旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)29・・・土佐路(39番→38番)

 巡り旅のスケッチ(四国巡拝)の再開

 

 今回から、「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)」の再開です。四国八十八か所霊場巡りは弘法大師ゆかりの古刹を訪ねるもの。阿波の国の1番札所、霊山寺から、讃岐の国の山中にある、88番大窪寺まで、88か所の寺院の巡拝です。

 札所巡りの順番は、千差万別とは言うものの、一般には、1番から88番まで、ほぼ順序通りに進むのが一般的。阿波の国から土佐に入り、伊予、讃岐へと、四国の中を時計回りに周ります。ところが、4年に1度の閏年の巡拝は、逆打ちと呼ばれる周り方が好まれます。

 昨年(2020年)は、閏年。慣習に従って、88番大窪寺から、逆回りの巡拝です。

 

 「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)」の前半は、28回シリーズで、88番札所から、伊予の国の最後の札所、40番観自在寺までを描いたもの。今回からは、その続き、39番札所から、本来の起点である、1番札所を目指します。

 

 

 土佐の国

 今回から、土佐の国に入ります。四国では、最も広い面積を誇る高知県。西の足摺岬から、東の室戸岬まで、太平洋を抱くように、海岸線がつながります。

 四国八十八か所霊場は、四国4県では最も少ない16か寺。それだけに、霊場間の間隔は開きます。土佐の国の巡礼は、「修行の道場」と呼ばれるように、歩き遍路の方にとっては、その距離を克服するのが、大変な苦労だと思います。

 土佐の国の最初の札所は、39番延光寺。そこから、四国最南端の足摺岬へと向かいます。

 

 

 延光寺

 伊予の国の最後の札所、40番観自在寺を後にして、すぐに国道56号線に入ります。交通量は、それほどではないものの、愛媛県高知県を隔てる山越えの道。カーブを繰り返しながら、県境をまたぎます。

 高知県に入ってしばらくすると、道は盆地状の開けた空間に入ります。そして、延光寺への進入路を示す表示板。指示に従い、国道を左にそれて、谷あいの集落へと進みます。

 少し山の中に入りかけたところが、39番延光寺。土佐の国の初めての札所です。

 

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延光寺の入口と仁王門。

 

 延光寺の銅鐘

 石段を上がって仁王門をくぐると、少し開けた感じの境内が続きます。参道を本堂に向かって進んでいくと、右側には、一風変わった亀の像がありました。強いて注意をしなくても、参拝者の目を引き付ける、奇妙な姿の亀の像。甲羅の上に、梵鐘を乗せた像の姿は、この寺の名の由来に関係しているということです。

 

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※亀の像。

 

 この石像は、昭和54年に、ある方が寄進されたものですが、その台座には、ごく簡単に延光寺の銅鐘の由来が刻まれています。

 それによると、「延喜11年(911)に赤亀が竜宮より持ち帰る。」とされ、「この由来に依り、亀鶴山宝光寺を赤亀山延光寺と改め今日に至る。」とのこと。

 実際に、銅鐘はこの寺に存在しているようですが、亀が竜宮から持ち帰るとは、何とも微笑ましい伝説のように思えます。

 

 延光寺

 石像を通り過ぎると、境内の中心地に入ります。右前方が本堂で、本堂の左手前に大師堂がありました。

 大師堂は、本堂と比べて、意外と小さなお堂です。「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)」シリーズの前半でも触れてきたことですが、四国八十八か所霊場巡りは、少なくとも、本堂と大師堂の参拝を行います。

 大師堂には、例外なく、弘法大師が祀られていて、大師と共に巡り歩く巡拝では、このお堂の参拝を、欠かすことができません。

 

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※左、延光寺本堂。右、大師堂。

 庭園
 本堂と大師堂の参拝を終え、納経所で御朱印を頂きます。納経所は、本堂に向かって右側で、本堂との間には、立派な庭が広がります。よく手入れされている深みのある庭園は、参拝者の誰もが触れられる配置です。四季折々、様々な姿を醸し出してくれるのでしょう。

 

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延光寺の庭園。

 

 金剛福寺

 延光寺を後にして、次の札所、38番金剛福寺(こんごうふくじ)へと向かいます。地図を見ると、高知県の西南部分は、宿毛市四万十市の中村を結ぶ線の南側の一帯が、一塊の山地です。その山地の南東に、盲腸のように突き出た小半島の先端にあるのが足摺岬

 従って、延光寺から足摺岬に向かうには、概ね、3通りの選択肢があるのです。1つ目は、宿毛から西回りで山塊を回り込み、竜串を通って足摺の小半島に向かう道。2つ目は、その逆の東回り。四万十市の中村の郊外をかすめて、四万十川の堤防に出た後で、そこから土佐清水を経由して、小半島に入る道。

 3つ目の選択肢が、実に悩ましいルートです。この道は、延光寺を出て、国道56号線を少しだけ中村方面に向かいます。丁度、宿毛と中村の中間辺りで右折して、その後は、一気に南下です。つまり、直線的に山塊を割るようにして南へと向かうのです。*1

 

 以前、順周りの巡拝をした時は、足摺岬から東回りで延光寺へと向かったのですが、今回は、安易にも、3番目の直線コースの選択です。このルートを選んだ理由は、他でもなく、単純に、時間的な問題によるものです。

