 

※台地上の平坦地を直進する県道。

 

 街道は、幾つかの集落を越え、どこまでも、北に向けて進みます。途中には、立派な門構えの屋敷など、広い敷地の民家などが並ぶ地域もありました。

 

※広い敷地の屋敷が並ぶ地域。

 

 親園(ちかその)

 しばらくすると、親園の交差点。ここを右に向かうと、「道の駅、那須与一の郷」があるようです。

 街道は、この先も直進し、親園の集落へと向かいます。

 

※親園の交差点。

 街道の左には、広々とした農地が続き、その先は、農家や雑木林が連なります。遠方は、山並みが台地を囲うように広がって、その奥に、まだ残雪をいただいた、峰々までも望めます。

 山々は、那須の連山に違いないと思うのですが、はっきりとは分かりません。ましてや、雪を頂く峰々は、どの辺りになるのでしょう。

 雄大な景色を眺め、少しずつ、歩みを進めます。

 

※広々とした農地や、遠方の山並みを眺めながら歩きます。

 

 やがて街道は、ちょっとした集落の中に入ります。この辺りが、親園の集落になるのでしょう。JAのお店などや小学校もあるようです。

 道は、この先で、少し左にカーブして、一路、大田原の市街地を目指します。

 

※親園の集落。

 大田原へ

 そこそこの規模を誇る、親園の集落を進みます。道沿いは、敷地の広い民家が並び、美しく手入れされた、庭の木々が見事です。

 

※親園の集落を通る街道。

 やがて、集落を通り過ぎ、再び、農地が広がる道沿いを進みます。この辺り、写真では分かりませんが、県道の左伝いに、小さな川が流れています。しばらくの間、道と川が隣り合わせの区間です。

 

※県道の左には、小さな川が流れています。

 

 やがて街道は、浅香3丁目交差点に入ります。道路上の標識は、左手が、塩原や西那須野の方向で、右は、黒羽(くろばね)に向かう道。

 この、左右に延びる幹線道路は、大田原の市街地の南側を巡っています。辺りは、新しい町並みへと姿を変えて、大田原の市街地が、迫りつつあることを示しています。

 

※浅香3丁目交差点。

 

*1:大田原市には、JR東北本線の野崎駅がありますが、中心部からはやや離れています。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]10・・・佐久山宿へ

 佐久山と矢板

 

 下野(しもつけ、栃木県)の北部地域は、丘陵が広がる中に、幾つもの小さな盆地が点在します。奥州に向かう街道は、それらの盆地を繋ぎながら、ひたすら北を目指します。

 一方で、今日の動脈である鉄道や、高速道路などが通っているのは、街道のやや東の地域です。そこには、幾つかの主要な都市があり、那須高原に向かうための起点として、その役割を果たしています。

 この先の街道は、丘陵地の隙間を縫って、佐久山(大田原市佐久山)へと向かうのですが、鉄道などの主要ルートは、矢板市を通っています。この矢板というところ、日光を訪れた芭蕉曾良が、その後、大田原へと向かった途中に通過したところです。

 『曾良旅日記』の一節は、陰暦の4月3日(陽暦5月21日)の記事として、次のように記しています。「同三日 快晴。辰上刻、玉入(玉生:たまにゅう)ヲ立。鷹内ヘ二リ八丁。鷹内ヨリヤイタへ壱リ二近シ。ヤイタヨリ沢村へ壱リ。沢村ヨリ太田原(大田原のこと)へ二リ八丁。

 佐久山から北に向かって、大田原へと向かう街道ですが、芭蕉曾良は、日光から最短距離で矢板に至り、南東の方向から、大田原に入ることになるのです。

 日光道中の旅を終え、一旦、芭蕉と別れた私たち。ここで再び、芭蕉の影が近づきます。

 

Google maps。緑のフラッグは、下が佐久山宿で上が大田原宿。赤のルートが奥州道中で、青が芭蕉が通ったであろうルートです。

 長屋門

 県道伝いの街道は、下河戸の集落に入ります。道沿いは、敷地の広い住居が並び、生垣が美しく整えられた地域です。

 この集落の途中には、見事な長屋門がありました。よく、保存整備がなされているのか、それほど古さを感じません。街道筋の情緒が残るこの貴重な建物は、いつまでも保存して頂きたいと思います。

 

※街道筋に残る長屋門

 

 曽根田

 街道は、その先で、曽根田の交差点を迎えます。道路標識にあるように、ここを道なりに進んで行くと、冒頭に少し触れた、矢板市に至ります。一方で、右方向が奥州道中の道筋です。

 私たちは、ここを右折し、佐久山の宿場町へと向かいます。

 

※曽根田の交差点。

 

 里の風景

 交差点を右折した後、道は、緩やかに弧を描きつつ、わずかな勾配の、上り道に変わります。

 この辺り、まだ、さくら市の下河戸の地域です。おそらく、さくら市の北限辺りになるのでしょう。街道は、少しずつ、大田原市の領域に近づきます。

 

※緩やかに弧を描きつつ、丘へと上り進む街道。

 

 丘の間を通り抜けると、眼前には、盆地状の空間が広がります。右方向から、丘陵地の尾根が迫り、その裾を、街道が通っています。

 農地が広がる静かな場所は、里の風景そのものです。

 

※里の風景が広がるさくら市の北端部。

 

 大田原市

 街道は、集落や農業用の倉庫などが建ち並ぶ地域に入ります。右方向は、相変わらず、小高い丘が続いています。

 

※農家などが建ち並ぶ地域を通る街道。

 

 のどかな、里の中を延びる道。やがて道際に、「大田原市」の標識が現れます。鬼怒川を越え、宇都宮市から、さくら市に入った街道は、ここでようやくその領域を終えました。

  

大田原市に入った街道。

 

 しばらくすると、三叉路の交差点。道なりに、右方向に向かう道が街道で、ここから、県道48号線になるようです。

 左手の方向は、同じ県道の先線で、矢板市や、宇都宮につながります。

 写真には写ってはいませんが、この左の際にコンビニがあり、私たちは、ここで一休み。まだまだ続く、この日の道中を案じつつ、体力を養います。

 

※佐久山へと向かう県道48号線に入ります。

 

 佐久山へ

 相変わらず、農地と農村が見られる街道は、丘陵地帯を縫うように進みます。喜連川の宿場から、延々と小高い丘が続く道は、緩やかな上り下りを繰り返し、或いは、左右に大きく弧を描きながら、北へ北へと向かっています。

 

※丘陵地を縫うように延びて行く街道。

 

 山里の風景を楽しみながら歩いていると、道が、次の丘へと向かうところに、「きらり佐久山 農産物直売所」と表示された、そこそこの規模の販売所がありました。

 この施設が目印で、街道は、この先の交差点を左方向に向かいます。

 

※ きらり佐久山農産物直売所。道路標識を左に進みます。

 

 県道をそれ、左へと進んで行くと、やがて、集落に入ります。そして、佐久山前坂の交差点。

 この先は、民家が続き、集落というよりも、ひとつの町並みを作っています。

 

※佐久山前坂交差点。ここを直進します。

 

