旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

旅のスケッチ・・・インデックス2

 ふり返り

 

 前回と今回は、「旅素描〜たびのスケッチ」の、これまでのブログをふり返り、記事の整理をしています。その理由は、掲載してきたブログの数が200を超えて、ある程度の集約の必要性を感じたため、ということです。私自身も、いつ、どんなブログを書いたのか、次第に分かりにくくなってきた、ということが、本当のところでしょうか。

 そういう訳で、読者の皆様には、煩わしい内容ではありますが、お付き合い頂ければと思います。

 次回からは、また、元にかえって、旅のブログを綴ります。

 

 今後の予定は、「歩き旅のスケッチ」の熊野古道シリーズを10回ほどお届けし、「出会い旅のスケッチ」として、太宰治津軽半島、そして、下北の風景を、数回のシリーズで綴ります。

 その後、「歩き旅のスケッチ[東海道]」の最終章。伊豆三島から、箱根を越えて、江戸日本橋を目指します。

 

 

2020年2月

 出会い旅のスケッチ」

 出会い旅のスケッチの第2回目は、カナダのブリティッシュ・コロンビア州の山間にある小さな町、リルーエットの訪問記。この町を拠点として活躍された、ドクター・ミヤザキの痕跡を追った旅の記録です。そして、私たちがアメリカで拠点としていたアラメダの隣街、オークランドが誇る作家、ジャック・ロンドンの面影を綴ります。

  「出会い旅のスケッチ4~8」

      カナダ、アメリカ(ドクター・ミヤザキ、ジャック・ロンドン

 

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※左、カナダ、リルーエットの街の入口。右、カリフォルニア州オークランドのジャックロンドン像。

 

2020年3月~4月

 歩き旅のスケッチ」

 中山道の歩き旅は、38回にわたってブログを綴ってきましたが、ここでは、特に印象強かった幾つかの観点から、街道の魅力をふり返ります。

  「歩き旅のスケッチ[中山道総集編]1~12」

      中山道(馬籠と妻籠、宿場町、峠道、間の宿、街道筋)

 

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※左、中山道醒ヶ井宿。右、木曽路

 

2020年4月

 歩き旅のスケッチ」

 中山道のブログの索引です。

  「歩き旅のスケッチ(中山道シリーズの索引)」

      中山道中山道シリーズの索引を掲載)

 

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※左、馬籠宿。右、鳥居峠付近から藪原宿を見下ろします。

 

2020年9月~12月

 巡り旅のスケッチ」

 初めての「巡り旅」シリーズは、四国88か所の巡拝です。空海が命を授かり、修行に専念した四国の地。閏年に、逆打ちと呼ばれる反対回りで、巡礼の地を巡り歩いた記録です。讃岐の国、88番大窪寺から、南予の地にある、40番観自在寺まで、前編のシリーズです。

  「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)1~28」

      四国(讃岐路、伊予路)

 

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※左、大窪寺の大師像。右、石手寺

 

2020年12月~2021年5月

 歩き旅のスケッチ」

 歩き旅は、いよいよ江戸期の最重要街道である、東海道に踏み入ります。街道は、開発の波に飲まれて、自動車道路が中心と想像していましたが、昔からの旧道も、まだ何か所も残っているのに驚きました。第1章では、近江、草津の追分から、鈴鹿の峠、七里の渡しを通過して、三河路の二川宿までの行程を綴ります。

  「歩き旅のスケッチ[東海道]1~37」

      東海道(近江路、伊勢路尾張路、三河路)

 

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2021年5月~7月

 巡り旅のスケッチ」

 四国88か所の巡り旅の後編です。土佐の国から阿波の国へ。空海の修行の地を追うことも、この区間の巡拝の魅力です。

  「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)29~51」

      四国(土佐路、阿波路)

 

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※左、足摺岬金剛福寺。右、空海が明星を得た室戸岬

 

2021年7月~8月

 巡り旅のスケッチ」

 巡り旅のスケッチ(四国巡拝)の番外として、空海真言密教の布教に努めた京の寺、神護寺と乙訓寺を訪れます。

  「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)52、53」

      京の2寺(神護寺、乙訓寺)

 

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※左、神護寺参道。右、乙訓寺。

 

2020年8月~2022年1月

 歩き旅のスケッチ」

 東海道シリーズの第2章、今の静岡県区間を歩きます。浜名湖や富士山は、第一級の見所ですが、小夜の中山峠や宇津ノ谷峠、薩埵峠の山道も、歩き旅の魅力です。名物を味わいながら、箱根道に近づきます。

  「歩き旅のスケッチ[東海道]38~82」

      東海道遠州路、駿河路、伊豆路)

 

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※左、舞阪の松並木。右、薩埵峠。

 

旅のスケッチ・・・インデックス1

 ふり返り

 

 「soranokori」がお届けしている「旅素描〜たびのスケッチ」。これまでに掲載してきたブログの数は、200を超えるまでになりました。読者の皆様には、根気強くアクセスして頂き、感謝の言葉もありません。

 私のブログは、気ままな旅の情景を、思うままに書きとめているため、自己中心の記事になりがちです。さらに、不統一な表現や正確性を欠くところも多々あって、汗顔の極みです。とは言いながら、これからも、このスタイルで、できる限り書き続けたいと思っています。

 今回と次回については、一つの節目の機会として、これまでのブログをふり返り、一旦、整理をさせて頂きます。どのような記事があったのか、自分でも思い出しながらの作業です。

 

 

2019年9月

 気まま旅のスケッチ」

 機会があって、2019年6月から8月まで、アメリカのカリフォルニア州アラメダに滞在することになりました。この間、アメリカ国内は勿論のこと、カナダやメキシコを訪れる機会にも恵まれて、その時の旅の情景を、書き綴ることにしたのです。

