旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

出会い旅のスケッチ5・・・ドクター・ミヤザキ(中編)

 リルーエットにて

 

 バンクーバーから、およそ250Km。深い山の中に佇む小さな町、リルーエット。フレーザー川と、針葉樹が広がる山々の恵みを受けて、今も人々の息吹が広がります。

 「私は、この町が大好きです」と、笑顔で話してくれたのは、町中のモーテルで受付をしてくれた若い女の子。こんなに暮らしやすいところはありません、と、町への愛着を語ってくれました。

 都会とは随分と異なる環境の中。それでも、若者を引き付ける、豊かな何かがあるのでしょう。私たちは、この山間の町で、1泊2日の短い滞在を楽しみました。

 

 Miyazaki House(ミヤザキ・ハウス)

 リルーエットへの旅の目的は、ミヤザキ・ハウスを訪ねること。ドクター・ミヤザキが、地域医療の拠点としていた邸宅です。

 数年前、機会があって、ドクター・ミヤザキのことを知り、いつか訪ねてみたい場所でした。

 チェックインしたモーテルの受付で、ミヤザキ・ハウスへの行き方を訪ねると、「このホテルのすぐ裏よ」と、気さくに教えてくれました。*1モーテルの予約時に、およその位置関係は把握していましたが、目と鼻の先とは、思いもよらないことでした。

 

 私たちは、部屋に荷物を下ろした後、早速、モーテルの裏口へ。ドアを開けると、右前方に、西洋風の立派な邸宅が見えました。

 

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※モーテルのすぐ裏から見た、ミヤザキ・ハウス。

 

 建物は、薄緑色の屋根と窓の庇に特徴がある造りです。玄関に上がる階段の両脇には植栽が施され、屋敷の美しさを引き立てています。

 

 この邸宅は、もともと、ゴールドラッシュで富を成した人により、1880年代に建てられたとのこと。後に、そのオーナーの息子が、医師のいなかったこの地域に、ミヤザキ医師を迎え入れるために手放すことを申し出て、ミヤザキ医師の手に渡ったということです。

 

 ドクター・ミヤザキとリルーエット

 ここで、ドクター・ミヤザキがリルーエットに住居を構えることになったいきさつについて、簡単に触れておかなければなりません。

 ドクター・ミヤザキこと宮崎政次郎氏は、1899年に、日本のある地方の村で誕生しました。*2政次郎氏の父親は、日本からカナダに渡った日系移民。幼少の頃、日本で育った政次郎氏は、父親の勧めもあって、10代半ばでカナダに渡ります。

 その後、バンクーバーで暮らしつつ、苦学を重ねて大学を卒業。さらに、アメリカで医師の資格を取得されました。

 

 しばらく、バンクーバーで医業を行っていた宮崎医師。しかし、世の中は、戦争へと突き進んでいくのです。

 第2次世界大戦は、1941年12月、真珠湾攻撃を契機として大きく世界を動かします。カナダも、翌1942年に、日本に対して宣戦布告。当時、バンクーバーを含むブリティッシュコロンビア州だけでも、2万人以上いたとされる日系カナダ人は、西海岸から100マイル以上離れた内陸に、移動させられることになったのです。

 

 この政策により、リルーエットの地域には、日系人を隔離する4つの収容所施設が設けられました。そして、宮崎医師もリルーエットへ。

 

 時は流れ、第2次世界大戦が終結したのは、1945年。前述したように、地域の熱い願いを受けて、宮崎医師がこの邸宅を入手することになったのです。

 

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※ドクター・ミヤザキやミヤザキ・ハウスのことについては、地元のガイドブックにも記されています。

 

 ドクター・ミヤザキの活躍

 邸宅を入手後、ミヤザキ医師は、1階部分の1室を診察室に改造し、医療活動を続けます。そして、自然厳しいリルーエットの地で、地域医療に尽力されました。*3

 さらに、1950年には、地元議員にも選出され、様々な貢献を重ねられたということです。その結果、1977年にカナダ勲章を授与。1984年に生涯を閉じられてもなお、この邸宅は、ミヤザキ・ハウスとして地域に愛され、リルーエットのランドマークとして親しまれているのです。

 

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※左、屋敷前の案内板。右、屋敷の北側から。広い芝生の庭も見えます。
 

 屋敷の周辺

 邸宅の正面に進んで、アプローチの階段前から見上げると、何とも歴史を感じる建物です。正面に向かって右側には、広い芝生の庭が広がっていました。

 かつて、アメリカンドリームの典型と言われたような、白い木造りのフェンスが、屋敷の周りを取り巻いていて、その一角には、”The Story of Miyazaki Heritage House”の案内版がありました。

 ミヤザキ・ハウスは、記念館のようになっていて、中に入ることも可能です。また、定期的に、イベントなども開催されている様子です。

 

 ミヤザキ・ハウスの中へ

 私たちは、正面の階段を上って玄関へ。玄関ドアは、ガラス越しに少し中も覗けます。ドアを引いて様子を見ていると、奥から1人の年配女性が現れました。

 「中を見せて頂けますか?」と尋ねると、快く招き入れてくれました。

 「どこから来たの?」と問われ、日本からだと伝えると、少し驚かれた様子。是非、来訪者の記帳をしていくように、と、促されました。*4

 簡単に、部屋の配置を説明して頂いた後は、自由に見学です。リルーエットで活躍された、ドクター・ミヤザキの功績を想い描きながら、隅々まで、拝見させて頂くことができました。 

 

*1:私たちが宿泊したモーテルは、ホテルデオロ(Hotel Deoro)というところです。

*2:今は、滋賀県彦根市になっています。

*3:ドクター・ミヤザキの地域医療の活躍や、地域貢献の様子は、「国際文化研究への道」(彩流社)という書物に記されています。

*4:ちなみに、入館料は不要です。