旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ2・・・中山道、御嶽宿から大井宿へ(前編)

  美濃路の難所

 

 近江から美濃に続く中山道は、それほど旅人を悩ます所はありません。幾つかの丘や小さな峠、木曽川の横断があるものの、おおむね平地を淡々と進んでいきます。そして、いよいよ49番御嶽宿(みたけじゅく)。ここから先に、江戸を目指す旅人にとって最初の難関が待ち受けています。

 

 御嶽宿から大井宿へ

 御嶽宿へは名鉄新可児駅から広見線を利用します。この路線は中京地域の都市間を結ぶ名鉄線の中でも恐らくローカル色を強く残す路線のひとつでしょう。車窓からは左右に連なる山並みが徐々に狭まる感覚と、その間にのびるのどかな田園風景を楽しむことができます。

 中山道可児市伏見宿から名鉄広見線と少し距離を開けつつ並走していますが、終着駅の一つ手前の御嵩口駅でほぼ軌道と合流し、終着の御嵩駅へと向かいます。

 私たちは今回、御嶽宿を起点として、美濃高原の山間に佇む48番細久手宿(ほそくてじゅく)、47番大湫宿(おおくてじゅく)を経て恵那市の中心地、46番大井宿まで、1泊2日の行程を刻みました。

 

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※左、名鉄御嵩駅。右、御嵩宿。

 

 御嵩宿

 広見線の終着駅である御嵩駅に降り立つと、もうそこが御嶽宿です。平屋建ての小さな駅舎を出るとすぐに交差点。その一角には宿場の案内看板も。

 細久手方面は駅から真っすぐに延びる道、交差点からは東の方角です。

 駅から少し進むと、本陣跡や資料館などの建物が並んでいます。宿場の家並みは時代の流れには逆らえず、今日風の構えが多くなっているものの、やはり街道の雰囲気は残されています。

 本陣跡近くには、“御嶽宿わいわい館”という休憩所兼食堂があります。中は、木造りで小ぎれいに意匠され、土産品などが飾られています。私たちは、そこで細久手宿までの詳しい地図をいただき、一路東へと向かいました。

 

 御嶽宿から細久手宿

 御嶽宿の街並みを出ると、中山道は、旧国道21号線に合流します。21号線は可児市から旧国道と可児御嵩バイパスに分かれているようですが、旧国道が中山道と合流してほどなく、二つの国道は再びひとつの道となります。

 国道が合流して間もなく、歩道の左手に“和泉式部廟所”の碑が見えてきます。中山道は、そのすぐ先を左折し、ここで国道と別れを告げることに。そして、すぐに右折します。この辺りは、「中山道」の標識が道筋に掲げられていますので、地図と突き併せて位置を確認しておくと、道を誤る心配はありません。

 

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 牛の鼻欠け坂

 街道はいよいよ美濃の山中に進んでいく雰囲気で、いつの間にか急に視界が狭まってきます。“細久手宿8,300米”の標識を過ぎると、ついに山道です。実際、ここから恵那市の大井宿までが中山道のひとつの難所となるのですが、その最初の試練は“牛の鼻欠け坂”で迎えることになります。

 牛が鼻を擦って登らなければならないほどの急な坂、と言われるとおり、これまでそこそこ平坦な中山道を歩いてきた者にとっては、少々辛く感じる坂道です。ただ一方では、歴史道の色合いが増すことから、本来の中山道を実感できるところでもあるのです。

 生い茂る木々が直射日光を和らげてはくれるものの、夏の虫たち*1が体にまとわりつく不快さも感じながら歩を進めます。

 

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※牛の鼻欠け坂の一部

 

 謡坂(うとうざか)

 牛の鼻欠け坂から峠を越えて小さな集落を進むと、再び山道に入ります。そこは、石畳の道。“謡坂(うとうざか)”と名付けられたこの辺りは、旅人などが歌いながら往来するところから名づけられたとか。諸説があるようですが、それはともかく、坂道の街道を進んでいくと少し道幅も広がってきます。

 所どころ、アスフェルト舗装された車道ともすれ違いながら、上り坂は続きます。

 

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※謡坂の入口

 

 御殿場からさらに山中へ

 坂道の疲れを癒せる休憩場所を探していると、山中に“森のカフェ”の看板が現れました。坂道の右には駐車場があり、7~8台の乗用車が停まっています。

 駐車場から街道沿いに50メートルほどの細い登り道の階段を上がっていくと、そこに木造のお洒落なレストラン風の建物が現れました。このカフェは、山中の隠れ家的存在にもかかわらず、ケーキ目当てにやってくる、たくさんのお客さんで賑わっていました。

 御嶽宿を発っておよそ1時間半、細久手宿までの中間地点として格好の休憩所となりました。

 このカフェを超えて間もなく、峠のひとつ、御殿場を通過します。しばらく下ると集落に出るのですが、街道は再び狭くて急な上り坂に。特に山内嘉助屋敷跡を過ぎると、草地の上り坂が待ち構えています。急坂に加えて、再び夏虫につきまとわれる苦難の道となりました。

 一旦、山道の出口と思われる日差しを感じる空間に出ると、そこには鴨之巣一里塚が控えています。一里塚の間を抜けると山地の中の少し開けた空間へ。そこから秋葉坂を下ると、県道65号沿いの小さな集落、平岩の辻に出てきます。

 

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※鴨の巣の一里塚

 

 細久手宿

 平岩からは、山ぎわに延びる65号に沿って、アスファルト舗装の坂道をさらに少しずつ上って行きます。次第に緩やかな坂道となり、いよいよ細久手宿に近づきます。

 細久手宿は、他の多くの宿場でもそうであったように、かつて大火に見舞われたとのこと。ちょうど、皇女和宮が江戸に向かう少し前であったようで、大変な混乱だったことでしょう。

 この大火の影響が大きかったのか、今の細久手宿は往時の面影が残る場所は多くはありません。ただ今も、御嶽宿ー大井宿間の唯一の宿として、「大黒屋」さんが営業を続けておられます。

 

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※左、本陣跡と細久手宿。右、宿場の中央辺りに残る大黒屋の旅籠。

 

 大黒屋

 大黒屋さんは、もともと尾張藩指定の本陣だったとのこと。安政5年(1859年)の大火で宿場町はことごとく焼失し、この大黒屋も例外ではありませんでした。その中で、家は翌年再興されます。しかしその後、近代の世になって、宿場町は次第にさびれていき、旅籠の役割は一旦幕を閉じました。

 その後、昭和26年、大黒屋は料理旅館として新たな歩みをスタート。そして、今も私たち中山道を歩く者の、一夜の枕を提供していただいています。

 このお話は、大黒屋の大女将さんの随筆に記されています。

 私たちが旅籠に着いたとき、玄関脇に静かに佇むお婆さんの姿がありました。

「よかったら、これを読んでくださいな。」とお渡しいただいた、1枚の紙にまとめられた随筆から、細久手宿の歴史を少しだけ知ることができました。

 

  御嶽宿から細久手宿まではおよそ12Km。夏の暑さも加わって、4時間の道のりとなりました。慣れない山道を歩くにはこれ位が程よい行程です。

*1:ブヨあるいはブトと呼ばれる小さな虫がまとわりつきます。その他の虫も時々近づいてきますので、服装や防虫には注意が必要です。