 街道は、この交差点を直進です。そして、その先は、急坂の下り道。左右から迫る崖地に挟まれて、波打つように谷の方へと下っています。

 

※一気に谷へと下って行く街道。

 

 佐久山宿

 下り道の街道は、やがて、少しずつ勾配を緩めます。そして、道沿いは、木造の民家が並ぶ、懐かしい雰囲気の町並みに変わります。

 おそらく、この辺りから、佐久山の宿場町が始まっていたのでしょう。迫る山は後退し、久々に、家々が軒を連ねる街道筋に入ります。

 

※佐久山の宿場町に入った街道。左から接近する道は、その前に歩いていた県道48号線。

 

 街道は、佐久山の町中で、先ほどまで歩いていた、県道48号線と合流します。この道は、きらり佐久山農産物直売所を直進した後、大回りして、この位置につながることになるのです。

 この先、街道は、この県道と歩調をあわせ、大田原へと向かいます。

 

 さて、佐久山の宿場町は、この先、真っ直ぐに続いています。今はもう、宿場町の面影は、ほとんど残っていませんが、何となく、その雰囲気が感じられる町並みです。

 佐久山は、前の宿場の喜連川から、およそ11.5キロも離れています。結構な間隔で設けられた宿場町。本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は、27軒あったということです。

 

※佐久山宿の様子。

 私たちは、清々しい青空の下、かつての奥州道中の宿場町を歩きます。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]9・・・喜連川から佐久山宿へ

 丘陵地

 

 喜連川を過ぎた街道は、関東平野の北に広がる丘陵地帯に入ります。これまでは、白坂宿の直前で緩やかな丘があった他、氏家宿と喜連川宿とを隔てている、わずかな山を越えたのみ。おおかたの道中は、平坦な道筋です。

 それでも、陸奥に向かう街道は、いよいよ、関東平野とお別れです。これから先の道筋は、幾重にも重なる山々と、丘陵地帯をすり抜けて、東北の地を目指します。

 

 

 喜連川から

 前日に、白沢・氏家間を歩きつないだ私たち。氏家から喜連川までの行程は、雨により予定変更となりました。結局、他の方法で、ここ喜連川までやってきて、温泉宿で1泊です。

 そして、次の日は、この喜連川から佐久山へ、大田原へと向かうことになりました。(前回も記したように、氏家・喜連川の行程は、その翌日に舞い戻り、歩きつなぐことになったのです。)

 

 私たちはこの日の朝、喜連川の宿場のはずれを出発し、佐久山宿へと向かいます。前日の雨は止んだものの、空はまだどんよりとした状況です。

 街道は、喜連川の盆地を流れる内川へ。金竜橋の傍に架かる歩道橋を渡ります。

 

※内川に架かる金竜橋。

 

 山並み

 内川から上流を眺めると、曇天の彼方の境に、雪を抱いた美しい連山が見えました。この山並みは、一体どこになるのでしょう。日光の山なのか、或いはまた、那須の山なのか。どこになるのか分かりませんが、関東の平地を囲む、急峻な山並みの一つです。

 その昔、陸奥へと旅立った人たちは、このような山々を望みながら、自らの行く末を、しみじみと感じ取っていたのかも知れません。

 

※内川から上流を望んだ光景。

 

 丘陵地へ

 街道は、内川を越えた後、田町という地域に入ります。家並みが街道沿いに連なって、その先は、丘陵地が控えています。

 道は、緩やかな上り坂。その先は、林の中に吸い込まれていくような道筋です。

 

※田町を通る街道。

 

 街道が丘陵地帯に近づくと、勾配はやや急となり、山のへりに沿いながら、少しずつ奥の地へと向かいます。

 途中、山里のような地域に入ると、道端には、一風変わった石像です。この石像、男女双体道祖神と言うのでしょうか。2体の像が彫られた様子は、仲睦まじく、ほっこりとする姿です。

 このような、男女の姿が彫られた像は、甲州道中を歩いた時に、よく見かけたものでした。どのような意味があるのか分かりませんが、地域の方の信仰に由来するのだと思います。

 

※丘陵地を進む街道。男女双体道祖神が見られます。

 

 道は、上り下りを繰り返し、左右に大きく屈曲しながら、山あいをすり抜けます。やがて、「菖蒲沢公園」と表示された交差点。この辺り、整然と整備された県道の道が続きます。

 地図を見ると、菖蒲沢公園の周辺は、新しい住宅地があるようです。きっと、多くの人々が、この右奥の丘陵地域に住まいされているのでしょう。

 

※菖蒲沢公園の交差点。

 

 旧道へ

 県道をさらに進むと、ひとつの道路標識が現れます。直進は、大田原市に向かう道。そして、行先が表示されない左の道は、丘陵地の西の区域の方向へ。

 街道は、ここを左折し、その先で旧道に入ります。

 

※旧道に向かう分かれ道。

 

 分岐点を左に折れると、そこそこの道幅の道路が続いています。ただ、街道は、直ぐに右方向。事業所の前の道を通過して、奥に続く旧道に向かいます。

 

県都の分岐直後の様子。街道は、すぐ右の道に入ります。

 

 事業所の前を通り抜けると、その先は、木々が茂る細い道へと変わります。どことなく、心細い道ですが、確かにそこが街道です。

 勇気を出して、山道を思わせる旧道に踏み入ります。

 

※山道風の旧道の入口。

 

 裏道

 旧道は、間もなく、雑然とした荒れ地の道の様相に。土道は、枯れ草が覆う状態で、左右からも、草木が行く手を阻みます。

 今では、ほとんど、人が通る気配はありません。丘の斜面に取り残された、裏道の感じです。

 

※枯れ草に覆われた旧道。

 

 しばらくすると、廃棄物などを取り扱う事業所が建ち並ぶ地域を通ります。街道を歩く者には興ざめですが、このような事業所には、好立地の場所と言えるでしょう。

 途中には、肥料関係の施設などもありました。何とも奇妙な地域をすり抜けて、先に続く丘の道を進みます。

 

※事業所が並ぶ旧道脇。

 

 農地へ

 街道は、時折、急坂もありますが、概ね、緩やかな上り坂。

 やがて、平坦な道に変わると、台地状の土地のところに、わずかな農地が見られます。街道は、農地の脇を通り抜け、その先の森の方へと向かいます。

 

※台地状のところにある農地の脇を通ります。

 

 農地が尽きる辺りから、道は下り坂に変わります。そして、その先は、木々が覆う森の中。ここからしばらくの行程は、再び、心細くなるような道筋です。

 

※農地が終わり、森の中に入ります。

 

 開けた場所へ

 それほど長くはない、森の中の下り坂。やがて、辺りが開け、盆地状の地域に入ります。

 この辺り、広々とした農地が広がり、幾つかの集落も見渡せます。街道は、次第に勾配を緩めながら、先ほど別れた、県道に近づきます。

 

※左、旧道の裏道を出て、盆地状の地域へ。右、この先で県道と合流します。

 県道

 裏道の旧道を離れた街道は、人家が並ぶ県道の、明るい道筋に変わります。どこか、ほっとした思いを抱きながら、安心して、歩道の道を進みます。

 次の宿場の佐久山は、まだしばらく先の位置。奥州へと繋がる道は、幾つもの丘を通って続きます。

※県道につながった街道。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]8・・・喜連川宿

 喜連川(きつれがわ)

