旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]10・・・間の宿(後編)

 続、間の宿(あいのしゅく)

 

 中山道の中間地点にほど近い、間の宿、原野(はらの)を越えると、街道は後半に入ります。宿場町をひとつずつ通過して、江戸日本橋を目指す中、まだ幾つかの間の宿がありました。

 宿場と宿場の中間辺りに、休憩所として整備された間の宿。見逃せない、魅力ある町も残っています。

 

 

 間の宿の極み

 木曽路の終盤、34番奈良井宿のすぐ先にある、平沢という町と、信濃路の26番芦田宿・25番望月宿の間に位置する茂田井(もたい)の2か所は、間の宿では際立って、往時の町並みをよく残しているところです。

 今では、宿場町そのものが、随分姿を変える中、これら2つの間の宿は、特色ある町の姿を伝えています。まさに、間の宿の極みと言っても良いでしょう。

 

 <平沢>

 奈良井宿と次の宿場の贄川宿(にえがわじゅく)は、7Kmほどの道のりです。それほど離れた宿場間ではないものの、奈良井の宿場のすぐその先に、間の宿、平沢があるのです。

 平沢は、もともと、漆器で栄えた町らしく、街道沿いは、漆器のお店や工房のような建物が並びます。いかにも高級そうな器や食事用具を眺めながら町中を歩いていくと、旅籠風の建物とともに、幾つもの、荘厳な木造建築が現れました。

 木曽山中の集落で育まれた産業は、土地の人々に富をもたらし、さらには、富裕層まで輩出するほどの活況を呈していた様子です。

 

 平沢は、大名など、往時の権力者達にとって、特別の場所だったのかも知れません。彼らは、漆器集めを目的として、ここで時間を費やしたのではないのかと、疑いたくなるようなところです。

 もともと、質の高い漆器の一大産地であったが故に、平沢は、間の宿としての役割が付随してきたと言えなくもありません。

 山また山に囲まれた、木曽路の集落。そこに生業を生み出して、富を集めた人々の底力には、感嘆せざるを得ない思いです。

 

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 ※早朝の平沢の町並。

 

 良い写真がないために、説明不足になるものの、平沢は、是非とも一度は訪れるべき町だと思います。

 隣接する奈良井宿は、宿場町全体が、重要伝統的建造物群保存地区として指定されていることは、「

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]3・・・宿場町(前編) - 旅素描~たびのスケッチ

」でも記したとおり。そして、この平沢も、同じく保存地区の指定を受けているのです。*1

 立派な木造建築が連なる街道沿いは、まさに、宿場町を超える趣が味わえます。

 漆の町でありながら、旅人に潤いを与える間の宿としても位置付けられた平沢の町。このような特色ある町の姿は、次に紹介する茂田井や、東海道の有松*2など、僅かな町でしか見ることができません。言わば、貴重な街道の遺産と言って良いでしょう。

 

 <茂田井(もたい)>

 茂田井の町は、26番芦田宿と25番望月宿の中間にある間の宿。芦田・望月間が、僅かに5Kmという道のりの中、間の宿の必要性は定かではありません。

 この町は、日本酒の蔵元がいくつか残り、それこそ立派な屋敷や蔵などの建物が連なります。町並みは、幾分古さを感じるものの、時代を感じる長塀や街道伝いに残る石組の水路など、往時の面影が偲ばれます。

 信州の、緩やかな丘陵地に開けた茂田井の町。豊富な湧水と穀倉地帯の恩恵を受け、酒造りが広がっていった様子です。

 先の、平沢風に解釈すると、この地の日本酒をたしなむために、大名たちは輿を降り、この町で、しばしの時間を費やしたのかも知れません。すぐその先に、望月の宿。あるいは、芦田の宿場がありながら、この地が間の宿として位置づけられたその理由(わけ)は、こんなところにあったとしても、あながち、間違いではないような気がします。

 そんなロマンを感じる町。信濃路の中でも、中山道の姿をよく残しているところです。

 

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※茂田井の町。

 

 その他の間の宿

 間の宿は、以上の他にも、それと分かるところが幾つかあります。その中でも、はっきりと位置づけられた、上州と武州の2つの町を紹介します。

 

 <原市(はらいち)>

 原市は、16番松井田宿と15番安中宿の中間にある町です。この宿場間の間隔は、およそ10Km。街道は、碓氷川の左岸をほぼ真っ直ぐに下っていくような、変化が少ない道筋です。

 原市は、ある意味、退屈な道中の真ん中に位置付けられた間の宿。休憩所の役割を持つ、典型的な間の宿と言えるでしょう。

 この町は、かつての町並みは、それほど残っていませんが、安中に近い所に、杉並木が残されていて、街道の風景を楽しめるところです。

 

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※左、原市の町。右、杉並木の入口。

 

 <吹上>

 吹上は、8番の熊谷宿と次の7番鴻巣宿(こうのすじゅく)の間にある間の宿。この2つの宿場間は、16Kmを超える長丁場。これほど離れた宿場間には、何か所かの休憩所が必要だったことでしょう。

 熊谷宿を出た後に、延々と続く街道を進むと、荒川の土手道に至ります。この堤のすぐ東には、JR高崎線行田駅。その辺りから土手を下り、集落内を進んでいくと、吹上駅に行き着きます。この駅近くが吹上の間の宿。今では、その名残はそれほど残ってはいませんが、案内板などにより、間の宿であることが分かります。

 次の宿場の鴻巣は、吹上駅から、さらに北鴻巣駅を通り過ぎ、ようやく辿り着くことができるのです。熊谷駅から数えると、JRの3つの駅を挟んだ末に、鴻巣駅ということです。

 この長丁場。吹上は、貴重な休憩所であったことでしょう。

 

 

 ここまで紹介してきた間の宿。中山道には、私たちが気づかなかったところも、まだまだあると思います。ただ、このような、間の宿。街道は、宿場町だけで成り立っていた訳ではないことを教えてくれる、貴重な歴史の証です。

 

*1:2006年に指定。種別は、宿場町ではなく、漆工の町として。

*2:有松は、有松絞りと言う和服の生地が有名な町。いずれ、東海道の歩き旅のスケッチで紹介したいと思います。

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]9・・・間の宿(前編)

 間の宿

 

 間の宿(あいのしゅく)は、宿場と宿場の間に設けられた休憩地。宿場間の道中が長い場合や、川を渡るための調整機能などとして、宿場に近い機能を持たせた町が必要だったということです。

 中山道を歩くまで、この言葉自体、聞いたことはありません。歩みを進めていく中で、幾つかの宿場町のような集落を通り過ぎ、案内板などの説明で、間の宿の存在を知ることになったのです。

 解説書などによると、幕府公認の宿場のみに、旅籠の設置が認められていたために、間の宿では、宿泊をすることが原則として禁止されていたということです。

 それでも、今も残る間の宿の幾つかは、単なる休憩所と言うよりも、旅籠自体が存在していたのではないかと思えるような町構え。中には、今残る宿場町より立派なところもありました。

 

 今回とその次は、2回にわたって、中山道の「間の宿」の魅力をお伝えします。

 

 

 近江路、美濃路の間の宿

 近江路と美濃路の中で、今でもはっきりと、間の宿と分かるところは、ほとんど無いと言っていいでしょう。特に近江路では、65番愛知川宿と64番高宮宿の間に位置する豊郷(とよさと)町の石畑という集落が、僅かにその痕跡を残している程度です。

 

 <石畑>

 豊郷は、彦根市の南東にある小さな町。中山道は、町の中央を縦断するように延びています。街道沿いには、ところどころに旧家も見られ、古くから沿道伝いに町が広がっていった様子です。

 近江商人を輩出したところとしても知らるこの町には、伊藤忠兵衛記念館などもありました。

 ただ、この町が、間の宿であったということは、町を見ただけでは分かりません。街道筋に往時の面影がかすかに残ってはいるものの、全体的には普通の集落といってよいでしょう。

 間の宿を確認できる証は、街道途中の八幡宮入口にある小さな石碑。石畑の一里塚跡のすぐ横にあるその石碑には、「石畑(間の宿)」と刻まれているのです。

 

