旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

出会い旅のスケッチ8・・・ジャック・ロンドン

 ジャックロンドンの故郷

 

 映画「野生の呼び声」が公開されました。この映画の原作者は、アメリカの作家、ジャック・ロンドン。20世紀の初頭に出版された、同名の小説の映画化です。

 ジャック・ロンドンの故郷は、サンフランシスコ近郊の都市、オークランド。以前、「気まま旅のスケッチ5」で、少し紹介しましたが、今回の映画化を知り、もう一度、振り返ってみたくなりました。

 

 

 オークランド

 昨年夏(2019年)、サンフランシスコにほど近い、アラメダという町に短期滞在していた私たちは、何度かオークランドを訪れる機会がありました。

 オークランドは、サンフランシスコから、ベイブリッジでひとまたぎ。それこそ、目と鼻の先のような位置関係。アラメダとも隣接し、気軽に立ち寄れるところです。

 ただ、サンフランシスコと比べると、目立った観光地がないために、一般には訪れる機会は少ないかも知れません。MLBのアスレチックスは、このオークランドが本拠地です。

 

 ジャック・ロンドン・スクエア

 オークランドの海沿いは、サンフランシスコ湾の一角が、運河のようになったところです。海の先はアラメダ島。そして、湾の向こう岸が、ビジネスの一大拠点、サンフランシスコです。

 この、海沿いにある、ウオーター・フロントの公園が、ジャック・ロンドン・スクエア。「野生の呼び声」の作者の名前を冠した公園です。

 

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※左、ジャック・ロンドン・スクエアからアラメダ島を臨む(左手対岸。その向こうの山並の麓は、サンフランシスコ)。右、スクエアへの導入路。

 ジャック・ロンドン・スクエアには、散策路をはじめとして、幾つかの高級そうなレストランや土産物店などが並んでいます。また、サンフランシスコと結ぶフェリーの波止場もあって、船で対岸に向かう人達の、重要な交通の拠点ともなっています。

 そして、その波止場のすぐそばには、ジャック・ロンドンの像。オークランドの海を駆け抜けた思い出を背負いながら、人生を語りかけている様子です。

 

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※左、ジャック・ロンドン像。右、フェリーの船着き場。

 

 ジャック・ロンドン

 ジャック・ロンドンは、1876年に、サンフランシスコで生をうけました。その後、家庭の事情で、ベイエリアと呼ばれる、サンフランシスコ湾に面した地域を転々として、生活を送ります。

 若い頃には、オークランドが生活の拠点。この地で、苦労を重ねて成長します。

 ジャック・ロンドンは、サンフランシスコ湾で、様々な行動を繰り返しながら、仕事を転々として、貧しい生活をしのぎます。果ては、カナダ北方やアラスカの旅へ。ゴールド・ラッシュにも、夢を託したということです。

 

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ジャック・ロンドン・スクエア周辺の街。

 

 「野生の呼び声」

 今回映画化された「野生の呼び声」は、街中で優雅に暮らしていた犬が、カナダ北部の厳寒の地で、”犬そり”のリーダーとして君臨し、最後には野生化してしまう、バックという犬の半生を描いた物語。

 この小説とは反対に、オオカミの血をひいて、野生で暮らした犬、ホワイト・ファングが、次第に人間世界に飼い慣らされ、遂には屋敷の中で生涯を終える「白い牙」。

 ジャック・ロンドンの、この2つの小説は、犬の視点で物語が進展する、一風変わった作品です。

 

 いずれの小説も、カナダ北部の厳しい冬の光景が描かれていて、大自然の中で勇敢に生きぬく人々や、犬たちの姿が、強烈な印象を与えます。

 自身が生きぬくために、大海原の航海や、氷雪の踏破を経験した、ジャック・ロンドンならではの世界が広がります。

 

 オークランドの誇り

  今日、オークランドの海辺近くには、ジャック・ロンドン・スクエアだけでなく、彼の名前を冠した、施設なども見られます。そのひとつが、鉄道のジャック・ロンドン・スクエア駅。この駅からは、シリコンバレー方面や、カリフォルニアの州都サクラメント方面に向かう路線があるようです。

 ジャック・ロンドンが、若い頃に暮らしたこの地域。街全体が、才能ある作家の功績を称えているようです。

 

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ジャック・ロンドン・スクエア駅

 

 写真はありませんが、ジャック・ロンドン・スクエアの中には、彼が暮らしていた、小さな小屋のような家が展示されています。19世紀の後半は、この辺りが、海辺の寒村であったことを想像させるような、貧祖な家。

 今では、近代的な施設や建物が立ち並び、時代の変遷を感じます。

 

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ジャック・ロンドン・スクエア内。

 

 ジャック・ロンドンは、40歳という若さでこの世を去りますが、その後半は、ベイエリアから少し離れた、北部の町に居を構えていたとのこと。その町には、今も彼を偲んで、ウルフ・ハウス(Jack London's Wolf House)という施設が残されているようです。

 

 そう言えば、「野生の呼び声」のバックと、「白い牙」のホワイト・ファング。小説では、その結末で、彼らの子孫の存在を匂わせます。若くして、命絶えたジャック・ロンドン。彼自身、次の世代に、自身の夢を託したのかも知れません。

 

出会い旅のスケッチ7・・・リルーエットからバンクーバーへ

 リルーエットを後に

 

 リルーエットでは、念願のミヤザキ・ハウスを訪れることができました。そして、地域の人達が、ドクター・ミヤザキに寄せる思いも、感じとることができました。

 ドクター・ミヤザキの功績を後世に伝えるために、この施設は、これからも大きな役割を果たしてくれることでしょう。遠くから、いつまでも、見守っていければと思います。

 私たちは、リルーエットを後にして、フレーザー川の流れに沿って南下です。来た時とは別ルートで、バンクーバーを目指します。

 

 

 ドクター・ミヤザキのエピソードなど

 最後にもう一度、ドクター・ミヤザキについて、触れておかなければなりません。そのひとつは、エピソード。

 もともと、医師のいなかったリルーエットの町に招へいされたミヤザキ医師。おそらく、長い間、たった一人の医師として、孤軍奮闘されたことでしょう。

 

 特筆すべきエピソードは、リルーエットを取り囲む地域での、往診についてです。ミヤザキ医師は、患者のもとへ行くために、100Kmもの山道であっても、馬にまたがって駆け付けたということです。また、湖をボートで渡り、対岸の山道を徒歩で登って、患者のもとへ行ったとも。

 

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※リルーエット近くの山。

 

 冬になると、雪深いに違いないリルーエット。町の中だけでなく、山中に暮らしていた人も少なくなかったことでしょう。特に、先住民の人々は、自然と一体化した生活を送っていたのだと思います。

 急を要する患者のもとへは、例え雪山のような過酷な条件のところであったとしても、労力を惜しまず、医療の提供に尽力されたということです。*1

 

 もうひとつ、記しておきたいこと。それは、町のひとつの教会で、ドクター・ミヤザキのことも含めた、資料などが見られるということです。私たちは、週末の夕方から翌朝までの、短い時間の滞在で、残念ながら、この教会を訪ねることはできませんでした。

