旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ18・・・中山道、今須宿から関ヶ原宿へ

 要衝の地を歩く

 

 関ヶ原と言えば、天下分け目の合戦が繰り広げられたところです。この辺りは、北から伊吹の山並みが迫り、南からは鈴鹿山系が延びていて、その隙間を通り抜けるように、中山道が通過しています。

 地理的にも、日本の東西を区切る場所。砂時計のくびれのように、人の流れはここに集まり、東に西に行き交います。

 

 59番今須宿

 長久寺の集落で美濃の国に入った中山道は、国道21号を横切って今須宿に入ります。この宿場町は、国道と並行して、ほぼ真っ直ぐに延びています。町の様子は、普通の集落そのもので、宿場の面影はほとんどありません。

 

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※今須宿の入口

 

 町中は住宅が主体で、小さなお店、農協などの支店が散らばっています。

 町筋の後半にある、本陣跡の石碑と案内板や、その他のわずかな意匠が、ここが宿場町であった記憶を何とか留めようとしています。

 

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※今須宿の様子。

 

 今須宿から不破関(ふわのせき)へ

 今須宿から関ヶ原宿間は、交通の要衝の地。そして、戦国時代の幕を閉じる、関ヶ原の合戦が繰り広げられたところです。さらに、遠く古代の歴史では、天智天皇の後継を争い、大友皇子大海人皇子が争った、壬申の乱(じんしんのらん)*1の戦地でもありました。

 このように、日本の運命を左右する重要な歴史の舞台の中を、今も中山道は、静かに人の歩みを受け入れています。

 

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 ※今須宿の出口。車道は国道21号線

 

 今須宿を出ると、すぐに国道21号に合流します。少しだけ、国道を歩いて、その後は国道を横断して、左側の山裾の旧道に入ります。山の隙間を通り抜け、途中、JR東海道本線と並行して歩くと、山里のようなのどかな集落が見えてきました。

 

 常盤御前(ときわごぜん)

 不破関を目指して先を急いでいると、左手の道端に「常盤地蔵」が静かに佇んでいました。案内板をよく見ると、源頼朝義経の母、常盤御前にゆかりの地蔵ということです。思わず手を合わせ、故人を偲びました。

 さらに、地蔵から少し進むと、今度は、常盤御前墓所の案内です。これは見逃す手はないと、少しだけ脇道に入り込むと、そこには、小さな公園があり、その一角に常盤御前のお墓がひっそりと鎮座していました。墓周りはよく手入れされていて、今も地域の方々が丁寧にお守をされている様子です。

 鎌倉幕府の頂点に立った武将の母が、この地に眠っておられることなど、ここを歩くまでは思いもよらないことであり、驚きと感動のひと時でした。

 

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※左、常盤地蔵。右、常盤御前墓所

 

 常盤御前墓所を出て、新幹線の高架下を進むと、左手は深い山になります。その山中に、関ヶ原の戦いの砦跡などがあるようです。そして、西軍の石田三成の盟友として戦い、憤死した、敦賀大谷吉継墓所への案内がありました。*2

 山間の道を抜けると、再び国道に出ます。そして、歩道橋を渡って国道の反対側、東に続く旧道に。

 

 不破関
 旧道を進み、丘に登るような坂道をゆっくりと上って行くと、右手に不破関跡が現れます。この付近には資料館などもあるようですが、街道沿いの関守址に立ち寄って、関ヶ原宿へと向かいました。

 不破関は、壬申の乱の後に設けられた関所跡。この関所は、東西の人の行き来を監視して、西にある、権力の中枢地域を守る役割を果たしていたとのこと。

 長い年月を積み重ね、今もその役割が語り継がれているのです。

 

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※左、左側の坂道を上って、手前方向の不破関守址へ。右、不破関守址。

 

 58番関ヶ原宿

 不破関を過ぎると、関ヶ原の町に入ります。少し広めの街道沿いには、住宅がはり付いているものの、宿場町の面影はありません。その後は、国道21号線。国道沿いが宿場だった様子です。

 そのためか、ところどころにその名残が感じられますが、国道となってしまっては、最早、多くを望むことはできません。かつての宿場の様子を思い描きながら、自動車やトラックがすり抜けていく車道の脇を進みます。

 途中、国道から左に少し入ったところには、JR東海道本線の関ヶ原駅です。柏原宿にある、柏原駅から8Km。醒ヶ井駅からは14Kmの道のりです。

 

 関ヶ原

 関ヶ原は、宿場自体は随分と様子が変わってしまっています。この後、信濃路最後の沓掛宿や軽井沢宿、あるいは、上州路や武州路の多くの宿場町のように、幹線道路に飲み込まれ、かつての面影を感じることはできません。

 このこと自体は、残念でもありますが、今となっては仕方のないこと。それでも、中山道は途切れることなく続いています。

 

 関ヶ原と言えば、何と言っても天下分け目の合戦です。今も、小高い丘の上などに、武将達が築いた砦跡などを偲ぶことができるようです。雌雄を決する戦いが行われた土地に思いを馳せながら、垂井の宿場を目指して美濃路の街道を進みます。

 

 

*1:壬申の乱は、672年に起きた、日本でも有数の内戦とされています。天智天皇の後を継いだ大友皇子天智天皇の弟である大海人皇子が後継を戦い、大海人皇子が勝利して天武天皇になったとのこと。

*2:大谷吉継墓所までは、少し山中を上って行かなければならないようです。