 前後の宿場町である、愛知川宿と高宮宿は、およそ8Km離れています。この距離は、それほど長い区間ではありません。そんなところに、どうして間の宿が設けられたのか、定かではないものの、少し興味をそそられます。

 

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 豊郷町石畑。右が八幡宮

 

 <新加納>

 岐阜市の南、53番加納宿を出て東に進むと、次の宿場、鵜沼宿まで16Kmを超える長丁場。この長距離区間の途中にあるのが、間の宿、新加納*1です。

 美濃路では、揖斐川長良川を渡るため、ここまでの宿場の間隔は、短い距離で刻まれます。ところが一転、加納・鵜沼間は四里十町に及ぶ行程に。この長距離区間の負担を癒すのが、間の宿という訳です。

 新加納は、岐阜市の西方、各務原市に入ったところに位置します。名鉄加納駅を過ぎ、少し急な坂道を上った先にある町です。

 この町は、宿場町と比べると、それほど大きく感じませんが、往時は結構賑わっていた様子です。古い家並みや、間の宿の案内板も掲げられ、宿場に近い面影が味わえる道筋です。

 案内板の記述には、「皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿加納宿の、ちょうど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の「間の宿」として栄えていたのである。」と記されています。

 

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※新加納の町。

 

 木曽路の間の宿

 木曽路には、幾つかの、それと分かる間の宿が見られます。成り立ちは、大きく分けて2つの理由がありそうです。そのひとつは、山間を進む道中で、旅の負担を軽くするための休憩所が必要であったこと。2つ目に、限られた宿場町を補完する場所が求められたということです。

 ただあくまでも、これらの理由は、私自身の考え方。歴史的には、様々な変遷を辿りながら、それぞれの間の宿が位置付けられたことでしょう。

 

 <大妻籠>

 木曽路最初の間の宿は、大妻籠(おおつまご)。重要伝統的建造物群保存地区として名高い妻籠宿のすぐ南に位置する集落です。

 大妻籠自身も、保存地区の中に組み込まれ、宿場町としての姿が良く残っているところです。

 この間の宿は、妻籠宿とそれほど距離は離れていなく、恐らく、妻籠の補完的な役割があったのではないかと思います。規模自体は、それほど大きくはなく、妻籠と一体となって宿場の機能を果たしていたことでしょう。

 

 <大桑>

 大桑は、40番野尻宿と39番須原宿の間の集落です。木曽路のまん中辺りにあって、山々に囲まれながら、木曽川沿いに僅かに開けた小さな盆地に佇みます。宿場間は、7Kmほどの距離ですが、大桑は、そのほぼ中間。野尻方面から来ると、丁度、木曽川を避けるように、山道に入る直前の集落です。

 野尻の宿を後にして、木曽川に沿った国道19号線を歩いた後、大桑駅の寸前で、右方向の旧道に入ったところが間の宿。ここは、大桑村の中心地となっていて、村役場もありました。

 間の宿の前後の宿場、野尻と須原も大桑村の集落です。2つの宿場町が、村のはずれにある中で、宿場町の狭間にある、間の宿の大桑が、村の中心という構図です。少し不思議な気がするものの、大桑は歴史を背負って今日を迎えているのでしょう。

 この間の宿は、今では、往時の面影はあまり残ってはいないものの、街道筋は何かしら懐かしさを感じるところです。少し古びた家並みや、蛇行する街道筋は、旅情をそそる風景です。

 

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※大桑。前方は山道へと向かいます。

 

 <原野>

 37番福島宿と36番宮ノ腰宿の間にあるのが原野です。この集落は、中山道の中間地点のすぐ側にあり、何となく、ロマンを感じてしまうところです。都へも、江戸へも等距離というこの場所は、古くから、街道の目印ともなっていたことでしょう。

 今では、特に目立った建物などは少ないものの、街道筋に連なる家並みは、どこか情緒を感じます。

 この街道を北に向かったところが宮ノ腰。宿場町ではあるものの、木曽義仲にゆかりがあるところです。

 

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※原野。

 

 木曽路には、この他にも、間の宿と思えるところが何か所か見られます。そうした集落は、あるいは、間の宿より規模の小さな、それこそ休憩所のような位置づけだったのかも知れません。

 今では、街道沿いの集落として、ひっそりと佇んでいるのです。

*1:岐阜県各務原市新加納町。

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]8・・・峠道(後編)

 信濃路から上州へ

 

 信濃路の峠道は、中山道きっての難所です。その中でも、最も厳しい峠道は和田峠。そして、続く難所のひとつが、信州と上州を隔てる碓氷峠です。

 信濃路から幾つもの峠を乗り越えて、上州に辿り着いたら、もう江戸はそれほど遠くはありません。

 今回は、峠道の最終回。信州の塩尻峠から、上州の玄関口である碓氷峠まで、一気に振り返りたいと思います。

 

 

 塩尻

 塩尻峠は、30番塩尻宿のすぐ後から、峠道が始まります。向かうところは、信州の産業を牽引してきた諏訪盆地。その中心に諏訪湖を擁し、信仰や景勝の地としても有名です。

 中山道は、34番奈良井宿を出てからは、奈良井川に沿うように、平坦な道が続きます。31番洗馬宿(せばじゅく)を過ぎると、塩尻盆地に入ります。りんごやブドウなどの果樹園が広がって、甘い香りが漂ってきそうな道筋です。

 塩尻の宿場に近づくと、街道は再び上り坂。宿場町自体も、緩やかな坂道に沿ったところにありました。

 塩尻宿を通り過ぎ、集落の中を進んでいくと、見晴らしの良い丘陵地が現れて、峠道が近づきます。

 

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※峠へと向かう道。

 

 長野自動車道の高架橋を越え、国道20号線の道路下を潜り抜けると、街道は山道に入ります。ところどころに集落もあって、それほど鬱蒼とはしていない、林の中の街道です。この辺りの峠道は、勾配も苦にならず、気分よく歩けるところです。

 ほどなく、左手に小高い塚のようなところが現れて、塩尻峠に到着です。

 

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塩尻峠。

 

 この峠には、展望所があって、美しい諏訪湖が見下ろせます。

 湖を見下ろす風景は、近江路の摺針峠と似ています。峠と湖が見事に融合した絶景は、昔から、旅人の心を和ませたことでしょう。

 峠を過ぎると、諏訪湖のほとり、岡谷市へと続く下り坂。この道は、しっかりと舗装されていて、峠道という感覚はありません。ウォーキング気分で歩ける下り坂。諏訪湖が次第に大きくなって、岡谷の町が近づきます。

 

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※岡谷への下り坂。

 

 和田峠

 次の峠は、和田峠中山道屈指の難所と言われる峠です。和田峠は、29番下諏訪宿と28番和田宿の間に立ちはだかる、急峻な山々に連なる尾根にあり、中山道の最高地点。

 さらに、和田峠を挟む2つの宿場は、およそ22Kmも離れていて、中山道の宿場間では、最も距離が長い区間です。

 高さと距離の両方が、旅人の足を苦しめます。

 下諏訪宿から峠への道は、上り坂が続くものの、前半はゆったりとした坂道です。諏訪大社御柱を滑り落とす木落し坂や、水戸浪士の浪人塚などを越えて行ったら、やがて、街道は山の中に入ります。その後は、峠道は、それこそ崖道や登山道になっていて、ここから先が大変です。地図とGPSで位置確認をしていても、油断すれば、道を失ってしまいそう。ここは、細心の注意が必要です。

 

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※谷あいの崖地に延びる街道。トラロープが目印です。この道は、都方面からは要注意。簡単に迷ってしまいます。

 

 山道は、途中何回か、国道142号線の旧道を横断し、急斜面の道に変わります。これほどの斜面の道を、皇女和宮や大名たちを乗せた輿は、どのようにして運ばれていったのか。担ぎ手の人たちの苦労は如何ばかりであったかと、感心するばかりの険しさです。

 峠に近づく辺りでは、木々はそれほどありません。むしろ、熊笹などが、峠道を覆うように広がります。

 七曲と呼ばれる、つづら折りの細道を登っていくと、ようやく峠が見えました。

 峠の頂上は、これまでの細くて急峻な峠道とは打って変わって、見晴らしの良い広場のようなところです。上り道の疲れを癒すため、ゆっくりと休憩ができる、気持ちの良い峠です。

