飛鳥の古刹
西国三十三所の次の札所は7番目、飛鳥にある、岡寺です。仏教が、日本の国に伝わったのは、6世紀の半ば頃。それからおよそ100年後、当時の日本の中心地、遠つ飛鳥*1の丘の上に、この寺院は建ちました。
日本における仏教の、原点でもある飛鳥の地。天皇が権力の中枢であったこの時代、実権の掌握を窺った、蘇我氏の篤い庇護により、仏教はその基盤を固めます。さらに、聖徳太子の出現は、その基盤を、より強固なものにしたのです。
その後、大化の改新などにより、世の中は大きく変わっていきますが、その頃に、建てられたのが岡寺です。私たちは、飛鳥の時代に想いを馳せて、文字通り、古刹という名に相応しい、7番目の札所へと向かいます。
岡寺へ
岡寺は、飛鳥の歴史で有名な、石舞台古墳のすぐ北側。かつての飛鳥の中心地から、東に広がる丘の上に位置しています。
私たちは、史跡めぐりの道を辿って、小高い丘を取り巻いている、坂道を上ります。しばらくすると、そこそこ広い駐車場。歴史ある寺院への、最寄りの駐車場とは思えないほど、手作り感満載の、案内表示が並んでいます。
誰もいない駐車場、プレハブの休憩所から、管理の人が現れて、駐車料金を支払います。
※岡寺の駐車場。実際は、もう一か所あり、そちらが正規の駐車場かも知れません。
境内へ
駐車場から境内へは、左に向かう坂道を上ります。この坂を少し上ると、右方向への進路を示す案内板。指示に従い、木々が覆う小径の坂を、林の中へと向かいます。
※境内へと向かう坂の小径。
坂道が終わったところで、今度は、左の方向へ。しばらく歩くと、空が開けて、緩やかな下り坂に変わります。そして、その坂道のすぐ先に、岡寺の仁王門が見えました。
※坂道を下って、仁王門に近づきます。
厄除観音
岡寺は、正式には、龍蓋寺(りゅうがいじ)と呼ばれています。この名は、岡寺の開祖である義淵僧正(ぎえんそうじょう)という方が、付近の農地を荒らしていた悪龍を、境内の小池(龍蓋池)に封じ込め、大石で蓋をした、との伝説が由来とか。
転じて後に、厄除けの霊場として、名を馳せたというのです。「日本最初厄除観音」と刻まれた、石柱を右に見て、仁王門を潜ります。
※仁王門。
岡寺について
受付で頂いた資料には、岡寺の縁起について、次のように書かれています。
「663年(天智天皇2)、草壁皇子のお住みになっていた岡の宮を仏教道場に改め、当時の仏教の指導者であった義淵僧正に下賜され」た。
「義淵僧正の父母は子宝を観音に祈った。その結果生まれたのが義淵。この有り難い話を聞かれた天智天皇は岡の宮で義淵を草壁皇子と共にお育てになった。」
草壁皇子(くさかべのみこ)は、天智天皇の弟の、天武天皇の子どもです。母親は、天智天皇の娘である、鵜野讃良(うのさらら、後の持統天皇です)。家系で見ると、叔父と姪との間に生まれた子どもです。
それにしても、父親の天武天皇(この時は、大海人皇子)ではなくて、天智天皇が育てた、との記載については、違和感を覚えます。*2
仁王門を潜り抜けると、正面は低木や石像が配置され、庭園のような一角が見られます。参道は、その庭園前を右に折れ、一段高い境内へと進みます。
※仁王門をくぐったあたりの様子。
本堂
石段を上り進むと、本堂のある境内です。左から、楼門と開山堂が並んでいて、その奥に、立派な本堂がありました。
私たちが訪れたのは、12月の上旬頃。この時期でも、なお紅葉は素晴らしく、勇壮な古刹の甍を、優しく包み込んでいるように見えました。
※本堂のある境内。右側が本堂です。
岡寺の本尊は、如意輪観音座像です。この像は、「物事を自分の意のごとくかなえて頂けるとの意」であると、寺院の資料に書かれています。
私たちは、本堂で参拝し、御朱印をいただきます。
※岡寺の本堂。
龍蓋池
本堂を後にして、左方向を見たところ、小さな池と見事な石のモニュメントがありました。
この池こそ、先に綴った、龍蓋池。そして、モニュメントに彫られた絵柄は、義淵僧正が悪龍を退治した時の様子です。
※龍蓋池とその近辺。
大師堂など
本堂のある境内から、仁王門へと戻る途中の左手には、三重の宝塔と大師堂。大師堂の正面には、柔和な姿の大師像(弘法大師像)がありました。
この霊場、空海と深い関わりがあるようです。(本尊は弘法大師作と言われています。)
※三重宝塔と大師堂。
飛鳥は、日本における仏教文化の原点です。祭祀によって引き継がれてきた、大王や天皇の権力は、蘇我氏によって、仏教という対立軸が生まれます。ただ、蘇我氏による権力の掌握は、大化の改新により断たれます。それでも、仏教は、後の天皇たちに保護されて、後世へと引き継がれていくのです。