河内の国へ
西国三十三所の次の寺院は、5番札所の葛井寺(ふじいでら)。和泉の国から河内の国へ、北に向かって進みます。
葛井寺のある場所は、藤井寺市の街の中。近鉄の藤井寺駅の近くです。住宅がひしめくところに姿を隠す霊場は、かつては、農地が広がる場所にあり、どこからでも、その姿を捉えることができたのかも知れません。
今は、街の中に静かに佇む葛井寺。それでも、ずっしりと、歴史の重みを伝えています。
”葛”のこと
葛井寺の読み方は、最初は、”くずいでら”だと思い込んでいましたが、この字を充てて、”ふじいでら”と読むことは、この地を訪ねる直前に、初めて知ることになりました。
”葛”と”藤”、どうして、”葛”の字になったのか、持ち合わせの資料では、よく分からないのが実情です。ただ、ひとつだけ、百済から渡来した、葛井氏の氏寺が起源だとのことですが、真相は分かりません。”葛”と”藤”、これらはいずれも、”つる”を持つ、マメ科の植物ということで、何らかのつながりがあるのでしょう。
藤棚が名所とされる葛井寺。人々に愛され続けて、今日を迎えています。
葛井寺へ
葛井寺は、藤井寺市の街の中。古墳が残る細い道をすり抜けて、駐車場を目指します。最後は、車が一台、何とか通れる狭い道。少し進むと、境内の脇門のすぐそばに、小さな駐車場がありました。
私たちは、ここに車を停めて、側面から境内に入ります。
※駐車場から見た脇門と釣鐘堂。
境内に入った右側は釣鐘堂。そして、右前方に本堂がありました。
本来ならば、正門である南大門から境内へと向かうのが、正しいルートなのでしょう。ただ、脇からのルートであっても、無作法ではないはずです。私たちは、本堂へと足を運んで、参拝を済ませます。
※脇門付近から見た本堂。
本堂
葛井寺の本堂も、これまでの札所の寺院と同様に、荘厳で、重厚さを感じます。歴史の波を乗り越えて、今なおこの地で、人々の安息の場を守り続けているようです。
この古刹の本尊は、十一面千手千眼観世音菩薩坐像。資料によると、実際に、1041本の手をお持ちだそうで、たいへん貴重な像だそう。国宝に指定されたこの本尊は、毎月18日に開帳され、間近に拝むことができるということです。
機会があれば、ぜひともこの日に、もう一度、訪れてみたいと思います。
※葛井寺本堂。
南大門
本堂の参拝後、私たちは、本来の入口の南大門に向かいます。改めて、正面に回ってみると、朱が鮮やかな立派な門がそびえたち、住宅がひしめく中とは思えない、見事な姿を放っています。
※南大門。
境内
南大門から、再び境内に戻ります。中央の参道の右手には、石柱に囲まれた、弁天池。その隣には、休憩処がありました。
境内の左右には、大師堂など、幾つかのお堂も並んでいます。木々の配置も心地よい、落ち着いた境内がひろがります。
※休憩処と弁天池。
休憩処のすぐ前は、藤棚が配置され、藤のツルが絡んでいます。時期が来たら、さぞ見事な紫の花房が、境内を飾ることでしょう。
葛井寺の山号は、紫雲山。このことからも、藤の花にゆかりがある寺院なのだと感じます。
※右側は、藤棚とその奥が大師堂。左正面が本堂です。
帰り道、休憩処と大師堂の間には、弘法大師像が見えました。修行姿の大師像。この古刹、空海と、どのような関わりがあるのでしょう。
私たちは、再び側面の出入口から、駐車場に戻ります。
※弘法大師像。
大和へ
葛井寺に続く札所は、大和の国。飛鳥から、なお南方の山にある、壷坂山南法華寺(つぼさかやまみなみほっけじ、通称、壷阪寺と呼ばれています)です。この霊場に向かうには、河内と大和を隔てている、生駒山地と金剛山地の隙間の道を抜けなければなりません。
古くから、幾つかのルートがあったこの区間。できるだけ山地を避ける道筋は、主に2つありました。
そのひとつは、大和川を遡り、竜田に向かうルートです。そして、もうひとつ、竹内街道と呼ばれる道は、古代から、多くの人が往き交った古道です。
かつては、葛井寺から壷坂に向かうには、後者である、竹内街道を利用するのが、最短のルートだったと思います。
※かつて、葛井寺から大和の壷阪寺に向かうために辿られたであろうルート。途中にあるオレンジの☆は、以下で述べる、近つ飛鳥博物館。
近つ飛鳥
この街道の西側は、近つ飛鳥と呼ばれています(ここには、大阪府立「近つ飛鳥博物館」があり、古代の歴史を学ぶことができます)。
倭の五王のひとりである、反正天皇(はんぜいてんのう)が名付け親とのことですが、大和にある、遠つ飛鳥をつなぐ道は、古代ロマンをかき立てます。
聖徳太子や蘇我氏などが活躍した、飛鳥の地を経由して、壷阪寺へと向かいます。
※大阪府立近つ飛鳥博物館。