 実は、延光寺の参拝を終えた時刻が、15時過ぎ。四国の札所は、17時で閉じられるため*2、少なくとも、16時45分頃には、金剛福寺に到着しなければなりません。

 金剛福寺の参拝を翌日にしてしまうと、宿泊場所との関係からも、時間のロスが重なります。何とか、1時間と少しの時間で、確実に到着するため、直線的なルートの選択に至ったという次第です。

 

 ところが、このルートの選択は、成功とは言えないほど、過酷なドライブになりました。山塊の中を、延々と、つづら折れのカーブが続く道。対向車はほとんどなく、心細くなるようなところです。折れ曲がる坂道と、時間との戦いに、ほぼ1時間を費やして、ようやく、山塊を抜け出すことができたのです。

 そして、足摺の小半島に差し掛かかった時には、すでに時刻は、16時30分に迫ろうという状況。制限時刻すれすれで、岬にある、金剛福寺に辿り着くことができました。

 

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足摺岬灯台
 

 39番延光寺と38番金剛福寺をつなぐルートは、回り道とは思っても、是非とも、四万十市の中村を経由する東ルートをお薦めします。

 

*1:このルートは、山地の中に分岐があって、さらに2手に分かれます。1つは、やや東へと進み、下ノ加江に至る道。もう1つは、やや西に進んで土佐清水に入る道。私たちは、後者の方に進んでしまいました。

*2:実際は、納経所の開設時間が午前8時から午後5時までとなっているため、この時間帯をはずれると、寺院の中には入れても、納経を頂くことができなるということです。

歩き旅のスケッチ[東海道]37・・・二川宿から遠州へ

 三河から遠州

 

 今回で、「歩き旅のスケッチ[東海道]」の第1章を終わります。最終回の今回は、三河の国の二川宿(ふたがわじゅく)。東海道の宿場の中では、珍しく、往時の面影がよく残るところです。

 このシリーズで、何度も触れてきたように、東海道の宿場の中で随一の見どころは、重要伝統的建造物群保存地区に指定された、47番関宿です。その関宿に続くのが、49番土山宿と、この、二川宿だと思います。*1

 今の東海道には、数か所しか残されていないような、往時の宿場町の姿を味わいながら、三河から遠江の国へと向かいます。

 

 

 二川宿

 二川宿は、天保14年(1843)には、本陣、脇本陣がそれぞれ1軒、旅籠屋が38軒、人口は1468人で家数は328軒であったとされています。今も、宿場町の景観をよく残していて、一推しの宿場町のひとつです。

 本陣跡は、よく修景され、今は資料館として活用されているということです。本陣の近くには、駒屋という商家など、昔のままの姿を残す建物が並びます。

 

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※本陣跡(右)と西駒屋(左)。

 

 宿場町の家並みは、そこそこ長い距離で続きます。往時の旅籠の数からすると、そんなに大きな宿場でないのに、見応えは十分です。

 私たちが訪れた時、大名行列の挙行を告げるポスターが、あちこちに貼られていたのを覚えています。今も残る町並みと、歴史を伝える町の行事は、宿場町の存在を後世に引きつぐ人々の、気概のあらわれのような気がします。

 

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※二川宿の様子。

 

 宿場の東端

 宿場町を味わいながら、東へと進んで行くと、左手角に、川口屋という趣ある木造の建物がありました。そして、この建物のすぐ傍に、二川の一里塚跡を示す石標が、静かに佇ずんでいたのです。

 今はもう、一里塚の痕跡は見られませんが、かつては、東国から来た旅人は、この一里塚を認めることで、二川宿に到着した実感を味わったのだと思います。

 街道は、この先で宿場町を後にして、農地の中へと進みます。

 

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※川口屋の建物と二川の一里塚の石標。

 

 国道へ

 しばらくすると、JR東海道本線の踏切を越え、小さな川を横切ります。その先で、右側に大きく湾曲した後は、今度は、東海道新幹線の軌道下をくぐり抜け、すぐに国道1号線と合流です。

 ここからは、数キロの間、ひたすら国道の歩道を歩きます。周囲は、工場あり、農地ありの、広々とした空間です。

 

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※国道1号線との合流点。

 

 国道歩き

 国道1号線の道筋は、この先で、浜名湖遠州灘と接合するところを通過するため、一気に南へと向かいます。この辺りの農地には、砂地が広がっているようで、キャベツなどの野菜畑が続きます。

 

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遠州へと向かう国道の風景。

 

 三河の終わり

 延々と、国道を歩いて行くと、やがて左手に、こんもりと木々が覆う、小さな森のような場所が現れました。よく見ると、ここが、三河最後の一里塚。細谷(ほそや)の一里塚跡ということです。

 一見、鎮守の杜と思えるような、少し変わった一里塚の姿を見ながら、二川宿から既に4Kmほど、歩みを進めた充実感を味わったものでした。

 

 街道は、一里塚の少し先で、国道から左手にそれて、県道に入ります。そして、間もなく、三河の国は終わりを告げて、次の国、遠江の国に入ります。

 

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※左、細谷の一里塚跡。右、愛知県と静岡県の県境。

 