 このブログの始まりは、その時の旅の感動を、お伝えするのが目的でした。メキシコの世界遺産都市、コロニアルの世界から、気まま旅はスタートします。

 

  「気まま旅のスケッチ」初回のブログ

  「気まま旅のスケッチ」2~4 

     メキシコ(グアナファトとサンミゲル・デ・アジェンデ)

  「気まま旅のスケッチ」5~10

     アメリカ(ヨセミテ、グランドキャニオン、サンディエゴなど)

 

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※左、世界遺産の街グアナファト。右、アメリカ・ヨセミテ国立公園

 

2019年9月~10月

 歩き旅のスケッチ」

 早くから、少しずつ歩きつないでいた中山道木曽路和田峠などの峠道、タイムスリップしたような、妻籠や奈良井の宿場町など、見どころ満載の街道です。歩き旅は、中山道から。このシリーズでは、中山道の中央部、御嶽宿から立科町の芦田宿までを辿ります。

  「歩き旅のスケッチ」初回のブログ

  「歩き旅のスケッチ2~12・・・中山道

     中山道御嶽宿塩尻峠と和田峠

 

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※左、美濃路十三峠の西側入口。右、奈良井宿

 

2019年10月~11月

 気まま旅のスケッチ」

 アメリカ滞在中に訪れた、カナダの街やロッキー山脈のドライブの旅を綴ります。

  「気まま旅のスケッチ11~16」

     カナダ(バンクーバーカルガリー、ロッキーマウンテン)

 

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※左、バンクーバーのイングリッシュ湾。右、カナディアンロッキー

 

2019年11月~12月

 歩き旅のスケッチ」

 中山道の第2章。近江路の草津宿から第1章のスタート地点、御嶽宿までを描きます。

  「歩き旅のスケッチ13~23」

      中山道草津宿から武佐宿へ~各務原から御嶽宿へ)

 

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※左、草津宿の追分(東海道との分岐)。右、赤坂宿。

 

2019年12月

 気まま旅のスケッチ」

 メキシコのコロニアル都市である、グアナファトとサンミゲル・デ・アッジェンデについては、「気まま旅のスケッチ」の最初に記したところです。このシリーズでは、メキシコの首都、メキシ・コシティーの街中や、郊外にあるピラミッド遺跡を紹介します。

  「気まま旅のスケッチ17~21」

      メキシコ(メキシコ・シティーテオティワカン遺跡)

 

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※左、メキシコシティの中心地ソカロ。右、テオティワカン遺跡。

 

2019年12月~2020年2月

 歩き旅のスケッチ」

 中山道の最終章。立科の芦田宿から、浅間山を望む信濃路と碓氷峠を越え進みます。そして、妙義山を背後に見ながら、江戸まで続く上州路を歩きます。最後は、江戸日本橋。武蔵の国の街道も、その魅力は尽きません。

  「歩き旅のスケッチ24~38」

      中山道(芦田宿から塩名田宿へ~江戸道中と日本橋

 

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※左、浅間山。右、倉賀野宿

 

2020年2月

 「出会い旅のスケッチ」

 出会い旅のスケッチの、初回となるシリーズは、北海道。2019年晩秋に他界された、叔父の遺影に会う旅から始まります。叔父に導かれるようにして、オホーツク文化に触れる機会を得たことは、私にとって、この上もない出来事でした。

  「出会い旅のスケッチ1~3」

      (網走オホーツク、小説「石狩川」の風景)

 

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※左、網走近郊の能取湖。右、当別町

 

歩き旅のスケッチ[東海道]82・・・三島宿と三嶋神社

 伊豆の国の宿場町

 

 三島宿は、伊豆の国唯一の宿場町。都から江戸に向かう時、箱根峠を目前にして、旅装束を整える場所だったのだと思います。あるいはまた、都へと向かう場合は、箱根八里を乗り越えて、安堵を覚える宿場だったことでしょう。

 

 ”富士の白雪ャ・ノーエ、富士の白雪ャ・ノーエ、富士のサイサイ、白雪ャ・朝日〜にとける。と〜けて流れて・ノーエ、と〜けて流れて・ノーエ、と〜けてサイサイ、流れ〜て・三島に注ぐ”

 

 農兵節と呼ばれるこの民謡は、私たちの親の世代が、よく口づさんでいたものでした。何となく、身近に感じる三島の街は、この民謡の響きがなす技なのかも知れません。

 歩き旅のスケッチ東海道の第2章は、今回が最終回。東海道11番目の宿場町、三島宿と、伊豆の国の一宮、三嶋大社を歩きます。

 

 

 一里塚

 国道1号線を横切った後、街道は、三島に向けて東進します。住宅が建ち並ぶ道筋を歩いていると、やがて、変則的な交差点が現れます。斜め右後方から、一つの道が街道とつながって、そのすぐ先で、左前方へと逃げるように遠ざかって行くのです。

 この変則の交差点、両角には、由緒がありそうな2つの寺院がありました。そして、よく見ると、左の寺院の角地には、一里塚を示す石柱が立ち、その前に、「玉井寺(ぎょくせいじ)一里塚」の表示です。

 塚の辺りは、木々が植えられ、よく管理されている様子です。

 

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※玉井寺一里塚。

 

 久々に見る立派な一里塚を眺めた後で、反対側を振り向くと、何と、そこにも素晴らしい一里塚の姿が見えました。

 こちら側の一里塚、「宝池寺(ほうちじ)一里塚」と表示され、先の、玉井寺の一里塚と対をなし、伏見の一里塚と呼ばれています。

 

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※宝池寺の一里塚。

 

 三島市

 街道は、徐々に三島に近づきます。道の先には、伊豆と相模を隔てている、箱根の山も、次第に大きく見えてくるようになりました。

 