 振り返ると、残雪を頂いた日本アルプスの山並みや、山間の集落などの絶景が広がって、疲れが一度に吹き飛んでいく気分です。

 

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和田峠の頂上と日本アルプスの絶景。

 

 和田峠の下り道は、道幅も広がって、上り道とは異なる雰囲気です。ただ、和田宿までは相当な距離。再び、疲れが押し寄せます。

 途中には、美ヶ原高原と霧ケ峰などを結ぶビーナスラインを横断し、下へ下へと向かいます。男女倉口(おめくらぐち)まで下りきると、国道142号線と合流です。ここまでが、和田峠の峠道。その先は、国道に沿って、和田の宿場へと向かいます。

 

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※峠からの下り道。4月下旬でも残雪がありました。

  

 笠取峠

 和田峠を下りきって、和田の宿場を越えたその先が、27番長久保宿。笠取峠は、長久保宿と、次の宿場、芦田宿を隔てる小高い山の峠です。

 笠取峠は、国道142号線の脇にあり、今では、山道のような峠道はほとんどありません。長久保宿の東の外れ、松尾神社を通り過ぎれば、ひたすら、ジグザグの舗装した坂道を登ります。直線的に山を登る旧道もあるようですが、少し分かりにくい道。舗装道路が確実です。

 途中から、国道と合流し、歩道を進むと笠取峠の標識が。ここまでは、それほど特徴ある峠ではありません。

 

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※笠取峠。

 

 笠取峠の特徴は、峠を通り過ぎた後、芦田宿に入る手前の松並木。中山道では珍しい、松並木の街道が保存されているのです。

 この並木辺りは、地域の人たちによって良く管理されていて、松並木の公園といった雰囲気です。花見などもできるようで、憩いの場ともなっている様子です。

 

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※笠取峠の松並木とその付近。

 

 碓氷峠

 最後に振り返る峠道は、碓氷峠(うすいとうげ)です。この峠には、中山道と少し距離を置き、国道18号線が山の中を縫うように走っています。

 今から4年前に、スキーバスが大事故を起こした道で、急坂とカーブの道は記憶されている方も多いでしょう。元々は、碓氷峠を挟む、軽井沢駅・横川駅間は、信越本線の鉄道で結ばれていたとのことですが、新幹線の開通により、20数年前にこの区間廃線となりました。以後、在来線での往き来ができなくなって、今では国道18号線を通るバスが、鉄道の代替輸送を担っています。

 

 それはともかく、碓氷峠の峠道は、軽井沢のメインストリート、軽井沢銀座商店街を抜けたところから始まります。観光客でごった返す商店街を抜け出ると、すぐに山道に入ります。この道は、地元の方たちも散策で利用されているようで、何人かのウォーキングの方々と出会うことができました。

 軽井沢自体が、既に、かなり標高が高い位置碓氷峠までの道のりは、難所という感じではありません。軽井沢方面からは、それこそ絶好のハイキングコースです。

 

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※軽井沢銀座。この通りの向うから山道に入ります。

 

 峠には、車でも直接行けるということもあって、土産物店や茶店などもありました。また、峠に鎮座する熊野神社は、長野県と群馬県の県境。たくさんの参拝客の姿がありました。

 

 碓氷峠は、ここから先が難所です。鬱蒼とした山の中の下り坂。湿った地道や滑りやすい急坂に加え、足場の悪いぐり石の道など、17番坂本宿を確認するまで、長い長い下り坂が続きます。

 江戸からこの峠を越えるとき、最初に立ちはだかる壁のような坂道は、さぞ旅人を苦しめたことでしょう。

 

碓氷峠は、iPadの不具合で写真がありません。実は、刎石の覗き(はねいしののぞき)と呼ばれる見晴らし所からは、坂本宿が真下に見下ろせて、素晴らしい撮影ポイントです。ここで紹介できないのが残念です。

 

  中山道の峠道はここまでです。次回からは、宿場と宿場の間にある、間の宿(あいのしゅく)や、道中の見どころなどを振り返りたいと思います。

 

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]7・・・峠道(中編)

 木曽路

 

 美濃路の後半は、厳しい峠道が続きます。そして、さらにその先は、「すべて山の中である」と語られる、木曽路です。

 峠道は、険しい道ではあるものの、それぞれに趣がある山道です。往時の街道の面影が良く残り、中山道の醍醐味が味わえるところです。

 

 

 十三峠(じゅうさんとうげ)

 美濃の山の奥深く、ひっそりと佇む、47番大湫宿(おおくてじゅく)。この宿場を発ったすぐ先に、十三峠の西の入口を示す道標が構えます。十三峠は、ここから先、3里半もの長丁場の始まりです。

 大湫宿の休憩所でいただいた資料には、「『十三峠におまけが七つ』と言われ、アップダウンが20以上ある中山道の難所のひとつ」と記されているように、起伏を繰り返して、街道は続きます。

 本来、この名の由来は、峠が13か所あるからだ、とされているようですが、実際には資料の通り、沢山のおまけがあるようです。ただ、数を数えながら歩けるほど、たやすい道ではありません。気力と体力を振り絞り、一歩ずつ、恵那市にある大井の宿場を目指します。

 

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大湫宿のすぐ先。十三峠の西の入口。

 

 この峠道は、幾つのも山を縫うように続いていて、周りの風景も次々と変化していきます。ゴルフ場や林間の道、細い崖路、石畳風の急な坂。ところどころに、小さな集落もあって、畑地の脇をゆっくりと通り抜ける道などは、一息つけるところです。

 途中、深萱という集落があり、そこには、トイレや休憩所がありました。ただ、大湫宿から続くこの道は、すべての峠を越えるまで、途中で店や自動販売機はありません。水分補給もままならず、必ず、軽食と水は持参して臨まなければなりません。

 

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※深萱の集落。写真の右側にトイレ等があります。

 

 深萱から先は、再び厳しい坂道に入ります。石畳のような、自然の石が連なる道や、幅の狭い山道など、次々と姿を変える街道です。農地や集落が現れて、下り坂が続いてくると、次第に緩やかな森の中の道へと入ります。

 槇ヶ根の立場跡を通り過ぎ、西行の森の公園が現れたら、いよいよ十三峠の終わりです。その先の、石畳の坂道を下ったところに、「是より西 十三峠」の道標が。そして、そのすぐ脇に、飲み物や食料の持参を促す注意看板がありました。

 十三峠は、長い道のり。幾つもの峠が連なるこの道筋は、中山道の特色ある峠道のひとつです。*1

 

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※十三峠の東の入口。

 

 馬籠峠(まごめとうげ)

 次は、馬籠峠です。馬籠峠の様子については、中山道総集編の2回目のブログに記したとおり、中山道随一の人気の区間。海外からもたくさんの観光客が訪れるところです。

 美濃路の最後、落合の石畳を踏みしめて、新茶屋で木曽路に入る、長い長い上り一筋の峠道。43番馬籠宿を通過して、馬籠峠に至るまで、標高は上がり続けます。

 

 尾根に連なる、馬籠の宿場を通り抜けた町はずれ、峠に向う展望所からは、遠くに美濃の山並みが見渡せます。

 峠へと向かう道筋は、木々が茂る山の中。時に民家の脇を擦り抜けながら、ひたすら坂道を上ります。やがて、妻籠南木曽駅に続く自動車道に合流すると、その先が馬籠峠です。

 峠には、小さな広場とともに、休憩所を兼ねたお店もあって、一息つけるところです。

 

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 ※左、馬籠宿のはずれにある展望所から美濃の山並みを望みます。右、馬籠峠。

 

 馬籠峠は、このように、車でも訪れることができる峠です。先に記した、琵琶峠や十三峠とは趣を異にした、開けた感じの峠です。

 峠を越えると、街道は、一気に山道に変わります。当然ながら、長く続く下り坂。妻籠宿のすぐ手前、間の宿と言われる、大妻籠の集落へと向かいます。

 

 馬籠宿から妻籠宿に至る峠道。この区間は、たくさんの観光客が往き交います。時に、心細くなるような、人けのない峠道とは異なって、楽しく歩けるところです。

 