第1章の最終回

 

 今回で、東海道の第1章を終わります。予定では、30回ほどのシリーズで、草津宿から遠州の入口までを振り返る予定でしたが、既に、37回目を迎えます。

 少し漫然と綴ってしまったことを反省しながら、このシリーズを一休み。しばらくの間を置いて、第2章へとつなます。

 第2章は、遠江の国と駿河の国、今の静岡県の街道を描きます。浜名湖に代表される遠江駿河は、富士山の絶景が見事です。

 

 私たちの東海道の街道歩きは、箱根の峠を越えた後、今は相模の国の途中です。このご時世、なかなか思うようには進めませんが、第2章を始める頃には、何とか踏破したいと思っています。

 

 さて、次回からは、四国八十八か所の逆打ちの旅、「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)」の続きです。88番大窪寺から始まった、閏年の逆回りの巡礼も、讃岐、伊予の国の霊場を巡り終え、土佐の国に入ります。土佐の国の宿毛にある、39番延光寺。そして、足摺岬に境内を構える38番金剛福寺へ。そこから、空海が明星を得た室戸岬を目指して進みます。

 最後の国は阿波の国。深い山々が連なる四国山地の東端は、これも空海が若い頃に修行を重ねたところです。あの、衛門三郎(「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)22」を参照下さい。)が21回目の四国巡礼の中で息絶えた焼山寺は、12番札所です。

 最後は、吉野川の流れとともに、讃岐山地の南の麓を、1番札所の霊山寺へと向かいます。

 

 四国巡礼は、弘法大師と巡る旅。しかし、それは、宗教と直接つながるものではありません。弘法大師が求めたものは、宗教を超越した、宇宙の真理とも言われています。

 自分自身を見つめること、それこそが、人々を引き付けてやまない、巡礼の魅力なのだと思います。

 

*1:尾張の国の有松も、宿場町ではなかったものの、土山や二川に引けを取らない町並みを残しています。

歩き旅のスケッチ[東海道]36・・・吉田宿から二川宿へ

 三河の国の最後の宿場

 

 いよいよ、三河の国の最終章。豊橋市にある2つの宿場、吉田宿と二川宿を訪ねます。

 近江の国の草津宿から出発して、伊勢、尾張へとつなぎ歩いて、三河の国へ。そして、愛知県の最東端の豊橋です。静岡の遠江の国を目前にして、三河最後の街道歩きを楽しみます

 

 

 吉田宿

 広い国道の交差点を横切って、吉田宿に入ります。吉田宿は、市街地が整備され、再開発されたような街中です。街道沿いは、ほとんどが新しくできた街。かつてここが、宿場町であったことなど、なかなか感じることができません。

 豊橋は、空襲や地震のために、往時の町の姿は、ほとんど見られないということです。

 

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※吉田宿の入口付近。

 吉田宿の沿道には、コンクリートの建物が並びます。街道は、ところどころで街角を直角に曲がることになりますが、道路標識が整っていて、迷うことはありません。「東海道」と記された案内を確認しながら、東へと向かいます。

 ビルの間には、時々、老舗らしい店の名前の建物も見られます。しばらく進むと、本陣跡を示す石標などもありました。

 

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※吉田宿の様子。

 

 東へ

 街道が通過する街の様子は、次第に住宅地へと変わります。道幅もやや狭くなり、歩道などもありません。道案内に従って、忠実に街道を辿ります。

 豊橋の官庁街や、吉田城跡に整備された公園などは、街道のすぐ北側を通過する、国道1号線沿いに広がっていて、交差点から、わずかながら、その様子なども見られます。

 

 東惣門

 街道は、やがて、その国道へ。その先は、しばらく国道の歩道を歩きます。

 街道が国道と交わる所には、歴史ある小さな門がありました。この門は東惣門というもので、そこが、吉田城下の入口だったということです。

 

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※左、吉田宿の後半。右、東惣門跡。

 

 東惣門のすぐ傍に立てられた説明板には、この門は、「鍛冶町の東側に位置する下モ町(ママ)の吉田城惣堀西で、東海道にまたがって南向きに建てられていた」と記されています。惣門は、朝6時から夜10時まで開けられており、これ以外の時間は、一般の通行は禁止されていたようです。

 門がある大きな交差点は、歩道橋で渡ります。橋の上から眺めると、東海道の先の景色をわずかながら、眺めることが可能です。

 

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※歩道橋から国道1号を確認します。遠方の低い山並みの下が次の宿場の二川宿。

 国道から旧道へ

 この後しばらくは、国道1号線に沿って歩きます。途中には、街道らしい景色のところはありません。わずかに、趣のある寺院などが目に止まる程度です。

 やがて、飯村というとこから、街道は左手の旧道に入ります。この旧道の入口付近に、飯村の一里塚跡がありました。

 

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※国道の風景。

 クロマツの並木

 旧道を進んで行くと、街道は、もう一度斜め左の道に入ります。上り坂が勾配を増し、丘陵のような地形のところを進みます。この辺りは、大岩というところ。後で少し触れますが、ここは、当初、宿場の機能を持ち合わせていたようです。

