旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]12・・・環濠集落

 ハイキングコース

 

 この先、山の辺の道の道筋は、絶好のハイキングコース区間を迎えます。東の笠置山地から西の大和盆地へ下る、緩やかな丘陵地。広々とした坂の途中を横切るように道の流れは続きます。

 清々しい空気が流れ、果樹園や農地が広がる空間は、心地良さ満点です。こんな斜面に点在する古くからの集落は、かつて、環濠で守られていた特異な姿を有しています。時の争いから集落を守り抜くため、濠を築く発想は、日本の各地で見られるものの、古代大和の中心地にほど近い、このような場所に築かれたのは、特別な理由があったのかと、想像を膨らませてしまいます。

 この地に環濠が築かれたのは、室町の混乱期と言われていますが、もしかして古代から、この辺りには集落が点在していたのかも知れません。しかも、それらの集落は、ある程度力を持った豪族の支配下にあったとすれば、地域を守る術数を十分に兼ね備えていたのでしょう。丘陵地でありながら、濠を築き、集落を堅固に固める方法は、悠久の歴史を礎にして実現した、と、言えなくもありません。

 古代の道は、こうした環濠集落の傍を通って、大和の王権が築かれた中心地へと向かいます。

 

 

 乙木

 古代の道は、乙木の集落の軒下を、身を狭くして通っています。一見、どこにでもあるような、集落の小径です。昭和以前の時代には、子どもたちが小径を駆け、戯れ合う光景がそこここで見られたのかも知れません。

 悠久の歴史を背負った山の辺の道。今は、このような懐かしい家並みの中を通っています。

 

※乙木の集落の軒下を通る山の辺の道。

 集落のひとつの辻には、山の辺の道の案内表示。竹之内環濠集落まで、0.3Kmと書かれています。

 

※主要な辻に設けられている案内表示。

 

 竹之内

 乙木の集落を抜け出ると、一旦農地が開けます。その場所の左奥に見えるのが、竹之内環濠集落です。

 この機に、環濠集落を見てみたいとの思いもあって、少しためらってはみたものの、左に広がる坂道を上り進まなければなりません。道は、この先、もう一つの環濠集落を通るため、残念ながら、竹之内は見送りです。

 少し遠方から、集落の甍の波を見渡しながら、古代の道を歩きます。

 

 農地にあった標識は、衾田陵(ふすまだりょう)1.7kmの表示です。この先、継体天皇皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)の陵(みささぎ)があるようです。継体は、大和王権の時代から、少し下ることになりますが、聖徳太子などに繋がっている重要な位置づけの天皇です。

 

※竹之内環濠集落近くの農地を通る山の辺の道。

 

 のどかな道

 古代の道は、丘陵地の農地の中を進みます。心地よい初夏の空気に覆われて、清々しい気持ちが広がります。

 まさに、ハイキングに最適の大和路の散策です。

 

※のどかな丘陵地を南進します。

 

 萱生町(かようちょう)

 道は、天理市萱生町の領域に入ります。立派な民家のすぐ傍をすり抜けて、萱生の集落へと向かいます。

 

※道は天理市萱生町に入ります。

 

 道は、萱生町の集落で、変則の四辻を迎えます。道路わきの標識は、衾田陵まで0.4キロ、西向きの斜面を下ると、大和神社バス停で、その距離は0.5kmを示しています。

 大和神社(おおやまとじんじゃ)は、JR桜井線の長柄駅のすぐ近く。今回、立ち寄りはしませんが、古代大和に遡る、由緒ある神社です。

 

萱生町の四辻。

 

 環濠集落

 道はこの先で、萱生町の環濠集落を迎えます。竹之内の集落は、見ることは無かったものの、萱生町と同様に環濠が残されているようです。

 環濠は、まさに濠のよう。見方によっては、池のようにも見えますが、満々と水を湛えて、集落に接しています。現状は、下の写真のようですが、かつては集落を、こうした濠が取り巻いていたのでしょう。

 環濠と石垣が配された立派な構えの木造家屋。見るからに堅固ではあるものの、地域の人々の結束感も伝わります。奥深い、大和の風景を味わいながら、環濠の集落を進みます。

 

萱生町の環濠集落。

 

 濠の周りをめぐっていると、「西山塚古墳」と記された説明板がありました。これを見ると、濠向かいの小高い丘は、古墳時代後期の古墳。大型の前方後円墳だということです。

 詳しいことは不明とのことですが、きっと、古代の権力者のものでしょう。環濠の濠自体、古墳の濠と兼ねているようで、室町の時代にできたと言われている環濠の集落も、やはり、それ以前から、濠との関わりがあったのかも知れません。

 

萱生町(かようちょう)内にある西塚古墳。

 

 中山町

 萱生町の集落を出た後は、ほどなく、次の集落に入ります。幅の狭い道端に、石灯籠や石碑なども置かれています。

 この辺り、天理市中山町になるようで、集落の縁を沿うように、古代の道は続いています。

 

※中山町を通過する山の辺の道。

 

 やがて、道は下り坂に変わります。緩やかな傾斜のところに、柿の木が植えられて、その先は、墓地の様子です。

 遠方は、大和の盆地が見下ろせるほど、高い位置にいることが分かります。

 道はこの先、念仏寺を通過して、古代大和の初代の王、崇神天皇の陵(みささぎ)のある、柳本へと向かいます。

 

※念仏寺に近づく古道。