山の辺の道は、この先、天理市の東の隅を縦断します。道沿いは、市街地からは少し離れた場所ですが、天理教の大きな施設があちこちに見られます。この天理市は、おそらく、天理教の城下町。ひとつの宗教が地域を席巻するという、信じられない世界です。
人々は、この街を、どのように捉えているのでしょう。住民の方々には、少し失礼なことながら、外部の者が街を歩くと、異様な雰囲気を感じざるを得ないのです。
そんな特異な街ながら、今歩く古代の道は、日本の原点とも言える場所。大和王権初代の王、崇神天皇の時代に興った石上神宮(いそのかみじんぐう)を経て、王権の故郷でもある、纏向遺跡(まきむくいせき)や大神神社(おおみわじんじゃ)が鎮座する、大和のまほろば*1の地を進みます。
林道
丘陵の森の中に入った道は、しばらく、幅の狭い林道のような道筋を進みます。途中には、竹林が道を覆うような場所もありました。
それでも、ところどころに標識があり、心細さはありません。行く手を誤ることはなく、忠実に古代の道を辿ります。
※丘陵地の竹林を通る古代の道。
石上大塚古墳
竹林の途中には、「石上大塚古墳」と記された表示板がありました。ここから右に30m上ったところに、前方後円墳があるようです。さずがに古代の道が通る場所。この辺りにも、たくさんの古墳が築かれていた様子です。
古墳の名前からも分かるように、もうここは、天理市石上(いそのかみ)と呼ばれる地域です。次の目標地点である石上神宮も、同じ”石上”。ただ、神宮は、天理市布留町に属しています。
※石上大塚古墳と書かれた表示板。
里へ
道はこの先で林の中を通り抜け、果樹などが植えられた山沿いの農地へとつながります。ひとつの丘陵地を横切って、次の平地に向かうような地形です。
※林の中の道を過ぎ、農地の道に変わります。
山道から、今度は、農道へと姿を変えた山の辺の道。平坦なところは水田で、斜面には果樹などが植わっています。左右から丘が迫る狭い農地を通り抜け、次の集落へと向かいます。
※狭い場所に水田と果樹園が隣接しています。
豊田町から豊井町
山間の農地を過ぎると、小さなため池なども見られます。やがて、集落が現れて、新しい民家が並ぶ通りの先には、車が走る幹線道路が見えました。
道は次第に天理市の街中へと迫りつつある様子です。
※豊田町の集落を通り、前方の自動車道に近づきます。
道は、この先で、県道に合流します。この辺り、天理市の豊田町。一気に視界が開けると、右前方には、天理の街が見渡せます。
私たちは、しばらくの間、県道の歩道に沿って南下して、豊井町の交差点へと向かいます。
※県道と合流した山の辺の道。
県道は、この先、真っ直ぐに南下していて、道沿いには、幾つもの立派な建物が見られます。これらはおそらく、天理教に関連する建物なのでしょう。ちょっと異様な光景ですが、ここから、右方向の街中と比べると、”まだ序の口”、といったところです。
一区切り
山の辺の道の道筋は、次の豊井の交差点を左折して、少し山際に向かいます。ただ、私たちは、この日の歩き旅は、ここで一区切り。交差点を右折して、天理駅へと向かいます。
※この先の豊井の交差点で、今回の歩き旅は一区切りです。
石上神宮へ
豊井の交差点から先の行程は、およそ2か月の間を置いて、昨年(2023年)の5月の下旬に歩くことになりました。本来は、交差点から山際を経由して石上神宮へと入るのですが、私たちは天理駅から、直接、石上神宮へ。
そして、石上神宮の辺りから、正規の道に入ります。(天理駅から石上神宮までは、およそ2kmの距離があります。路線バスの便が悪く、徒歩もしくはタクシー利用になります。)
※石上神宮参道入口。左下の標識にあるように、ここが山の辺の道となります。
石上神宮の参道に入って行くと、木々が空を覆い隠し、厳かな雰囲気が漂います。木漏れ日の優しい光は、山際に鎮座する古代の神が、人々を誘っているようにも感じます。
※石上神宮参道。
参道にある、石造りの標柱や重厚感ある鳥居などを見ていると、この神社の格式が偲ばれます。
また、下の写真の石柱の少し奥には、万葉集に納められた、柿本人麻呂の歌の碑などもありました。
石上神宮(いそのかみじんぐう)
山の辺の道筋は、石上神宮の参道を進んだ先で、本殿の直前を右方向に折れ進みます。ただ、折角の神宮です。私たちは、本殿へと足を延ばして、参拝させて頂きました。
石上神宮の本殿への入口は、鮮やかな朱塗り塀で囲まれた、木目調の楼門です。色調が統一されない理由があるのでしょうか。少し、不思議な楼門を潜ります。
※石上神宮の楼門。
楼門を通った先は拝殿です。立派な檜皮葺の屋根が特徴的で、平日でも、多くの人が訪れます。
この、拝殿奥が本殿で、私たちは、厳かに祈りを捧げたものでした。
※石上神宮拝殿。
資料を見ると、この神社は、元は、物部氏の氏神だったとか。後に、大和に王権が誕生し、物部氏も、重要な役割を演じることになりますが、王権との関係性の証ででもあるように、初代の王、崇神天皇がこの地に石上の御祭神を祀ることになったのです。
古代日本史
古代の大和のことについては、何故か、歴史でも詳しく学ばなかったような気がします。一般には、邪馬台国畿内説や九州説があったという程度です。いつの間にか、時代は飛鳥へと移り過ぎ、聖徳太子や天智天皇(中大兄皇子)など、飛鳥の時代に流れ進んで行くのです。
ただ、実際は、国の成り立ちの原点は、山の辺の道が通っている、天理市の辺りから桜井市にかけての地域だと言われています。このブログを通じ、この先の道筋を歩く中で、僅かではありますが、この辺りのことについて触れて行きたいと思います。
冒頭で少し触れた、”まほろば”という言葉。彼の、日本武尊(やまとたけるのみこと)は、次の歌を残しています。
倭(やまと)は 国のまほろば
たたなづく 青垣
山隠(やまごも)れる
倭しうるはし