 美しく整備された歩道を進むと、「旧東海道クロマツ跡」と刻まれた石標が。そして、その先の歩道脇には、近年植えられた様子の、幾本かの小さな松の木がありました。今ではもう、姿を消したクロ松並木。地域による、復活の試みが行われている様子です。

 

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旧東海道クロマツ跡の石標。

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クロマツが植えられた街道。

 

 二川宿へ

 街道は、やがて下り坂。右側には、森林公園のような、森が広がります。道は、突き当りのT字路を右折です。そこからは、さらに下り勾配がきつくなり、一気に坂を下ります。

 坂道を下りきったところは、火打坂の交差点。その先が二川の宿場です。

 

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※坂道を二川へと下ります。

 

 日打坂の交差点を直進すると、街道は、緩やかに左方向に向かいます。その先の右側に、JR東海道本線二川駅がありました。

 

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※火打坂の交差点。
 

 二川駅辺り

 二川の宿場町は、二川駅を越えてから、その醍醐味が味わえます。駅前自体は、ごく普通の郊外の駅の風景ですが、何となく、モニュメントや宿場案内の説明板を見ていると、これから先の宿場町の姿を予感させるような気配です。

 

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二川駅前に設置されたモニュメントと案内板。

 駅前広場に掲げられた二川宿の案内は、宿場の成り立ちについて、次のように記しています。

 

 「東海道の開設当時は、二川村と大岩村の二か村で一宿分の業務を行っていましたが、正保元年(1644)に両村は現在地に移転して、二川宿と加宿(かしゅく)*1大岩となり、東海道53次中33番目の宿駅として業務を行うことになりました。」 

 

 二川宿

 二川駅を通り過ぎ、少し東に向かったところで、街道は、一気に道幅が狭まります。そして、街の様子は、次第に宿場町の雰囲気に変わります。

 三河の国の最後の宿場、二川宿は、今残る東海道の宿場の中で、第2第3を争うような、かつての姿が良く残る宿場町。伊勢の国の関宿は別格ではありますが、近江の国の土山宿と、この二川宿の2つの宿場は、関宿の次に位置するぐらい、趣があるところです。

 

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※二川宿の入口辺り。

 

*1:ウィキペディアによると、「加宿とは、宿場において人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの。」とされています。

歩き旅のスケッチ[東海道]35・・・吉田宿へ

 豊橋平野

 

 街道は、御油の宿場を出た後は、豊橋の平野の道を一路南東に向かいます。次の宿場の吉田宿は、豊橋市の市街地にある宿場です。元は、城下町として発展し、東西の往き来の中で、街道や宿場町が形づくられたのだと思います。

 三河の国も、いよいよ終わりに近づいて、潮の香りが漂い来る、遠江の国が迫ります。

 

 

 国府の町

 国府(こう)の町は、かつては、三河の国の国府が置かれたところです。今でも、国分寺跡が残っていて、その昔は、三河の中心地だったことでしょう。

 街道は、名鉄名古屋本線や、国道1号線と並行して、それらのやや西側を通ります。名鉄国府駅(こうえき)から数百メートルのところです。

 この日の私たちの街道歩きは、この国府の町から始めます。

 

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国府の町の街道の様子。

 国府の町の街道は、ところどころに年代を感じる建物が見られるものの、全体として、街道筋の景観はありません。次第に国道に近づいて、その先で、国道の歩道に合流します。

 少しの間、交通量の多い国道を歩き、その先で、右方向の脇道に入ります。

 

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※左、国府の町の街道。国道との合流点。右、再び旧道の脇道へ。

 旧道歩き

 国道から外れた街道は、その先で、国道のすぐ右側を、国道と並行して南東方向に進みます。

 途中、国道と立体的に交差する県道の高架下を、少し回り道をして渡ります。その先は、ほぼ一直線。道沿いには、中小の事業所や工場などが連なります。この辺りは、豊川市小田渕(おだぶち)というところ。国道の往来を左手に眺めながら、平地が広がる郊外の街を歩きます。

 

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※県道の高架を迂回してくぐります。

 豊川の町々

 国道の1筋西側を延びる街道は、次第に住居が張り付いて、市街地の様相に変わります。道は、片側1車線に整備され、歴史ある道の姿ではありません。

 わずかに、道端に据え付けられた石標が、この道が街道であった証を伝えています。石標をよく見ると、伊奈一里塚跡の文字が刻まれて、この辺りに、一里塚があったことが分かります。

 

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※伊奈の一里塚跡。

 

 一里塚跡がある伊奈の町を通り過ぎると、小坂井という町に入ります。依然として、住宅が並ぶ道筋を進んだその先に、JR飯田線の踏切です。

 飯田線は、豊橋駅から長野県の伊那地方をつなぐ軌道で、山間を縫うように信濃の国へと向かいます。

 

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※左、小坂井の街道。右、飯田線の踏切。

 豊橋

 街道は、次第に豊橋に近づきます。辺りは新しい街の様子に変わり、幅広い交差点も横切らなければなりません。その先は、一見、川と思える放水路。ここを越えると、ようやく豊橋市に入ります。

 放水路に架かる橋は、歩道が無いため、安全には細心の注意が必要です。駆け足を交えながら、急いでこの橋を渡ります。

 

