近江路を越え、美濃へ
中山道の近江路と美濃路の境は、はっきりとしていないのかも知れません。ある書物によると、岐阜県の今須宿までが近江路で、関ヶ原宿から美濃路に区分されています。これは、今須宿と関ヶ原宿の間にある、不破関(ふわのせき)辺りを境界としているように思えます。
ただ、元々、近江と美濃の境は、柏原宿と今須宿の間にある、長久寺という集落です。この集落の東のはずれに、「寝物語の里」と呼ばれるところがあり、ここに国境(くにざかい)、つまり、今の県境があるのです。
近江路最後の宿場、柏原宿。そして、美濃路へと向かいます。
60番柏原宿(かしわばらじゅく)に到着
醒井宿から6Km、山裾に沿って蛇行する街道を進んでいくと、柏原宿の入口に到着です。この宿場は、入り口から宿場町の雰囲気が漂っています。
歩き旅のスケッチ16で記したように、近江路最後の2つの宿場は、現在の中山道に残る宿場の中でも、特筆すべきところです。木曽路ほどの華やかさはありませんが、静かで落ち着いた、歴史の風情が残っています。
※左、柏原宿へのアクセス。右、宿場の入口。案内看板と石碑が置かれています。
柏原宿
柏原の一里塚跡を右手に見て、宿場の入口に架かる小さな橋を渡ると町の中に入ります。家並みは、歴史を感じさせる建物が多く残り、玄関付近には、ところどころに往時の屋号や商売の種類を表す木札が掛けられています。
街道には、歴史館や高札場跡など、宿場の歴史と面影を残す施設などが数多く配置されています。また、老舗の由緒ある看板が、趣ある建物に掲げられている光景も見かけます。
柏原は、宿場町全体が、その歴史を後世に伝えようと努力されている様子です。
※左、柏原銀行跡。(もちろん、明治の建物跡です。)右、宿場中央付近。
宿場の中ほどの左手には、柏原の駅があります。ここは、JR東海道本線が大垣や岐阜方面に向かう途中で、米原駅からは3つ目の駅となります。醒井と同じように、鉄道を利用して訪れることもできるため、中山道を少しずつ刻みながら歩く者にとっては、本当に便利なところです。
宿場の入口付近は、街道は少し蛇行していましたが、途中から、道は真っ直ぐに東に向かって延びていきます。この、延々と続く宿場町は、1Km以上に及ぶ規模。立派な宿場だったことでしょう。
途中、左手にある本陣跡には、皇女和宮一行が宿泊したことを知らせる石碑がありました。この碑の側面には、10月24日*1に柏原宿で、翌日は、美濃の国の赤坂宿*2に宿をとったと記されています。
※左側が本陣跡。
近江路から美濃路へ
趣ある宿場の風情を楽しみながら、一路東へと向かいます。やがて、宿場から離れ、民家もまばらになっていきます。
右には国道21号が走り、左はJR東海道本線の踏切です。中山道は、この踏切を渡ってすぐ右へ。再び、左手に森を見ながら、山裾の道を歩くことになります。
間もなく、大きな一つ岩の中山道の案内が見えてきました。立派な岩のモニュメントで、中山道が地元の誇りになっている様子が伺えます。
※中山道の案内。
寝物語の里、長久寺
のどかな道を進んでいくと、ひとつの集落が現れます。ここは宿場町ではありませんが、その昔は、旅籠などもあったのでしょう。「寝物語の里」として知られる集落です。
この集落のはずれには、今も数十センチ幅の小さな水路*3が、街道と直角に走っています。まさにこの水路が、滋賀県と岐阜県の県境。かつては、近江と美濃の国境だったのです。
※国境には、今も水路が残り、県境を印す杭が打ち付けられています。また、寝物語の石碑などもありました。
私が、寝物語の言い伝えを知ったのは、司馬遼太郎の「街道をゆく」を読んだ時のことでした。そんなところがあるのか、と、その時以来一度は訪れてみたい場所でした。
かつて、水路を挟んで、住居か旅籠が隣同士に建っていたようです。それぞれの建物内で夜を明かす二人が、国境を挟んだ壁越しに話をしたという、ミステリーなのか、ロマンなのか、そんな話が語り継がれてきたところです。*4
美濃路へ
寝物語の里を越えると、美濃の国。ここから美濃路が始まります。国境から目と鼻の先のところには、街道の左手に芭蕉の石碑など、幾つかの碑が並んでいます。そして、少し進むと国道21号線。そこを横断し、旧道を進んで今須の宿場に近づきます。
※左、芭蕉の石碑など。右、今須宿への道。
長久寺や今須には、鉄道の駅はありません。公共交通機関を利用するためには、関ヶ原まで行く必要があるのですが、柏原宿と今須宿間、そして、今須宿と関ヶ原宿間はどちらもおよそ4Km。醒井宿を含めて、この辺りは、それほど負担のない行程を組むことができる区間です。