 

 さくら市は、氏家と喜連川の2つの町が合併し、新しくできた自治体です。街道は、まず、氏家の町に入って、その先で、もう一つの町である喜連川へと向かいます。

 さくら市の北部に位置する喜連川。この町は、独立した盆地状の地形のところに、一つの地域をつくっています。盆地には、荒川と内川の2つの川が流れ下り、豊かな自然が広がります。かつては、足利氏ゆかりの土地だったようですが、今は、温泉地として旅人の人気を博しています。

 

喜連川の町中に置かれた観光案内板。

 

 荒川へ

 氏家から、丘陵地の山並みを越えた後、喜連川の地域に入ります。盆地状の平地には、農地が広がり、農家が辺りに点在します。

 少し先には、緩やかな丘陵地。清々しい青空の下、心地よい風が流れる空間です。

 

※丘陵地の古道を下り、喜連川の地域に入った街道。

 農地の中を進んで行くと、やがて、荒川の堤防に出くわします。枯れ草が美しく堤を覆う様相は、何とも言えない、穏やかさが感じられる光景です。

 街道は、堤の手前を右折して、枯れ草の香りを味わいながら舗装道を下ります。

 

※荒川右岸を下る街道。

 しばらくすると、荒川に架かる連城橋。私たちは、車道の橋の下流側に設けられた、歩道橋を利用して、この荒川を渡ります。

 

※荒川に架かる連城橋。すぐ下流隣には歩道橋が架かっています。

 

 喜連川宿

 荒川を渡り終えると、道は少し下り坂。川の位置は、町並みよりもやや高く、天井川の状況です。増水時には、余程の警戒が必要になるのでしょう。

 堤防の坂道の向こうには、小さな町並みが続きます。おそらく、この辺りから、喜連川の宿場町。ただ、この位置から見る限り、往時の面影はありません。どこか、雑然とした町並みが目の前に広がります。

 

※荒川を渡った直後の町の様子。

 

 喜連川の宿場町は、先の宿場の氏家からおよそ7.5キロのところです。この宿場には、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は29軒ありました。東海道中山道の宿場町と比べると、その規模は小さいものの、奥州道中の宿場としては、平均的な大きさだったと言えるでしょう。

 

喜連川宿の町並み。

 

 喜連川温泉

 町中を進んで行くと、ところどころに、「日本三大美肌の湯 喜連川温泉」と表示された、美しいバナーが見られます。

 冒頭でも触れたように、ここは、温泉地でもあるのです。ただ、歴史は浅く、温泉街がある訳でもありません。何軒かの湯宿とともに、市営の温泉施設が、来訪者を迎えています。

 

 本町

 街道は、緩やかに曲線を描きながら、町の中ほど、本町の交差点に至ります。交差点の右角のところには、商店街の駐車場。そこそこ広く、その中には、路線バスの待合施設などもありました。

 時刻は、丁度お昼前。私たちは、交差点の左にあった、「中華そば 竹末」の看板に魅せられて、少し早い昼食に。幾つかのグループも、駐車場に車を停めて、その「竹末」に向かっています。

 

喜連川の中心地、本町の交差点。

 

 竹末

 竹末は、本当に小さな店ですが、入れ替わり立ち替わり、たくさんのお客さんが訪れます。店の中を見回すと、どうも最近、テレビの取材があったよう。なるほど、宣伝効果は抜群だ、と、感心したものでした。

 この時、お店の売りは、「初代竹末食堂の焼きそば」だったように思います。それでも、私たちが求めたものは、やはり王道のラーメンです。コクのある、美味しい喜連川のラーメンを、ありがたく頂きました。

 

※「竹末」のお店とラーメン。

 

 宿場の中心地へ

 昼食を頂いて、もう少し先へと進みます。2日前、歩き始めたところまで*1が、この日に予定していた行程です。地図を見ると、残すところ、あと約700mほどの距離。とりあえず、そこまで行って、再び、本町の交差点に引き返します。

 本町からは、バスで氏家の駅まで戻り、この日の宿泊所へと向かうのが、この日の当初の計画です。

 

 と、いう訳で、喜連川の宿場町を、もうしばらく北へと向かいます。

 

喜連川宿の様子。

 

 しばらくすると、大正時代の雰囲気が感じられる、幾つかの建物が現れました。洋館建てや木造など、趣は異なるものの、懐かしさを感じる建物です。

 喜連川は、宿場町の役割を終えた後も、老舗などが跡を継ぎ、そこそこの活況を呈していた様子です。

 

※大正時代の香りを感じる建物。

 

 しばらくすると、今度は、木造の立派な建物が目立つ地域に変わります。何となく、宿場町の雰囲気が感じられる町並みです。

 

※宿場町の雰囲気が漂う町並み。

 公共施設

 街道が、大きく湾曲しているところには、「←喜連川交番」と表示された交差点。そこを左に向かった先に、図書館や市庁舎の支所などがあるようです。

 また、喜連川を治めていた、武将の城跡もあるようで、住民の憩いの場、或いはまた、観光地ともなっているのでしょう。

 

※公共施設が固まる地域と街道をつなぐ交差点。

 

 北へ

 街道は、この先、仲町の交差点を通り過ぎ、さらに北へと向かいます。

 

仲町交差点。

 

 しばらくすると、道は緩やかな上り坂。大きな屋敷に連なる塀や、しおらしく整えられた庭木の容姿は、街道の雰囲気を盛り上げます。

 

※歴史あるお屋敷の塀を眺めて、さらに北へと向かいます。

 

 大きくカーブを描いて、北に向かう街道は、やがて、昨日歩き始めた、起点の場所に行き着きます。

 私たちは、そこから、先の本町交差点に引き返し、この日の行程を終了です。

 

喜連川宿の北端辺りの様子。

 

*1:前々回にも触れたとおり、2日前は、雨のため氏家で行程を終わっています。宿泊所の関係で、前日は、先に、喜連川から大田原までを歩き、この日、中抜けとなっていた氏家から喜連川間を歩くことにしたのです。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]7・・・喜連川宿へ

 古道

 

 氏家(うじいえ)から喜連川(きつれがわ)に向かう街道は、町の境で、ひとつの丘を跨ぎます。この丘は、さくら市の早乙女と言うところ。古くは、宇都宮の軍勢と那須氏傘下の喜連川の軍勢が戦を交えたところです。これから向かう喜連川の宿場町は、丘を越えた向こう側。氏家とは、低く連なる山並みが、その領域を棲み分けます。

 この丘の北側には、今も、かつての街道の、古い道が残っています。奥州道中では珍しい往時の道は、木々が覆い、ひっそりとその姿を隠しています。

 

 

 国道へ

 氏家の櫻野*1の旧道を歩き進むと、やがて、右側から国道293号線が接近し、桜野の交差点で、2つの道は合流します。

 ここからは、しばらくの間、国道の歩道に沿って歩きます。

 

桜野交差点。右後ろから接近してきた国道との合流点です。

 