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※放水路に架かる橋。

 豊橋の入口

 放水路の橋を渡ると、すぐ右手には、豊橋の魚市場がありました。さらに、街道の両側の沿道には、鮮魚店や卸商などの店が並び、豊橋市の食を支える基地のようなところです。

 

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※右手が魚市場。この先、魚介などの商店が並びます。

 

 魚市場から遠ざかるに従って、辺りの様子は、旧来の集落のような雰囲気に変わります。ところどころに、木造の落ち着いた家屋なども目に止まり、緩やかに湾曲した道筋と併せて、わずかながら、街道の景観が味わえます。

 

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豊橋の市街地を目指す街道の風景。

 

 市街地へ

 街道は、やがて、豊川という大きな川に突き当たります。その後、川の右岸の堤防を、少しだけ上流に向かうと、豊橋(とよばし)へ。この橋を渡り切れば、豊橋の市街地に入ります。
 

  豊川を渡ったところの左手には、「船町と高札場」と記された説明板がありました。それによると、その昔、豊川の川べりは四ツ家(四ツ屋)と称され、数件の家屋がまばらにある河原同然の土地だったということです。後に、天正18年(1590)、吉田城主、池田照政の命で開発が進み、吉田湊が築かれることになりました。

 この辺りは、その頃から船町とよばれるようになり、江戸や伊勢とを結ぶ航路の起点として重要な役割を果たしたということです。

 

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※船町の説明板。

 

 吉田宿へ

 豊橋の市街地の中に入った街道は、この後、区画された道路を進みます。左に右に、屈折を繰り返し、幹線道路の国道23号線を横切って、吉田の宿場に入ります。

 

 豊橋は、元は「吉田」と呼ばれていて、今も、吉田城跡が残っています。宿場も同様、豊橋宿とは呼びません。吉田宿こそ、豊橋にある宿場です。

 なぜ、豊橋と呼ぶようになったのか、詳しくは分かりませんが、明治時代に名称の変更があったということです。豊川の流れに架かる豊橋が、湊の拠点として重要な場所であったことから、この名前が用いられることになったのか。

 ただ、明治以降は、鉄道の役割が航路に取って代わったために、湊自体は衰退することになりました。ある意味、皮肉な結末だったのかも知れません。

 いずれにしても、豊橋と言えば、愛知県東部の拠点都市。誰もがその名を知るところです。

 

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※吉田宿への道。

歩き旅のスケッチ[東海道]34・・・御油宿と姫街道

 松並木から豊橋の街へ

 

 街道は、山間の道を通り抜け、次第に平地へと向かいます。辺りの景色も変化して、徐々に市街地の空気を感じる街並みへ。

 赤坂の次の宿場の御油宿は、東海道脇街道として有名な、姫街道との分岐です。東海道姫街道。何れの道を選ぶのか、かつては、色々と悩ましい選択だったことでしょう。

 御油宿を後にした街道は、三河東部の中心地、豊橋市に近づきます。豊橋は、吉田宿を擁しながら、吉田城の城下町として発展したところです。

 

 

 御油の松並木

 赤坂の宿場を発つと、すぐに松並木の道に入ります。よく保存され、整備されたこの並木道。御油の松並木として有名です。

 知立や藤川に残る松の並木も、それこそ見応えのあるものですが、御油はそれらを上回っていると思います。国の天然記念物にも指定されているこの松並木、東海道を代表する景観のひとつと言えるでしょう。

 

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御油の松並木。

 

 御油宿へ

 松並木を通過すると、間もなく、御油の宿場に到着です。直前の赤坂宿と御油宿は、わずか1.7Kmの間隔しかありません。見事な松並木を愛でている間に、辿り着いてしまいます。

 御油宿の入口辺りは、古い木造の建物が何軒か見られるものの、全体として、町並みの特色はありません。

 街道は、真っすぐに延びていき、途中でクランク状に折れ曲がります。

 

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※左、御油宿の入口。右、御油宿の解説。

 

 赤坂宿と御油宿

 御油宿の入口に掲げられた説明では、36番赤坂宿と35番御油宿は、東海道の宿場間では最も短い距離であるとのこと。当初、2つの宿場は1宿分の役割を果たしていたとも記されています。

 また、ある解説では、元は1つの宿場であって、いつの日か、松並木を整備して2つの宿場に分けられたということです。

 何れにしても、この距離で2つの宿場が隣接している背景には、何らかの重要な理由があったのかも知れません。

 

 想像するに、37番藤川宿と34番吉田宿は、概ね20Kmの距離。この間には、三河の山地が広がります。山間の区間をすり抜ける街道の中間に位置するのが赤坂宿と御油宿で、ここには、宿場の機能は不可欠だったのだと思います。

 火災が絶えない宿場にあって、何れかは必ず機能させる意味合いもあったのではないかと想像しても、あながち間違ってはいないような気がします。*1

 

 御油宿

 御油宿は、天保14年(1843)には、316軒の家があり、本陣2軒(当初は4軒であったものが、2軒は天保4年の火災で消滅)、脇本陣は無し、旅籠は62軒であったということが、宿場入口の解説に書かれています。

 赤坂宿には、80軒の旅籠があったということで、2つの宿場を合わせると、都合142軒の宿場。これは、尾張の宮宿に次ぐ規模であり、相当な賑わいの情景が目に浮かんできそうです。

