関西の方にとっては、桜井市という都市の名前は、おそらくご存知だと思います。ただ、それ程の強い印象はなく、奈良盆地の南に位置する小さな街、程度の認識なのかも知れません。
この桜井市、実は、古代大和の王権の中心地だったところです。市内には、数多くの史跡などが残っていて、今も調査は続いています。近年の発掘調査では、纏向遺跡(まきむくいせき)の実体が明らかにされつつありますし、王権初期の巫女である、倭迹迹日百襲姫(やまとととひものそひめ)の陵とも伝えられる箸墓古墳(はしはかこふん)も有名です。さらには、聖なる山、三輪山を中心にして大神神社(おおみわじんじゃ)や数々の歴史ある社が鎮座する他、長谷寺や阿部文珠院など、由緒ある寺院なども点在します。
古代の歴史の宝庫とも言える都市。桜井市は、何度でも訪れたくなるような、不思議な魅力を隠しています。
原風景
景行天皇陵を過ぎた後、古代の道は、民家の少ない、丘陵地を通ります。この辺り、至る所に古墳などが散らばっているようです。そこここに、小山や塚が点在し、その中をすり抜けるようにして、南へと向かいます。
※標識は次の目標地、桧原神社まで2.4kmを示しています。
やがて進行方向に、ゆったりとした稜線の神聖な山が現れます。この山が三輪山なのか。確定的ではないものの、古代の人が畏れ敬う独特の姿を呈しています。
山に迫る丘陵地には、木々が茂り、その周囲にはのどかな農地が広がります。これぞ日本の原風景、と言えるような景色です。
※三輪山を望む風景。
石碑
足もとを見てみると、砂利道の片隅には、ひとつの石碑が置かれています。「額田王」と記されている万葉歌碑。大和王権の時代からは随分新しい時代です。
「うま酒三輪の山・・・」と刻まれたこの石碑、額田王もこの風景を見て、「大和は国のまほろば」と感慨深くしたためた、日本武尊(やまとたけるのみこと)のことを、偲ばれていたのかも知れません。
※道は三輪山に向けて進みます。
道は、この辺りから、天理市を後にして、桜井市の領域に入ります。平坦なところから、小高い丘へ。変化に富んだ道筋を進みます。
※小高い丘の切通しのような道を進みます。
やがて、ひとつの集落が現れて、標識も、「ここは桜井市」との表示です。この角を左に向かうと、大兵主神社(ひょうずじんじゃ)があるようですが、山の辺の道は真っ直ぐです。目標となる桧原(ひばら)神社まで、1.6kmを示しています。
※桜井市の最初の集落。
纏向(まきむく)の地
この集落、地名は桜井市穴師(あなし)と呼ぶようです。地名のいわれは分かりませんが、この辺り一帯は、纏向(あるいは巻向。”まきむく”と読みます)遺跡の範囲内。古代大和の王権が都としていたところです。
道沿いは、少しの間民家が途切れ、再び、穴師の集落の中心地へと向かいます。
※かつては大和王権の中心地だったと思われる辺り。
ここで少し、纏向遺跡のことについて、触れたいと思います。
桜井市纏向学究センターのホームページを見てみると、この遺跡のことについて、次のように書かれています。
「桜井市域の北部、JR巻向駅周辺にひろがる纏向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州諸遺跡群に対する邪馬台国東の候補地として全国にも著名な遺跡です。」
「・・・日本最初の『都市』、あるいは初期ヤマト政権最初の『都宮』とも目されています。」
ここが、邪馬台国であったのか、或いは、九州にあった邪馬台国がこの地に東遷したのかどうか、古代の歴史の真相は知る由もありません。ただ、この纏向(まきむく)の地に、”ヤマト”の王権が君臨していたということは、間違いはないようです。
時はおそらく、3世紀の後半辺りのことでしょう。日本の黎明期とも言える時代の中心地。不思議な空気を感じながら、古代の道を歩きます。
※桜井市穴師の集落の中心地。
行く手は次第に、勾配を増す坂道に。道沿いは、次第に民家も遠ざかり、寂しい山あいの景色に変わります。
古代の道は、三輪山の裾野をめぐる、緑濃いふところに吸い込まれるようにして、森の方へと続いています。
※穴師集落の中心部。道は三輪山の裾野へと向かっています。
三輪山麓の道
坂道を上って行くと、谷川のように流れ下る小さな川を渡ります。この川は、巻向川と呼ばれていて、三輪山の奥地から、大和盆地に注いでいます。
古代纏向の人々は、この川の流れを利用して、営みをつないでいたのでしょう。
やがて、巻向川に沿うように、三輪山の奥へと続く舗装道路と、鋭角に右に折れ、山裾をめぐるように延びていく、裾野の道に分かれます。
その分岐点のところには、「←笠山荒神」「→桧原神社」と記された標識です。
山の辺の道の道筋は、間違いなく、桧原神社の方向です。私たちは、鋭角に方向を変え、三輪山の裾野を辿ります。
※鋭角に道筋を変え、三輪山の裾野を巡る山道に入ります。