旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]10・・・石上神宮から内山永久寺跡へ

 南コース

 

 石上神宮(いそのかみじんぐう)の参詣を終えた後、山の辺の道は、南コースに入ります。これまでの北コースでも、幾つもの寺社や古代史跡に立ち寄りながら歩き進めてきましたが、この先の南コースは、さらに趣が深まります。これまでから触れてきた、古代大和の王権が確立された纏向(まきむく)の地。そして、その周辺の三輪山の麓の地域を巡るように歩きます。道筋は、相変わらず複雑ですが、要所要所に道案内が置かれているため、行く先を誤ることはありません。しかも、休日には多くの人が散策し、人気のハイキングコースでもあるのです。

 ハイカーのグループに出合いながら、或いは、足早の人に追い抜かれつつ、初夏の香りが漂う古里、”まほろば”の地を巡ります。

 

※山の辺の道南コースの道筋(石上神宮から長柄駅付近まで)(山の辺の道美化促進協議会発行地図より)

 

 

 鶏のいる境内

 石上神宮の参詣を終えた後、境内の途中から南に向かう、山の辺の道に入ります。この分岐点の辺りには、たくさんの鶏の姿が見られます。艶やかなその容姿。神社で見るのは珍しい、と思いきや、どうもいわれがあるようです。

 

※境内の途中に、南に向かう道があります。これが山の辺の道です。

 境内に掲示された「なぜ鶏さんがいる」と表示された資料には、次のように書かれています。

 

 「神代の昔、天の岩戸開きの神話に、常世の長鳴き鳥を鳴かせて闇を払い夜明けを告げ、天の岩戸を開いたという神話により、鶏は神道と大変関係の深い吉祥の霊鳥とされています。この謂れにより当宮には鶏を境内に放し御神鶏として大切にしております。ちなみに、鳥居の語源は天の岩戸開きの折、長鳴き鳥を止めた(鳥の止まり木)→(鳥の居る木)→(鳥居)という説があります。」

 

 ”鳥居”の語源については、これまで、考えたこともなかったことで、この記事を読んだとき、(真偽は別として)、目からうろこの状態となりました。

 

※境内の掲示板。

 境内から、山の辺の道に入った先には、簡易な神殿風の鶏舎などもありました。基本的には放し飼いだと思うのですが、こうした施設も必要となるのでしょう。鶏の楽園とはいいつつも、天敵は狙っています。

 

※山の辺の道沿いに設置された鶏舎。

 森の中

 境内から南に向かうと、鬱蒼とした木々が覆う、森の中に入ります。そして、少し先には、小さな池。道幅が狭い砂利道を奥へ奥へと進みます。

 

※境内の南の外れ。

 

 杣之内

 小さな池を左に見ながら、森の中を進んで行くと、やがて、ひとつの集落に入ります。この集落、丘のすき間のわずかな土地に、何軒もの立派な民家が並んでいます。

 道は一旦左に折れて、その先で右折です。

 

※杣之内(そまのうち)の集落に入った山の辺の道。

 

 杣之内の集落内を進んで行くと、道は次第に上り道へと変わります。この先再び、丘陵地の森の中へと向かうような感覚です。

 

※再び坂道に入った山の辺の道。

 

 山道へ

 道はやがて、国道25号線の道路下を潜ります。コンクリートのボックスで守られた山の辺の道。その先は、確かに、山道の様相です。

 

※国道下をくぐり抜ける道。

 

 坂道の正面で、道は2手に分かれます。標識は、右方向が、次に向かう内山永久寺跡を指し示し、その距離は、わずか0.1kmとの表示です。

 ただ、初夏の空気が漂う道は、徐々に体力を奪っていくような過酷さもあるところ。汗を拭きつつ、坂道を上ります。

 

※次の目標地点、内山永久寺跡へと向かう坂道。

 

 芭蕉句碑

 しばらく進むと、再び道案内がありました。そして、そのすぐわきのところには、「芭蕉句碑」と表示された案内板と、立派な句碑が置かれています。

 

  うち山や とざましらずの 花ざかり

 

 案内板の記載によると、芭蕉がこの地を訪れたのは、まだ彼が若い頃。江戸に住まいを求める以前で、出生地の伊賀上野におられた頃だということです。

 若き日の芭蕉翁は、住まい近くの名所などを巡られて、小さな旅を繰り返していたのでしょう。古くからの大寺院、内山永久寺は、その頃、まだ立派な寺院の姿が残されていたようで、芭蕉は、寺院を見ながら感慨を深めていたのだと思います。

 

 ”内山は、近隣の人こそ知る花の名所なのでしょう。外から来た者は、そんなこととは知らずして、見事な花を愛でさせていただきました。”

 

芭蕉句碑のところを左に進みます。

 

 万葉の光景

 しばらくすると、右手には、小さなため池が見られます。遠近に重なる山々は、様々な明るさの緑の主張が素晴らしく、空からの淡い青の光を受け止めて、見事な景観を作っています。

 優しい自然に包まれたような景観は、まさに、”まほろば”ともいえるような景色です。万葉の人々は、このような景観を眺めつつ、この地に暮らしていたのでしょう。

 ただこの辺り、次に触れるように、12世紀前半に内山永久寺が創建され、大伽藍が築かれていたようです。時代と共に変容する景観を想いつつ、永久寺跡へと向かいます。

 

※”まほろば”を彷彿とさせる光景。ここに内山永久寺の大伽藍が展開されていたようです。

 

 内山永久寺

 少し坂を上って行くと、木々の奥へと続く道に向かいます。そして、森に入る直前に、「内山永久寺 絵図」と記された、簡易な案内板がありました。そこには、「内山永久寺跡」の標柱も設置され、この辺りがかつての寺院跡だったことが分かります。

 

※内山永久寺跡。

 

 案内板に従って、少し石段を上って行くと、そこには、下のような立派な寺院の絵図がありました。

 見ての通り、見事な境内が設けられ、室町の時代には、相当な力を有した大寺院だった様子です。このような大寺院が、どうして姿を消したのか、不思議と言う他ありません。

 芭蕉も目にした大伽藍。明治維新の転換期を渡り切れずにいたのでしょうか。今では、この絵図を眺めて往時を偲ぶばかりです。

 

※内山永久寺の絵図。

 絵図を背に振り返ってみたところ、そこに広がる光景は、典型的な自然溢れる大和の姿。どう見ても、中世の大伽藍があった地とは思えません。

 歴史のいたずらのような景観を眺めつつ、山の辺の道を進みます。

 

※内山永久寺跡の展望所からの景観。