 国道に入った街道は、ほぼ真っすぐに、北東へと向かいます。喜連川まで、あと6キロ。1時間半ほどの行程です。

 前々日、途中から雨に降られて、氏家と喜連川の行程を飛ばしてしまった私たち。前日は、この先の喜連川から大田原まで、先に歩くことになりました。

 と言う訳で、この日は、氏家・喜連川間の穴埋めの行程です。ここを埋めれば、大田原までの行程がつながります。半日程度の街道歩き、ここは、さほどの距離ではありません。

 

喜連川まで6キロ地点の国道。

 

 田園地帯

 国道293号線の沿線は、次第に、農地が目立つ地域に入ります。広々とした田園が道の左右に広がって、ところどころに、農家や集落が点在します。

 清々しい青空の下の街道歩き。真っ直ぐに延びる国道を、ひたすら北東に向けて進みます。

 

※真っすぐに延びる国道。

 

 やがて前方には、それほど高くはない、丘のような山並みが迫ってきます。国道は、小さな集落の中をすり抜けて、その山並みに近づきます。

 この段階で、喜連川まであと4キロ。次の宿場は、山を越えたその先にあるのでしょう。

 

※山並みに近づく街道。

 

 旧道へ

 国道は、この先で、山並みを避けるように、右方向に迂回です。一方の街道は、真っ直ぐに、山の中へと向かう道。

 緩やかな上り坂の旧道へと進みます。

 

※国道が右に迂回する中、街道は、直進の坂道へ。

 

 緩やかな坂道の旧道に入っていくと、のどかな、丘陵地の景色に変わります。民家はまばらな状態で、農地や林が広がります。

 しばらく、蛇行を繰り返し、少しずつ標高を重ねていくと、やがて、右方向に「早乙女温泉」の看板です。よく見ると、林の中に小さな建物が隠れています。おそらくそれが、「早乙女温泉」なのでしょう。日帰りの温泉施設が、このような静かな丘の中にありました。

 

※左、緩やかな坂道の旧道。右、右方向の林の中に「早乙女温泉」があります。

 

 早乙女温泉を通り過ぎ、さらに坂道を進んで行くと、やがて、峠のような、やや開けた場所に行き着きます。

 道の際には、「セブンハンドレッドクラブ」と記された、少しお洒落な案内板。この奥に、ゴルフ場があるようです。

 街道は、ここから先は下り道。峠を過ぎて、軽やかに歩みを進めます。

 

※ゴルフ場の入口となっている峠の様子。

 

 古道

 峠を越えてしばらくすると、今度は、右方向に山道が現れます。道沿いには、「→奥州街道」、「史跡 奥州街道(古道)」などの道案内。ここからは、この山道を辿ります。

 

※右方向の山道の古道への入口。

 

 古道への入口に設置された説明板。少しだけ、その内容をお伝えしたいと思います。

 

 「・・・奥州街道は、日本橋から宇都宮宿までは日光街道と重複し、宇都宮から分岐して白河と向かう。さくら市には、奥州街道のほか、会津中街道、会津西街道、原街道の結節点となり、交通の要害地として栄えた氏家宿と喜連川公方の城下町でもあり、また、あゆの寿司で全国的に名を馳せた喜連川宿があった。この古道は、たびたび山腹が崩壊するなど難所の一つであったため、明治13(1880)年迂回路が開削されたことにより、往時の姿をとどめている。」

 

※古道入口の説明板。

 

 山道の古道に入った街道は、一気に時代が遡り、往時の街道の風景に変わります。奥州道中の沿線は、今では、このような道筋はごく僅か。貴重な、歴史の道を楽しみます。

 

※往時の街道の様子を感じられる古道。

 

 里へ

 山の中の旧道は、基本的には下り坂。木々に囲まれ、人の気配はありません。少し不安に感じながらも、ひたすら先を目指します。

 途中には、地元ゆかりの歌人の方*2の、お墓などの案内板。ただ、鬱蒼とした森の中には、入る勇気はありません。旧道の道筋を味わいながら、街道歩きに専念します。

 山道を、数百メートル歩き進むと、視界が少し開けた状況に。その先はもう、里の集落があるようです。不安にもなった山道は、思いのほかあっさりと、通り過ぎてしまった感じです。

 

※先が開けた感じの古道。

 

 里に出て行く直前のところには、一里塚とも思えるような、小高く盛り上がった場所があり、そこには、幾つかの石碑が置かれています。

 資料を見ると、それらは、庚申塔だということです。地域の方々の、信仰の証なのでしょう。

 

※幾つかの庚申塔が置かれた場所。

 

 山道を下りきると、すぐに補装の道に変わります。そこはもう、喜連川(きつれがわ)の領域なのだと思います。視界の先は、盆地の景色が広がります。

 次の宿場は、もう間近。半日の行程は、意外に早く、終わりそうな感じです。

 

喜連川の最初に集落を進む街道。

 

*1:”櫻”と”桜”、使い分けがあるのかどうか分かりませんが、地域や交差点によって、使われる漢字が異なっています。

*2:高塩背山という方です。

歩き旅のスケッチ[奥州道中]6・・・氏家宿と氏家の町

 氏家

 

 宇都宮の追分で、日光道中から分岐して奥州へと向かう街道は、白沢の宿場を過ぎた後、鬼怒川の渡しを越えて、氏家に入ります。今は、さくら市となった氏家は、かつて、坂東の有力な武将が治めていたところです。江戸期には、奥州道中の宿場町が設けられ、交通の要衝ともなりました。

 宇都宮市にほど近く、那須方面への玄関口とも言える場所。郊外は、農地が果てしなく広がるものの、鉄道や国道なども整備され、暮らしやすそうなところです。

 

 

 氏家宿

 白沢の宿場町から7.5キロ。氏家宿の道標が置かれた角を、左方向へと進みます。道標は、宿場町の南端を示すもの。沿線は、もう、かつての宿場町に入っています。

 ゆったりと弧を描く道筋は、かつての街道の道の流れを彷彿とさせますが、町並みは、宿場町の面影はありません。やや、雑然とした町中の道を歩きます。

 

※氏家の宿場町に入った辺り。

 

 氏家宿には、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は35軒ありました。民家もそこそこあったらしく、それなりの規模を誇っていた様子です。

 道幅の狭い街道筋は、今は、多くの車が往き交って、かつての宿場町を駆け抜けます。

 

※氏家宿を通過するかつての街道。

 

 やがて、街道は、氏家の交差点に入ります。街道である県道と、国道293号線との交差点、右先の角地には、大きな病院の建物も見られます。

 街道は、ここを直進し、再び、旧市街地の町中へ。

 

※氏家の交差点。

 

 交差点を越えた後、氏家の本町と表示された道筋を歩いていると、ところどころに、古い木造のお店などが見られます。この辺り、かつては、本陣など重要な宿場の施設がありました。

 どことなく、往時の香りが漂う道は、心地よい雰囲気を放っています。

 

 雨模様

 味わいある、氏家の宿場町を歩いていると、次第に、雨脚が強まってきた感じです。この日は、白沢の宿場を発って、氏家の次の宿場の喜連川へと向かうはず。ただ、この先は、まだ8キロの道のりが残っています。

