間の宿
間の宿(あいのしゅく)は、宿場と宿場の間に設けられた休憩地。宿場間の道中が長い場合や、川を渡るための調整機能などとして、宿場に近い機能を持たせた町が必要だったということです。
中山道を歩くまで、この言葉自体、聞いたことはありません。歩みを進めていく中で、幾つかの宿場町のような集落を通り過ぎ、案内板などの説明で、間の宿の存在を知ることになったのです。
解説書などによると、幕府公認の宿場のみに、旅籠の設置が認められていたために、間の宿では、宿泊をすることが原則として禁止されていたということです。
それでも、今も残る間の宿の幾つかは、単なる休憩所と言うよりも、旅籠自体が存在していたのではないかと思えるような町構え。中には、今残る宿場町より立派なところもありました。
今回とその次は、2回にわたって、中山道の「間の宿」の魅力をお伝えします。
近江路、美濃路の間の宿
近江路と美濃路の中で、今でもはっきりと、間の宿と分かるところは、ほとんど無いと言っていいでしょう。特に近江路では、65番愛知川宿と64番高宮宿の間に位置する豊郷(とよさと)町の石畑という集落が、僅かにその痕跡を残している程度です。
<石畑>
豊郷は、彦根市の南東にある小さな町。中山道は、町の中央を縦断するように延びています。街道沿いには、ところどころに旧家も見られ、古くから沿道伝いに町が広がっていった様子です。
近江商人を輩出したところとしても知らるこの町には、伊藤忠兵衛記念館などもありました。
ただ、この町が、間の宿であったということは、町を見ただけでは分かりません。街道筋に往時の面影がかすかに残ってはいるものの、全体的には普通の集落といってよいでしょう。
間の宿を確認できる証は、街道途中の八幡宮入口にある小さな石碑。石畑の一里塚跡のすぐ横にあるその石碑には、「石畑(間の宿)」と刻まれているのです。
前後の宿場町である、愛知川宿と高宮宿は、およそ8Km離れています。この距離は、それほど長い区間ではありません。そんなところに、どうして間の宿が設けられたのか、定かではないものの、少し興味をそそられます。
<新加納>
岐阜市の南、53番加納宿を出て東に進むと、次の宿場、鵜沼宿まで16Kmを超える長丁場。この長距離区間の途中にあるのが、間の宿、新加納*1です。
美濃路では、揖斐川や長良川を渡るため、ここまでの宿場の間隔は、短い距離で刻まれます。ところが一転、加納・鵜沼間は四里十町に及ぶ行程に。この長距離区間の負担を癒すのが、間の宿という訳です。
新加納は、岐阜市の西方、各務原市に入ったところに位置します。名鉄新加納駅を過ぎ、少し急な坂道を上った先にある町です。
この町は、宿場町と比べると、それほど大きく感じませんが、往時は結構賑わっていた様子です。古い家並みや、間の宿の案内板も掲げられ、宿場に近い面影が味わえる道筋です。
案内板の記述には、「皇女和宮の降嫁の際にも休息所とされた新加納は、正規の宿場ではないとは言え、長すぎる鵜沼宿と加納宿の、ちょうど中間に位置することや、小規模ながらも旗本・坪内氏の城下町的な意義を持つことなどからも、中山道の「間の宿」として栄えていたのである。」と記されています。
※新加納の町。
木曽路の間の宿
木曽路には、幾つかの、それと分かる間の宿が見られます。成り立ちは、大きく分けて2つの理由がありそうです。そのひとつは、山間を進む道中で、旅の負担を軽くするための休憩所が必要であったこと。2つ目に、限られた宿場町を補完する場所が求められたということです。
ただあくまでも、これらの理由は、私自身の考え方。歴史的には、様々な変遷を辿りながら、それぞれの間の宿が位置付けられたことでしょう。
<大妻籠>
木曽路最初の間の宿は、大妻籠(おおつまご)。重要伝統的建造物群保存地区として名高い妻籠宿のすぐ南に位置する集落です。
大妻籠自身も、保存地区の中に組み込まれ、宿場町としての姿が良く残っているところです。
この間の宿は、妻籠宿とそれほど距離は離れていなく、恐らく、妻籠の補完的な役割があったのではないかと思います。規模自体は、それほど大きくはなく、妻籠と一体となって宿場の機能を果たしていたことでしょう。
<大桑>
大桑は、40番野尻宿と39番須原宿の間の集落です。木曽路のまん中辺りにあって、山々に囲まれながら、木曽川沿いに僅かに開けた小さな盆地に佇みます。宿場間は、7Kmほどの距離ですが、大桑は、そのほぼ中間。野尻方面から来ると、丁度、木曽川を避けるように、山道に入る直前の集落です。
野尻の宿を後にして、木曽川に沿った国道19号線を歩いた後、大桑駅の寸前で、右方向の旧道に入ったところが間の宿。ここは、大桑村の中心地となっていて、村役場もありました。
間の宿の前後の宿場、野尻と須原も大桑村の集落です。2つの宿場町が、村のはずれにある中で、宿場町の狭間にある、間の宿の大桑が、村の中心という構図です。少し不思議な気がするものの、大桑は歴史を背負って今日を迎えているのでしょう。
この間の宿は、今では、往時の面影はあまり残ってはいないものの、街道筋は何かしら懐かしさを感じるところです。少し古びた家並みや、蛇行する街道筋は、旅情をそそる風景です。
※大桑。前方は山道へと向かいます。
<原野>
37番福島宿と36番宮ノ腰宿の間にあるのが原野です。この集落は、中山道の中間地点のすぐ側にあり、何となく、ロマンを感じてしまうところです。都へも、江戸へも等距離というこの場所は、古くから、街道の目印ともなっていたことでしょう。
今では、特に目立った建物などは少ないものの、街道筋に連なる家並みは、どこか情緒を感じます。
この街道を北に向かったところが宮ノ腰。宿場町ではあるものの、木曽義仲にゆかりがあるところです。
※原野。
木曽路には、この他にも、間の宿と思えるところが何か所か見られます。そうした集落は、あるいは、間の宿より規模の小さな、それこそ休憩所のような位置づけだったのかも知れません。
今では、街道沿いの集落として、ひっそりと佇んでいるのです。