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妻籠へと向かう下り道。一石栃白木改番所跡。(「中山道総集編2」を参照下さい。)

 

 鳥居峠

 今回紹介する最後の峠は、35番藪原宿と34番奈良井宿を隔てる鳥居峠木曽川奈良井川の流れを分ける、分水嶺の連峰の尾根筋にある峠です。木曽路の中でも、最も標高が高いと言われるところで、険しい峠道のひとつです。

 峠をまたぐ街道は、つづら折れの急坂が続き、中山道の中でも屈指の難所と言われています。都から江戸方面に向かって進むとき、この峠を越えれば、信濃の国が近づきます。

 

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※左、峠道から藪原の宿場を俯瞰。右、鳥居峠の石碑。

 

 峠道は、急勾配が続くものの、藪原方面の景色は絶景です。峠の辺りは、幾つもの石碑が建てられて、意外と、平坦な広場のようなところも見られます。街道も緩やかで、御嶽神社や峰の茶屋の建物などがありました。

 難所と言われる峠越え。かなり厳しい道と覚悟して挑んだものの、藪原から峠までは、思いのほか、時間をかけずに辿り着くことができました。

 

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※峰の茶屋と奈良井方面に下る峠道。

 

 峰の茶屋からその先は、峠の下り道。坂を下り切ったところに控える、奈良井の宿場を目指します。

 この下り道は、結構な急坂です。しかも、延々と続く坂道は、それこそつづら折れ。右に左に蛇行を繰り返しながら、続きます。いつになったら集落が現れるのか、不安がよぎるほどの長さです。

 この坂道を、江戸方面から上るには、余程の覚悟が必要で、難所と言われる所以です。

 

 鳥居峠の麓には、江戸時代の姿をそのまま残しているような、奈良井の宿場が佇みます。鳥居峠奈良井宿。往時の中山道の様子がそのまま伝わるところです。

 鳥居峠は、JR中央本線藪原駅奈良井駅の間にあって、6~7Kmのハイキングコースとしても楽しめます。少し、準備をして臨むのであれば、それこそ絶好の峠道歩きの区間でしょう。

 

*1:恵那市の街中にある46番大井宿は、ここからさらに1Km余りのところです。

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]6・・・峠道(前編)

 中山道の峠道(とうげみち)

 

 中山道は、近江から美濃へと入り、木曽、信州を経て上州に向かいます。都を発って、美濃路御嶽宿辺りまでは、平坦な道が多いものの、そこから先は、山道が中心です。ひとつひとつ、峠道を踏み越えて、進まなければなりません。

 難所と言われる峠道。それぞれに、違った味わいを出しながら、旅人を迎えます。今回からは、中山道の峠道を振り返り、その魅力をお伝えしたいと思います。

 

 

 摺針峠(すりはりとうげ)

 中山道を都から江戸へと向かう時、最初に出合う峠と言えば、63番鳥居本宿の東に位置する摺針峠。次の宿場、番場宿に向かう途中にあって、街道で初めての急な坂道です。

 鳥居本宿から2つ先の宿場町、醒井宿に向かうには、国道8号線を米原へと向かい、国道21号線に乗り換える、迂回ルートが基本です。ところが、中山道は、鳥居本を過ぎた後、ショートカットするかのように、山道に入ります。

 

 峠への入口は、国道8号線から右にそれた、幅の狭い自動車道の脇にあり、林道のようなところです。道は次第に、杉や竹林に囲まれて、鬱蒼とした山道に。都からの旅の中では、初めて味わう峠道の光景です。

 

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※摺針峠の入口付近。

 

 街道は、徐々に勾配を増していき、途中からは、階段道も出てきます。ただ、今後経験する、美濃や信州の峠と比べると、難所というほどではありません。それほど時間をかけないうちに、自動車道に合流し、摺針峠に到着します。

 この峠の特徴は、「歩き旅のスケッチ15」で記したように、琵琶湖を望む眺望です。おそらく、琵琶湖の北湖*1が見られるところは、中山道で、この峠以外にはありません。旅人は、ここから雄大な湖を見て、その絶景に酔いしれたことでしょう。

 この峠には、かつて、”望湖堂”と呼ばれる建物があって、街道の休憩所にもなっていたようです。室町と江戸の時代に、何回か、朝鮮から派遣された朝鮮通信使一行も、この望湖堂に立ち寄られたとのこと。湖の眺望を楽しめるお堂は、摺針峠を印象付ける貴重な建物だったことでしょう。

 その望湖堂は、近年までその姿を残しつつ、今から30年ほど前に焼失したということで、何とも惜しまれるところです。

 

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※左、摺針峠。右、峠から琵琶湖と比良の山並みを望みます。

 うとう峠

 うとう峠は、峠というより丘のようなところです。美濃の52番鵜沼宿(うぬまじゅく)を後にして、街道は、丘陵地の方向へ。急な斜面の丘に広がる住宅地の中を通り抜け、うぬまの森に入ります。うとう峠は、この森の中。遊歩道のようなところです。

 鵜沼の町を出た後に、木曽川は少し蛇行して上流へ。今は、川伝いに県道が設けられ、車はこの県道を通って、美濃太田方面に向かいます。ところが、昔は、川沿いの道がなかったのか、中山道は、木曽川へと向かうことなく、山の中に入ります。蛇行する木曽川を避け、峠道のルートを進むのです。

 

 この峠は、摺針峠以来の地道の峠道。途中には、石畳なども整備され、往時の中山道の気分が味わえるところです。うぬまの森では、それほど急な坂もなく、ゆっくりと、散策気分で歩けます。峠を越えて先に進んだところが木曽川で、街道はそこから先、木曽川の右岸に沿って太田の宿場に向かいます。

 

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※左、鵜沼宿を出て、うとう峠へ。右、うぬまの森。

 

 琵琶峠

 次に紹介するのは、琵琶峠。美濃の奥深い山の中、48番細久手宿(ほそくてじゅく)から47番大湫宿(おおくてじゅく)に向かう途中の難所です。

 実は、琵琶峠に達するまでにも、細久手宿に向かう道中に、御殿場と呼ばれる峠のような所があって、その道筋も結構な難所です。ただ、そこは、峠としての位置づけではないようで、起伏が激しい美濃路では、ありふれた場所なのかも知れません。

  それと比べると、琵琶峠は、正真正銘の峠です。石畳の急勾配の坂道が特徴で、ひと山越える感覚です。琵琶峠の頂上は、近江路と美濃路の中では、最も標高が高い場所。*2峠に向かうにつれて、道幅は徐々に狭まり、両脇からは木々の枝が覆います。

 

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※琵琶峠の石畳。

 

 峠の頂上は、山の頂と言うよりも、尾根をまたぐ感じです。道は急に細くなり、鬱蒼とした森の中。峠の脇には、馬頭観音などの石碑が置かれ、旅の安全を祈願された様子がうかがえます。

 石碑の一つに、皇女和宮の歌碑がありました。皇女一行は、その日の朝、可児市伏見宿を出立し、御嶽、細久手を通過して、この琵琶峠を越えたとのこと。その時に、峠で詠まれた歌が、歌碑に残されているのです。

 

  住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび

 

 皇女一行の当初の予定は、琵琶峠の手前にある細久手宿で、宿をとられる行程であったとか。ところが、細久手宿を襲った大火の影響で、急遽、宿泊地は次の大湫宿に変更となったということです。*3

 従って、当日は、険しい美濃の山道を進み、大湫宿に入る直前の琵琶峠に立たれたのは、遅い時刻。おそらく、夕暮れ時近くだったのかも知れません。

 そのせいか、峠で詠まれたこの歌からは、江戸に向かう皇女の辛い心情はさることながら、何故か、日が沈むころの、秋の哀愁が伝わってくるような気がします。

 

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※琵琶峠の頂上。右の石碑が皇女和宮の歌碑。

 

 峠を越えると、しばらくは、同じような石畳の下り坂。その先に、大湫の宿場が近づきます。

 そして、大湫から先も、美濃の街道は、まだまだ厳しい道が続くのです。

 

