これまで、北海道の歴史や文化について学んだことは、ほとんどありません。学校の歴史の授業でも、江戸期の松前藩の存在や、アイヌ民族の文化など、僅かに触れた程度です。
ましてや、道東のオホーツク海を臨む土地。どんな人が暮らし、どのような土地だったのか、想像すら、したことはありませんでした。
散策途中に偶然見かけた、網走川の河口付近に佇む、金田一京助博士の歌碑。そして、網走駅前に構える、モヨロ人の像。俄かに、オホーツクの文化に、思いを馳せることになりました。
歌碑
昨年末に他界された、叔父の弔いのために訪れた網走のまち。朝、網走川から海岸方面を散策した時に、少し気になる歌碑が目につきました。
その歌碑は、金田一京助博士が詠まれたもの。歌碑の横には、「オホーツク文化の代表的な遺跡、モヨロ貝塚」での発掘にあたり、この歌が詠まれたとの案内がありました。
その歌は、
”おふつく能 もよろ能 うら能 夕凪に いに志よしのび 君とたつかな”
もとより、モヨロという名を目にしたのは初めてのこと。オホーツク文化という響きにも、何となくロマンを感じたものでした。
歌碑から、少し歩き進むと、左手の小高い丘に、モヨロ貝塚の遺跡と貝塚館の施設が見えました。時間があれば、訪れてみたいと思いながらも、足早に、北の海が広がる海岸へ。流氷が押し寄せてきそうな、荒涼とした海の風景を味わいました。
※金田一京助博士の歌碑。
モヨロ人の像
朝の散策を終えた後、私たちは、網走郊外の叔父の家に向かうため、滞在していたホテルから網走駅に向かいました。
空の色は、どんよりとした鉛色。天気予報では、夕方あたりから、雪が舞うと告げています。暖冬で、雪のない駅前付近。それでも、人の姿はほとんどありません。冷えびえとした空気の中で、動きが止まったような街の中。寒さが、さらに助長される景色です。
網走駅に着いたとき、先ず目に飛び込んできたのが、モヨロ人の像。険しい顔で、右手に銛(もり)を振りかざすその姿は、勇壮そのものです。
朝の散策で初めて知った、モヨロという言葉。オホーツク文化を築いたとされるモヨロ人。その姿を追いかけてみたくなりました。
※網走駅とモヨロ人の像(写真左)。
今回の旅の目的である、叔父の遺影との再会を果たした後、私たちは、能取湖を訪れました。*2
そしてその後、朝の散策で立ち寄れなかった、モヨロ貝塚館へ。
この施設は、網走市の運営で、市立郷土博物館の分館となっているようです。この日の朝、初めて知った、モヨロの言葉に引き付けられての訪問です。
貝塚館は、モヨロ遺跡*3の敷地内に建てられています。見た目は、2階建ての小さな建物ですが、地下を含むと3フロアでの展示です。
※モヨロ遺跡。
この貝塚館で初めて知ることとなった、オホーツク文化。5世紀から11世紀ぐらいのおよそ500年間に、オホーツク海を介して広がった人々の営みの足跡です。
本州では、古墳時代から平安時代に相当するようですが、その時代に、北の地域でも独自の文化が花咲いていたということです。
元より、自然厳しい北の土地。農耕が広がった本州とは違い、アザラシやクジラなどの海獣の狩猟に長けていて、優れた航海術を持ち合わせていたとのこと。ユーラシア大陸のアムール川の流域や、サハリンなどの文化とも関連すると言われています。
イヌイットなどの北方の民族が、北の大陸を移動して広がっていったことは、どこかで耳にしたことはありますが、オホーツクでも、同様のことが起こっていたのでしょうか。ただ、モヨロ人たちは、いつの日かその姿を消し、彼らの営みの一端は、アイヌの人々に受け継がれたとも言われています。
※モヨロ貝塚館の展示。
米村喜男衛(よねむらきおえ)という方が、網走川の河口近くで、貝塚や石器などを発見されたのは、大正時代。その後、現地で発掘が進められ、ムラの跡やお墓など、人々の暮らしの様子が明らかになってきたようです。
金田一京助博士が詠った中の、最後の言葉、「君とたつかな」の、”君”は、この、米村喜男衛氏のことだとされています。*4
これまで、知ることのなかったオホーツク文化。大陸の東の端に位置する日本という国は、中国や朝鮮半島とのつながりだけでなく、厳寒のシベリアなどとも、深いつながりがあったということを、今更ながら学ぶことができました。
昨年急逝された、叔父の遺影との出会い旅。思いもよらず、モヨロ人とオホーツク文化との出会いにも導かれることになりました。
貝塚館を出た時は、辺りはもう真っ暗。気温は下がり、凍てつくような空気です。
翌朝は、ついに雪景色。12月中旬の網走を真っ白に包み込んでいきました。
※雪の網走。