旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)30・・・土佐路(38番と足摺岬)

 足摺岬霊場

 

 四国八十八か所の、38番目の霊場である金剛福寺(こんごうふくじ)は、四国の最南端にある、足摺岬にある古刹です。足摺岬灯台へのアクセス道の入口が、金剛福寺の門前のすぐ前となっているため、時期によっては、この辺り、多くの観光客で賑わいます。

 知名度からは、金剛福寺霊場よりも、足摺岬灯台が圧倒的に有名です。観光客のほとんどは、灯台の見学がお目当てで、ここに霊場があること自体、知る人は少ないかも知れません。

 

 

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足摺岬灯台

 

 金剛福寺

 金剛福寺の駐車場は、門前よりもやや手前(西側)。土産物店などが並ぶ建物の真ん前です。その他に、門前には、灯台へ行く観光客用の駐車場があるために、空いていれば、何れを利用しても構わないと思います。

 

 金剛福寺の正面は、立派な構えの空間です。正面奥に仁王門。その手前にある導入路のようなアクセスは、見事な石造りの標柱と左右対称に造られた、瓦ぶきの白塀や蓮池が参拝者を誘います。

 仁王門をくぐり抜けると、その先は荘厳な雰囲気の境内が広がります。正面の本堂を始めとして、周囲には幾つものお堂が建ち並びます。仁王門の左には、大きな池を配置した見事な庭もありました。

 

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※左、仁王門と導入路。右、本堂。
 

 補陀落とのつながり

 金剛福寺は、「補陀落院(ふだらくいん)」との名称も持ち、補陀落信仰にゆかりがある寺院でもあるようです。仁王門に上がる石段に、石の柵が配置され、その中央左の石柱には、「補陀落東門」の文字が刻まれているのです。

 補陀落は、仏教にまつわる言葉で、これまでから、時々耳にしたことがありました。それでも、その言葉の意味を詮索することはなく、何気なく、聞き流していたように思います。

 私が、その言葉の意味を少し詳しく知ることになったのは、内田康夫の「熊野古道殺人事件」というサスペンス小説を、たまたま読んだ時でした。この小説は、補陀落渡海を模しながら、殺人事件が繰り広げられ、その謎を浅見光彦が解き明かすという内容です。ここには、熊野の補陀落渡海伝説がよく描写されていて、興味を惹かれたものでした。

 

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※庭園から境内を望みます。

 

 補陀落は、元々古代インドで信じられていた、観音菩薩がおられるところ。日本では、海の果てにあるものと信じられるようになり、補陀落を目指して、海を渡った人がいたというのです。

 補陀落渡海は、先の、和歌山県の熊野の地が有名ですが、実は、ここ足摺岬でも行われていた様子です。「補陀落東門」は、ここから西に向けての補陀落渡海の出発地、という意味かも知れません。

 今考えると、無謀であり非科学的なこんな行為も、信仰の中では、実に厳かに実行されていたことでしょう。

 

 空海真言密教における真理の追究と比べると、いささか相容れない考え方にも拘らず、四国八十八か所霊場に組み入れられた補陀落金剛福寺。地理的に、相対する室戸岬が、空海の覚醒の地であるならば、足摺も、補陀落に向かう地として、信仰厚い人々にとっては、欠かせられない場所だったのかも知れません。

 

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※大師堂。

 

 私たちは、足早に本堂の参拝に続いて、庭園を回り込んだ先にある大師堂へと足を運び、池を一周するかたちで、元の仁王門へ。そして、納経所で御朱印を頂きました。時刻は、間もなく17時。何とか時間内に参拝を終えることができました。

 

 足摺岬とジョン万次郎

 金剛福寺の正門を出て、少し左に向かったところが、足摺岬の展望台の入口です。そこには、少し開けたスペースが整備され、「四国最南端」を示すモニュメントがありました。

 展望所は、このスペースの先を少し歩いたところにあって、意外にも、それほど距離はありません。絶壁の先に見える灯台は、地の果てにあるようにも見え、感慨深い光景を味わえます。

 

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※四国最南端の碑

 

 四国最南端の碑がある広場のところには、ひと際目立つ、大きな人物像がありました。よく見ると、その像は、ジョン万次郎の姿です。(正面から写した写真は完全に逆光で、その容姿をご覧いただけないのが残念です。)

 ジョン万次郎については、大方の人は、その名前をお聞きになったことがあると思います。私自身も、名前と簡単なエピソードだけは聞いたことがあったのですが、この方が、足摺の人だと知ったのは、霊場巡りをしてからです。

 

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※ジョン万次郎の像。

 

 像の側面に記された解説では、ジョン万次郎は、中浜万次郎というのが正式の名前ということです。1827年から1898年の生涯でした。

 万次郎は、足摺岬にほど近い、中ノ浜の貧しい漁夫の次男に生まれ、14歳の時、漁に出て遭難し、無人島の鳥島に流されることに。それから半年後、たまたま、アメリカの捕鯨船に救助され、アメリカに渡って教育を授けられました。

 およそ10年間の海外暮らしで、数々の教養を身に着けた万次郎は、24歳の時、祖国と母親のことが忘れられず、帰国します。1851年という時期で、2年後には黒船の来航です。万次郎は、幕府の直参にとりたてられ、アメリカで得た知識により、大いに国に貢献することになりました。

 明治期になり、東京大学の前身である開成学校の教授にも任じられたようですが、その後体調を崩されて、1898に71歳の生涯を閉じられたということです。

 

 ジョン万次郎は、足摺岬がある土佐清水市などでは、傑出した存在です。今も、中浜という集落には、彼の生家が残っていますし、土佐清水の港近くには、ジョン万次郎資料館があるようです。

 地元では、大河ドラマ化を求める運動もあるようで、あちこちで、機運を高める幟旗などを見かけることができました。

 

 私たちは、岬近くで宿をとり、次の日早朝、四万十町窪川*1にある、37番岩本寺へと向かうことになりました。

 

*1:高知県には、四万十市四万十町があります。前者は西側、後者は前者の東隣の位置になります。