*1:琵琶湖大橋よりも北の部分。琵琶湖の大半が北湖です。

*2:案内では、標高540mと記されていました。

*3:この話は、細久手宿にある、大黒屋さんのご主人からお聞きしました。

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]5・・・宿場町(後編)

 様々な風景

 

 中山道69次は、時代の変遷を経る中で、様々にその姿を変えながら、今日を迎えています。その中でも、往時の姿をよく残す宿場もあれば、新しい町に生まれ変わった宿場など、それこそ、千差万別です。

 過去2回にわたって紹介してきたところは、特に往時の面影をよく残している宿場です。

 今回は、宿場町を記す最終回。残された宿場について、幾つかの特徴に区分しながら、様々な風景をお伝えできればと思います。

 

 

 発信する宿場

 新しい町の姿を装いながらも、宿場町の面影を感じられるところが、何か所かありました。近代的に整備された道路や町並みが延びる中、ところどころに、歴史ある建物が残っていたり、往時の意匠で再生した建物を配置したりと、工夫を凝らした町並みを演出している宿場です。

 こうした町は、かつてそこが宿場であった証を伝えようと努力され、その誇りを発信されている様子です。

 

 特に、こうした思いが伝わってくる宿場町。それは、美濃路鵜沼宿(うぬまじゅく)、信濃路の上諏訪宿(かみすわじゅく)と追分宿(おいわけじゅく)、そして、武州の蕨宿(わらびじゅく)の4か所です。

 

 <鵜沼宿>

 鵜沼宿は、岐阜県各務原市の東の端。木曽川を挟んだ向いには、犬山の城が望めます。この辺りは、城はもとより、犬山遊園などのレジャー施設を有する観光地。鵜沼の宿場も、観光客を受け入れるため、町の再生に力が入った感じです。

 新しい町を感じる街道筋には、歴史ある町屋風の建物*1や、造り酒屋などが並んでいて、宿場の雰囲気が漂います。また、板塀や道標など、修景にも尽力されている様子です。

 

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鵜沼宿

 <上諏訪宿>

 上諏訪宿は、塩尻峠と和田峠に挟まれた、唯一の宿場です。諏訪湖の北東に位置していて、北に進めば、中山道最大の難所、和田峠に向かいます。この宿場の中央は、T字路になっていて、都から入ると、左手が北へと向かう中山道、右手が、甲州街道につながる甲州道中。元々、甲州街道は、江戸と甲府をつなぐ街道でしたが、後に、下諏訪まで整備されたということです。

 下諏訪の町中は、新しい家並みが続いていますが、土産物店や旅館風の建物などは、昔風の佇まい。 街道の案内板なども充実していて、宿場町の証を伝えています。

 中山道甲州街道の結節点ということで、かつては、相当な賑わいだったことでしょう。

 

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※左、下諏訪宿の入口。右、中山道甲州街道の合流地点。(正面の道標が目印)

 

 <追分宿>

 軽井沢にほど近い追分宿信濃路の北のはずれで、北国街道との分岐点として、賑わったところです。今では、街道筋には、ほとんど歴史ある建物はありません。その上、昔風に修景された装飾も、それほどある訳でもありません。かえって、お洒落なパン屋さんなど、新しい街の香りが漂います。

 それでも、この宿場町に趣を感じるのは、分去れ(わかされ)の常夜灯や、街道筋にわずかに残る、神社など。また、堀辰雄の記念館も、奥ゆかしさを引き立てます。

 

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※左、分去れの常夜灯。中と右、追分宿

 

 <蕨宿>

 蕨宿は、江戸から2番目の宿場町。都から来た旅人にとって、江戸はあと一息のところです。

 この宿場町は、ほぼ完全に、新しい町という感じです。それにも拘わらず、国道17号を弓なりに迂回する、中山道の道筋だけは良く残り、今もその雰囲気を味わえます。この宿場には、歩道に69次の宿場のタイルを埋め込んで、これまで辿ってきた道筋を思い起させるような、粋な仕掛けがありました。資料館や幾つかの木造の建物と共に、宿場町の誇りを発信されている様子です。

 

 時の流れが緩やかに進む町

 今ではもう、特別な歴史の名残は少ないものの、ひっそりと佇む宿場町の姿も見られます。その代表格は、美濃の山中に静かに潜む、細久手宿(ほそくてじゅく)と大湫宿(おおくてじゅく)。美濃路の厳しい峠越えの途中にあって、山深い道中に、ひっそりと、その姿を隠します。

 

 <細久手宿>

 都からは、可児市の東、御嶽宿(みたけじゅく)の次に控える宿場です。これまでは、ほぼ平坦な中山道も、御嶽宿を越えてから、険しい山道に変わります。

 その山道の奥深く、森の中に抱かれるように、細久手宿は佇みます。この宿場町も、他の多くの宿場と同様に、大火の惨禍に見舞われたとのこと。宿場町の姿は、時代とともに変わってしまっても、街道筋の情景は、奥ゆかしい限りです。

 今も残る、大黒屋さんの旅籠には、細久手宿の歴史が凝縮し、中山道の魅力を伝えます。

 

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細久手宿、大黒屋。

 

 <大湫宿>

 細久手宿から、上り下りを繰り返し、急坂の琵琶峠を越えて下ると、大湫の宿場に入ります。美濃路の奥深い山中にある大湫は、僅かに広がる盆地にできた、山間の集落のひとつです。恵那の大井宿に向かう難所道、十三峠の直前にあり、位置的には貴重な宿場と言えるでしょう。

 町自体は、ごく普通の集落ですが、高札場や、古い旅籠の建物などが僅かに残り、静かな風景が味わえます。家並みのほとんどが、既に建て替えられてはいるものの、何となく、時代に取り残されたような道筋は、時がゆっくりと流れるような雰囲気です。

 

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※左、高札場跡。右、大湫宿の古い建物。

 

 その他の宿場町

 その他の宿場町の中で、印象深いところを幾つか掲げてみたいと思います。

 そのひとつは、信濃路の塩名田宿。街道沿いは、昭和の空気感が感じられ、千曲川の流れと共に、ノスタルジックな雰囲気です。

 もうひとつは、美濃の赤坂宿。大垣市の北にあり、杭瀬川のほとりにあった港の名残は、独特の景観を残しています。

 

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※左、塩名田宿の入口。右、赤坂宿にある、港跡。

 

 さらに、近江路の鳥居本宿は、薬の老舗の建物が特徴的。深谷宿の蔵元や鴻巣宿の鴻神社などは、ともに、宿場町を印象づける建物です。

 

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※左、鳥居本宿。右、鴻巣宿の鴻神社。

 

 その他に、美濃の太田宿や近江の草津宿は、本陣跡が特徴で、軽井沢宿や板橋宿は、商店街として大繁盛。

 このように、中山道69次は、それぞれの宿場町が、それぞれの歴史を背負って、独自の姿を伝えています。

 

*1:宿場の記念館になっています。

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]4・・・宿場町(中編)

 風情が残る宿場町

 

 中山道69次の宿場町の筆頭は、前回紹介した、妻籠宿と奈良井宿。宿場全体が、往時の姿をよく残し、江戸時代の光景を存分に味わえます。

 次に紹介したいのは、これら2つの宿場に続く、風情が残る宿場町。再生され、修復された建物が、数多く見られる宿場もあれば、かつての姿を変えつつあるところも少なくありません。それでも、往時の面影を残すため、苦心の跡が窺える宿場です。

 街道筋の雰囲気を、色濃く残した家並みや、個性ある景観を、幾つかの宿場で味わうことができました。

 

 

 馬籠宿

 妻籠と奈良井に続くのは、何と言っても馬籠宿(まごめじゅく)。妻籠宿とは、馬籠峠を挟んだ南側。木曽路の入口とも言える宿場です。

 この宿場町は、何度かの大火に見舞われて、建物は、明治期以降の建築です。それでも、江戸時代を再現したような建物が連なって、見ごたえは充分です。観光客の入込は、妻籠よりも上をいくかも知れません。

 幾分、観光地化され過ぎて、興ざめに思う向きもあるでしょう。ただそれ以上に、美濃の山並みを眺望し、木曽の尾根伝いに連なる家並みは、見事という他ありません。

 小説「夜明け前」の舞台でもある馬籠宿。中山道を代表する宿場町に違いはありません。

 

