西国巡礼の原点
長谷寺は、大和川が谷を削った山の斜面に、境内を構えます。今は、桜井市の東の外れ、古代の国(倭国=やまとのくに)の中心地、三輪の町から、少し東に入ったところです。初瀬(”はつせ”、あるいは、”はせ”)とも呼ばれるこの地域、信仰の山として崇められた三輪山の背後にあって、古くから神聖なところだったのだと思います。
百人一首の歌にも詠まれた初瀬の地。実は、西国三十三所を巡り歩く、巡礼の原点でもあるのです。悠久の歴史を背負い、多くの人が訪れる、初瀬の地の2つの古刹を訪ねます。
長谷寺へ
大和川伝いの国道を、東に向けて進んでいくと、初瀬西交差点。そこを斜め左にそれた先に、門前町はありました。
細長く続く門前町。道が鍵形に曲がる辺りの駐車場に、車を停めて歩きます。
私たちが、長谷寺を訪れたのは、2021年12月。新型コロナの影響と、冬の季節の到来で、参拝の人はまばらです。それでも、三輪そうめんの食堂や、老舗の奈良漬のお店など、細々と、商いが続けられている様子です。
仁王門へ
門前町を通り過ぎると、少し開けた空間が広がります。正面は、整備された石畳。「総本山 長谷寺」*1と刻まれた、立派な石柱を右に見て、仁王門へと向かいます。
※長谷寺の玄関辺り。
石畳の正面には、見事な仁王門が聳えています。その直前の左手が受付で、拝観料、500円を支払います。
※仁王門。
登廊(のぼりろう)
仁王門に近づくと、その先にあったのは、長谷寺の代名詞でもある登廊。緩やかに上る石段を、多くの柱で支えられた長屋根が覆います。
本堂へと誘う道は、厳かで、神聖な空気が流れているように感じます。
※仁王門の先に延びる登廊。
花の御寺(みてら)
長谷寺は、「花の御寺」と呼ばれるように、境内には、様々な花の木などが見られます。登廊のすぐ傍は、牡丹(あるいは紫陽花)の木でしょうか。棚田のように整地された区画には、多くの苗木が植わっています。
受付で頂いた資料には、桜やツツジ、シャクナゲなど、季節ごと、境内に咲き誇る、数十種の花の名前が書かれています。
※登廊から見た境内の様子。
本堂へ
登廊は、下・中・上、の3つの廊に分かれています。”下”の廊が最も長く、その先で、鋭角に右に折れた”中”の廊が続きます。”中”の廊は、それほど長くはありません。ただ、勾配は、少し急だったような気がします。
※”中”の廊。
”中”の廊と”上”の廊は、小さなお堂でつながれます。直角に左に折れると、”上”の廊。本堂への最後の石段が続きます。
歌碑
”中”と”上”との廊をつなぐ小さなお堂。その裏手には、麗しい容姿の梅の木と、赤い小さな祠の姿が見えました。そして、それらと寄り添うように置かれていたのが、紀貫之の次の歌碑。
人はいさ 心も知らず ふるさとは
花ぞ昔の 香ににほいける
小倉百人一首に収められたこの和歌は、長谷寺の参拝に訪れた、紀貫之が詠んだもの。
角川ソフィア文庫発刊の『百人一首(全)』(谷知子編)によると、「『古今和歌集』の詞書に「初瀬に詣づるごとに宿りける人の家に、久しく宿らで、ほど経てのちに至りければ、かの家の主『かく定かになむ宿りはある』と言ひだして侍りければ、そこに立てりける梅の花を折て詠める」とある。」と書かれています。
”人の心の内はわからないが、花(梅の花)は昔と変わらず同じ香りを放っている”
歌碑の傍の梅の木は、このような情景を暗示させているのでしょう。*2
※紀貫之の歌碑が置かれた一角。
私たちは、静かに佇む祠や歌碑を眺めながら、最後の登廊を進みます。
登廊の最後には、鐘楼の建物が。そして、そこを潜ると、左手に本堂です。
※鐘楼を潜ったところから見た本堂。
本堂
長谷寺の本堂の正面は、崖下の境内や初瀬の町を見下ろす向きに面しています。従って、上の写真の階段は、本堂の側面です。
私たちは、階段を上がった先で左に折れて、側面からお堂の中に入ります。
お堂の中央に進んでいくと、内陣には、黄金の見事な十一面観世音菩薩像。資料には、「御身の丈三丈三尺(十メートル余)」と書かれています。
このご本尊、「右手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、平らな石(大磐石)の上に立つ独特なお姿をしています。」と書かれているように、その神々しさは圧倒的。
お堂に流れる読経を耳に、しばしの間、静かに手を合わせたものでした。
※本堂の正面。
参拝後、本堂の正面に回ります。本堂の大屋根下には、「大悲閣」の見事な扁額。そして、お堂の中には、幾つもの装飾や額などが見えました。
振り返ると、その先は、舞台造りの構造です。崖地に突き出す舞台へと進んでいくと、眼下には、長谷寺の境内と、初瀬の町が見下ろせます。
見事な景色を目に納め、帰路の途へ。初瀬の町の中にある、西国三十三所巡礼のゆかりの寺院、法起院へと向かいます。
※舞台から見下ろす景色。