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※清水町新宿南交差点。

 清水町新宿南交差点を越えたところの左には、常夜灯が厳かに、街道を見つめています。松の木に守られるように配置されたこの一角は、三島の宿場が、もう間近かであることを、暗示しているような光景です。

 

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※秋葉常夜灯が置かれた一角。

 三島宿

 常夜灯を通り過ぎると、間もなく、三島市の領域に入ります。三島の宿場は、この辺りからだと思うのですが、街並みは、ごく普通の旧市街地といった状況です。

 前方には、高層ビルも見え始め、三島市の中心部に、近づきつつあることが分かります。そして、街道は、伊豆箱根鉄道三島広小路駅前へ。そこで、踏切を越えた後、三島市随一の繁華街、三島大通りへと入ります。

 

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※左、三島市の入口辺り。右、伊豆箱根鉄道三島広小路駅と交差点。

 

 大通り

 三島大通りには、飲食店やホテルなどが建ち並び、三島市の中心地の様相です。休日ともなると、多くの人で賑わう場所となるのでしょう。

 この通りはまた、宿場町の時代でも、中心地だったに違いなく、ところどころに、宿場の名残を伝える案内板などがありました。

 

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※三島大通り。

 

 途中、歩道脇に置かれた案内板は、この位置が「樋口本陣跡」であることを伝えています。また、説明では、この本陣の向かいには、「世古本陣」があったと記されていて、街道を挟むように、2つの本陣が向き合っていたことが分かります。

 説明書きでは、また、三島宿につて、次のように書かれています。

 

 「三島宿は古くから伊豆の中心地として栄え、三嶋明神の門前町として大変な賑わいを見せていました・・・箱根に関所が設けられると三島宿は「天下の険」箱根越えの拠点としてさらに賑わうようになりました・・・また、東西を結ぶ東海道と南北を結ぶ下田街道・甲州道との交差する位置にあった三島宿は、様々な地域の文化や産業の交流地点ともなっていました」

 

 この説明を読んでいると、三島の町は、古くから、大変栄えたところだった様子です。

 前回の「歩き旅のスケッチ」の冒頭で、私は、源頼朝が幽閉されていた時代には、伊豆の国は「都から随分離れた、最果てとも言えるような場所だったのだと思います」と、記したものの、実際は、人々の交流が、結構盛んな場所だったのかも知れません。

 

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※本陣や宿場町の説明板。

 

 三嶋大社

 商業施設が連なる道を、さらに東に進んで行くと、大社町西の交差点。そして、その前方の左には、三嶋大社の鳥居や木々が、その姿を現します。

 交差点の界隈は、参詣の人々を招き入れる、土産物のお店などが軒を連ねて、宿場とは、また、一味違った風景です。

 

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※左、本町交差点。ここを左折するとJR三島駅方面です。右、大社町西交差点。左向こうが三嶋大社

 

 三嶋大社は、街道前の歩道のところに、雄大な鳥居を構えています。そして、そこから数段の石段を上っていくと、その先に大社の境内が広がります。

 

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三嶋大社の鳥居と石柱。

 その昔から、東海道を往き交う人は、本殿へと足を運んで、旅の安全を祈願していたことでしょう。

 私たちも、この日の街道歩きの締めとして、参詣に向かいます。

 

 本殿に向かう途中には、神池(しんち)と呼ばれる、広々とした池があり、植え込みの木々の緑と朱塗りの橋のコントラストが見事です。さらに奥へと進んで行くと、厳かな神門が来る人を招き入れ、そこを通り抜けると、本殿の境内です。

 

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※神池の風景。

 

 三嶋大社の入口に掲げられた縁起によると、

 

「『伊豆一宮』として古くから伊豆をはじめとする周辺の人々の信仰を集めている三嶋大社大山祇命(おおやまつみ)と事代主神(ことしろぬし)の二柱の神を総じて「三嶋大明神」として祀っています。創建された時代や由緒には諸説ありますが、少なくとも奈良時代には祭祀の組織が整えられました。」

 

 とのこと。また、三嶋大社は、伊豆半島や周辺地域の火山とゆかりがあって、伊豆七島などでは、それぞれの島に三嶋大明神の后神(妻)や御子神(子)が祀られているということです。

 

 地学的にも、伊豆諸島と関係深い伊豆半島。神々との関係にも、通じるところがあるようです。

 

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三嶋大社の本殿。

 

 第2章を終えて

 三嶋大社の参詣で、「歩き旅のスケッチ[東海道]」シリーズの第2章を終わります。今回のシリーズでは、静岡県に入ったばかりの、32番白須賀宿から、ここ、三嶋まで、22か所の宿場町を歩きつないできましたが、この先の、江戸日本橋までの行程は、ほんのしばらく時間を置いて、再開したいと思います。

 

  次回は、「旅素描〜たびのスケッチ」をふり返り、これまでのブログの変遷をお伝えします。その後は、熊野古道を紹介し、太宰治の故郷の津軽なども訪れます。

 そして再び、東海道の歩き旅、最終章に移ります。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]81・・・沼津宿から三島宿へ

 伊豆の国

 

 東海道は、遠江駿河の国を横断し、いよいよ静岡県の最後の国、伊豆の地へと向かいます。

 伊豆と言えば、その昔、源頼朝が流刑を受けて、身を潜めたところです。当時は、都から随分離れた、最果てとも言えるような場所だったのだと思います。

 伊豆の国には、険しい山々が壁のように立ちはだかって、その先の、相模の国との往来を容易には許しません。都に暮らす人にとっては、ここから東は、異国とも思えるような、遥か彼方の土地だったことでしょう。

 このような、関東の荒涼とした土地に地の利を悟り、後に、鎌倉幕府を築いた頼朝は、伊豆の国から日本を眺め、より広い視野を持ちながら、国の行く末を考えていたのかも知れません。

