旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)6・・・讃岐路(81番)

 白峰寺崇徳上皇

 

 五色台の西の端、白峰の中腹辺りにある81番白峯寺は、先の根香寺と同様に弘法大師と智証大師が開いたという霊場です。そして、この白峯寺はもう一つ、平安時代の後期に即位した、崇徳天皇(後に上皇)にゆかりがある寺院でもあるのです。

 境内には、崇徳天皇の廟所である頓証寺殿や崇徳天皇陵などがあって、四国巡礼の人たちだけでなく、保元の乱に敗れ讃岐に流された上皇の菩提を弔うため、多くの人が巡拝に訪れるということです。

 

 

 81番白峯寺

 根香寺を後にして、山中の道を坂出市方面に向かいます。81番白峯寺は、五色台の西のはずれ、白峰の中腹にある、山中に佇む霊場です。

 五色台の横断道路を右にそれて、少し狭い斜面の道を進みます。途中、山の傾斜には、一面にアジサイの花が咲き誇り、何とも麗しい景観です。幾つかある駐車場を通り過ぎ、最も奥にある、舗装された駐車場に到着すると、そこには弘法大師像が待ち構え、像の左手には趣ある山門がありました。

 

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※駐車場と弘法大師像、山門。

 

 白峯寺

 山門をくぐって境内に入ると、幾つかの建物が並びます。参道の途中を左に折れ、奥に進んだ正面が頓証寺殿(とんしょうじでん)で、その入口に、勅額門と呼ばれる立派な門が構えます。

 白峯寺(しろみねじ)の本堂は、ここから右手上に続く石段の上。途中、幾つかのお堂を通り過ぎ、本堂へと向かいます。この途中のお堂には、干支である十二支をそれぞれ守る本尊が安置されているようで、例えば、ひつじ年とさる年の人は、薬師堂でお参りくださいというような案内がありました。

 

 長い石段を上り詰めると、本堂です。そして、本堂の右手が大師堂。山の斜面の狭いところに2つのお堂が並びます。

 

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※左、本堂に延びる石段。右、本堂。

 

 頓証寺殿

 本堂に向かう石段の下には、先ほども少し触れた、勅額門。そして、その門の奥には頓証寺殿が佇みます。頓証寺殿は、崇徳天皇の廟所であり、正面拝殿の裏手には、崇徳天皇陵が築かれているのです。崇徳天皇が亡くなられたのは、1164年。弘法大師の没後、250年ほど後のこと。あるいは、大師の加護の中で天皇の安らかな眠りを祈願する人たちが、この地に祀ることを思い立たれたのかも知れません。

 

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※勅額門と、その奥には頓証寺殿の拝殿が。この拝殿の裏に崇徳天皇陵があります。

 

 私たちが訪れたとき、勅額門の左手の小道は工事のために閉鎖中。従って、境内から直接天皇陵へと向かうことができません。やむなく一旦山門を出て、白峯寺の外周の道を、天皇陵へと向かいました。

 

 崇徳天皇

 この外周の道、そこそこ幅の広い土の階段を下っていくと、砂利引きの広場に下り着きます。そこから右手に石段が延びていて、そこを上がると天皇陵。先ほどの、頓証寺殿の真裏にあたります。

 天皇陵は、陵の正面に鳥居が置かれ、石柱などで仕切られていて厳かな佇まい。周囲は木々に覆われていて、陵の奥を見渡すことはできません。

 

 五色台の西の麓からも天皇陵と白峰寺の山門に上る道が続いているらしく、その道は、”西行法師のみち”と呼ばれている、との案内板がありました。天皇の死後、四国を訪れた西行法師が旧知の天皇の菩提を弔うため、この地を訪れたときに通られた道ということです。

 

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※左、崇徳天皇陵。右、”西行法師のみち”の案内。

 

 崇徳天皇

 崇徳天皇は75代目の天皇です。保元の乱(ほうげんのらん、1156年)で後白河天皇(77代目)と対立して敗退し、四国の讃岐に流されました。その後、都に戻ることを強く望んでおられたようですが、結局、望み叶わず讃岐の地で崩御されたということです。

 崇徳天皇の上洛への思いは強く、成就叶わなかった晩年は、時の為政者への怨念を強く抱いておられた様子です。また、天皇の没後には、都では様々な事件や災厄が起こったために、世の人は、崇徳天皇の怨霊の仕業と怖れられたという話も有名です。

 

 私自身、このお話は、内田康夫氏の「崇徳伝説殺人事件」というミステリー小説で初めて知った次第です。色々と、資料などを見てみると、どの時代にも共通する政争を彷彿とさせる話ではありますが、当時は、複雑な血縁関係なども重なって、より混沌としていたことでしょう。

 そんな逸話も重なって、今も白峯を訪れる人は多いとか。四国霊場白峯寺。四国巡礼とは少し異なる背景を合わせ持つ霊場です。

 

 崇徳天皇は、多くの方が親しまれている、百人一首の読み手のひとりとしても知られています。その歌は、一字決まりと言って、和歌の最初の一文字で札が拾える七首のうちの一首です。子どものころからこの和歌は、私の大好きな歌の一つで、いつまでも忘れることができません。

 

 ”瀬を早み 岩にせかるる滝川の われても末に 逢わむとぞ思う”

 

 この歌は、恋歌として解説されているもので、世の流れの中で引き裂かれた男女であっても、思いがあればいつか必ずまた巡り会えるものだというものです。

 しかし、崇徳天皇の怨霊の話を思い起すと、あるいはこの歌は、世の中枢から排除された天皇が、いつかまた、元の権力の中枢に戻るのだという、回帰の念を込めたものとも捉えてしまいます。

 この歌自身は、保元の乱よりはるか以前に詠まれたもの。従って、私の勝手な想像は的を射たものではありません。それでも、崇徳天皇の心の内が感じ取れるような奥の深い一首です。

 

 次は五色台を離れて、讃岐平野の西側に向かいます。この地こそ、空海の生誕地。農地の中に集落が点在し、椀を伏せたような小山とため池が散らばる、のどかな景色が広がります。