北へ
西国三十三所の2番札所は、和歌山市の紀三井寺。熊野の地の青岸渡寺から、一気に北に向かいます。
かつては、都から熊野詣に訪れて、その目的を成就した後、帰りの道が巡礼の旅だったのかも知れません。那智山の熊野那智大社での参詣後、隣接する青岸渡寺で、巡礼の発心をしたということは、充分あり得る話です。神仏習合の世の中では、今の時代と同様に、抵抗はなかったのだと思います。
巡礼は、熊野から、紀州の国の中心地へと移ります。
JR紀勢線、紀三井寺駅南側の踏切を渡った正面に、紀三井寺の鮮やかな仏殿や、幾つかのお堂の屋根が見えました。紀三井寺という名で知られるこの古刹、本来の名称は、紀三井山金剛宝寺と呼ばれています。
※山の中腹に鮮やかな紀三井寺仏殿が望めます。
本来の名称よりも、親しみのある呼び名に感じる、紀三井寺。関西では、知らない人がないくらい、有名な寺院です。さぞかし、たくさんの人々に、愛され続けてきたのでしょう。
私たちは、近くの有料駐車場に車を停めて、参拝に向かいます。
朱が鮮やかな桜門を、正面に見ながら進んでいくと、両側に幾つかのお店が建ち並ぶ、門前町に入ります。数年前、桜の季節に来たときは、大勢の観光客で賑わっていましたが、この時は、まだコロナの影響下。訪れる人はまばらです。
幅広い門前道を通り抜け、楼門の石段下に近づきます。
※紀三井寺の楼門前。
閻魔大王と西国巡礼
楼門の直下まで、石段を上っていくと、左手に、閻魔大王の立派な石像が置かれています。鋭い視線と、物言わせぬ口元は、怒り溢れる形相です。
閻魔大王の存在が、意味するものは何なのか。実は、西国三十三所の巡礼と、深い関わりがあるのです。詳しくは、8番札所、長谷寺の記事の中で触れることになりますが、ここで、ごく簡潔に、お伝えしたいと思います。
※楼門前の閻魔大王像。
まず、大王像の右側に置かれた石柱をご覧いただきたいと思います。その石柱の側面には、たくさんの文字が書かれています。それこそが、西国巡礼起源についてのお話です。
そこには、閻魔大王が、徳道上人という方に、三十三個の宝印を託すとともに、巡礼道の創設を懇請した、ということが書かれています。
つまり、西国三十三所観音巡礼の始まりに、閻魔大王が深くかかわっていた、ということです。勿論、これは伝説ですが、おそらくそこには、幾つかの事実も含まれているのでしょう。
詳しくは、後日また、綴りたいと思います。
境内へ
楼門を潜り抜けると、真っ直ぐ延びる急な石段の参道が、境内へと続いています。石垣と木々が覆う石段を踏みしめながら進みます。
※急勾配の石段。
石段を上り詰めると、左右に延びた、細長い境内が広がります。本堂は、左手の突きあたり。桜の木々を眺めながら、参道を進みます。
この辺り、春には桜の花が見事です。和歌山は、城のまわりを始めとして、桜がきれいなところです。
※正面の本堂を正面に見た境内の様子。
本堂
紀三井寺の本堂は、大きなお堂ではありません。山の斜面の中腹に開かれた、限られた境内と、見事に調和したような大きさです。
十一面観音を本尊に祀るお堂の中は、厳かな空気が流れています。
※本堂と境内の様子。
境内からの景色
紀三井寺の境内からは、和歌山の市街地の南部の地域が見下ろせます。陸地の向こうは和歌山湾。陸地との境界に、右方向から延びる緑のベルトは、片男波の緑地です。
湾の向こうの半島は、どの辺りになるのでしょう。風光明媚な景観が眼前に広がります。
※境内からの眺望。
仏殿
本堂と反対側の境内には、地上からも大きく見える、仏殿が構えています。近づくと、鉄扉には、「千手十一面観音公開中」と書かれた看板がありました。
これはぜひとも拝観すべき、ということで、仏殿へと進みます。入り口は石段を数段上がった左側。中に足を踏み入れます。
※仏殿。
仏殿の中に入ると、すぐ前に、巨大な黄金の観音様が目に入ります。大きさと言い、光沢と言い、圧倒される神々しさが、降り注ぐような迫力です。
千手と十一面を備えておられる観音様のお姿に、思わず、手を合わせたものでした。
資料によると、この観音様の大きさは、高さ12m、重さ30tだということです。下からの拝観は、自由な一方で、確か、上階に上がる時には、有料だったように思います。
紀三井寺に行かれた時は、ぜひ、立ち寄って頂きたいところです。
※圧倒的なお姿の千手十一面観音様。
芭蕉句碑
境内を後にした帰り道、石段の途中のところだったと思います。かなり、風雪を耐え忍んだような、ひとつの石碑がありました。そこには、「芭蕉翁句碑」の表示です。
見上ぐれば 桜しもうて 紀三井寺
解説では、「せっかく桜の名所として有名な紀三井寺に来たのに、見上げてみると桜は散っていた」と言うことのよう。
芭蕉は、紀三井寺にも来ていたのかと、感慨を深めたものでした。
後に、大垣にある、「奥の細道むすびの地記念館」を訪れた時、芭蕉の旅の年表があったので、確認をしたところ、芭蕉は、貞享4年(1687)10月に、江戸から西に向けて『笈の小文』(おいのこぶみ)の旅に出たようです。その旅の中、年を越した翌春には、高野山から和歌の浦、そして、奈良へと足を向けたというのです。
おそらく芭蕉は、この時に、紀三井寺に立ち寄られ、先の句を詠まれたのだと思います。
※芭蕉の句碑。
旅を続ける、芭蕉の姿を思い描いて、紀三井寺の参拝を終わります。