 とにかく雨をしのぐため、街道から一旦左にそれて、氏家の駅方面へと向かうことになりました。

 

※氏家の本陣などがあった宿場町の中心部。

 

 氏家駅は、街道から、数百メートル西の位置。駅近くの飲食店で雨宿りを、と思ったものの、まだ時刻は10時台。開いているお店はありません。

 駅舎の中で思案する内、雨は次第に本降りに。雲行きを確認しても、この先、止みそうもありません。

 結局この日は、この先の行程は切り上げて、先延ばしすることになりました。

 と、いう訳で、氏家と喜連川間の行程は、実際には、翌々日に歩くことになりました。ただ、このブログについては、街道の順序に従い、綴らせて頂きます。

 (実は、宿泊施設の関係で、この日は、喜連川で泊まらなければなりません。そして、翌日は、喜連川の宿舎から、大田原へと向かいます。幸いにして、翌々日は休息日。そこで、その日に、氏家・喜連川間を歩くことにしたのです。)

 

 再び氏家

 と、言うことで、翌々日、再び氏家駅に舞い戻り、喜連川まで、中抜けの区間を歩きます。

 この日は、写真の通り、抜けるような青空です。清々しい空気を感じながら、氏家の宿場町を出発です。

 宿場町は、本町から上町へとつながって、上町の交差点で、東に進路を移します。

 

※上町の交差点。

 氏家の町

 街道は、しばらくの間、古くからの商店街のような道筋です。そして、次第に、お店の数が減少すると、変わって、民家が軒を連ねる光景に変わります。

 途中には、立派な板塀のお屋敷などもありました。この辺りは、もう、宿場町は過ぎ去ってしまった感じです。新しい雰囲気の町並みを感じつつ、氏家の町中を進みます。

 

※立派な板塀の屋敷(あるいは料亭?)の前を通ります。

 櫻野(さくらの)

 街道は、やがて、櫻野中交差点を迎えます。道幅の広い県道が、街道を分断し、整備された道沿いに、新しい氏家の町をつくっています。

 

※櫻野中交差点。

 

 街道は、交差点を直進し、これまでの先線を進みます。この辺り、交差点の名称にもあるように、櫻野と呼ぶようです。

 ”櫻野”と言えば、”さくら市”を連想するのは、私だけではないでしょう。前回のブログで触れた、”さくら市”の名前の由来は、もしかして、この”櫻野”から来ているのかも知れません。

 櫻野の道を進んで行くと、左手に、見事な板塀のお屋敷が現れました。趣ある門を配したこの屋敷、庭の木々も素晴らしく、由緒ありそうなお宅です。

 

※立派な板塀が続くお屋敷。

 

 瀧澤家住宅

 板塀の屋敷の隣は、重厚な建前の長屋門。こちらも、隣のお屋敷と同様に、立派な屋敷が構えています。

 こちらは、瀧澤家住宅と呼ぶようで、長屋門のところには、紙製の説明書きがありました。そこには、明治になって紡績業等で財を成した旧家であると書かれています。

 栃木県指定の有形文化財であるこの屋敷、鐵竹堂(てっちくどう)・蔵座敷・長屋門など、幾つかの建物が残っています。

 

※瀧澤家住宅の長屋門

 

 長屋門の説明板は、しっかりとした構造で、平面図とかなり昔(明治期末~大正期)の門の写真も確認することができました。

 

長屋門の説明板。

 板塀の屋敷の隣、瀧澤家住宅の西端にあった建物が、鐵竹堂(てっちくどう)なのでしょう。写真にも収めていたので、紹介したいと思います。

 

※ 鐵竹堂(てっちくどう)。

 郊外へ

 街道沿いの旧家を後に、この先しばらく、旧道の道を進みます。道は、次第に、氏家の郊外へ。そして、次の宿場の喜連川を目指します。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]5・・・氏家宿へ

 さくら市

 

 鬼怒川を越えた街道は、さくら市に入ります。これまで、知ることがなかったこの都市は、平成の合併で誕生した、新しい自治体です。元々は、奥州道中の宿場町として名を馳せた、氏家(うじいえ)と喜連川(きつれがわ)の2つの町が、独自に町政を敷いていましたが、さくら市は、これらの町が合併し、誕生することになりました。

 ”さくら”という、日本の国の樹をいただいたこの自治体、平仮名であるからこそ、なおさら親しみを感じます。この地域、桜の名所があるのでしょうか。それとも、他に理由があるのでしょうか。やさしい響きの地名に魅せられ、さくら市の2つの宿場に向かいます。

 

 

 鬼怒川

 前回のブログで触れた、鬼怒川の渡しの跡を通り過ぎ、再び、河畔林の小径の中に入ります。そして、鬼怒川の右岸堤防へと戻った後は、もう少しだけ上流へ。

 その先、ほどなく堤防道は、県道125号線と出合います。私たちは、ここを右折して、阿久津大橋を渡ります。

 

※鬼怒川に架かる阿久津大橋。

 

 この辺りの鬼怒川は、そこそこの川幅です。それでも、この橋は、歩道の区分がありません。時折、大きなトラックなども通過する、幹線道路の橋上を、欄干に身を近づけながら、少しずつ、対岸に近づきます。

 

※阿久津大橋。橋の半ばで、さくら市に入ります。

 

 さくら市

 街道は、阿久津大橋の中央付近で、さくら市に入ります。橋の向こうは、幾つかの集落が点在し、あちこちに、林のような木の塊が見られます。遠方は、丘陵地帯となるのでしょうか。緑の帯が、曇天の空の境に連なります。

 阿久津大橋を渡り終えると、上阿久津の交差点。街道は、ここを左に折れて、鬼怒川の左岸に伸びる、集落の道を進みます。

 

※上阿久津の交差点。

 

 上阿久津

 最初にあった集落は、上阿久津と呼ばれるところ。広い敷地の民家が並び、古くから町並みが形成されていた様子です。

 次の宿場の氏家は、まだもう少し先の位置。鬼怒川の東に接するこの集落は、鬼怒川の増水時には、足止めされた人たちの休息地だったのかも知れません。

 

※上阿久津の集落。

 

 街道は、緩やかな上り道に変わります。歩道橋に掲げられた標識は、さくら市街まで、4キロの表示です。おそらく、さくら市街は、氏家の宿場辺りのことでしょう。まだ、もう少し時間がかかります。空模様も心配で、先の道を急ぎます。

 

※坂道に入ったうえ阿久津の集落。

 

 勝山

 街道は、やがて、勝山という集落に入ります。依然として、緩やかな上り坂。ただ、町並みは、少し趣を変え、お店や食堂なども現れます。

 

※勝山の集落。

 

 街道はその先で、丘陵の頂部を通過して、下り道に変わります。道沿いは、工場や倉庫などの建物が目立つようなところです。

 しばらくして、坂道から平坦な道に変わる辺りに、右方向への新しい道が現れます。街道は、ここを右折です。ここには、標識などは何もなく、地図でよく確認する以外にありません。

 かろうじて、突き当りに掲げられた、ベイシア(スーパーマーケット)の看板が目印となるようです。

 

※右折して、新しい取付道を進みます。

 