 次回、再びリルーエットを訪ねる機会があれば、ぜひとも訪れたいと思います。

 

 帰路へ

 名残惜しくはありますが、私たちは、リルーエットに別れを告げて、帰路につきました。往路は、99号線に沿って、海側の道から山道へ、ウイスラー経由のドライブでしたが、今度は、山中を、フレーザー川に沿って南下です。ひとつの山脈をぐるりと一周するように、バンクーバーに戻ります。

 

 

 

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※町から、フレーザー川を越えて振り向くと、山裾に連なる、リルーエットの町が見渡せました。

 

 99号線は、フレーザー川を越えたところで左折して、北方向に向かいます。この交差点を右折して、南に向かうのは12号線。私たちは、12号線に乗り換えて、リットンという小さな町に向かいました。

 来た時と同様に、車はほとんど見かけません。たまに追いついてくる車は、猛スピードで追い越して、先に駆け抜けて行ってしまいます。

 フレーザー川の左岸には、来るときには、はあまり見かけなかった農地などもありました。ところどころに、民家なども点在し、安心して運転できる道筋です。

 

 リットン

 1時間近くのドライブで、リットンの町に到着です。この町は、リルーエットよりもコンパクト。一方で、家並は密集した感じです。

 12号線は、この町のメインストリートのようになっていて、道路沿いにはお店なども見かけます。ただ、この日は休日の朝。町の中は、ひっそりとした雰囲気です。

 12号線から、一筋右方向に入っていくと、そこは広場のようになっていて、フレーザー川の美しい景色が見えました。

 深い山の中を、ゆったりと流れるこの川は、流域に数々の恵みをもたらしながらも、時に、土地や財産を奪い取る、厳しい川でもあるのでしょう。川の蛇行に削られた、谷の岩肌を見ていると、自然の雄大さを感します。

 

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※リットンの町中の広場から見られる、フレーザー川

 

 1号線へ

 ブリティッシュ・コロンビア州の主要道路である1号線は、東の方角から延びてきて、リットンへ。その後、12号線を吸収して、フレーザー川伝いに南下します。

 私たちも、リットンの南の町はずれで1号線に。一路南に向かいます。

 この辺りの1号線は、フリーウエイというよりも、日本の国道のような道。時々、町に入ると、制限速度も抑制されます。

 快適なドライブの途中のこと、山が迫ったところで、前を走る車が減速しました。不思議に思ってスピードを緩めると、その先に、数台の車が渋滞中。事故かとも思ったものの、少し様子が違います。よく見ると、子熊を抱えた女性の姿が見えました。

 道に迷い、道路に出てきた子熊を助けている様子。日本では、考えられない光景です。

 

 ハリソン・ホットスプリング

 私たちは、1号線を南下して、ホープという町の直前で、右方向へ。フレーザー川の右岸を延びる7号線に乗り換えて、ハリソン・ホットスプリングに向かいました。

 この町は、バンクーバーからほど近く、たくさんの観光客が詰めかけます。

 ハリソン湖に面した湖岸は、風光明媚。のんびりとくつろぐ人、ウォーキングをする人たちが、休日の午後を楽しむ姿が見えました。

 ここは、ホットスプリングということで、温泉プールもあるようです。リゾートマンションや、ホテルなど、意匠を凝らした建物も数多くありました。

 

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 ※ハリソン・ホットスプリングの風景。

 

 バンクーバー

 ハリソン・ホットスプリングを後にして、再び7号線へ。見晴らしの良い山道や、フレーザー川に沿った畑地などの景色を楽しみながらのドライブです。

 いつのまにか、交通量が増えてくると、郊外型のショッピングセンターや沿道サービスの店舗などが現れて、辺りは、次第に街の景色に変わります。幾つかの町を通り過ぎると、バンクーバー。ドライブの出発点に到着です。

 

 今回の旅の目的は、山深いリルーエットの町で、ドクター・ミヤザキの活躍の拠点、ミヤザキ・ハウスを訪れること。この邸宅が、地域の人達の努力によって、今も大切に守られている様子を拝見することができました。

 それと同時に、日本から海を渡り、その生涯を異国の地に捧げられた人々に、想いを馳せる機会ともなりました。

 遠いカナダで、祖国を同じくする人の生き様は、多くのことを暗示してくれているように思います。

 

 

*1:「出会い旅のスケッチ5」で、紹介したように、「国際文化研究への道」という書籍の中で、そのエピソードは紹介されています。

出会い旅のスケッチ6・・・ドクター・ミヤザキ(後編)

 出会いの後

 

 カナダの奥深い山間の町に、今も残る、ミヤザキ・ハウス。地域の人々に愛され、親しまれてきたドクター・ミヤザキの足跡が、末永く後世に引き継がれていくことを願います。

 それと同時に、遠い昔に海を渡り、想像もできない困難の中で生き抜かれた、多くの日系人の方々のことを想うとき、その勇気と力強さに敬意を表さざるを得ない思いです。

 私たちがあまり知らない、日系移民の人たちの人生。リルーエットの町で、ほんの少し、触れることができたような気がします。

 

 ミヤザキ・ハウス

 ミヤザキ・ハウスに入ると、すぐ左手は診察室。そこには、かつてドクター・ミヤザキが向き合った、机や診察台、薬品棚などが、当時のままに保存されています。診察道具や薬品もそのままで、時の流れが止まったような空間です。

 この部屋で、診察や治療が行われ、多くの人の命が救われたことでしょう。

 

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※1階の診察室。

 

 1階の廊下を挟んだ右手は、応接室。がらんとした部屋ですが、ソファーなどはそのまま残されています。そして、廊下の左手から、2階に続く階段へ。途中には、板壁に写真が飾ってありました。

 2階に上がると、寝室やリビング風の幾つかの部屋がありました。ベッドや鏡台、タンスなども往時のままに置かれていて、タイムスリップをした感覚です。部屋の中は、自由に見て回ることができますが、少し雑然としたところがあって、建物や家具の傷みも目につきます。

 絨毯敷きのひと部屋は、リルーエットの古い写真などの展示室。そこでは、かつての町の様子を窺うことができました。

 

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※左、2階に上がる階段。中と右、2階の部屋の様子。

 

 1階に下りて、廊下の突き当りのドアを開けると、そこはリビング兼ダイニング。広々とした部屋で、椅子に座った2人の年配女性が、何やら楽しくお話し中です。そのうちの1人は、もちろん、私たちがこの家に入ったとき、玄関で応対してくれた方。笑顔で部屋の案内をしてくれました。*1

 リビングルームの片隅には、小さなガラスの展示棚。そこには、顕微鏡のレンズなどが置かれてありました。また、何冊かの書籍なども展示され、ドクター・ミヤザキの自伝を拝見することができました。*2

 

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※ドクター・ミヤザキの自伝の1ページ。
 

 ミヤザキ・ハウスを後に

 念願のミヤザキ・ハウスを訪れて、リルーエットの人達が、今もドクター・ミヤザキの功績を称えつつ、その足跡を、後世に伝えていこうとする姿を拝見することができました。また、この家は、記念館としてだけではなく、リルーエットの人たちの心をつなぐ場所。地域コミュニティーに、無くてはならない集いの空間でもあるのです。