 

 姫街道

 御油宿の東のはずれ辺りには、街道の追分の表示がありました。「これより姫街道 遠州見付宿まで」というもので、東海道の脇道として整備された街道の起点です。

 姫街道は、御油宿から、豊川、三ケ日を経て、浜名湖の北岸を辿りつつ、気賀の関所に至ります。その後、浜松で東海道と合流することになりますが、一旦迂回路へと進んだ後、再び磐田市の見付宿で東海道に入ります。

 

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姫街道との分岐点。

 

 姫街道東海道双方の、御油宿と見付宿の間の距離は、それほど差異はないと思います。両者の違いは、浜名湖の北を通るか、南を往くかというものです。そのために、北回りの姫街道は、本坂(ほんざか)の峠越えが控えていて、南回りの東海道は、浜名湖を渡る今切(いまぎれ)の渡しの渡船が必要です。

 その他の重要な違いは、姫街道は気賀の関所を通ること。そして、東海道は、新居の関所の難関です。

 

 姫街道という、心が和むような道の名は、令和の時代の今日でも、地元では親しまれている通称名。何とも愛着を感じる名前です。

 この名の由来については、幾つかの説があるということですが、最も興味を惹かれる説は、やはり、「お姫様」に関するもの。つまり、女性が好んだ道というものです。

 この説の根拠のひとつは、関所の難易度によるものとか。女性の往来に厳しかった東海道の新居の関所。それに比べて、気賀の関所はそれほどでもなかったというものです。*2

 もうひとつの説としては、浜名湖の渡船の行程が、女性には敬遠されたというものです。

 女性が安心して通過できる関所の存在と陸路の行程。これこそが、姫の道と呼ばれるようになった所以ではないかと思います。

 

 そう言えば、姫街道の道中にある気賀の関所は、遠江の国(とおとうみ)の引佐(いなさ)というところです。引佐には、井伊谷(いいのや)と呼ばれる町があり、そこは、井伊家発祥の土地なのです。

 井伊家は、井伊直政彦根藩の初代の藩主。そして、井伊谷の最後の藩主が、あの、女城主の井伊直虎です。女性である直虎が愛した街道こそ、地元を通る姫街道だったとしたら‥‥。少しロマンを感じてしまいます。

 

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※左、御油宿を後にして、東へ。右、大社神社。

 

 国府(こう)へ

 街道は、御油宿を出た後、国府の町へと向かいます。

 私たちのこの日の行程は、国府にある、名鉄国府駅で終了です。今回は、藤川駅から出発し、赤坂宿、御油宿を経て国府駅へ。次回には、国府から、豊橋の吉田宿を目指します。

*1:東海道の道案内の解説サイト「人力」では、『赤坂御位(御油の元の名?)』は非常に大きな宿場であったので、五街道整備の時、徳川家康の命により中央に松を植え、赤坂宿と御油宿の2つの宿場に分けられたと解説されています。

*2:ただ、関所の難易差が本当にあったのか。異議を唱える人もいるようです。

歩き旅のスケッチ[東海道]33・・・本宿から赤坂宿と御油宿へ

 豊橋の平野へ

 

 間の宿(あいのしゅく)の本宿(もとじゅく)と、36番赤坂宿、35番御油宿は、山地を通る街道にある宿場です。この区間の街道は、一部を除いて、かつての道筋が良く残り、山間の景色を楽しみながら歩けます。

 街道筋が保存された理由としては、岡崎と豊橋とを結ぶJR東海道本線が、三河山地を迂回して、海沿いの蒲郡を通ったためと言えるのかも知れません。ただ、今では、街道のすぐ傍を、国道と名鉄名古屋本線の軌道が通る、交通の要衝です。

 

 

 本宿

 本宿(もとじゅく)は、本来の宿場町ではありません。門前町として発展しながら、藤川と赤坂の宿場の間の、休憩所の役割を果たしていたということです。享和2年(1802)には、家数121軒、立場茶屋が2か所あり、旅人の休憩の場として繁盛をきわめたと言われています。

 今はもう、往時の建物そのものは、ほとんど残ってはいませんが、道端に残る松の木や、道標、祠など、道筋は宿場町の雰囲気を感じます。

 集落の入口から少し進んだところには、一里塚跡を示す石標もありました。

 

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※左、一里塚跡と本宿の様子。右、本宿の町並み。

 法蔵寺

 本宿の中ほどに差し掛かった辺りの右手には、厳かな寺院の境内が広がります。この境内の正面奥が法蔵寺。本宿が門前町として発展した、礎となる寺院です。

 

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※法蔵寺。

 

 冠木門

 街道は、緩やかな坂道を上りながら、ゆったりと東に向かいます。木造の古い家屋を眺めながら、本宿の集落を通り過ぎ、その先で国道1号線に入ります。

 国道と並行した、歩道のような道を進むと、道路をまたいだ冠木門が待ち構え、本宿の東の入口を示しているような光景です。

 

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※本宿の東のはずれの冠木門。

 

 赤坂へ

 冠木門を潜り抜け、しばらくは、国道の歩道を歩きます。左右から低い山並みが迫る中、国道は標高の最も低い辺りをすり抜けるように進みます。勾配が、途中から少し下り坂になったような気がしたところで、街道は、右方向の旧道へ。