 街道は、伊豆の国、唯一の宿場町、三島の宿場を目指します。

 

 

 沼津宿

 沼津宿の中心地、本町通りを少し歩いて、次の信号を右折すると、御成橋通りに入ります。街道は、さらにその先の、通横町(とおりよこちょう)交差点を左折して、北方向に進むのです。

 

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※左右方向の道が御成橋通り。

 

 通横町の交差点を南北に貫く道は、沼津市の中心道路。北に向かうと、JR沼津駅に行き着きます。この道は、整備された片側2車線の広い道。沿道には、ホテルや商業ビルなどの大きな建物が並びます。

 街道は、この道の東側歩道をしばらく歩き、途中で、右方向の路地のような道に入ります。この路地は、注意しないと見過ごすような道ですが、その入口に、「旧東海道 川廓(かわぐるわ)通り」と刻まれた、石の表示があることと、石畳を模した舗装が目印となり、確認さえ怠らなければ、間違うことはありません。 

 

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※川廓通りの入口。

 

 川廓

 川廓通りを東に進むと、道は途中で左方向に湾曲し、北向きの道に変わります。この辺り、狭い道幅や湾曲した道の形は、昔からの道筋を彷彿とさせる界隈です。

 沼津の宿場は、都市整備などにより、大きくその姿を変えていますが、この道だけは、辛うじて、往時の面影をとどめているように感じます。

 

 川廓通りをさらに進むと、今は県道になっている、かつての国道1号線に合流します。この合流地点の直前に、「川廓の由来」と書かれた、お洒落な説明板がありました。

 それによると、「川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外廓に接した狭い町であった。」と記されていて、この道の左側に、沼津城の城域が広がっていたことが分かります。

 

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※左、川廓通り。右、通りから県道への出口付近。

 

 県道から旧道へ

 県道と合流した街道は、少しの間、広々とした幹線道路を進みます。途中、国道との交差点を、歩道橋で越えた後は、街の様子は、少し寂し気な雰囲気に変わります。

 

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※旧国道1号線の県道。とその歩道。

 街道は、途中で、一旦県道から右にそれ、狩野川伝いの旧道へと入ります。緩やかな弓なり状のこの道は、道幅もそこそこあって、この付近の生活道路の様子です。

 旧道を少し進むと、左手に、一里塚跡の表示がありました。ここが、沼津の一里塚。かつての塚の面影は無いものの、静かに、その存在を伝えています。

 

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※沼津一里塚跡。

 

 旧道の道筋は、静かな住宅が連なります。そして、次第に狩野川に近づくと、右側に、コンクリートの堤防の壁。私たちは、その壁に沿うように、一段低くなった、堤防下の道を進みます。

 狩野川に架かる橋の下を潜り抜け、わずかに曲線を描いた道を東に向かうと、その先で、再び幹線道路に合流します。

 

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※左、堤防下の旧道。狩野川に架かる橋の下を潜ります。右、県道との合流地点。

 

 きせがわ

 少しの間、旧国道の県道を、歩道伝いに歩きます。この道筋は単調ですが、やがて迎える三島の宿場に想いを馳せて、我慢の街道歩きが続きます。

 県道を、数百メートル東に進むと、右にそれる旧道が現れます。街道は、東下石田と案内されたこの交差点から、旧道の道に入ります。

 この辺りは、沼津市の大岡と呼ばれる地域ですが、「きせがわ」という名前の建物などが目立ちます。「きせがわ自動車学校」や「きせがわ病院」などが目に止まり、街道歩きの目印ともなりました。

 

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※東下石田の交差点。街道は、右方向です。

 傍示石

 旧道に入って少し進むと、左側の道端に、「従是西 沼津領」と刻まれた、大きな石柱がありました。この石柱は、傍示石(ぼうじいし)と呼ばれるもので、伊豆の韮山(にらやま)代官所により、設けられたということです。

 説明書きでは、1600年代の初めの頃に、沼津は天領(幕府直轄の領地)となり、韮山の代官、江川太郎左衛門支配下に入ったとのこと。その後、水野忠友が沼津藩を任されたのを機に、この石柱が設けられたとされています。

 

 江川太郎左衛門と言えば、伊豆韮山世襲代官として有名です。幕末には、韮山反射炉を建設し(この反射炉は、世界遺産として登録されています)、攘夷のための大砲を鋳造した実力者。伊豆の人が、この沼津にまでも影響を与えていたのかと、驚きを覚えたものでした。

 

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※沼津との境を示す石柱と説明看板。

 

 黄瀬川

 街道は、住宅が連なる道を、さらに東へと進みます。途中、狩野川の支流の一つ、黄瀬川を迎えると、その上流の方向には、愛鷹山の山頂から頭を覗かす、富士の姿が見えました。

 私たちがこの黄瀬川を越えたのは、昨年(2021年)2月のことでした。この時は、実に優雅な風景で、早春の、清々しい空気が漂っていたのです。

 ところが、梅雨を迎えた7月上旬、この川は、大雨の影響で、凶暴な姿に変貌します。沼津市の本宿や大岡辺りは、この黄瀬川の増水で、大きな被害を受けたのです。テレビのニュースの映像で、黄瀬川の氾濫状況を見た時は、何とも、やるせない思いになりました。

 

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※左、黄瀬川に架かる橋へと向かう街道。右、黄瀬川の橋から愛鷹山と富士山を望みます。

 清水町

 黄瀬川を越えた先で、街道は、静岡県清水町に入ります。右側は、そこそこ広い敷地を有する事業所で、沿道には、松の木々が連なります。しばらくすると、新旧の建物が混在した住宅地。昔から、街道沿いに民家などが並ぶ地だったのかも知れません。