 

 私たちは、ミヤザキ・ハウスを後にして、ドクター・ミヤザキも歩いたであろう、リルーエットの町を、ゆっくりと散策です。

 メインストリートは、片側3車線でも取れそうな、広々とした道路です。車はあまり走っておらず、信号や横断歩道もほとんどありません。

 ミヤザキ・ハウスは、メインストリートの1本西、ラッセル通り(Russell Lane)に面しているため、メインストリートには、ミヤザキ・ハウスを案内する、お洒落なサインがありました。

 

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※メインストリート。中央は、ミヤザキ・ハウスを示す看板です。奥に見える建物は、郵便局。

 

 リルーエットの町

 町の中は、1時間もあれば、ぐるっと一回りできるほどの広さです。地元で配布されている、パンフレットの航空写真を見てみると、一目瞭然。本当に小さなところです。

 

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※リルーエットの町。(パンフレットより)

 

 学校や公共施設、そして、レストランやモーテルなどは、主にメインストリート沿いに配置され、住宅は、山側とフレーザー川に沿った区域に広がっています。

 町はずれには、鉄道の駅もあり、線路が敷設されています。ただ実際に、今でも汽車が走っているのかどうかは分かりません。

 町中からすこし離れると、人の通りはほとんどなく、静かな空気が漂います。

 

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 私たちがリルーエットを訪れた日は、カナダ・デー直前の週末です。夕方までは、静かだった町中も、夜には、陽気な人々の 声が響きます。ここに住む、誰もが知り合いのようなコミュニティー。短い夏の週末の夜を、存分に楽しまれている様子です。

 

 屋外の喧騒を、何故か心地よく聞くうちに、いつの間にか夜は更けて行きました。

 翌朝、再び人気のない町中を巡り歩き、名残を惜しみながら、リルーエットの町とお別れです。今度は、フレーザー川伝いに南下して、バンクーバーへと、帰路の旅につきました。

 

*1:この方たちは、ボランティアで、ミヤザキ・ハウスのお世話をされている様子です。

*2:ここでは、土産用の絵葉書も販売されています。ドクター・ミヤザキの写真や、ミヤザキ・ハウスの全景など、数種類が置いてありました。

出会い旅のスケッチ5・・・ドクター・ミヤザキ(中編)

 リルーエットにて

 

 バンクーバーから、およそ250Km。深い山の中に佇む小さな町、リルーエット。フレーザー川と、針葉樹が広がる山々の恵みを受けて、今も人々の息吹が広がります。

 「私は、この町が大好きです」と、笑顔で話してくれたのは、町中のモーテルで受付をしてくれた若い女の子。こんなに暮らしやすいところはありません、と、町への愛着を語ってくれました。

 都会とは随分と異なる環境の中。それでも、若者を引き付ける、豊かな何かがあるのでしょう。私たちは、この山間の町で、1泊2日の短い滞在を楽しみました。

 

 Miyazaki House(ミヤザキ・ハウス)

 リルーエットへの旅の目的は、ミヤザキ・ハウスを訪ねること。ドクター・ミヤザキが、地域医療の拠点としていた邸宅です。

 数年前、機会があって、ドクター・ミヤザキのことを知り、いつか訪ねてみたい場所でした。

 チェックインしたモーテルの受付で、ミヤザキ・ハウスへの行き方を訪ねると、「このホテルのすぐ裏よ」と、気さくに教えてくれました。*1モーテルの予約時に、およその位置関係は把握していましたが、目と鼻の先とは、思いもよらないことでした。

 

 私たちは、部屋に荷物を下ろした後、早速、モーテルの裏口へ。ドアを開けると、右前方に、西洋風の立派な邸宅が見えました。

 

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※モーテルのすぐ裏から見た、ミヤザキ・ハウス。

 

 建物は、薄緑色の屋根と窓の庇に特徴がある造りです。玄関に上がる階段の両脇には植栽が施され、屋敷の美しさを引き立てています。

 

 この邸宅は、もともと、ゴールドラッシュで富を成した人により、1880年代に建てられたとのこと。後に、そのオーナーの息子が、医師のいなかったこの地域に、ミヤザキ医師を迎え入れるために手放すことを申し出て、ミヤザキ医師の手に渡ったということです。

 

 ドクター・ミヤザキとリルーエット

 ここで、ドクター・ミヤザキがリルーエットに住居を構えることになったいきさつについて、簡単に触れておかなければなりません。

 ドクター・ミヤザキこと宮崎政次郎氏は、1899年に、日本のある地方の村で誕生しました。*2政次郎氏の父親は、日本からカナダに渡った日系移民。幼少の頃、日本で育った政次郎氏は、父親の勧めもあって、10代半ばでカナダに渡ります。

 その後、バンクーバーで暮らしつつ、苦学を重ねて大学を卒業。さらに、アメリカで医師の資格を取得されました。

 

 しばらく、バンクーバーで医業を行っていた宮崎医師。しかし、世の中は、戦争へと突き進んでいくのです。

 第2次世界大戦は、1941年12月、真珠湾攻撃を契機として大きく世界を動かします。カナダも、翌1942年に、日本に対して宣戦布告。当時、バンクーバーを含むブリティッシュコロンビア州だけでも、2万人以上いたとされる日系カナダ人は、西海岸から100マイル以上離れた内陸に、移動させられることになったのです。

 

 この政策により、リルーエットの地域には、日系人を隔離する4つの収容所施設が設けられました。そして、宮崎医師もリルーエットへ。

 

 時は流れ、第2次世界大戦が終結したのは、1945年。前述したように、地域の熱い願いを受けて、宮崎医師がこの邸宅を入手することになったのです。

 

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※ドクター・ミヤザキやミヤザキ・ハウスのことについては、地元のガイドブックにも記されています。

 

 ドクター・ミヤザキの活躍

 邸宅を入手後、ミヤザキ医師は、1階部分の1室を診察室に改造し、医療活動を続けます。そして、自然厳しいリルーエットの地で、地域医療に尽力されました。*3

 さらに、1950年には、地元議員にも選出され、様々な貢献を重ねられたということです。その結果、1977年にカナダ勲章を授与。1984年に生涯を閉じられてもなお、この邸宅は、ミヤザキ・ハウスとして地域に愛され、リルーエットのランドマークとして親しまれているのです。

 

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※左、屋敷前の案内板。右、屋敷の北側から。広い芝生の庭も見えます。
 

 屋敷の周辺

 邸宅の正面に進んで、アプローチの階段前から見上げると、何とも歴史を感じる建物です。正面に向かって右側には、広い芝生の庭が広がっていました。

 かつて、アメリカンドリームの典型と言われたような、白い木造りのフェンスが、屋敷の周りを取り巻いていて、その一角には、”The Story of Miyazaki Heritage House”の案内版がありました。

 ミヤザキ・ハウスは、記念館のようになっていて、中に入ることも可能です。また、定期的に、イベントなども開催されている様子です。

 