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※馬籠宿。
 

 柏原宿

 次に紹介したいのは、近江路の東に位置する柏原宿(かしわばらじゅく)。近江から関ヶ原に抜ける道筋にあり、伊吹山鈴鹿の山並みに挟まれて、ひっそりと佇む宿場です。

 この宿場町は、1Km以上にわたって延びる、規模の大きな宿場です。歴史を感じる家並みや、寺社、道標など、由緒ある史跡も豊富です。中でも老舗の建物は、2階に大きな看板を掲げ、往時の繁栄を伝えています。

 町並みは、妻籠などにはかないませんが、落ち着いた、街道筋の雰囲気が味わえます。宿場町を保存するため、沿道の意匠や修景が施され、景観を守る努力が払われている様子です。*1

 

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 ※柏原宿。

 

 醒井宿

 柏原宿の次に記しておきたい宿場町。それは、柏原の隣に位置する、醒井宿(さめがいじゅく)。宿場の姿は、もうそれほど残されてはいませんが、豊かな水が流れる地蔵川と、ひっそりとした家並みは、落ち着いた雰囲気を醸し出し、旅の情緒を誘います。

 さらに、問屋場跡や加茂神社などの寺社の構えは、山際に沿うように連なる宿場町の面影を 引き立てます。日本武尊(やまとたけるのみこと)の熱さましの伝説から名付けられた、醒井という地名。清冽な川の流れは冷たくて、梅花藻の可憐な花を育みます。

 

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醒井宿。右は、問屋場跡。 

 

 福島宿

 次は、もう一度、木曽路に戻ります。先ずは、木曽の中心地、木曽福島にある福島宿。福島の関所とともに、見所多い宿場です。宿場町そのものは、今ではそれほど大きくはなく、かつての町並みの多くの部分は、道路整備で姿を変容させてしまった様子です。

 それでも、木曽福島駅から右手の坂道を下って行くと、自動車道路までの間には、趣ある、宿場の町並みが残ります。幾分、修復された建物が多いように感じるものの、細い道筋に連なる家々は、情緒を誘います。

 さらには、本陣跡をはじめとして、木曽川伝いの道筋や、崖地に設けられた関所など、街道にまつわる史跡も多く、町歩きを楽しめるところです。

 

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※左、福島宿。中、本陣跡。右、福島関所。
 

 須原宿野尻宿

 木曽路にある宿場町で、もう少しお伝えしたいのが、須原宿(すはらじゅく)と野尻宿(のじりじゅく)。

 いずれの宿場も、福島宿の南にあって、都に向かう道中は、上松、須原、野尻という順序で続きます。

 須原宿は、道幅の広さと水路が特徴の宿場町。家並は、随分改修されていて、歴史的な重みはないものの、宿場町の雰囲気は、十分に味わえるところです。多くの家には、行灯や、水舟と呼ばれる、水を受ける木造りの設備などが設置され、街道の趣を感じます。

 また、ところどこに残された、道標や石碑なども旅情を誘い、木曽路の山に囲まれた、宿場の空気が漂います。

 

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須原宿と水舟など。

 

 野尻宿は、須原とは対照的に、道幅の狭い街道が通ります。しかも、道は、宿場内で屈折を繰り返し、独特の雰囲気です。この道筋は、七曲(ななまがり)と呼ばれていて、この宿場の特色のひとつです。

 家並は、やや雑然とした状態で、時代の流れを感じます。そんな中でも、ところどころに古い建物も残されて、曲がりくねった街道とともに、宿場の情緒を味わえます。

 

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 ※野尻宿と七曲の道。

 

 長久保宿

 もうひとつ紹介したい宿場町は、長久保宿信濃路の、笠取峠の麓にある宿場です。都からは、諏訪湖を過ぎて、中山道最大の難所と言われる和田峠を下り切り、和田宿の次に位置するところです。

 この宿場町は、典型的なかぎ型で、町の中央にある濱田屋旅館を角にして、中山道は直角に曲がります。この角の南側、和田宿方面の町並みは、少し寂れた集落の様相で、変わり映えはありません。ところが、濱田屋旅館から東に向かう街道は、往時の姿をよく残した佇まいが続きます。

 本陣跡や、古い家屋もいくつか残り、街道自体が、笠取峠に向かう坂道で、奥ゆかしい情景です。

 

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※濱田屋旅館から東に延びる街道と本陣跡。

 

 今回振り返った宿場町。妻籠と奈良井の後に続く、風情のあるところです。あくまでも、私の主観で選んだもので、その点は、了解いただければと思います。

 中山道には、この他にも、印象に残る宿場町は幾つもあって、次回には、その見どころをまとめます。

*1:修景には、力を入れられているようですが、一方では、電線などは地中化されておらず、少し残念なところも見られます。

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]3・・・宿場町(前編)

 中山道の宿場町

 

 中山道は、69か所の宿場町をつなぐ街道です。その内、大津宿と草津宿は、東海道と重なるため、実質は、67宿。東海道53次と比較して、多くの宿場を擁しています。

 

 宿場町の役割は、街道を往き来する人たちの宿泊地。それと同時に、荷物の中継や、通信を伝授する機能なども併せ持っていたのでしょう。

 日常は、旅人をもてなしながらも、時には、大名や要人の大行列を迎えなければなりません。町がひとつになって、組織的に対応する機能がなければ、とてもさばくことはできなかったと思います。

 

 江戸時代の街道の役割が終わって、150年。道筋は、時代と共に移り変わっていきました。繰り返される大火とともに、社会構造や、人々の暮らしも激変し、宿場町の機能も衰退します。今では、もう、街道や宿場町という言葉は、歴史の中の用語です。宿場町も、時代の波に洗われて、日々、その姿を変容させているのです。

 

 そんな中でも、かつての宿場の面影を、色濃く残すところもあって、後世に伝える努力も続いています。中山道69次を歩きつないできた中で、心に残った宿場町。もう一度振り返ってみたいと思います。

 

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※10年前の妻籠宿(2009年9月)

 

 往時を偲ぶ宿場町

 往時の中山道が偲ばれる宿場町。今でも、その姿を色濃く残す筆頭は、妻籠宿(つまごじゅく)と奈良井宿(ならいじゅく)。木曽路を代表する宿場です。

 妻籠宿は、木曽路の南に佇んで、馬籠とともに、知名度は抜群です。海外からの来訪客も数多く、中山道を代表する宿場町と言えるでしょう。何よりも驚かされる光景は、タイムスリップしたかのような家並みです。

 江戸時代の宿場町が、そのまま残されたという印象です。

 

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妻籠の家並。

 妻籠宿と同様に、歴史的な町並みを、よく残しているのが、奈良井宿。難所と言われる鳥居峠の北の麓に位置する宿場です。木曽路の北のはずれにほど近く、今は塩尻市に属します。

 奈良井宿は、妻籠宿と比べると、幾分、修復の手が加わった印象ではありますが、それでも、見事な景観です。

 この宿場の圧巻は、何と言っても、木造建物の構造です。街道沿いの家々は、2階部分がせり出して、大屋根は、道に被さるような格好です。出梁造り(だしばりつくり)と呼ばれるそうで、不思議な世界が広がります。

 

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奈良井宿の家並。

 

 町並保存

 妻籠宿や奈良井宿が、どのようにして、かつての姿を留めることができたのか。私には知る由もないことですが、少なくとも、幾つかの要因があったのだと思います。

 そのひとつは、大火から守られたこと。多くの宿場町が、繰り返し大火事に見舞われて、その姿を保てなくなったことは、旅の途中で、何度か耳にしたものでした。妻籠や奈良井には、大火を防ぐための工夫や努力があったのでしょうか。あるいは、自然的な要因なのか。いずれにしても、壊滅的なダメージを避けられる力が備わっていたのだと思います。

 もうひとつ、重要なこと。それは、地域の人々の、町並み保存に対する強い思いがあったということです。普通なら、家並みは、徐々に近代的な様式で建て替えが進みます。ところが、これらの地域では、建物の保全が優先された様子です。地域がまとまって取り組まれてこそ、この姿を残すことができたのでしょう。*1

 