 

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※左、事業所前に並ぶ松並木。右、清水町の街道。

 

 その後、旧道は、国道1号線の広い道路を横切ります。そして、再び旧道に進んで行くと、伊豆の国、三島の宿場は、もう間もなくのところに迫ります。

 

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※八幡交差点。ここで国道1号線を渡ります。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]80・・・原宿から沼津宿へ

 沼津へ

 

 駿河の国の東端に位置する沼津の街は、東海道12番目の宿場町。伊豆の国に隣接し、伊豆半島西側の玄関口でもある街です。

 沼津から、愛鷹山の東の麓を北上すると、裾野市御殿場市、さらには、山中湖方面にも繋がります。幾つもの道が放射状に延びていく、駿河東部の起点の街とも言えるでしょう。

 沼津市は、また、港町としても有名です。駿河湾を漁場とした、多くの漁船や、様々な船舶が、沼津港に集積します。 

 

 

 原宿を東へ

 原の宿場は、白隠禅師*1ゆかりの寺院、松陰寺から、まだ1Kmほど続きます。今は、住宅が連なる狭い道。宿場町の面影を感じることはできません。

 やがて、宿場町の東の端、東見附を確認すると、その先は、JR東海道本線の踏切です。今度は、この踏切を、北から南に渡ります。踏切を過ぎたところは、空が開けて、見晴らしの良いスポットです。左後方を眺めると、愛鷹山(あしたかやま)に裾野の一部を隠された、美しい富士山の姿がありました。

 

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※左、原宿の東見附を過ぎたところ。右、踏切を渡り振り向いたところの風景。

 幾つかの集落

 踏切を通り過ぎ、再び住宅が連なった、町中の道を進みます。この道は、東西に真っすぐ延びる直線道路で、板塀やブロック塀の住宅が並びます。特徴的な風景は、道沿いに植えられた、庭木の緑。様々な庭の木々がつながって、さながら、並木道のような状態です。

 心地よい、緑の潤いを感じながら、集落から集落へと歩きつないで、沼津の宿場に近づきます。

 

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※街道沿いの集落の様子。

 

 街道は、どこまでも真っすぐに、東へと向かいます。町の様子は、少しずつ変化しているようですが、相変わらず、道沿いに植えられた、庭木の緑の連続は、気持ちよい空間を作ります。

 

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片浜駅付近の街道。

 

 やがて、住宅の敷地が狭まリ、民家の密度が増してくると、街道も、心無しか窮屈に感じる道へと変わります。ところどころに、銀行や大型店の看板も目に止まり、辺りは、次第に賑やかさが増してきたような気配です。

  

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※沼津の市街地に近づく街道。

 

 西間門(にしまかど)

 真っすぐに進んできた街道は、この先に、大きな交差点を迎えます。三つの信号が連なった、複雑な道の交わりは、沼津の市街地への玄関口。三つ目の、西間門の信号を越えた後、街道は、広々とした幹線道路に入ります。

 

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※3つの信号が並ぶ、大きな交差点。右方向から合流している道は、駿河湾伝いに走る県道です。

 

 ここで、少しだけ、「間門」について触れてみたいと思います。そもそも、西間門の交差点では、この名は、珍しい地名だとの印象を受けました。字面だけを見たときは、「門」の字が付いているため、宿場町との関係を、思い浮かべたものでした。

 ところが、この私の推測の間違いを、西間門の交差点の近くに置かれていた説明板が、早々に、正してくれることになったのです。

 その説明板、以下のような内容で、「間門」の由来を記しています。

 

 説の一つは、この地の南の駿河湾で、「天竺摩伽陀国」と彫られた閻魔(えんま)大王の像が網にかかり、村人が、その像を安置して、お祀りしたというお話が伝わっていて、摩伽(マカダ)が、「マカド」になったというものです。また、もう一つの説は、アイヌ語の「マカ」は開くという意味で、「ト」は湖水を意味しているため、この辺りの昔の地形と関係しているという説です。

 

 以上のような内容ですが、アイヌの言葉が、この辺りにもその名残を伝えていたとする説は、私にとっては、驚きでした。青森などでは、アイヌ語由来の地名については、珍しくはないのですが、東北から、遠く離れた駿河の国でも、遠い昔は、アイヌの影響があったのか、と、興味を惹かれたものでした。

 

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※間門についての説明が記された案内板。

 

 市街地へ

 間門の地を通り過ぎ、市の中心部へと向かいます。東西に延びる街道は、道幅の広い県道です。沿道は、完全に整備が行き届いた状態で、街道の面影はありません。ところどころに、寺院などが見られるものの、あとは、新しい住宅などが並びます。

 私たちは、並木がつながる歩道に沿って、 さらに東を目指します。

 

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※市の中心部へと向かう街道。

 沼津宿

 県道をしばらく進むと、大型店やマンションなどが見られる地域に近づきます。浅間町の交差点に差し掛かったところでは、左前方に、落ち着いた雰囲気の神社の森が見えました。

 この神社は、丸子神社・浅間神社と呼ばれていて、2つの神社が隣り合わせに祀られているようです。

 

 東海道12番目の宿場町、沼津の宿場の入口は、浅間神社の少し手前にあったとのことですが、今はもう、町の姿は大きく変わり、宿場町に入ったという感覚はありません。

 前の宿場の原宿から、およそ6Kmの道のりを歩き継ぎ、静岡県東部の中心地、沼津の市街地に入ります。

 

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浅間町交差点。左の森が浅間神社

 

 浅間町交差点を東に進むと、間もなく、次の交差点が現れます。ここから、さらに東に向かうと、狩野川に架けられた、永代橋。そして、橋の手前を右に折れると、その先が、観光地としても有名な、沼津港という位置関係の地点です。