 旧道

 ベイシアの看板に突き当たり、左に向かうと、旧道のような道に変わります。おそらく、かつては、先ほどの下り坂の途中のところで、斜め右に進む旧道があり、ここに繋がったのだと思います。

 いつの間にか開発により、その旧道は分断されて、今のようになったのでしょう。新しい、ベイシアのお店の横を歩き進んで、氏家へと向かいます。

 

ベイシアのお店の脇に残る街道。

 

 国道バイパス

 旧道を進んで行くと、交通量が頻繁な、国道4号線の氏家バイパスに行き着きます。街道は、ここで、国道を横断しなければなりません。

 ただ、この辺りには横断歩道はありません。かと言って、迂回するには相当なロスとなるところ。仕方なく、タイミングを見計らい、国道の横断を決行です。

 

※国道のバイパスを渡り、向かいの旧道に入ります。

 

 お伊勢の森

 国道を横切った先の旧道は、農道のような道筋です。農地が広がり、ところどころに、農家や新しい住宅が散らばります。

 しばらくすると、水路脇に、木製の標識がありました。風雪にさらされて、読みにくい文字ですが、「お伊勢の森」や「奥州街道道標石」と書かれています。この角を、農地の奥に行ったところが、「お伊勢の森」のよう。伊勢神宮に関連するお社があるのでしょうか。

 雲行きが怪しくなって、小粒の雨が、時折頬をかすめます。私たちは、寄り道をせず、先の道を急ぎます。

 

お伊勢の森の標識。

 

 東北本線

 旧道を進んで行くと、今度は、JR東北本線の踏切です。ここから、左遠方を眺めると、ひとつの町の塊が見え、その中に、駅らしき構造物もあるようです。

 おそらく、そこが、氏家の駅舎でしょう。次の宿場の氏家宿も、もう間もなくのところです。

 

※旧奥州街道踏切。

 氏家宿と道標

 踏切を越えてしばらくすると、街道は、次の集落に入ります。そして、その先で、街道は、T字路の地位さな交差点を迎えます。

 この交差点の右角には、お地蔵さんや、幾つかの石標が、街道を見守るように佇みます。併せて置かれた説明板を見てみると、次のような説明書きがありました。

 

 「ここが奥州街道の宿場・氏家宿の南端にあたる。氏家宿の長さは南北に8町45間(969.2メートル)あり、街道をはさんで民家、商家が軒をつらねていた。」

 「ここには、北向地蔵と道標、馬頭観音が建てられている。」

 

※古町のT字路。お地蔵さんや石標などが置かれています。

 街道は、いよいよ、氏家の宿場町に到着です。空模様は、次第に怪しくなってきて、時折、大粒の雨が襲ってきます。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]4・・・白沢宿と鬼怒川

 鬼怒川

 

 奥日光に端を発する鬼怒川は、渓谷を流れ下って、関東平野の北部地域に注ぎます。その先は、下野(しもつけ)から常陸の国へ。そして、利根川の流れと合流し、犬吠埼の先端で、太平洋に入ります。

 鬼怒川温泉でよく知られるこの川は、名前からも、鬼の印象を拭い去ることはできません。事実、温泉では、鬼の絵が観光客を迎えています。流域のどこかの町に、鬼の伝説でもあるのでしょうか。或いは、洪水が頻発する暴れ川から、鬼を連想したのでしょうか。

 名前の由来を調べてみると、古代のこの地方を”毛野国”(”けぬこく”、あるいは、”けのこく”)と呼び、”けぬがわ”が、”きぬがわ”となったとか。

 鬼とは直接関係は無いようですが、やはり、数年前のこの川の氾濫を思い起こすと、どうしても、鬼の怒りと結びつけてしまいます。

 

鬼怒川温泉を流れる鬼怒川と温泉街から橋に下りる階段の鬼の絵。今回の旅の途中に訪れました。(奥州道中の沿線ではありません)

 白沢宿の中心地へ

 「白沢宿」の標識が置かれたバス停前を通りすぎると、街道は、右方向にゆっくりと弧を描く、下り道に入ります。

 どことなく、寂しさを感じる坂道ですが、眼前には、郷愁を誘う風景が広がって、街道情緒が味わえます。

 

※宿場町へと向かう坂道の街道。

 やげん坂

 宿場町の中心部へと向かうこの坂道は、”やげん坂”と呼ばれています。途中、道端に置かれていた説明板には、「この坂は、漢方の薬種をくだく舟形の器具(薬研)に坂の形が大変似ているところから、『やげん坂』と呼ばれるようになったと言い伝えられています。」との紹介がありました。

 坂道の中ほどに差し掛かったところには、再び、「白沢宿」の標識です。そして、その右隣りには、「江戸時代の公衆便所跡」の表示板と、小さなバラックづくりの建物がありました。

 「江戸時代の公衆便所」、という言葉自体、初めて目にしたものですが、当時から、そのような施設があったのかと、施設を見ながら、妙に納得したものでした。

 

※やげん坂の中ほどに差し掛かったところ。右には、標識や小さな建物が見えます。

 白沢宿

 やげん坂をさらに下ると、いよいよ白沢宿の中心部に入ります。道沿いの民家の壁には、「紺屋」など、かつての宿場の屋号が書かれた、木製の標識が掲げられ、歴史の証しを伝えています。

 坂道を下りきると、白沢宿の交差点。街道は、このT字路の交差点を左へと進みます。

 

※左、屋号が懸かる民家の壁。右、白沢宿の交差点。

 白沢宿は、宇都宮から11キロほど離れています。かつては、本陣と脇本陣が各1軒、旅籠は13軒ありました。

 交差点を左に折れると、こうした宿場町の片鱗が、わずかながらも残っています。宿場通りの町並みは、水路と歩道が美しく整備され、時折見かける歴史ある建物と、よく調和しているように感じます。

 

※白沢宿の様子。左中程には、歴史ありそうな木造建物も見られます。

 

 一区切り

 昼過ぎに宇都宮の追分を発った私たち、夕刻に、ようやく白沢宿に着きました。この日の、奥州道中初日の旅は、一旦ここで一区切り。そこそこの疲労を感じつつ、バス停留所を探します。

 宿場町を歩いていると、幾つかの停留所を見かけます。バスの時刻との兼ね合いで、私たちは、道筋の北端の「白沢小学校入口」の停留所まで歩を進め、そこからバスに乗ることになりました。

 この日はバスで宇都宮駅へと引き返し、駅近くで一夜を過ごします。

 

※白沢小学校入口のバス停留所。正面奥は、酒造の蔵元です。

 

 宿場町を後に

 翌日、バスで再び白沢宿に舞い戻り、続きの道を歩きます。この日は、午後から雨予報。早いうちに、少しでも距離を稼ぎたいところです。

 宿場町の先にある、老舗の酒屋前を右に折れ、鬼怒川方面へと向かいます。曲がり角の内側には、小さな神社の祠です。道行く人を見守るように、静かにその姿を隠しています。

 

※宿場町の突き当りを右に折れ、鬼怒川へと向かいます。

 

 街道は、しばらくすると、白沢の町中を後にして、農地が広がる道筋に変わります。そして、その先には、もう一つの集落です。

 見上げると、厚い雲が近づく様子。どんよりとした空を眺めて、先の道を急ぎます。

 

