安芸へ
逆回りに進む四国八十八か所の巡拝は、高知県の安芸市を経て、さらに東へと向かいます。土佐の平野は次第に狭まり、太平洋と険しい山がその距離を縮めます。
27番神峯寺(こうのみねじ)は、土佐湾に挑むようにそそり立つ、険しい山の中にある古刹です。安芸市の東、安田町の山中に、密かにその姿を隠します。
安芸市へ
安芸という名は、一見、広島県の安芸の国を想像します。高知県の安芸との間に、関連性はあるのかどうか。その辺りはよく分かりませんが、恐らく、それほど関係は無いような気がします。元々、安芸氏が城を築いたところのようで、城下町だったということです。
安芸市で有名な方と言えば、三菱の総帥であった岩崎弥太郎。27番神峰寺(こうのみねじ)も、この著名な方と無縁ではないようです。
神峰寺へ
香南市にある大日寺を後にして、しばらく、自動車専用道路を走ります。この道は、国道55号線のバイパスのような位置づけで、一気に東を目指します。その後、旧国道に合流して、安芸市の町を通り抜けると、潮風漂う海岸道路に変わります。
気持ち良い、海岸伝いの道を進んで、安芸市から安田町へと入ります。やがて、唐浜(とうのはま)というところにある、神峯寺の案内標識を確認し、左手の山の方角へ。
農道から、屈曲を繰り返す山道を経て、およそ4Kmの道のりを上って行くと、左手に、駐車場が現れて、神峯寺(こうのみねじ)に到着です。きっちりと舗装された駐車場から、一段上がったところには、土産物などを取り扱う、小さなお店がありました。
神峯寺は、駐車場から少しだけ急坂を上ったところ。途中には、新しそうな石像などが、参拝者を迎えます。
※仁王門への導入口。
仁王門から境内へ
坂道から、右に延びる緩やかな石段を進んで行くと、木々に覆われた仁王門が、厳かな姿を見せて佇みます。
時代を感じる重厚な仁王門。門前で立ち止まったとき、そこにおられる金剛力士像の色鮮やかさに、少し驚きを覚えたものでした。木造の木の色調の建物に鮮やかな色彩の力士像のお姿は、少し異様にも感じます。
※左、仁王門。右、色鮮やかな金剛力士像。
仁王門を通り過ぎると、さらに参道が続きます。その先の少し開けた辺りには、石柱の門があり、そこからが境内の中心です。山の斜面に張り付くような境内には、鐘楼とともに、まだ新しさを感じる客殿と納経所が並びます。
正面奥には、赤い手摺の石段が右奥の山に向かって延びていて、その周囲には、美しく整えられた庭園が広がります。
※神峯寺の境内。左が客殿と納経所。右に鐘楼。中央に石段と庭園を見ることができます。
本堂と大師堂がある境内は、赤い手摺の石段のさらに上方にあるようです。美しく刈り整えられたツツジなどの木々を眺めて、山の奥へと向かいます。
※斜面に整備された庭園と本堂につながる石段。
本堂と大師堂
石の階段を上り詰めると、左と右の双方に、小径の参道がありました。本堂は、左側の参道で、右方向は、大師堂へと導きます。
私たちの参拝順序は、いつもの通り、先ず本堂から。左に進んだその先に、弘法大師像の姿を認め、その奥にある本堂で参拝です。
※左、弘法大師像と本堂。右、本堂。
本堂の次は、もと来た道を引き返し、大師堂の方角へ。この霊場の二つのお堂は、少し間隔を開けています。
大師堂の建物は、小じんまりとはしているものの、それほど古くは感じません。資料によると、平成4年の建立だということです。
大師堂で参拝し、少し周囲を巡っていると、興味ある大きな看板が目につきました。それは、おそらく、大師堂の側面だったと思うのですが、左右に長い蒔絵のような説明板が掲げられていたのです。
その内容は、空海の一生を簡潔に書き記した、伝記のようなお話です。興味を抱いて一読すると、これまで、私自身が得ていた空海の足跡と、ほぼ一致するものでした。
空海への関心をより一層かきたてる神峯寺の説明板。折に触れ、この記載内容をお伝えしたいと思います。
※空海の伝記が綴られた説明板。
神峯寺のこと
本堂と大師堂の参拝を終えた後、元の石段を伝い下りて、納経所に向かいます。
納経所で、御朱印を頂いていた時、ふと見ると、窓口近くに「神峯寺」と記された、色刷りのパンフレットがありました。
四国八十八か所の霊場で、資料を置いていただいているところは、それほど多くありません。その中でも、立派なパンフレットが手にできるのは、数か所というところ。ありがたく、読ませて頂き、神峯寺の縁起などを知ることができました。
神峯寺は、神話の世界、神功皇后が天照大神などの諸神をこの地に祀られたことが始まりとされているとのことですが、その真偽のほどは別として、古くから信仰の地であった様子です。
資料には、空海も、諸堂を整えられたとの記載も見られます。ただ、いつの頃か、寺は大火で焼失し、享保2年(1717)に再建されたということです。
その後、明治初めの神仏分離令と廃仏毀釈により、廃寺とされ、本尊は、26番札所である金剛頂寺に移されました。
寺院の廃止と寺宝の散逸という憂き目にあいつつも、「明治20年には、近郷の檀信徒の信仰の力とご尽力により寺は再建されました。」ということで、その後、見事に霊場の再建が果たされて、今日を迎えているのです。
おそらく、明治20年の檀信徒の努力の中には、岩崎弥太郎氏やその親族の方の関りも、少なからずあったのではないかと思います。