 街道は、この交差点を左折です。左折した先に続く道筋は、本町通りと呼ばれていて、市街地の中心部に入ります。

 

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※この交差点を左折して、信号を渡り、奥に続く本町通りに進みます。

 

 本町通りは、宿場町の中心地でもあった場所。この道沿いに、3軒の本陣があったということです。今は、本陣跡の石碑だけが、往時の様子を伝えています。

 

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※左、清水本陣跡。右、高田本陣跡。

 この日、JR吉原駅から歩き始めた街道歩き。田子の浦を右に見ながら、原宿を経て沼津の宿場に到着です。

 私たちは次の日に、沼津を発って、伊豆の国、三島宿を目指します。

 

*1:はくいんぜんじ。この方については、前回の「歩き旅のスケッチ」で、少し触れさせていただきました。

歩き旅のスケッチ[東海道]79・・・原宿へ

 愛鷹山駿河湾

 

 富士市から沼津市へと向かうには、愛鷹山(あしたかやま)の裾野を辿る、国道1号線を走るのが一般的なルートです。ただ、この辺りには、山際を通過する、東名高速道路を初めとして、駿河湾に沿って延びる県道など、幾つかの主要道路が走っています。

 街道は、県道と合流してはまた離れ、或いは、別の県道に入るなど、駿河湾に近いルートを辿りながら、原宿へ、沼津宿へと向かいます。

 

 

 原宿へ

 旧道に入った街道は、しばらく先で、JR東海道本線の踏切を渡ります。辺りには、ゆったりとした敷地を有する民家などが並ぶ他、ところどころに、農地なども見られます。

 踏切付近は、視界が広がり、左手の後方には、美しい富士山の姿も見えました。

 

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※左、旧道である新たな県道が踏切を横切ります。右、踏切からの富士山の眺望。

 踏切を渡った後は、しばらくの間、東海道本線の線路に沿って進みます。この辺りの交通施設の状況は、駿河湾の松林のすぐ傍に、県道が設けられ、そのすぐ北には、JRの軌道です。そして、JRの次にあるのが、私たちが歩いている、東海道(もう一つの県道)。さらに、その少し北には、国道1号線が通過するという状況です。

 並行して、幾つもの交通ルートが整備され、円滑な、人と物の流れをつくり上げているのです。

 

 沿道は、依然として気持ちの良い住宅地が続きます。道は真っすぐ延びる直線道路。そこには、街道の面影はありません。それでも、ところどころに、由緒ある寺院などが見受けられ、その辺りには、落ち着いた空気が漂います。

 

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※原宿に向かう街道。

 

 住宅が連なる道筋を、東へと進んで行くと、少しずつ、辺りの様子が変わります。次第に、建物の密度が増して、お店なども見られるようになりました。

 

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※原宿への道。

 

 原宿
 あいかわらずの直線道路。昼も近づき、空腹を感じる中で、ようやく、原小学校のバス停留所に到着です。バス停の、「原」の表示を見た時は、次の宿場に辿り着いた、安堵感さえ覚えたような気がします。

 

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※原小学校近くの街道の様子。

 

 西見附

 バス停から、少し東に進んで行くと、道端に、「西木戸(見付)跡」の表示です。この辺りには、木戸があり、実際には、ここから東に宿場町が設けられていた様子です。

 見附跡からさらに進むと、右側には、高嶋酒造の建物です。”白隠正宗”(はくいんまさむね)と表示された看板は、由緒あり気な、酒蔵の雰囲気を放っています。

 

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※左、西木戸跡の表示板。右、高嶋酒造の建物。

 

 原駅

 街道は、依然として、住宅が中心の町並みです。それでも、銀行やお店の数が増してくると、やがて、JR原駅入口の交差点。駅は、交差点を右折して、その突き当りにあるようです。

 

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※原駅入口の交差点。

 

 私たちは、街道沿いの、ちょっとお洒落で奥ゆかしい、カジュアルな料理屋さんが目に止まり、そこで、昼食の休憩です。思いもかけず、美味しい昼食をいただくことができました。

 

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※左、料理屋前から東の街道を望みます。右、焼き鯖の定食。

 

 本陣跡

 昼食後、原の宿場の町中を、先を目指して進みます。町並みは、住宅が中心で、ところどころにお店などが点在するという状況です。

 少し進んだところには、新しい住宅前の道端に、本陣跡を表示した、石の案内がありました。今はもう、本陣の建物などは、影も形もありません。ここに本陣があったのかと、ただ想像するばかりです。

 

 案内板には、この本陣は、阿野全成(あのぜんじょう)を祖先に持つ、渡邊家が務めていたということです。阿野全成は、源頼朝の異母弟で義経の兄にあたる人。常盤御前を母をに持つ鎌倉初期の僧侶です。

 渡邊家は、この辺りでは、かなりの実力者だったということで、本陣は、広大な敷地を有していたと書かれています。

 

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※本陣跡。

 白隠禅師誕生地

 街道は、銀行などの支店が並ぶ、少し賑やかな所を通ります。原交番東の交差点付近には、お店や神社、交番などが入り混じり、原地域の中心地の様相です。

 

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※原駅の東の地域。少し賑やかな雰囲気です。

 

 交差点を越えた先で、町並みは、再び落ち着いた雰囲気に変わります。そして、街道の右側には、「白隠禅師(はくいんぜんじ)誕生地」との、案内表示が掲げられてありました。

 少し奥まったところには、山門や、石造りの標石が建ち並び、その向こうには、小さなお堂のような建物です。ひっそりと、姿を隠すように佇むお堂は、奥ゆかしさすら感じます。

 白隠禅師は、白隠慧鶴(はくいんえかく)とも言われ、江戸時代中期の臨済宗の僧侶として、名を馳せられたということです。この原宿で命を授かり、若くして、隣接地の松陰寺で得度されました。その後、全国各地で修業を重ね、1716年に、地元松陰寺に戻ってこられたということです。