 ミヤザキ・ハウスの中へ

 私たちは、正面の階段を上って玄関へ。玄関ドアは、ガラス越しに少し中も覗けます。ドアを引いて様子を見ていると、奥から1人の年配女性が現れました。

 「中を見せて頂けますか?」と尋ねると、快く招き入れてくれました。

 「どこから来たの?」と問われ、日本からだと伝えると、少し驚かれた様子。是非、来訪者の記帳をしていくように、と、促されました。*4

 簡単に、部屋の配置を説明して頂いた後は、自由に見学です。リルーエットで活躍された、ドクター・ミヤザキの功績を想い描きながら、隅々まで、拝見させて頂くことができました。 

 

*1:私たちが宿泊したモーテルは、ホテルデオロ(Hotel Deoro)というところです。

*2:今は、滋賀県彦根市になっています。

*3:ドクター・ミヤザキの地域医療の活躍や、地域貢献の様子は、「国際文化研究への道」(彩流社)という書物に記されています。

*4:ちなみに、入館料は不要です。

出会い旅のスケッチ4・・・ドクター・ミヤザキ(前編)

 リルーエットの風景

 

 昨年6月*1バンクーバーを訪れたとき、必ず行ってみたいところがありました。その土地の名前は、リルーエット。バンクーバーの北東に位置し、深い山間に佇む小さな町です。

 この町は、20世紀の前半、苦学してカナダで医師となった、宮崎政次郎氏が活躍されたところです。”ドクター・ミヤザキ”と親しまれ、活躍された土地。今も、ドクターの偉業を称えて、診療所を兼ねた邸宅が、地域の人達によって大切に見守られているのです。

 

 1号線を北へ

 バンクーバーでレンタカーを借りて、一路北に向かいます。目的地のリルーエット(Lillooet)は、バンクーバーの北東、250Kmほど離れた山間の町。途中の目標は、スキー場で有名なウイスラーです。

 フリーウエイの1号線が、海を見渡す99号線へと変わり、ハウ湾(Howe Sound)の奥深く、スコーミッシュの町を越えると、道は山の中に入ります。交通量はそれほどでもなく、気分の良いドライブです。*2

 

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バンクーバー市内。

 

 ウイスラー

 99号線が山の中に進んでいくと、町はほとんど見当たりません。ひたすら、針葉樹で覆われた山々を見ながら走ります。

 バンクーバーを出て100Km余り。ようやく、ウイスラーのサインが現れました。ウイスラーは、日本でも有名なスキーリゾートです。さぞかし大きな街に違いないと思っていましたが、辺りは鬱蒼とした木々に覆われて、あたかも森の中の様子です。

 99号線から右手にそれて、リゾート地の方向へ進んでいっても、それほど賑わいはありません。

 様子が一変したのは、ホテルのような、大きな建物の地下駐車場に車を停めて、反対側の地上に出た時でした。そこは、突然リゾートの街。土産物店やレストランなど、お洒落な店が軒を連ね、休暇を楽しむ人達が、街歩きを楽しむ姿が見えました。

 折しも、山には雲がかかり、雨模様。人出は、少ないものの、国際色豊かな顔ぶれです。

 

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※左、ウイスラーの入口付近。中、メインストリート。右、リフト乗り場近く。

 

 リルーエットへ

 ウイスラーを後にして、さらに山の奥に進みます。行先はわかっていても、大陸の奥地に踏み込む感覚で、心細さが迫ります。

 幾つかの小さな町を通過して、マウントクリーというところで、99号線は右折です。もう、この辺りになると、車の影はほとんど見られません。前も後ろも、一筋の道路が延びるだけ。自分たちの車だけが、静止した空間の中を突き進みます。

 標高も次第に高まり、道路は崖道です。そそり立つ山の反対側は、深い谷。ところどころで、川の流れやダムの水面が見られます。

 

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 ※山間の崖地に延びる99号線。

 

 今にも崩れてきそうな崖地の道を、少しでも早く通り過ぎたい思いで、先を急ぎます。辺りは、雨模様ではないものの、どんよりとした天気です。高い山の頂は、白い雲に覆われています。

 もう随分、リルーエットの町に近づいてきたか、と、思っていた時のこと。道路脇に”LiLLOOET”を示すモニュメントが現れました。大きな岩と材木で造られたモニュメント。自然の中で生きてきた、人々の生き方を誇示しているようにも映ります。

 

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※リルーエット入口にあるモニュメント。 

 

 このモニュメントを通り過ぎ、下り坂を進んでいくと、左前方にリルーエットの町が見えてきます。小さな橋を渡ったら、99号線から左にそれて、街中に入る坂道に。

 ウイスラーを出て、約2時間半。ようやく目指す町に到着です。

 

 リルーエットの概要

 リルーエットは、カナダの奥地から流れる、フレーザー川中流域にある町です。河岸段丘のような、川から一段高いところにできた台地に町が築かれています。

 元々、リルーエット族という先住の人々が入植し、その後、ゴールドラッシュなどで人口が膨れ上がっていったとのこと。1860年前後には、北米大陸の西部地方では、サンフランシスコに次ぐような人口を擁していたようです。*3

 リルーエットには、今も先住民族の末裔が、数多く暮らしておられます。

 この町は、今では、往時の繁栄は見られませんが、自然を求めて訪れる人々の、人気の土地。トレッキングや釣り、キャンプなど、カナダの人達が大好きな、大自然を満喫できるエリアです。

 

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※リルーエットのメインストリート。

 

 リルーエットとドクター・ミヤザキ

 ドクター・ミヤザキ*4は、10代半ばに、日本からカナダのバンクーバーに渡った日系カナダ人です。苦学して医師となり、リルーエットを拠点として、過酷な自然条件の中で、地域医療の提供に尽力されました。

 後に、カナダ勲章も授与*5されたドクター・ミヤザキ。今もリルーエットの人々に愛され、心の拠りどころになっているようです。

 

 地元を紹介するガイドブックの中にも、ドクターに関する記事がありました。リルーエットの歴史を語るとき、無くてはならない存在に違いありません。

 

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※左、ガイドブックの表紙。右、ガイドブック中、歴史がつづられたページ。

 リルーエットとドクター・ミヤザキ。今回の記事は、その導入です。次回以降、さらに詳しくお伝えしたいと思います。

 

*1:2019年

*2:バンクーバーでは、市街地の道はそれほど複雑ではないものの、道路の接続方法が、アメリカとは少し異なるようで戸惑います。特に、フリーウエイへの侵入は、方向によっては、一般道を大きく迂回しなければならず、混乱してしまいます。

*3:当時のピーク時の人口は、16,000人。現在は、2,500人程度ということです。

*4:1899年~1984

*5:1977年のこと。

出会い旅のスケッチ3・・・小説「石狩川」の風景

 トウベツへの想い

 

 学生の頃、「石狩川」 という小説があることは、何かで学んだ気がします。それでも、これまで、その小説に出会ったことはなく、私の記憶からは、はるか彼方に消え去っていました。

 ところが昨年の夏、ふとしたことで、この小説に出会うことになりました。読み進めていくと、次第に、北海道開拓の苦難の物語に引き込まれていったのです。

 この小説は、トウベツという地を開拓するまでの物語。今では想像もつかない、過酷な道を切り拓く人々の姿が、脈々と描かれています。

 今回、北海道を訪れるに当たって、何としても立ち寄りたい土地でした。

 