 前回の「歩き旅のスケッチ」で記したように、妻籠は、重要伝統的建造物群保存地区に、いち早く指定を受けた町*2。まさに、歴史的環境の保存を牽引する地域です。

 そして、すぐその後に、奈良井宿も保存地区の指定を受けました。*3

 中山道の宿場町で、重要伝統的建造物群保存地区の指定を受けているのは、木曽の山中に佇む、妻籠と奈良井の2か所だけ。それほど、この2つの宿場町は、魅力あるところです。

 

 中山道以外の宿場町

 <関宿(せきじゅく)>

 中山道から離れるものの、妻籠などとよく似た宿場の町並みに、少し触れてみたいと思います。

 先ず初めは、東海道中山道と並ぶ、かつての日本の動脈です。東海道の道筋は、後日、新たなシリーズで紹介することになりますが、ここにも、妻籠や奈良井と並ぶ、奥ゆかしい宿場町があるのです。

 その代表格は、三重県の関宿です。京の都を出発し、草津宿から南に向かって、鈴鹿越え。山間の、坂下宿を下っていくと、関の宿場に入ります。

 この宿場町は、時代の波に飲まれる前に、何とか、かつての景観をくい留めているという感じです。それでも、恐らく東海道では随一の宿場町。その規模の大きさもさることながら、歴史の香りが漂う宿場です。

 

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東海道関宿。

 

 <大内宿(おおうちじゅく)>

 次に紹介したいのは、奥州の大内宿というところ。日光と会津若松を結ぶ、会津西街道にある宿場です。

 この宿場町は、テレビでも何回となく紹介され、ご存知の方も多いでしょう。山深い会津に通じる街道に、今も堂々と、その姿を誇示しているのです。

 茅葺屋根が特徴で、真っ直ぐに延びる、幅広い道筋に展開する家並みは、壮観と言うほかありません。中山道東海道の宿場町とは、趣を異とする町並みです。

 

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※大内宿。

 

 <熊川宿(くまがわじゅく)>

 もうひとつ、紹介しておきたいのは、福井県小浜市近くの熊川宿。京都に向かう若狭街道(通称、鯖街道)の宿場です。比良山系の北端に向かう山道の、入口近く。山が迫る谷あいに、1Km以上にわたって、家並みが続きます。

 この宿場町は、妻籠宿や大内宿などとは、少し様子が異なって、町並みは、かなり修復された様子です。それでも、歴史を感じる家並みや、豊富な山水が流れる自然の水路、番所跡など、街道筋とマッチした景観は、見事と言う他ありません。

 熊川宿は、その昔、京の都に海産物などを運ぶため、行商人たちが往き交ったところです。若狭街道は、国内の主要な街道ではないものの、都や近江と結ぶ、重要な役割を果たしていたに違いなく、往時の賑わいが偲ばれます。

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※熊川宿。

 

 以上、紹介した3つの宿場町。中山道ではないものの、何れも、重要伝統的建造物群保存地区に指定されたところです。地域の人々のたゆまない努力によって、守り継がれた宿場町の景観を、いつまでも大切に見守っていきたいと思います。

 

*1:自動車道路が、宿場町を避けて通ったということも、大きな要因だと思います。ただ、このことも、地域の人たちの意向が強く反映された結果だと思います。

*2:1976年9月

*3:1978年3月

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]2・・・馬籠と妻籠(後編)

 峠道

 

 馬籠と妻籠は、木曽路を代表する宿場町。そして、2つの宿場を結ぶ峠道は、かつての街道の風情を、色濃く残す区間です。

 この趣き深い道筋は、海外の人達にも大人気。トレッキングの気分で、多くの人が訪れます。

 

 馬籠峠へ

 馬籠宿の展望台を後にして、山道に向かいます。道幅は狭く、傾斜はかなり急。それでも、舗装された道もあり、所々で民家風の屋敷の傍をすり抜けます。街道は、次第に木々が覆い茂り、山登りの雰囲気です。

 落合の宿場を出てからは、ここまでほとんど上り坂。しかも、急な坂道が多くあり、この峠越えは、長くて厳しい道中です。

 馬籠を出て、およそ45分。ようやく、2つの宿場をつなぐ、自動車道路に合流です。

 少しだけ、自動車道路を上って行くと、その先に”長野県 南木曽町”の標識が。岐阜と長野の県境に到着です。この県境こそ、馬籠峠。峠茶屋の小さなお店と、ちょっとした広場がありました。

 

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※県境と、その先右手が馬籠峠。

 

 元々馬籠は、長野県に属していて、それだからこそ、木曽路であった訳ですが、平成の大合併の流れの中で、岐阜県中津川市になりました。それ以降、県境は馬籠峠に。木曽路を代表する2つの宿場の中央で、境界が引かれることになったのです。

 

 一石(いちこく)へ

 馬籠峠を越えると、今度は一転、下り坂。林間に延びる急な坂道を、一気に駆け下ります。この下りの道は、舗装のない山道です。足元が悪い反面、昔ながらの街道の雰囲気が味わえます。

 20分ほど下っていくと、左手に、趣ある、木造の古い建物が見えました。玄関口には、”木曽一石栃 いちこく御休み処”の表札が。中を覗いてみると、たくさんの海外からの来訪客が休憩中です。

 この休憩所には、一人の、お世話をされている男性がおいでになって、「自由に休んでいってください」と声を掛けてくださいました。

 おそらく、この建物が、立場茶屋(たてばちゃや)。昔からの、街道の休憩所だった様子です。

 

 それにしても、たくさんの観光客。国籍もまちまちで、皆さん、馬籠と妻籠の間を歩かれている様子です。中山道を歩きつないでいる私たち。この区間ほど、多くの旅人とすれ違い、出会ったところはありません。

 

 一石は、”一石栃(いちこくとち)”というのが、正式な地名かも知れません。元々ここには、一石栃白木改番所(しらきあらためばんしょ)と言われる施設があって、木曽を産地とする木材などの、出荷の取り締まりが行われていたとのこと。

 

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 ※左、一石の休憩所。右、白木改番所

 

 妻籠

 一石は、表示板にあるように、馬籠から3Km、妻籠へは4.7Kmの地点です。

 妻籠へは、引き続いて山中の街道で、杣道(そまみち)や渓流などを越えながら、坂道を下ります。

 鬱蒼とした森の中。それでも、空気が爽やかで、心地良く歩けます。

 

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※渓流を見ながら進みます。

 

 山道の途中には、”男滝女滝(おだきめだき)”という、見所案内がありました。美しい滝のようですが、遠回りを避けて、先を急ぎます。

 幅の狭い道筋を進んでいくと、自動車道路を横切ります。そして、舗装された旧道へ。そこは、宿場町のような集落で、間の宿(あいのしゅく)*1、大妻籠と呼ばれるところです。

 

 42番妻籠

 大妻籠の集落は、小さいながらも、由緒ある建物が並んでいて、さながら宿場町の様子です。急な坂道もほぼ終わり、里の空気を感じます。

 畑地を抜けて、川伝いの細いあぜ道のようなところを通り過ぎると、宿場町観光の駐車場が見えました。

 

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妻籠の南側にある駐車場。正面の道を進むと馬籠宿です。

 

 駐車場を越えて、左手に蘭川を見ながら先に進むと、右側の山裾に沿った道際には、朽ちかけた家屋などが現れます。そして、いよいよ妻籠の宿場。江戸時代にタイムスリップしたような、幻想的な宿場町の世界に入ります。

 

 私が初めて妻籠を訪れたのは、今からもう、随分と昔です。当時は、馬籠と妻籠の間を歩く人はほとんどおらず、薄暮に訪れた妻籠の宿場も、ひっそりとした町でした。

 それでも、1970年代中頃の当時でさえ、妻籠の印象は強烈で、宿場町の姿がそのまま残る家並みを見て、不思議な感動を覚えたものでした。

 当時から、40年を超える月日が経っても、この町の姿はそれほど変わることはありません。ただ、訪れる人の数は比較にならず、今や馬籠とともに、木曽路観光の中心です。土産物店や旅館、民宿なども数多く、往時の雰囲気を楽しむ人達の、人気のスポットとなっているのです。

 

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妻籠宿の様子。この日は雨模様で、観光客は少なめです。

 

