四国遍路と弘法大師信仰
四国八十八か所の巡拝は、弘法大師ゆかりの寺院を巡る旅と言われています。しかし実際は、弘法大師の弟子たちや後の人々によって徐々に形づけられてきたもので、弘法大師信仰の象徴です。
今からおよそ1250年前、西暦774年に、讃岐の地で誕生した空海は、遣唐使として唐の長安に渡り、そこで真言密教を伝授されます。空海は、言語や文章力、思想・芸術に至るまで、天才的な能力を発揮されたということで、まさに神の領域の人だったのかも知れません。
高野山の奥の院で即身成仏されたと伝えられる空海。後に、醍醐天皇により弘法大師号を授けられました(西暦921年、空海の死後80数年の後のこと)。
平安時代の初期に活躍した空海は、各地に数多くの足跡を残されて、人々に親しまれ崇められてきたのです。四国遍路の旅を続けていると、1200年もの長きにわたり、人の心を引き付けてやまない、弘法大師の魅力を実感します。
※左、空海の故郷近くの讃岐の遠景。右、高野山奥の院への入口。
空海のこと
空海が真言宗の開祖であることは、中学校の歴史でも学んだと思います。比叡山延暦寺で天台宗を開いた最澄とともに、密教の双璧として記憶したものです。
ところが、私の空海に関する知識はその後長い間、そこで止まったままでした。もちろん、最澄のことも同様で、たとえ比叡山延暦寺を何度か訪れたとしても、観光地訪問以上のものではありません。空海や最澄の生き方について、興味を持つことはありませんでした。
その後、今から20年ほど前のこと、私は、司馬遼太郎の『空海の風景』という小説に巡り会いました。この作品は、小説というよりも空海の伝記のような内容で、特に空海の哲学的な思考の変遷が見事にまとめ上げられているのです。
弘法大師と言えば、仏教の高僧であると信じて疑わなかった私にとって、この小説は衝撃的なものでした。空海という人の見方を、それこそ根本から変えてしまった一冊です。
空海は、讃岐の国、今の香川県善通寺市で生を受け、若くして奈良で勉学に励みます。仏教の経典や儒教はもちろんのこと、語学など幅広い知識や技能を身につけられた様子です。
その後、密教の存在に触れ、四国の阿波の国から室戸岬を渡り歩いて、自身を自然と一体化するような修行を行います。室戸の最御崎(ほつみさき)の洞窟で明星を認めた体験は有名な話のようですが、この体験が契機となって、密教を極める道にまい進したということです。
※室戸岬。この近くには、今も御厨人窟(みくろど)という名の空海修行の洞窟が残っています。
空海が辿り着いたのは、仏教の教えを超越する人と宇宙の真理の探究です。
仏教に関してほとんど知識のない私などが、どうこうと語れる身ではないものの、阿弥陀如来を崇めてその力で救われるという”他力本願”や、欲望から解き放たれることが人間の幸福につながるという仏教の本質とは、随分と趣が異なる観念が密教にはあるようです。
このあたり、空海が「華厳経」や「大日経」と出会い、そこから真言密教を確立するに至る第一歩の思考について、『空海の風景』では次のように記されています。
「もっとも重要なのは、華厳経に出現する廬舎那仏(るしゃなぶつ)が、大日経にも拡大されていることである。廬舎那仏は釈迦のような歴史的存在ではなく、あくまでも法身という、宇宙の真理といったぐあいの、思想上の存在である。・・・あたかも日光のごとく宇宙万物に対してあまねく照らす形而上的存在という意味であり、ごく簡単に宇宙の原理そのもとといっていい。この思想を、空海ははげしく好んでいた・・・」
実在した仏教の祖、釈迦をも超越した宇宙の真理である廬舎那仏。大日如来とも称されていて、真言密教の本尊です。奈良東大寺の大仏は華厳経によるものですが、その先に空海が見たのが真言密教だったのです。
後に空海は遣唐使として唐に渡ることになりますが、それは、「大日経」からさらに進んだ真言密教に辿り着くためだったと言われています。
同行二人
少し話が難しくなってきたようです。ただ、私がお伝えしたかったことは、弘法大師への信仰の深さや広がりがどこから来ているのか、ということです。
真理を追究していけば、生身の人間でありながら、宇宙の原理にも成りえる。ここから、”即身成仏”という考え方が導かれ、空海自身が仏となっていくのです。
四国遍路を行う人々の多くは、”同行二人”(どうぎょうににん)と言う言葉を印した菅笠や金剛杖を携行します。これは、弘法大師その人が、信仰する人の心の中に存在する、弘法大師がいつも自分の傍にいて、見守っていてくれるという思想です。
巡礼を続ける中で、弘法大師は常に自分の傍にいてくれる。そして、遍路を通じて自分自身を見つめなおし、あるいは、何かを発見する。これこそ、空海が追求した真理と重なる、四国遍路の極みといってよいでしょう。
三密
今年に入って、新型コロナウイルスが猛威を振るい、人々は、この見えない敵とどのように立ち向かうのか、知恵を絞り対策を講じてきています。
その中で、どうも、3密という対応が基本的に有効だという認識が広がって、密閉・密集・密接の空間を避けることが推奨されているのです。この3密という言葉、いったい誰が考案されたものなのか。言葉の響きは、いかにも、人の心に浸透しやすい表現です。
実は、この三密、真言密教の原理でもあるのです。地元で販売されている、四国遍路を巡る作法と地図が掲載された冊子には、「自分の心と言葉と身体の三密がいつも清らかで一つであるよう心掛けると・・・願いがかなえられるのです。」と記されています。
また、『空海の風景』においても、この三密について次のように記されています。
「空海は三密という。三密とは、動作と言葉と思惟のことである。仏とよばれる宇宙は、その本質と本音を三密であらわしている。宇宙は自分の全存在、宇宙としてのあらゆる言語、そして宇宙としてのすべての活動という”三密”をとどまることなく旋回しているが、真言密教の行者もまた、その宇宙の三密に通じる自分の三密=印をむすび*1真言(宇宙のことば)をとなえ、そして本尊を念じる=という形の上での三密を行じて行じぬくこと以外に、宇宙に近づくことができない。」
宇宙は、動作(身体)と言葉(口)と意思(心あるいは意)が飛び交うように入り乱れ旋回している。このことを理解して真理を求め続けること以外に真理に到達できないという意味でしょうか。
実に哲学的内容で、とても私には俄かに理解できない内容なのですが、いずれにしても、四国遍路を続ける人たちは、真言密教において基本的なこの「三密」を心に据えて巡拝の旅を進めているのです。
空海のことについては、折に触れ記していきたいと思います。とりあえず、次回は高松市の南部に位置する、83番一宮寺(いちのみやじ)から巡拝の旅の続きです。