※白沢宿を後にして、農地に入った街道。

 

 途中、小さな川を横切ると、街道は、次の集落に入ります。

 

※西鬼怒川と言うのでしょうか。小さな川を越え、次の集落に入ります。

 

 一里塚

 小さな集落の中を通り過ぎると、左手の空き地のところに、「白澤の一里塚」と刻まれた、大きな石柱がありました。

 傍に置かれた説明板を見てみると、「古文書には、白澤の一里塚は日本橋から三十番目で、かつては鬼怒川の河原にあったため、度々の洪水で壊れてしまったと記されています。」と書かれています。

 ここに置かれた石柱は、後世にその歴史を残すために置かれたもので、地域の方々の郷土愛が窺えます。

 

※「白澤の一里塚」の石柱。

 

 鬼怒川へ

 街道は、緩やかに弧を描き、まばらに残る、農村の民家の道をすり抜けます。

 

※緩やかに弧を描く街道。

 

 やがて、道は、鬼怒川の堤防へ。その先は、堤防道を左に向けて進みます。

 

※鬼怒川右岸堤防に突き当たった街道。

 

 鬼怒川の右岸堤防に達した街道は、しばらくの間、整備された堤の道を進みます。右側は、鬼怒川の河畔林が視界を遮り、左には農地が広がります。

 しばらくすると、堤防から河畔林の中に入る、坂の小道が現れます。街道は、その坂道の方向です。

 

※鬼怒川の右岸堤防道。右の写真の中央に、河畔林に向かう道があり、そこを入って行きます。

 鬼怒川の渡し跡

 河畔林の中を進むと、やがて、鬼怒川の河原です。そしてそこには、それこそ貧弱な、板造りの標識がありました。

 標識には、右方向が白沢宿、左が氏家宿(うじいえじゅく)と書かれています。中央の木杭には、「鬼怒川の渡し跡」。その昔、ここから舟で、対岸を目指したのだと思います。

 

※鬼怒川の渡し跡と鬼怒川。

 

 今は、鬼怒川の渡しはありません。私たちは、このやや上流に架けられた、県道125号線(白沢街道)の、阿久津大橋を利用して、対岸に向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]3・・・白沢宿へ

 白沢街道

 

 県道125号線は、別名、白沢街道と呼ばれています。宇都宮の次の宿場の白沢へと向かう道。奥州道中と呼ぶよりも、地元の人にしてみれば、この方が親しみやすいのかも知れません。

 白沢宿を通り過ぎると、その先は、この地方の大河川、鬼怒川(きぬがわ)を迎えます。奥日光に源流を発する鬼怒川は、この辺りではもう随分と広い川幅で、街道の行く手を阻んでいます。白沢は、鬼怒川の対岸の氏家の宿場とともに、鬼怒川の川越しを控えていた宿場です。時には、増水で、先に向かうことも叶わずに、ここで足止めを喰らうこともあったでしょう。

 一方で、宇都宮と白沢間は、大きな流れはありません。鬼怒川が増水しても、この間は、常に往き来が可能です。天候にさほど影響を受けることなく、物資や人の往来は盛んだったことでしょう。地元の動脈とも言える道。それが、白沢街道だったのだと思います。

 

 

 長屋門

 県道は、宇都宮市の郊外を、真っ直ぐ北へと向かっています。沿線は、住宅が中心で、ところどころに、コンビニやレストランが点在している状況です。

 街道の名残りなどはほとんど無い道筋ですが、たまに、長屋門など、趣ある建物を目にすると、往時の様子が偲ばれます。日光道中を歩いた時も、このような長屋門を、そこここで見かけたものでした。車で通過していては、なかなか気づかない光景ですが、歩いてこそ味わえる、街道筋の妙味です。

 

※県道沿いにある長屋門

 県道

 県道は、一旦道幅が狭まった後、再び片側2車線の、広々とした道に変わります。高層の建物は姿を消して、空は大きく開けています。

 

※県道125号線沿いに進む街道。

 

 やがて、岩曽(いわぞ)の交差点。民家が沿線に並ぶ中、自動車関係の店舗なども並んでいます。

 

※岩曽交差点。

 

 街道は、下川俣町を通過して、その先で、ゆったりと蛇行する状況に。

 やがて、県道の正面に、高架道路が横切ります。この道路、「宮環」と呼ばれる宇都宮環状線。左に向かえば、日光道中を歩いた時にも横切った、日光へと向かう道路に接続します。

 

※県道125号線の様子。

 海道町

 街道の沿線は、次第に民家もまばらになって、農地が広がる地域へと変わります。この辺り、道幅は再び狭くなり、車の数も幾分少なくなった様子です。

 

※農地が見られるようになった街道。

 

 しばらくすると、「下海道町」と表示された、バス停留所がありました。”海道町”とは、興味をそそる地名です。

 ふと、かつて、甲州道中を歩いた時に、”阿弥陀海道”という地名があったことを思い出したものでした。そこは、JR中央本線笹子駅のすぐ近く。かつて、阿弥陀海道の宿場町があったところです。

 甲州の谷あいにあった阿弥陀海道と同様に、この海道町も、海とは縁がありません。”街道”が”海道”となったのか。或いは、海へとつながる、川や水路が近くにあって、その水運が語源となったのか。

 色々と思いを巡らし、白沢へと歩を進めます。

 

※下海道町を通る街道。

 街道は、やがて、海道町の交差点に入ります。沿線は、敷地の広い民家が並び、その奥には、農地が広がります。

 

※海道町交差点。

 

 しばらくすると、民家は途切れ、辺りは農村の風景が広がります。歩道には、杉の木なども見受けられ、往時の並木の名残りのようにも感じます。

 

※農村の風景に変わる街道。

 稚児坂

 やがて街道は、それこそ、農地や雑木林に囲まれた、人気のない道を通ります。もう、完全に宇都宮市の郊外で、人里離れた寂しささえ感じてしまう区間です。

 

※白沢に向かう県道と歩道。

 県道をさらに進むと、次第に、新しい住宅や、工場などが混在する地域に入ります。道路際のバス停には、「稚ケ坂」の表記です。

 地図を見ると、この辺りは、稚ケ坂と呼ぶようですが、この地名の由来については、おそらく、この先にある坂の名前からきているのだと思います。

 下の写真にもあるように、県道の先線には、少し旧勾配の坂道が待ち受けます。この坂が”稚児坂”で、その上は、台地のような地形です。

 

※稚ケ坂を通る県道。

 稚児坂を迎えた街道は、急勾配の坂道に入ります。難所とまではいかないものの、歩くペースは、随分と弱まります。

 この稚児坂、鎌倉時代に奥州に派遣された奉行の子どもが、この地で病で亡くなったのが、地名の由来ということです。ただでさえ、陸奥(みちのく)への赴任の旅は、心細かったことでしょう。ましてや子どもが身体をこわし、命を落とすことになろうとは、その心情は計り知れるものではありません。

 

※稚児坂。

 

 白沢

 稚児坂の辺りから、地名はもう白沢です。ところどころに、”白沢”の名が含まれた、標識などが目にとまります。

 白沢の宿場町まで、あと、どれほどの距離でしょう。宇都宮の追分を、昼過ぎに発った私たち。時刻はもう、夕方近くに迫っています。

 