 

 千歳空港から当別

 網走で、叔父の遺影と出会った後、私たちは、女満別空港から千歳空港に向かいました。北海道では、この日、寒気が流れ込み、欠航の可能性も予告されていましたが、1時間遅れで何とか出発。無事千歳空港に降り立つことができました。

 

 千歳空港からは、レンタカーで移動です。目的地は、千歳の北、50Kmほどのところにある、当別町*1この町は、小説「石狩川」の登場人物たちが、夢を託した開拓の土地。一度、機会があれば訪れてみたい町でした。

 

 千歳から当別までは、農地が広がる道を進みます。交通量はあまりなく、路上には雪もそれほどありません。ところどころに町や集落なども現れて、それぞれの町の中心は交差点。各方面へと延びる道が交わっています。

 

 江別市で、石狩川を越え当別へ。町に入る直前で、当別川を渡ります。雪の様子は、この辺りから一転し、途端に白銀の世界に変わります。路上も真っ白で、町中の道は圧雪状態。辺りはもう、雪国です。

 

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当別の町中。 

 

 小説「石狩川

 「石狩川」は、石狩川流域の土地、トウベツの、開拓に至るまでの苦難の道筋が描かれた小説です。しかも、その開拓を進めた人達は、江戸時代の一つの藩の藩主と家臣たち。実話とは言え、どれほど過酷で切羽詰まったサバイバルの挑戦であったのか、想像を絶する、生存への戦いの物語です。

 

<あらすじ>

 この小説のモデルは、かの有名な、伊達政宗を始祖とする、仙台藩の分家、岩出山伊達家(いわでやま だてけ)の人達です。幕末の戊辰戦争で、幕府側につき、敗北。領地を没収された伊達邦直(小説では伊達邦夷)とその家臣たちが北海道に渡ります。

 彼らの移住先は、石狩川の河口北側にあるシップというところ。ところが、そこは、自然厳しい日本海に面した土地でした。生き延びていくために、そこから、山を越えた東に広がる肥沃な土地、トウベツの開拓を目指すことに。

 ただ、この事業を成功させるためには、トウベツの土地を見極めること、そして、北海道開拓使の許可を得るという難関が待ち受けていました。

  この難関を乗り越える牽引役となったのが、岩出山伊達家の家老、吾妻謙(小説では、阿賀妻謙)。実務一切を指揮し、開拓使とも直談判するなど、精力的に働きます。幾人もの部下を失い、新政府の見えない圧力に耐えながら、藩の人々を導きます。その結果、遂に、トウベツの地に入植を果たすことができたのです。

 「石狩川」は、過酷な自然と制度を乗り越える人達の姿を、見事に描いた小説です。

 

 

 伊達記念館

 小説を読んだ後、当別町について少し調べてみたところ、街中に、伊達記念館と伊達邸別館があることを知りました。そこには、明治期に建てられた伊達家の屋敷とともに、開拓に関する資料なども見られるとのこと。

 機会があれば、訪れたいと思っていた中で、今回の北海道の訪問です。冬の間は、記念館などは休館ということですが、この機を逃しては何時訪れることができるか分かりません。

 駆り立てられるように、当別町を訪問したのです。

 

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※左、記念館などの入口。右、伊達邸別館。

 

 雪が積もる記念館周辺は、閑散とした雰囲気です。新雪を踏みつけて奥に進むと、やはり施設は休館中。それでも、窓越しに伊達邸別館の中を拝見することができました。 

 思いのほか、小さな施設でありながら、ここが開拓の拠点だったのでしょうか。開拓の様子は、小説には出てきませんが、そこに至るまでの厳しい道のりが、瞼に浮かんでくるようです。*2

 

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※左、伊達邸。中、伊達邸別館の遠景。右、記念館の玄関。

 

 本庄陸男

  小説「石狩川」は、当別町出身の作家、本庄陸男(ほんじょうむつお)の作品です。

作者は、この小説の”あとがき”で、「一先ず作者はこれを『石狩川』の初編として上梓(じょうし)し、つづいて、これら移住士族のその後の過程を書き進める予定である。(昭和14年4月)」と記しています。

 

 私は、「石狩川」を読み終えた後、すぐに、続編が読みたくて、色々探してみましたが、それらしき作品は見当たりません。

 そこで、本庄陸男について調べると、彼は、昭和14年7月に、結核のため、わずか34歳で亡くなっていたのです。

 昭和14年の4月に「石狩川」を書き終えて、3月の後のことでした。

 

 幕府政治から、新政府に移行して、急速に開拓が進められた北海道。そこには、多くの人達の夢と苦難が交錯していたことでしょう。

 

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※北海道旧庁舎。
 

     一編の小説との出会いから、これまで知ることのなかった世界を見るということは、よくあることかも知れません。それでも、多くの事を教えてくれた「石狩川」。いつまでも心に残る名作です。

 

 

*1:札幌からは、北東約30Kmに位置する町です。

*2:北海道には、室蘭市の西に伊達市というところがあります。この市も、名前の通り、伊達家とゆかりがあるようです。当別の開拓は、伊達邦直。伊達市は、邦直の弟である、伊達邦成によるものです。

出会い旅のスケッチ2・・・網走オホーツク(後編)

 オホーツク文化

 

 これまで、北海道の歴史や文化について学んだことは、ほとんどありません。学校の歴史の授業でも、江戸期の松前藩の存在や、アイヌ民族の文化など、僅かに触れた程度です。

 ましてや、道東のオホーツク海を臨む土地。どんな人が暮らし、どのような土地だったのか、想像すら、したことはありませんでした。

 散策途中に偶然見かけた、網走川の河口付近に佇む、金田一京助博士の歌碑。そして、網走駅前に構える、モヨロ人の像。俄かに、オホーツクの文化に、思いを馳せることになりました。

 

 歌碑

 昨年末に他界された、叔父の弔いのために訪れた網走のまち。朝、網走川から海岸方面を散策した時に、少し気になる歌碑が目につきました。

 その歌碑は、金田一京助博士が詠まれたもの。歌碑の横には、「オホーツク文化の代表的な遺跡、モヨロ貝塚」での発掘にあたり、この歌が詠まれたとの案内がありました。

 その歌は、

 

 ”おふつく能 もよろ能 うら能 夕凪に いに志よしのび 君とたつかな”

 

 もとより、モヨロという名を目にしたのは初めてのこと。オホーツク文化という響きにも、何となくロマンを感じたものでした。

 歌碑から、少し歩き進むと、左手の小高い丘に、モヨロ貝塚の遺跡と貝塚館の施設が見えました。時間があれば、訪れてみたいと思いながらも、足早に、北の海が広がる海岸へ。流氷が押し寄せてきそうな、荒涼とした海の風景を味わいました。

 

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金田一京助博士の歌碑。

 

 モヨロ人の像

 朝の散策を終えた後、私たちは、網走郊外の叔父の家に向かうため、滞在していたホテルから網走駅に向かいました。

 空の色は、どんよりとした鉛色。天気予報では、夕方あたりから、雪が舞うと告げています。暖冬で、雪のない駅前付近。それでも、人の姿はほとんどありません。冷えびえとした空気の中で、動きが止まったような街の中。寒さが、さらに助長される景色です。