 この先は、道は狭い下り坂。旧道の道幅がそのまま残ったような道筋です。 

 

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※左、国道関谷の交差点。ここから右手の旧道へ。右、長沢の集落。

 

 長沢

 旧道が通る集落は、長沢というところ。街道は、延々と東に延びて、次第に山が開けます。

 途中には、長沢の一里塚跡を示す標識がありました。塚などは、もう、その姿を留めていませんが、畑地の際にひっそりと立つ塚跡の証を見ると、昔の姿が思い浮かぶような気がします。

 

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※左、長沢の一里塚跡。右、長沢の集落の様子。

 

 赤坂宿

 細長い街道を進んで行くと、長沢の集落の建物もまばらになって、次第に農地が現れます。そして、その先が赤坂の宿場です。

 宿場の入口辺りは、ごく普通の集落です。それでも、少し歩くと、雰囲気の良い、茶屋のような建物が見えました。この建物は、公共の休憩所。トイレなども整備され、長沢の集落を長距離歩いた者にとっては、ありがたい場所でした。

 

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※赤坂休憩所。

 

 赤坂宿と呼ばれるところは、中山道の大垣にもあり、同じ名前の宿場です。地名の由来は分かりませんが、赤土に関係しているのかも知れません。それ以外には共通点がある訳でもなく、たまたまの一致なのだと思います。赤坂の地名は東京ではあまりにも有名ですが、この名は、各地に残っているのでしょう。

 

 旅籠屋

 宿場の中は、今はほとんどその面影はありません。新しい住宅や、少し年月を経た建物が並びます。

 それでも唯一、休憩所の少し先に、かつての旅籠の建物が見えました。この建物は、大橋屋と呼ぶようで、私たちが訪れた時、保存修理が整って、公開の直前だったように思います。大橋屋の隣接地は公園のような空間で、そこがかつての脇本陣。この界隈は、宿場町の雰囲気が味わえます。

 

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※左、大橋屋。右、脇本陣跡と説明板。

 

 赤坂宿は、文化6年(1809)に、大火に見舞われたということです。どの程度の火災だったか分かりませんが、大橋屋の建物も、それ以降に建てられたと記されています。

 また、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、赤坂宿には、本陣が3軒あり、脇本陣は1軒あったということです。

 

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※赤坂宿の様子。

 

 飯盛女

 私たちは、赤坂の宿場にあった小さな食堂で、この日の昼食をとりました。そこは、女将さんがお一人で切り盛りされているようで、私たちにも気軽に話し掛けてくださいました。

 その時のお話で、印象的だったのが、宿場で働いていた女性に関することでした。その概要は、この辺りの宿場には、どこからともなくたくさんの女性が仕事を求めてやってきて、労働の末、身体を壊して亡くなる人も多くいたということです。そのために、近くにある、幾つものお寺では、このような方々を引き受けて、供養されてきたというのです。

 

 そう言えば、幾つかの宿場や街道に関する解説書を読むと、その多くに、「御油や赤坂、吉田がなくば、なんのよしみで江戸通い」と言われていたと記されています。特に、この辺りの3か所の宿場では、数多くの飯盛女(めしもりおんな)という方たちが旅人を持てなしていて、それを楽しみに、多くの旅人は、これらの宿場を訪れていたというのです。

 飯盛女とは、単に給仕をする女性のことではなく、遊興を伴う職だったようで、36番赤坂宿、35番御油宿、34番吉田宿は、そうした宿場として名が通っていた様子です。

 

 今、街道を歩く私たちは、かつて、宿場の賑わいの中で内包された、人間臭い一面も、素通りしてはいけないと、教えられたような気がします。

 

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※赤坂宿の東の入口、見附跡。


 御油宿へ
 赤坂宿の次の宿場は御油宿(ごゆじゅく)です。赤坂と御油の間はわずかに2Km。東海道では、最も近い宿場です。

 2つの宿場を隔てている松並木を通り抜け、御油の宿場に向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]32・・・藤川宿から間の宿の本宿へ

 三河の山地越え

 

 街道は、しばらくの間、小高く広がる山間の道に入ります。この山地、愛知県の北部から、三河湾蒲郡(がまごおり)にかけて連なるため、豊橋に向かうには、この山間を通り抜けなければなりません。

 久々の山間の道と、ひっそりと佇む、間の宿(あいのしゅく)の本宿(もとじゅく)や、36番赤坂宿などの宿場町。普段なら、立ち寄ることがない場所で、新鮮な風景を見ることができました。

 

 

 吉良道

 藤川の見事な松並木が途切れた後、名鉄名古屋本線の踏切を越えると、藤川の宿場です。

 街道が東へと向かう中、宿場の入口付近には、右方向に鋭角に曲がり込む坂道が。街道とその坂道の角地には、「吉良道(きらみち)」と刻まれた道標がありました。

 この坂道は、「吉良道」と言われるように、三河湾の吉良*1方面に向かう道。主要都市の岡崎ではなく、どうしてこの藤川に吉良への分岐ができたのか、少し不思議な気もします。