 歴史的環境

 今では、もう、聞き慣れなくなった、「歴史的環境」という言葉。1980年前後には、全国で盛んに論じられたものでした。歴史ある建造物や景観などが、経済成長を背景とした開発などで、次第に姿を消した時代です。地域の人たちが守り伝えた、歴史的価値のある場所を、何とか後世に残し、伝えていかなければならないと、訴えかけられた言葉です。*2

 

 歴史的環境の保存と再生。この頃から、重要伝統的建造物群保存地区の指定制度などが設けられ、日本の各地で保存運動が広がっていきました。妻籠は、まさにその先駆者です。これからも、この素晴らしい歴史の証が引き継がれていくことを願います。

 

 南木曽への道

 妻籠を過ぎて、次の宿場の三留野宿(みどのじゅく)に向かいます。この日の目標地点は、三留野の直前、南木曽駅(なぎそえき)。妻籠宿の北はずれ、御触れなどを掲げる高札場を通り過ぎて山道へ。その先は、もう、人の姿はありません。鬱蒼とした山の中、雨が次第に激しくなって、木の陰で休みながらの歩みです。

  蛇行を繰り返しながら、坂道の街道は続きます。途中には、上久保の一里塚。そして、石畳の道を下ります。小さな集落を幾つか抜けて、空が徐々に開けてくると、ようやく、木曽川の谷筋です。右手には、木曽の山並みが迫る道。私たちは、一旦街道からそれて、南木曽駅へと向かいました。

 

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※左、上久保の一里塚。右、石畳の坂道。

 

 

 この続きは、「歩き旅のスケッチ5」をご覧頂ければと思います。ここまで、中山道を歩きつないで、残されたスケッチの、馬籠と妻籠はここまでです。

 次回からは、文字通り、中山道の総集編。印象深い、街道の風景を振り返ります。

 

*1:間の宿については、これまで何度か記述してきました。特に、「歩き旅のスケッチ9」で記した木曽路の平沢は、見所あるところです。

*2:この当時、木原啓吉という方が「歴史的環境」という本を、岩波新書から発刊されています。この方の考え方が、妻籠をはじめとした、重要な景観保全を牽引したように記憶しています。

歩き旅のスケッチ[中山道総集編]1・・・馬籠と妻籠(前編)

 今回から、「歩き旅のスケッチ」に戻ります。これまで、38回にわたって紹介してきた中山道の街道歩き。その中で、唯一触れることのなかった、馬籠(まごめ)と妻籠(つまご)。中山道の最も人気の区間は、やはり、外すことはできません。総集編の出始めに、趣深い木曽路の風景をお伝えします。

 今回からの総集編では、もう一つ、街道のハイライトを紹介したいと思います。そのテーマは、宿場町、峠道、街道筋など。総延長530Kmに及ぶ中山道の、印象深い風景を振り返ります。

 

 

 馬籠と妻籠

 

 中山道と言えば、木曽路があまりにも有名です。そして、木曽路の中でも、馬籠(まごめ)と妻籠(つまご)は、宿場町の代表格。これらの宿場を訪ねる観光客は数多く、休日ともなれは、さながら、街中のメインストリートの様相です。

 また、2つの宿場をつなぐ街道は、中山道の難所のひとつ、馬籠峠の峠越え。トレッキング気分で歩く人にとっては、恰好のコースです。

 

 新茶屋から

 馬籠宿は、江戸から数えて、43番目の宿場町。私たちが歩く、京からは、42番落合宿の次に控える宿場です。

 落合は、木曽路の西の端。美濃路の最後の宿場とも言えるところです。「歩き旅のスケッチ4」で記したように、この辺りから、いよいよ木曽の山道に入ります。

 落合の石畳としても有名な、十曲峠。長い上り坂ではありますが、足元は、よく整備されていて、上りやすい坂道です。途中には、街道の詳しい案内看板も。

 石畳が終わると、アスファルト道。山が少し開けたその先に、新茶屋の旅籠が現れます。

 

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※左、落合の石畳入口。右、十曲峠の案内看板。

 

 いよいよ木曽路

 2軒ほどの宿と休憩所がある新茶屋は、落合と馬籠の中間点。昔から、街道の休憩所であったとのこと。今でも、馬籠に向かう道中で、一息つくのに最適の場所と言えるでしょう。

 新茶屋には、また、島崎藤村の筆による「是より北 木曽路」の石碑があって、いよいよここからが、木曽路の始まりです。

 

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※左、新茶屋。道は馬籠宿へと続く。右、「是より北 木曽路」の石碑。

 

 馬籠宿へ

 新茶屋を過ぎると、舗装された坂道が続きます。道幅も、それほど狭くはありません。周囲には、農地なども現れて、空が開けてくるところもありました。

 所々で振り返り、遠方の里の景色を眺めてみると、家々は、もう随分遠くにかすんでいます。坂道を上り進んで、山へ山へと向かいます。

 途中、街道際には、果樹園も。傾斜地の、果樹の林で作業していた方からは、「採りたてですよ」と、新鮮なブルーベリーを頂きました。

 

 坂道が緩やかになってくると、民家などが現れます。街道は、なだらかな起伏の道に。その後、諏訪神社を過ぎ、山里の農地に挟まれながら進んでいくと、再び道は急勾配。その先に、馬籠の宿場が見えました。

 

 43番馬籠宿

 馬籠宿の入口付近は、観光地の様相です。大きな駐車場や、土産物店などが幾つもあって、多くの人が往き交います。

 観光バスや路線バスの出入りも多く、人気のある、一大観光スポットです。

 馬籠宿は、他の宿場町と同様に、何度も大火に見舞われました。明治期や大正時代においても大火事があり、今では、かつての建物はほとんど見かけることはありません。それでも、宿場町の名残を留めるために、町は再生されました。

 隣の妻籠が、歴史ある建造物を保存できたことと反対に、大火によって失われてしまった建物を再生し、今日を迎えた馬籠宿。手法は全く違っても、お互いに、見事な取り組みだと思います。

 

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※馬籠宿の西(南)の入口付近。

 

 馬籠宿の特徴は、急傾斜の山道に展開する宿場町であるということです。石畳の道、石垣が廻らされた、建物の土台。空が広がり、まるで尾根を上って行くような感覚です。

 山水が水路を流れ、急流を利用した水車も趣を誘います。建物の一つひとつは小ぎれいで、それでも、意匠等は昔風。訪れる人へのもてなしに、力を注ぐ、町の意気込みを感じます。

 

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※馬籠宿の急坂。 

 

 「夜明け前」

 馬籠宿は、島崎藤村の「夜明け前」の舞台です。藤村は、馬籠宿の本陣を営む、素封家の息子として生を受け、文学の道に進みます。そして、自身の父親をモデルにして、明治維新という、日本の夜明け直前の、慌ただしい世界を描きます。

 この小説で、今も印象深く記憶に残っているのが、やはり皇女和宮の行列です。馬籠自体は、皇女の宿泊地ではなかったものの、行列の荷物のさばきや馬などの手配に、てんてこ舞いの様子が窺えます。*1

 明治以降、街道の役割は、次第に薄れ、「夜明け前」の主人公、藤村の父親も、決して幸せではない境遇に陥ります。日本史上の大転換。この国の隅々にまで、様々な影響を与えることになりました。

 

 宿場町の中ほどには、島崎藤村を偲ぶ、”藤村記念館”が佇みます。もともと、この辺りが本陣で、藤村の生家であった様子です。記念館は、それほど広くはないものの、今も、たくさんの資料などが展示されています。

 

 馬籠を後に

 石畳の街道は、さらに勾配を増しながら、続きます。宿場町のはずれには、高札場の跡が。そして、その先には、展望台。はるか向うに、美濃の山々が望めます。

 そこから上は、観光客の気配が次第に薄れ、中山道妻籠へと向かう人達だけが、馬籠峠を目指して、進みます。

 

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※展望台から。 

 

*1:和宮一行は、前日に中津川宿を出て、この日は、落合宿・馬籠宿・妻籠宿を通過して、三留野宿泊りであったようです。この山道、22Kmもある難関です。皇女を乗せた輿の歩みは大変だったにちがいありません。