 

 網走駅に着いたとき、先ず目に飛び込んできたのが、モヨロ人の像。険しい顔で、右手に銛(もり)を振りかざすその姿は、勇壮そのものです。

 朝の散策で初めて知った、モヨロという言葉。オホーツク文化を築いたとされるモヨロ人。その姿を追いかけてみたくなりました。

 

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 ※網走駅とモヨロ人の像(写真左)。

 

 モヨロ貝塚*1

 今回の旅の目的である、叔父の遺影との再会を果たした後、私たちは、能取湖を訪れました。*2

 そしてその後、朝の散策で立ち寄れなかった、モヨロ貝塚館へ。

 この施設は、網走市の運営で、市立郷土博物館の分館となっているようです。この日の朝、初めて知った、モヨロの言葉に引き付けられての訪問です。

 

 貝塚館は、モヨロ遺跡*3の敷地内に建てられています。見た目は、2階建ての小さな建物ですが、地下を含むと3フロアでの展示です。

 

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※モヨロ遺跡。

 

 この貝塚館で初めて知ることとなった、オホーツク文化。5世紀から11世紀ぐらいのおよそ500年間に、オホーツク海を介して広がった人々の営みの足跡です。

 本州では、古墳時代から平安時代に相当するようですが、その時代に、北の地域でも独自の文化が花咲いていたということです。

 元より、自然厳しい北の土地。農耕が広がった本州とは違い、アザラシやクジラなどの海獣の狩猟に長けていて、優れた航海術を持ち合わせていたとのこと。ユーラシア大陸アムール川の流域や、サハリンなどの文化とも関連すると言われています。

 

 イヌイットなどの北方の民族が、北の大陸を移動して広がっていったことは、どこかで耳にしたことはありますが、オホーツクでも、同様のことが起こっていたのでしょうか。ただ、モヨロ人たちは、いつの日かその姿を消し、彼らの営みの一端は、アイヌの人々に受け継がれたとも言われています。

 

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※モヨロ貝塚館の展示。

 

 米村喜男衛(よねむらきおえ)という方が、網走川の河口近くで、貝塚や石器などを発見されたのは、大正時代。その後、現地で発掘が進められ、ムラの跡やお墓など、人々の暮らしの様子が明らかになってきたようです。

 金田一京助博士が詠った中の、最後の言葉、「君とたつかな」の、”君”は、この、米村喜男衛氏のことだとされています。*4

 

 これまで、知ることのなかったオホーツク文化。大陸の東の端に位置する日本という国は、中国や朝鮮半島とのつながりだけでなく、厳寒のシベリアなどとも、深いつながりがあったということを、今更ながら学ぶことができました。

 昨年急逝された、叔父の遺影との出会い旅。思いもよらず、モヨロ人とオホーツク文化との出会いにも導かれることになりました。

 

 貝塚館を出た時は、辺りはもう真っ暗。気温は下がり、凍てつくような空気です。

 翌朝は、ついに雪景色。12月中旬の網走を真っ白に包み込んでいきました。

 

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※雪の網走。

*1:モヨロは、漢字では「最寄」と書きます。アイヌの言葉のようです。

*2:能取湖については、前回の「出会い旅のスケッチ1」を参照下さい。

*3:遺跡自体も、ある程度自由に見ることができます。それほど広い敷地ではないので、ぐるっと巡るのもいいでしょう。

*4:米村氏やオホーツク文化に関しては、司馬遼太郎の「街道をゆく」でも触れられているようです。私は、この「オホーツク街道」をまだ読んだことはありませんが、ぜひとも読んでみたいと思います。

出会い旅のスケッチ1・・・網走オホーツク(前編)

 今回から、「出会い旅のスケッチ」です。誰かを想い、何かと巡り合いながら、その地でなければ得ることができない出会いの旅。

 このシリーズも、これまでの「気まま旅」や「歩き旅」と同様に、見たまま、感じたままの、旅の様子をお伝えします。

 

 

 厳寒のまち

 

 昨年の暮れ*1、7年半振りに網走を訪れました。例年なら、雪がまちを覆い尽くし、長い冬が、既に本番を迎えている頃です。

 ところが、今年は少し様子が違います。私たち夫婦が飛行機を乗り継いで、女満別(めまんべつ)空港に降り立った時、辺りに雪は見当たりません。暖冬の気配は、北海道でも感じることができました。

 とは言え、オホーツク海を臨む北のまち。朝夕の気温は、氷点下。川が凍てつき、湖が凍る厳寒のまちに変わりはありません。

 

 7年半前

 もう随分と、時は経過したものです。2012年の5月、私たち夫婦は、長男の提案で、道東の旅を楽しみました。

 関東に暮らす長男とは、帯広空港で合流です。その後、3人で、幸福駅摩周湖知床半島などを巡り歩きました。  

 

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 ※いずれも7年半前の写真です。左は幸福駅、中央は摩周湖、そして右がサロマ湖です。

 

 この時の、旅の主な目的は、初めての道東巡り。そして、網走近郊に在住の、私たちの叔父に出会うことでした。

 私たち夫婦が住む関西からは、遠く離れた網走です。親戚であっても、なかなか会うことはできません。初めての道東の旅。網走監獄博物館やサロマ湖などを訪れて、叔父との再会を果たすことができました。

 

 網走の再訪

 今回、再び網走を訪れることになったのは、他でもありません。7年半前に再会した叔父が、昨年11月に急逝されたのです。出来るならもう一度、生前にお会いできていれば、と、悔やまれるものの、時を遡ることはできません。

 今となっては、せめてもの、遺影との再会の旅。暖冬のオホーツク地方も、次第に寒波が近づく気配です。

 

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※左、網走川下流。右、オホーツク海と帽子岩。

 

 網走

 女満別空港から網走市内へは、路線バスで向かいます。バスは、フライトの到着時刻に合わせた運行らしく、ほとんど待ち時間なしの出発です。

 夕方着の空の便。道東地方は、日没が早く、既に辺りは真っ暗です。

 バスは、40分ほどで網走市内に到着です。私たちはこの日、街中のホテルで宿をとりました。

 

 翌朝、叔父の家を訪ねる前に、軽く市内を散歩です。小雪が舞ってはいるものの、積もるほどの雪ではありません。それでも厳寒のオホーツク、北国の寒さはこたえます。

 散策は、網走川から海岸へ。途中、漁船が浮かぶ河口付近は、人影もまばらです。鉛色の空に覆われて、寂しげではあるものの、どこか懐かしさを感じる風景です。

 海岸に出てみると、沖からは波長の長い大きな波が押し寄せています。荒々しい、冬のオホーツク。帽子岩も、どこか寂しく映ります。

 

 港へと向うと、道の駅「流氷街道網走」が見えてきました。この辺りは、以前にも訪れた場所。懐かしい街並みを眺めながらの散策です。

 

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※左、道の駅付近。右、道の駅から帽子岩をのぞむ。

 遺影との再会

 軽い散策を終えた後、私たちは、本来の目的である、叔父の遺影を訪ねることに。網走の郊外にある家で、家族との久しぶりの再会です。そして同時に、仏前に据えられた、遺影との再会を果たすことができました。

