要衝の地を歩く
関ヶ原と言えば、天下分け目の合戦が繰り広げられたところです。この辺りは、北から伊吹の山並みが迫り、南からは鈴鹿山系が延びていて、その隙間を通り抜けるように、中山道が通過しています。
地理的にも、日本の東西を区切る場所。砂時計のくびれのように、人の流れはここに集まり、東に西に行き交います。
59番今須宿
長久寺の集落で美濃の国に入った中山道は、国道21号を横切って今須宿に入ります。この宿場町は、国道と並行して、ほぼ真っ直ぐに延びています。町の様子は、普通の集落そのもので、宿場の面影はほとんどありません。
※今須宿の入口
町中は住宅が主体で、小さなお店、農協などの支店が散らばっています。
町筋の後半にある、本陣跡の石碑と案内板や、その他のわずかな意匠が、ここが宿場町であった記憶を何とか留めようとしています。
※今須宿の様子。
今須宿から不破関(ふわのせき)へ
今須宿から関ヶ原宿間は、交通の要衝の地。そして、戦国時代の幕を閉じる、関ヶ原の合戦が繰り広げられたところです。さらに、遠く古代の歴史では、天智天皇の後継を争い、大友皇子と大海人皇子が争った、壬申の乱(じんしんのらん)*1の戦地でもありました。
このように、日本の運命を左右する重要な歴史の舞台の中を、今も中山道は、静かに人の歩みを受け入れています。
※今須宿の出口。車道は国道21号線。
今須宿を出ると、すぐに国道21号に合流します。少しだけ、国道を歩いて、その後は国道を横断して、左側の山裾の旧道に入ります。山の隙間を通り抜け、途中、JR東海道本線と並行して歩くと、山里のようなのどかな集落が見えてきました。
常盤御前(ときわごぜん)
不破関を目指して先を急いでいると、左手の道端に「常盤地蔵」が静かに佇んでいました。案内板をよく見ると、源頼朝や義経の母、常盤御前にゆかりの地蔵ということです。思わず手を合わせ、故人を偲びました。
さらに、地蔵から少し進むと、今度は、常盤御前の墓所の案内です。これは見逃す手はないと、少しだけ脇道に入り込むと、そこには、小さな公園があり、その一角に常盤御前のお墓がひっそりと鎮座していました。墓周りはよく手入れされていて、今も地域の方々が丁寧にお守をされている様子です。
鎌倉幕府の頂点に立った武将の母が、この地に眠っておられることなど、ここを歩くまでは思いもよらないことであり、驚きと感動のひと時でした。
常盤御前の墓所を出て、新幹線の高架下を進むと、左手は深い山になります。その山中に、関ヶ原の戦いの砦跡などがあるようです。そして、西軍の石田三成の盟友として戦い、憤死した、敦賀の大谷吉継の墓所への案内がありました。*2
山間の道を抜けると、再び国道に出ます。そして、歩道橋を渡って国道の反対側、東に続く旧道に。
不破関
旧道を進み、丘に登るような坂道をゆっくりと上って行くと、右手に不破関跡が現れます。この付近には資料館などもあるようですが、街道沿いの関守址に立ち寄って、関ヶ原宿へと向かいました。
不破関は、壬申の乱の後に設けられた関所跡。この関所は、東西の人の行き来を監視して、西にある、権力の中枢地域を守る役割を果たしていたとのこと。
長い年月を積み重ね、今もその役割が語り継がれているのです。
※左、左側の坂道を上って、手前方向の不破関守址へ。右、不破関守址。
58番関ヶ原宿
不破関を過ぎると、関ヶ原の町に入ります。少し広めの街道沿いには、住宅がはり付いているものの、宿場町の面影はありません。その後は、国道21号線。国道沿いが宿場だった様子です。
そのためか、ところどころにその名残が感じられますが、国道となってしまっては、最早、多くを望むことはできません。かつての宿場の様子を思い描きながら、自動車やトラックがすり抜けていく車道の脇を進みます。
途中、国道から左に少し入ったところには、JR東海道本線の関ヶ原駅です。柏原宿にある、柏原駅から8Km。醒ヶ井駅からは14Kmの道のりです。
関ヶ原は、宿場自体は随分と様子が変わってしまっています。この後、信濃路最後の沓掛宿や軽井沢宿、あるいは、上州路や武州路の多くの宿場町のように、幹線道路に飲み込まれ、かつての面影を感じることはできません。
このこと自体は、残念でもありますが、今となっては仕方のないこと。それでも、中山道は途切れることなく続いています。
関ヶ原と言えば、何と言っても天下分け目の合戦です。今も、小高い丘の上などに、武将達が築いた砦跡などを偲ぶことができるようです。雌雄を決する戦いが行われた土地に思いを馳せながら、垂井の宿場を目指して美濃路の街道を進みます。