 先に、”白隠正宗”の酒造所があったように、白隠は、原宿で、最も敬愛される人として、崇められているのです。

 

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白隠禅師の誕生地。

 

 松陰寺

 白隠禅師の誕生地から、少し東に向かった所に、今度は、松蔭寺への参道が現れました。参道の正面には、立派な石柱がそそり立ち、その向こうは山門です。

 私たちは、昼食後の、道草の気分の中で、白隠禅師ゆかりの寺院、松蔭寺の参拝に向かいます。
 

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※松陰寺門前。

 

 松陰寺は、立派な山門を有する寺院です。境内は、それほど広くは無いものの、開山堂や座禅堂など、幾つかの建物が並びます。境内の解説には、次のように書かれています。


 松陰寺は、考案2年(1279)に鎌倉円覚寺の無学祖元禅師の法嗣、天詳西堂によって創建されたと伝わる。享保2年(1717)に入寺した白隠慧鶴禅師(はくいんえかくぜんじ)により全国から雲水が来参する修行道場として知られるようになった。

 

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※松陰寺境内の様子。

 私たちは、松陰寺の参拝を終え、再び街道歩きを続けます。街道は、原宿を終え、次の宿場、12番沼津宿へと向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]78・・・田子の浦

 田子の浦

 

 「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ」

 山部赤人(やまべのあかひと)の作とされるこの和歌は、小倉百人一首にも収められた、有名な一首です。多くの人が口ずさみ、真っ白な富士山と田子の浦の情景を、想い描かれたことでしょう。

 ここに表されている「田子の浦」。駿河湾に面する浜辺の、どの辺りになるのかは、定かではないようです。或いは、薩埵峠(さったとうげ)の海岸線、由比辺りだという説もあるようですが、私は、今の田子の浦の位置からは、それほど離れていないように思います。

 街道は、この先、元吉原から原宿へと向かいます。道の右手は、松の林が延々とつながって、その向こうには、田子の浦の浜辺が広がります。

 

 

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東海道が箱根峠へと向かう途中に、”スカイウオーク”という、つり橋で有名な観光施設があります。この写真は、そこから駿河湾を望んだ1枚です。街道は、駿河湾の海岸線につながる松林の内側を、中央辺りの原宿へ、そして、左先の沼津宿へと向かいます。

 

 

 JR吉原駅

 県道から、斜め右に延びている、旧道に入った辺りには、倉庫のような建物が並びます。雑然とした沿道でありながら、緩やかに弧を描く道筋や、松並木の名残などが、僅かながらも、街道の面影を残しています。

 

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吉原駅に向かう道。

 

 街道は、その先で、沼川を渡ります。この川は、すぐ先で、駿河湾の水面と出会うため、水の流れは緩やかで、入江のような状態です。岸辺には、船やボートが接岸されて、ある種の港のような感じです。

 

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※沼川の様子。


 沼川を渡った先で、街道は、右手を走る、JR東海道本線に近づきます。途中、吉原駅北口の交差点を右折すると、その先がJR吉原駅。私たちの街道歩きは、この日はここで終了です。

 この日の朝、蒲原の宿場を発って富士川へ。そして、吉原の宿場を通り過ぎ、JR吉原駅に到着です。17Kmほどの行程を歩き終え、翌日に、次の宿場の原宿とその先の沼津宿を目指します。

 

 元吉原

 翌日は、再びJR吉原駅に立ち戻り、街道歩きを続けます。

 前回のブログにも記したように、吉原宿は、自然災害の煽りを受けて、2回にわたり、その場所を移しています。その最初の宿場町が、元吉原と呼ばれるところ。今の、JR吉原駅の辺りです。

 街道は、駅近くから、東へと進んで行って、その先で、JR東海道本線の踏切を渡ります。踏切の直前のところには、日本製紙の工場です。赤白の大きな煙突がそびえ立ち、富士市を象徴するかのような光景です。

 

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※左、東海道本線に近づく街道。右、踏切を渡ります。

 踏切を渡った先は、旧道の道の流れが続きます。この辺りが、元吉原。少し進むと、富士市の元吉原小学校もありました。

 

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※元吉原の街道。

 

 元吉原の道筋は、宿場町の面影はありません。高潮の被害により、宿場の地を、内陸へと譲らなければならなくなって、町の姿は、大きく変貌したのでしょう。

 それでも、ひっそりと佇む神社の森や、道沿いの住宅地に植えられた木々の様子を眺めていると、歴史ある、街道の趣を感じます。

 

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※元吉原の街道の様子。

 田子の浦の道

 街道の右奥には、ところどころで、松の木々が見える他、そこに向かう細い道は、少し上り坂の状態です。砂地のような道もあり、松の向こうに広がるはずの、田子の浦の情景を想い描きながら歩きます。

 一方で、家が途切れたところから、左を見ると、富士山や愛鷹山(あしたかやま)の雄大な景色が望めます。

 まさに、山部赤人の歌の舞台がそこにあるようなところです。

 

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※街道からは、ところどころで、富士山が望めます。

 

 柏原

 旧道を進んできた街道は、やがて、左方向から接近する、県道に合流します。この合流地点には、「間宿 柏原」(あいのしゅく かしわばら)の表示がありました。

 街道が、県道に入った先は、今は、檜新田と呼ばれるところ。その辺りが、かつては、柏原という、間の宿だったということです。

 街道の休憩地の役割を持つ間の宿。今でも、往時の名残を留めるところもありますが、柏原は、そのような姿は見られません。整然と整備された県道が、一路東を目指します。

 