※稚児坂を上りきり、高台状の地域を歩きます。

 

 旧道へ

 しばらくすると、白沢歩道橋の交差点を迎えます。この交差点は、”y”字状になっていて、小文字の”y”の、左下から右上が、奥州道中の道筋です。一方で県道125号線(白沢街道)は、左方向に向かう道。この交差点で、街道は、県道から離れます。

 旧道に入った所には、交差点の名前の通り、歩道橋が設けられ、旧道を跨いでいます。

 

※白沢歩道橋。直前に左に向かう道があり、そこで国道と旧道が分かれます。

 

 白沢宿

 旧道をしばらく進むと、道路際にバス停があり、木造の小さな待合の建物がありました。建物前には、「白沢宿」の標識です。そして、併せて、「ここは江戸より三十里」とも書かれています。

 いよいよ、白沢の宿場町に到着です。私たちは、バスの時刻を確認し、あと少し、宿場町の中心部へと向かいます。

 

※白沢宿の標識が置かれたバス停留所。宿場町の中心部はもう少し先になるようです。

 

歩き旅のスケッチ[奥州道中]2・・・駅前から白沢宿へ

 多様な顔の街

 

 栃木県の県庁所在地である宇都宮。市街地の中心は、駅前の辺りまで続きます。日光道中との分岐点である追分から、駅近くまで、宿場町、城下町、門前町の顔を持ちながら、この都市は発展してきたのです。そしてその先は、或いは、物流が盛んな商業の町だったのかも知れません。幾つかの川が流れ下り、豪商の住まいが残る道筋が、そのことを物語っているようにも思えます。

 幾つもの顔を持つ、宇都宮。駅前の通りを越えて、さらに北へと進んで行くと、一気に郊外の様相に変わります。車が往き交う幹線道路を歩き進んで、次の宿場の白沢宿を目指します。

 

 

 市街地の中の街道

 細い路地の商店街を抜け出ると、少し広い県道が、その行く手を阻みます。街道は、そこを左折し、一つ先の横断歩道を、右方向に渡ります。

 ジグザグに折れ曲がる、街の中の街道は、地図でよく確認しながら辿らなければなりません。

 

※県道に出た街道。この先の横断歩道をコンビニへと渡り、その脇の道を進んで行きます。

 

 県道から路地道に入ってしばらくすると、今度は、別の県道に出合います。この辺り、住宅はほとんど見かけることはありません。概ね、事務所などの建物が並んでいます。

 

※もう一つの県道に出た街道。

 

 駅前

 街道は、その県道を左手の方向へ。そして、間もなく、駅前の大通りと交差する大きな交差点に入ります。

 この交差点、右に向かうと、田川を越えて、宇都宮駅西口に至ります。そして、左に向かえば、二荒山神社(ふたあらやまじんじゃ)が右側に。その先は、本町などの市街地へと向かうのです。

 奥州道中の道筋は、交差点を横切って、真っ直ぐ北へと進みます。

 

※駅前大通りと交わる交差点。

 

 この先、道沿いは、一気に静かな街並みに変わります。人通りがあまり無い、寂しげな光景が目の前に広がります。

 不思議な感じのこの通り、かつては、街道沿いの賑わいの町だったのだと思います。今は、一筋東に設けられた、駅前を横切る道路が中心です。特に昼の間は、街道は、このような、静かな街に姿を変えているのでしょう。

 

※駅前大通りとの交差点を越えると、静かな街に変わります。

 

 田川

 落ち着いた、静かな道を進んで行くと、その先で、右方向にカーブを描き、田川に架かる、幸橋(旧上河原橋)を渡ります。

 この田川、宇都宮の東の区域を流下して、その先で、鬼怒川(きぬがわ)に注ぎます。おそらくかつては、水運を利用して、物流が発展していたのだと思います。橋の欄干のところには、かつての”市”の様子が描かれた、モニュメントがありました。

 

※田川を渡る幸橋。

 

 初市の風景

 そのモニュメント、「初市風景」と表示され、次のような説明書きが付されています。

 

 「宇都宮市場は、古くから上河原にありました。江戸時代、奥州大名の参勤交代の通行に支障があるとして、寛永11年(1635年)より、年1回の初市に限ってこの地で催すこととなり、現在に至っています。」

 

 橋の南の方向は、宇都宮の駅前です。田川を挟んで高層ビルが建ち並び、近代都市の街並みをつくっています。

 

※初市風景のモニュメント。

 

 県道

 幸橋を渡り切り、少しだけ道なりに進んで行くと、幹線道路の交差点に入ります。この交差点を直進し、斜め右にカーブを切るとJR宇都宮駅に至ります。

 交差点を横切る道は、道路標識の表示では、県道10号線とのことですが、地図では、県道125号線の記載です。何れにしても、この道が、白沢街道と呼ばれる道で、宇都宮の駅前を横断し、白沢の次の宿場の氏家(うじいえ)の辺りまでを繋いでいる道路です。

 私たちは、この交差点を左に折れて、県道沿いに、北に向かって進みます。

 

※幹線道路の交差点。左方向が奥州道中です。

 

 旧篠原家住宅

 上の写真で、交差点の北東角(中央やや右)をご覧いただければと思います。そこには、黒く塗られた漆喰の、歴史ある建物が残っています。

 この建物、旧篠原家住宅で、国の重要文化財にも指定されているようです。中に入ることもできますが、私たちは、表から、説明書きだけ読ませていただき、先を急ぐことになりました。

 

 「篠原家は奥州街道口の豪商で、江戸時代から第二次世界大戦までは醤油醸造業・肥料商を営んでいた。明治28年(1895)に建てられたこの店蔵は、店舗と住居部分を一体化した蔵造りになっている。」

 

 先ほどの、幸橋(上河原橋)の”市”と言い、この豪商の館と言い、この辺りは確かに、商業の町だった様子です。

 幾つもの顔を有する宇都宮。関東北部の中心地となる条件を、古くから備えていたのだと思います。

 

※旧篠原家住宅前。

 北へ

 街道は、この先、県道の歩道に沿って、一気に北へと向かいます。駅前の高層ビルは姿を消して、低層の事務所風の建物が、道伝いに並んでいます。

 この県道、車の通りは頻繁で、道幅も片側2車線という具合。広々とした幹線道路の歩道に沿って街道は続きます。

 

※今泉町交差点。

 

 新幹線

 県道をさらに進むと、右側から、東北新幹線の高架の軌道が近づきます。そして、その先で、街道は鋭角に高架橋と立体交差。新幹線の軌道を見上げて、真っ直ぐに、北に向けて進みます。

 

※新幹線の軌道と交差する直前の街道。

 

 郊外へ

 街道の沿線は、一気に郊外の様相に変わります。道は、新幹線と交差する手前辺りで、二方向に分岐したため、その後は、道幅も片側1車線に狭まります。

 

※郊外の様相に姿を変えた県道125号線。

 

 この先、次の宿場までは、まだもう少し距離がありそうです。淡々と、県道伝いに、初日の行程を刻みます。