 元より、遠く離れた者同士。顔を合わす機会はめったにありません。それでも、遺影でしか会えなくなった現実を思うと、突然の他界を悼むばかりです。

 今から半世紀ほど前に、北の地に移り住み、地域に根を下ろされたその人生。私たちには想像できない、苦難の時もあったことでしょう。この地で長い年月を積み重ね、多くの人に愛されて、惜しまれながらの旅立ちです。今では、オホーツクの大地から、みんなを優しく見守ってくれていることでしょう。

 

 能取湖(のとろこ)

 遺影との再会を果たした私たちは、冬の能取湖に向かいました。暖冬とは言え、雲行きが益々怪しくなってきて、海から吹き付ける北風は、頬を突き刺すような冷たさです。

 能取湖は、汽水湖で、オホーツク海とつながっています。そのためか、途中にあった網走湖は、湖面が完全に凍結していたにも関わらず、この湖はわずかに氷が張る程度です。

 

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※左、能取湖。右、能取湖流入する川。川はほとんど凍てついています。

 

 サンゴ草

 能取湖は、サンゴ草の群生地として知られています。アッケシ草とも呼ばれている植物で、秋9月頃には、草全体が真っ赤に色づき、サンゴの絨毯のようになるそうです。

 勿論、冬の季節は、その景観を楽しむことはできません。それでも、めったに訪れることができない土地。どんな所か、訪ねてみることにしたのです。

 

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※左、能取湖にある案内板。右、網走市のパンフレットから。

 冬の能取湖に降り立つと、人影はほとんどありません。空気は冷たく、辺りは寒々とした景色です。湖に突き出す桟橋は、サンゴ草の観賞用なのでしょうか。湖中を覗いてみると、ごく浅い湖底には、枯れ果てた無数のサンゴ草が、湖の波間に漂っていました。

 わざわざと、冬の能取湖を訪れる人は、それほどいないに違いありません。それでも、鮮やかに色づく湖の景色を思い描いて、何故か満足感に浸れたものでした。

 いつかまた、叔父が眠るオホーツクの地で、短い夏を惜しむように燃え広がるサンゴ草の姿を愛でてみたいと思います。

 

*1:2019年12月中旬

歩き旅のスケッチ38・・・中山道、江戸道中と日本橋

 中山道の終着点へ

 

 荒川を渡ると、日本橋はもう目前。ここ数日間、歩き続けた身体には、疲労感が漂うものの、逆に気持ちは軽くなり、最後の区間を楽しみます。

 中山道の最後の宿場は板橋宿。そして、巣鴨や本郷を通過して、一気に都心に入っていきます。

 

 板橋宿へ

 荒川を渡ると東京都北区です。国道17号の広い道を南下して、志村坂下の交差点へ。その先で、左にそれる旧道に入ります。この道は、少しだけ国道を迂回する区間。弓なりに遠回りして、国道に戻ってくると、今度は、右方向に迂回です。

 街道は、久しぶりの上り道。住宅地の坂道を上り切り、頂上辺りで左折して、今度は坂を下ります。この道は、志村の清水坂と呼ばれているところ。日本橋から都に向かう街道の、最初の難所と言われていたようですが、逆に進む私たちにとっては、難所という印象はありません。

 ここまで踏み越えてきた、数多くの峠越えと比べれば、全く問題のない坂道です。ただ清水坂は、大都会に残る蛇行した坂の道。首都の街中にありながら、かつての街道の空気を感じる、貴重な道筋です。

 

 旧道が、国道に合流するところは、志村坂上の交差点。左手角には、交番がありました。

 その後、しばらく国道を南下します。そして、首都高速5号池袋線が接近してきたら、今度は、再び左手の旧道に。少し道幅の狭い道筋です。

 

 1番板橋宿

 この辺りはもう、板橋です。環状7号の高架下を通り抜けて直進すると、やがて板橋の商店街に入ります。恐らく、この商店街が板橋の宿場だったのでしょう。今では、小さなお店や、スーパーマーケットなどが延々と軒を連ねています。

 ここまで、蕨宿からは9Kmの道のりです。いろいろなお店を眺めながら、ゆっくりと歩幅をきざんでいくと、疲れもそれほど感じません。長い区間にわたって続く商店街、ウインドウショッピングの感覚で、のんびりと進みます。

 

 板橋宿では、途中、石神井川に架かる小さな橋を渡ります。この橋が板橋と呼ばれ、ここの地名の発祥なのでしょう。色合いや欄干など、昔風に意匠された街中のこの橋は、付近に設置された道標や石碑などと共に、街道の名残を伝えてくれています。

 

 巣鴨

 板橋宿を出てしばらくすると、首都高速の高架下を横断し、埼京線板橋駅方面に向かいます。そして、埼京線の踏切を渡ると、巣鴨の街に入ります。

 私たちが巣鴨を通過したのは、ゴールデンウイーク真っただ中のお昼頃。当地の縁日とも重なっていたのでしょうか。テントの出店も連なり、街の通りは、大勢の買い物客で賑わっていました。

 

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巣鴨の庚申塚から商店街方向。この道が中山道です。 

 

 人ごみの中の商店街を通り抜けると、出口の一角は、また、大勢の人だかりです。何かあるのかと覗き込むと、そこでは、猿回しが繰り広げられていました。愛嬌のある猿の芸を楽しんで、目前に迫った日本橋を目指します。

 

 本郷へ

 巣鴨を過ぎると、国道17号を南下していきます。途中、東洋大学のビルを右に見て、東京大学方面に進みます。

 本郷では、国道は東京大学に突き当り、右方向に直角に曲がります。この交差点の左手方向が、日光へと続く道。この交差点が、追分となっているようです。

 中山道は、東大前を南東方向に延びていきます。しばらく大学前の道を歩くと、左手に赤門が現れます。

 

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※赤門前。

 

 神田

 東大の赤門を過ぎて、国道沿いに進んでいくと、やがて右手には、湯島聖堂が見えてきます。そして左は、神田明神です。この辺り、多くの人が往きかっていて、お店なども大賑わい。今はもう、街道の雰囲気を感じるところはありませんが、神田明神は、江戸の時代から、街道を往来する人や、大勢の参拝客で賑わっていたことでしょう。

 

 街道は、秋葉原駅には向かわずに、昌平橋を渡ります。そして、直後に左折して、再び国道17号に合流です。その先は、日本橋まで一直線。左手に、山手線の神田駅を見ながら、最後の中山道を歩きます。

 

 三越などがある、日本橋の街中を進んでいくと、もうその先に、終着点の橋の欄干が見えてきます。

 

 日本橋に到着

 日本橋の雑踏を進んでいくと、遂に最終の目的地、江戸日本橋に到着です。中山道69次を辿り巡って、街道の様々な風景を味わい、脳裏に刻みながら、すべての行程を終えることができました。*1

 

 日本橋は、江戸の初期から、街道の起点とされていたところです。太平洋側を通って京都を目指す東海道や、東北方面に向かう奥州街道なども、ここ日本橋が起終点。国内の主要な街道が集まる結節点となっているのです。