 岡崎は主要な城下であるため、吉良藩は、敢えてこの藤川を東海道との結節点に選んだのかも知れません。何れにしても、道標の脇に立つ案内には、「吉良道」は、大名行列や海産物の運搬など、重要な役割を持つ脇道だったと記されていています。

 

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※吉良道の道標。

 

 やじさん・きたさん

 海産物に関しては、「東海道中膝栗毛」にも、藤川宿の西のはずれの茶屋で一服した、やじさん・きたさんの場面が登場します。

 江戸の頃、藤川では魚を扱う茶屋があり、その軒先にはタコや魚が干されていたとのこと。その軒に吊るされた、干物用のタコを見て、やじさんは次の一句を詠んだのです。

 

  ゆで蛸の むらさきいろは 軒ごとにぶらりとさがる 藤川の宿

 

 タコの紫と藤の花の紫。いずれもだらりとぶら下がる様子を滑稽に表現した唄は、何とも、心が和みます。

 

 藤川宿

 藤川宿の西側は、今は宿場町の面影はありません。それでも、所々に残された杉並木の延長は、街道の景観を盛り立てます。

 今ではもう、その姿は見られませんが、藤川の一里塚跡を示す案内板もありました。

 

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※左、藤川宿の西側。右、藤川の一里塚跡。

 

 十王堂

 宿場の中を進んで行くと、次第に、宿場町の雰囲気が漂う景色に変わります。街道の右手には、十王堂というお堂が現れ、その傍に、厳かな芭蕉の句碑がありました。

 

    ここも三河  むらさき麦の  かきつばた

 

 かつては、三河の地で、紫の穂をつける麦が栽培されていたとか。また、池鯉鮒(ちりゅう)のカキツバタとともに、この辺りでもカキツバタの花は有名だったのでしょうか。往時の情景が目に浮かぶような一句です。

 

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※左、芭蕉の句碑の前に立つ説明板。右、十王堂。

 藤川駅

 十王堂のすぐ傍にある、細い道を左に進むと、名鉄の藤川駅に至ります。私たちの、今回の街道歩きは、一旦ここで区切りをつけて、数週間後に、再びここから豊橋の吉田宿に向かいます。

 

 藤川駅は、小さな駅ではありますが、たくさんの若者の姿を見かけます。そう言えば、近くの山の中腹辺りに、幾つかの大学などがあるようで、学生たちの最寄り駅になっている様子です。

 さらに、駅の向うに国道1号線が通過して、駅と道路の間には、”道の駅・藤川宿”の施設もありました。

 

 再び藤川宿から

 数週間後、私たちは藤川駅に降り立って、再び、赤坂宿や豊橋の吉田宿を目指します。

 藤川宿の後半は、落ち着いた町並みです。所々に古い木造の建物が残るほか、石標や街道の雰囲気を盛り立てるモニュメントなども見られます。

 

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※藤川宿の様子。

 藤川宿は、国道が街道を避けるように通っているため、道そのものは、往時の姿を残しています。宿場の町並みの面影は、それほど残していませんが、良い雰囲気のところです。

 とりわけ、本陣跡の冠木門や再現された高札場などは、宿場町を後々に伝えるために、重要な役割を果たしています。

 

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※本陣跡。

 

 さらに進むと、趣のある、漆喰が塗られた建物が目につきました。老舗の人形店のような看板が掲げられ、宿場町にひとつのアクセントを与えています。

 

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※老舗の人形店。

 

 国道へ

 街道は、藤川の宿場を後にして、一旦、国道1号線と合流です。左右から山が迫る、切通しのような国道を、緩やかに上りながら東へと進みます。

 

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※国道との合流点。

 

 国道の歩道を数百メートル進んだ先で、街道は、左方向の旧道に入ります。その先は、舞木の集落を経て、山中という集落へ。文字通り、山の合間に連なるような町並みのところです。

 山中の集落の途中には、名鉄の山中駅もありました。少しずつ、坂道を上りながら東へと向かいます。

 

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※、左、旧道への入口。右、舞木の集落。

 

 本宿へ

 山中の集落の先で、街道はもう一度、国道に合流です。しばらくの間、名鉄の軌道と国道に挟まれながら、窮屈な歩道を歩きます。

 やがて、国道が軌道から離れた先には、”本宿町沢渡”の交差点。この交差点の右前方には、数本の松の大木が見えました。街道は、ここで国道からそれ、松が植わる右側の旧道に入ります。 

 

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※左、山中の集落を出て、国道に合流します。右、松の大木の右側の道が街道です。

 本宿

 旧道に入ったところは本宿(もとじゅく)と呼ばれていて、2つの宿場の間にある、間の宿(あいのしゅく)と位置づけられる場所であったということです。

 松並木の名残のような、松が植わる三角地には、本宿に関する説明板がありました。それによると、

 

 「是より東 本宿村  赤坂宿へ壱里九丁」

 「本宿は往古より街道とともに開けた地であり、中世以降は法蔵寺の門前町を中心に町並みが形成された。・・・近世に入り、東海道赤坂宿、藤川宿の中間に位置する村としての役割を果たしたといえる。」 

 

 と記されています。

 

 何となく、宿場の雰囲気が感じられる、本宿の街道を東へと向かいます。

 

*1:忠臣蔵に出てくる、吉良上野介で有名な町