旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[山の辺の道]16・・・桧原神社へ

 箸墓古墳(はしはかこふん)

 

 私たちが今歩く山の辺の道の道筋は、奈良の盆地の東隅、笠置山地の裾野に連なる山際を通っています。この道は、やや高台にあり、時折、平地を見下ろしながら、南へと向かいます。纏向(まきむく)の辺りでは、三輪山が左手(東)に、右手が大和盆地という具合。そして、その盆地が広がるところに、有名な箸墓古墳が位置しています。

 

※ピンクの線が山の辺の道。オレンジ枠が箸墓古墳。黄色の区画は纏向遺跡。山の辺の道美化推進協議会の資料によります。

 

 この箸墓古墳桜井市纏向学究センターの資料には、次のように書かれています。

 「纏向遺跡の南側部分に位置する扇状地上に形成された全長約280mの前方後円墳」「この古墳は倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひものそひめのみことおおいちのはか)として陵墓指定され、立ち入りが制限されています」

 また、作家の黒岩重吾氏は、『古代浪漫紀行』の中で、

 「初期大和王権を考える場合に大切なのは、纏向(まきむく)遺跡の中でいちばん大きな箸墓(はしはか)古墳ですね。これは倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)を葬ったとされる古墳ですが、・・・」とし、「箸墓古墳の主の倭迹迹日百襲姫は、伝承として明らかに神祇の女性であると考えていいでしょう。神様と非常に縁のある女性。そうするとまず考えられるのは、卑弥呼であり、台与(とよ((卑弥呼の姻戚者で後継者だったと言われています。)))であるわけですね。

 つまり、もしかして、纏向の地に今もその姿を誇示している箸墓古墳それこそが、卑弥呼の墓かも知れない、という説も成り立つというのです。(実際、そのような話はよく耳にしますし、まことしやかに紹介されている資料も見かけます。ただ、黒岩重吾氏は、台与の方が可能性はある、との考えだと思います。)

 古代のロマンが色濃く漂う纏向の遺跡から、道は、神聖な神が眠る歴史の社に向かいます。

 

 

 三気大神神社(さんきおおみわじんじゃ)

 三輪山山麓の道を辿って行くと、よく整備された緩やかな斜面が広がります。その先は、纏向の集落も見え、清々しい空気が流れています。

 

三輪山の裾野を周って桧原神社に向かいます。

 

 しばらくすると、杉木立の道へと様子が変わり、その先に小さな神社がありました。木の板で囲まれた、ちょっと不思議な神社です。「三気三大神神社」の表示板はありますが、社などは塀の奥。板塀伝いに周り込み、何とか参拝することができました。

 

※三気大神神社

 

 桧原神社(ひばらじんじゃ)へ

 三気大神神社を過ぎた後、間もなく左手に、広々とした神社の境内地が現れます。案内表示を確認すると、ここが次の目標地点、桧原神社になるようです。大きな建物などは無く、あっさりとした印象の境内です。

 

※桧原神社の北側入口。

 

 境内を左に見ながら正面にまわってみると、立派なしめ縄が架けられた門柱がありました。私たちは、しめ縄の下を通り抜け、その奥にある、参拝所に進みます。

 

※桧原神社の正面。

 

 桧原神社

 桧原神社は、先ほども少し触れた通り、本殿などの建物はありません。参拝は、山裾に建てられた、三ツ鳥居前で行います。

 おそらく、鳥居背後の山そのものが御神体なのでしょう。これこそが、自然崇拝の原点のようにも思えます。 

 

※桧原神社の参拝所。正面奥に三ツ鳥居が置かれています。

 

 鳥居の様子がわかる写真をご覧いただきたいと思います。中央と左右隣りに、3つの鳥居が配されていて、実に厳かな雰囲気が宿っています。

 そして、鳥居前の御由緒書には、次のような説明がありました。

 

 「第十代崇神天皇の御代、それまで皇居で祀られていた『天照大御神』を皇女豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)に託しここ檜原の地(倭笠縫邑)に遷しお祀りしたのが始まりです。その後、大神様は第十一代垂仁天皇二十五年に永久の宮居を求め各地を巡幸され、最後に伊勢の五十鈴川の上流に御鎮まり、これが伊勢の神宮(内宮)の創祀と云われる。」

 

※桧原神社正面。

 このように、桧原神社は、伊勢神宮の原点とも言われています。境内に置かれている、もう一つの説明書きには、「この地を今に『元伊勢』と呼んでいます。」との記載もありました。

 

 日本書紀

 桧原神社の由緒については、黒岩重吾の『古代史の迷路を歩く』の作品で、かなり詳しい考察がなされています。この辺り、『日本書紀』の記述では、神話の域を超えていないようですが、黒岩重吾の作品では、史実との重なりを鋭く読み解いているのです。

 少しくどくはなりますが、参考までに、その部分を紹介させて頂きます。

 

 「さて『日本書紀』の記述によると、疫病、反乱などが起こったので、崇神天照大神、倭大国魂(やまとのおおくにたま)の二神を大殿に祀った。だが二神が共に住めないというので、豊鍬入姫命を司祭者にして、天照大神を、倭の笠縫邑に祀り、倭大国魂の司祭者を渟名城入姫命(ぬなきのいりひめのみこと)にした。」

 

 この記述は、先の桧原神社の説明と矛盾などはありません。確かに、豊鍬入姫命を司祭者にして、天照大神を、この桧原神社にお祀りしたということです。

 そして、続いて、

 

 「だが、やはり疫病反乱に対して効果がなかったと記述されている。後に大王家の皇祖神となった天照大神を祀ったのに、効果がなかったという、この記述は重要である。・・・皇祖神を祀ったのに効果がなかった、という記述は『日本書紀』の編纂者が、崇神天皇家の正統な王ではなかったことを知っていた事実を感じさせる。」

 

 と綴りつないでいます。つまり、8世紀の時代に編纂された『日本書紀』は、3世紀の時代の史実を伝承(或いは、編纂時の権力者の都合)等に基づいて記述しているため、そこは慎重に読み解く必要がある。そして、この天照大神の記述は、崇神天皇に関連した巫女(邪馬台国卑弥呼のような)こそが、権力の中心ではなかったか、と推測されているのです。

 

 このあたり、次に向かう大神神社との関連もあり、興味深いところです。次回のブログで、もう少し、触れてみたいと思います。