 このような、由緒ある橋でありながら、今は、首都高速の高架が橋の上部を横断しています。少し興ざめの景観で、残念な思いもありますが、都市化の勢いや時代の流れに逆らうことはできないのでしょう。

 往時の風景に思いを馳せつつ、69次の道中を胸にしまって、中山道の歩き旅を終えました。

 

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日本橋に到着。

 

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日本橋

 

 中山道の足跡

 

 中山道を歩き始めて3年半。ようやく69次を踏破することができました。歩いた日数は都合41日*2、その距離は、534Kmとされています。

 最初は、気楽なハイキングのつもりで歩き始めたものの、次第に街道歩きの魅力にはまり込み、やがて、全行程に挑戦することになりました。

 この間、色々なこともありましたが、終わってみれば、あれよあれよという間の出来事です。たくさんの思い出をしまい込み、また新たな歩き旅を始めます。

 

 ※お断り

 「旅素描~たびのスケッチ」は、次回から、少し趣を変えた記事を掲載させて頂きます。そして、その後に、中山道の総集編。特に、「歩き旅のスケッチ」シリーズで触れなかった、馬籠宿と妻籠宿を紹介するとともに、街道の見どころを横串で通して振り返りたいと思います。

 

*1:最後の区間、板橋宿から日本橋までは10Kmの道のりです。

*2:2015年10月~2019年5月の間。

歩き旅のスケッチ37・・・中山道、鴻巣宿から東京へ

 埼玉から東京へ

 

 中山道は、鴻巣宿を過ぎた後、上尾、大宮、浦和という、埼玉県の中心部に向かいます。駅近くには、マンションやビルが立ち並び、近代的に整備された街並みが続きます。大型の商業施設や、公共的な施設なども目立ってくると、人の往来も頻繁です。

 日本橋まで、残すところあとわずか。名残を惜しみながらの歩き旅です。

 

 6番桶川宿(おけがわじゅく)へ

 中山道は、この辺り、JR高崎線を右に見て、軌道と並行して延びていく、県道伝いを進みます。鴻巣の宿場を後にして、間もなくすると、高崎線北本駅。その先で、県道同士が交差する、広い交差点付近が本宿(もとじゅく)です。

 元々、本宿は宿場が設けられていたとのこと。地名の由来も納得です。

 県道の歩道をどんどん進むと桶川宿。幾つかの古い建物も目につきますが、全体的には街並みが整備され、昔の面影は薄まっています。ここまで、鴻巣宿から7Kmの道のりです。

 

 5番上尾宿、4番大宮宿へ

 桶川宿から上尾宿までは、わずかに3.5Kmです。県道を、そのまま、ほぼ真っ直ぐに南東に向かって進みます。上尾宿は、道標などで、ここがかつての宿場であったことを感じる程度。駅近くの街道は、マンションなどのビルが空間を埋め尽くしています。

 

 上尾宿の次は大宮宿です。街道は少し蛇行しながら、基本的にはJR高崎線に沿って南下していきます。途中、JR東北本線の高架の下を潜ると、左手は北大宮駅。街並みは、次第に都会の様相に変化します。

 街道の左手奥には、氷川神社とその参道があるようで、人の数も膨らみます。私たちが歩いた時期は、丁度、5月のゴールデンウイーク真っ盛り。大勢の人々で賑わっていました。

 大宮の宿場は、最早、都会の街の中。大宮駅近くにはビルが立ち並び、かつてこの宿場がどのような様子だったのか、窺い知ることはできません。

 大宮駅を右に見て、しばらく進むと、左手に朱塗りの鳥居が見えてきます。ここは、氷川神社の参道の入口です。鳥居の傍には、少しスペースがあって、道標や石碑、案内板などが並んでいました。*1

 

 3番浦和宿へ

 大宮を後にすると、道幅は急に広がります。それとともに、空間も一気に開けた感じで、新しい近代的な街が広がります。街道のすぐ右手には、さいたま新都心駅。その向こうには、さいたまスーパーアリーナの姿も見えました。

 思えば、かつては、大宮市と浦和市は別々の行政区域。それが今では、共にさいたま市です。さいたま新都心は、大宮と浦和の中間にあって、市の統合を象徴するかのように、新たに生まれた近代都市。首都圏における、存在感を誇示する姿のようにも見えました。

 

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さいたま新都心駅付近。 

 

 JR高崎線東北本線などの鉄道の動脈が、束のようになってつながるすぐ脇を、中山道は東京を目指して延びていきます。

 さいたま新都心を過ぎると、北浦和駅。その後、ちょっとした上り坂です。街道は、高架となって、鉄道をまたぐと、その先は、左手に軌道を見ながら浦和の街を南下です。

 やがて道筋が、再びビルに囲まれた街中に入ると、浦和宿。浦和の宿場は、大宮宿と同様に、宿場町の面影を感じるところはありません。道標や、奥まったところにひっそりと佇む寺院のみが、歴史の香りを漂わせています。

 浦和は、街道筋の印象だけで比べると、大宮とは、少し規模が小さく感じます。人通りも、何となく少ない様子です。

 

 2番蕨宿(わらびじゅく)へ

 浦和宿を過ぎると、住宅地の中を縫うように進んでいきます。街道は、蛇行しながらも、時折、交差点を折れ曲がる道。位置を確認しながら、地図に従って歩きます。

 街中を抜けて、久しぶりに国道17号と出会うと、国道を横断です。その先に、国道を迂回するように、1Kmほど、弓型になって回り込んでいる道筋が、蕨の宿場です。

 

 蕨宿は、街道の雰囲気が感じられる道筋です。幾つかの建物は、宿場町風に整備され、街道沿いの歩道には、中山道69次のタイルが、等間隔にはめ込まれています。

 江戸を目前にした宿場町。今も、往時の様子を伝えようとされている、地元の方々の熱意が感じられるところです。

 

 東京へ

 弓なりに国道を迂回している街道は、蕨宿の出口で国道17号に吸収されます。その先は、主に国道伝いに歩きます。

 やがて、荒川に近づくと、一旦、左手の細い住宅地の路地に入り込み、荒川の堤防に上がります。そして、荒川に架かる戸田橋へ。広大な川幅を有する荒川を、戸田橋で横断です。

 

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※荒川の横断。その先は東京です。

 

 中山道は、いよいよ東京都に入ります。荒川を渡り終えたところは、東京都北区。次の宿場は、日本橋に向かう最後の宿場。京の都を目指す人にとっては最初の宿場の板橋宿です。

 上尾、大宮間は8Km。大宮、浦和間は5Km。そして、浦和、蕨間が5.5Kmの道のりです。残すところ、あとわずか。板橋を経て、巣鴨、本郷、神田などを歩き進んで、最終の目的地、日本橋に向かいます。

*2

*1:この入口は、神社からは1Km以上離れていているでしょうか。結構長い参道の様子です。神社は、進行方向から見ると、左手後方です。今回はは、参詣を諦めて、先を急ぐことにしました。

*2:私たちは、最後の中山道深谷宿から、4日をかけて、およそ60Kmの道のりを進みました。この後、蕨宿と板橋宿間は9Km。そして、板橋宿から日本橋間は、10Kmの道のりです。