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※左、県道との合流点。右、柏原の辺り。

 一里塚

 県道を進んだ先で、小さな川を渡ります。この川の手前には、沼田新田の一里塚跡があるはずです。何らかの痕跡はないものかと、目を凝らして探してはみたものの、残念ながら、分からず仕舞いとなりました。

 

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※沼田新田の一里塚辺り。

 田子の浦

 相変わらずの県道の道筋を、東に向かうと、「東田子の浦駅」の表示です。左を見ると、数十メートル先の所に、小さな駅舎がありました。私たちは、休憩をとるために、駅の方へと向かいます。

 駅舎の傍には、神社があって、木々が社を覆っています。駅の裏には、公園などもあるようですが、今は、立ち寄る余裕はありません。小休止の後、神社でお参りをして、先の道中を急ぎます。

 

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東田子の浦駅前の県道。

 

 沼津市

 県道をしばらく進むと、左方向に延びていく、旧道が現れます。実は、この旧道も、また別の県道のようですが、街道は、そちらの方へ向かいます。辺りは、民家や畑地などが混在する、のどかな雰囲気のところです。

 旧道に入ってから、間もなく、沼津市を告げる表示板が現れました。蒲原(かんばら)の宿場を越えて、丘陵地に入ったところで確認した、静岡市富士市の境。そこから延々と歩き進んで、ようやく、富士市から沼津市の領域へと入ります。

 

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※左、街道は、左方向の旧道に入ります。右、旧道を進み、沼津市の表示を確認します。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]77・・・吉原宿から原宿へ

 吉原の道

 

 吉原の宿場から、海に向かう街道は、様々な表情を見せながら、初期の頃の、宿場の地へと誘います。3か所も場所を変えた吉原宿。海近くから内陸へと、少しずつ移動を重ねてきたのです。

 富士山も、次第に姿を変化させ、私たちの背後へと遠ざかり、視界には、幾たびかの噴火の跡が見て取れる、愛鷹山(あしたかやま)が、広がります。

 

 

 吉原宿

 吉原の旧道の道筋は、新旧の住宅が並びます。ところどころに、お店も見られ、その軒先は、老舗のような雰囲気が漂います。

 道の流れは、街道の名残を感じるものの、全体として、宿場町の面影はありません。この道は、東に向かえば向かうほど、街並みは、新しく区画された、整然とした姿に変わります。

 

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※宿場町の西側。旧道の道筋です。

 

 街道は、少し先で、一旦北へと向かいます。この道筋は、事務所やアパートなどが建ち並ぶ、ごく普通の街の様子です。

 道幅は、そこそこあって、明るい感じの街ですが、この先で、吉原の商店街に入るため、賑わう街の裏通り、といった感じです。

 道は、吉原の中心地に近づいて、次第に賑やかな雰囲気へと変わります。

 

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※吉原の商店街に向かう街道。

 

 吉原宿の中心地

 旧道は、やがて、中央駅と称される、交差点に出てきます。この近くには、鉄道の駅があるのかどうか。地図を見ても定かではありません。ただ、交差点の左には、バスのターミナルが見えました。

 幾つもの系統がありそうな、バスの発着拠点。もしかして、中央駅の名称は、ここからきているのかも知れません。

 

 中央駅の交差点を、右に折れた街道は、吉原の商店街に入ります。この商店街が、吉原宿の中心地。旅籠が60軒ほど、軒を連ねていたということです。

 

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※吉原宿の中心地。今は商店街となっています。

 

 吉原宿は、東海道の14番目の宿場町として、重要な役割を与えられていましたが、その他にも、幾つかの街道の起点が集中し、この地方の、交通の要衝だったということです。

 富士山の浅間大社や、甲斐の国に向かうための、大宮街道をはじめとして、主要な道が、この吉原の中心部に収束していたのです。

 そのために、街道が、四方に向かう、宿場町の周辺には、人々の目印となる、街道の道しるべがありました。向かう先が確認できる、重要な道案内。その痕跡を残すため、今も商店街の一角に、その道しるべが復元されて置かれています。

 

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東海道・大宮街道の道しるべ。

 

 吉原本町駅

 商店街を東に向かうと、やがてアーケード街も終わりを告げて、次第に、ひっそりとした街に変わります。

 その先で、道が大きく弧を描いた辺りには、「吉原本町駅」の表示です。道の先には線路が横切り、街道は、その踏切を渡ります。

 この鉄道は、岳南鉄道と呼ばれていて、この先のJR吉原駅と、愛鷹山の裾野にある、岳南江尾(えのお)駅とを結んでいます。どのような人たちが、この路線を利用されているのでしょうか。恐らくは、地元に密着した、地域の重要な交通手段なのだと思います。

 

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岳南鉄道吉原本町駅

 

 依田原へ

 街道は、この先しばらく、真っすぐな直線道路を進みます。初めのうちは、住宅などもありますが、次第に、中小の事業所が建ち並ぶ地域に変わります。

 やがて、前方に橋が見え、小規模の川を渡ります。この川は、和田川と呼ぶそうで、深さのある、運河のような河川です。

 橋を渡ったところの左には、ポケットパークが整備され、そこには、「平家越の碑」*1と記された標識や石碑などがありました。

 

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※左、東に向かう直線道路。右、和田川の橋。

 

 和田川に架かる橋を越えた後、街道は右折して、南の方角に向かいます。この先の道筋は、工場が連なって、街道の面影はありません。

 この辺りは、依田原(よだはら)という地域。第2の吉原の宿場があった近くです。

 

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※依田原の道筋。

 

 左富士

 工場が並ぶ地域のはずれに来ると、「名称 左富士」の案内が目立ちます。意味が分からず歩いていると、やがて、歩道の端に、「左富士」のモニュメント。石でできた立派なもので、安藤広重の浮世絵が、その大半に写し出されているのです。

 この浮世絵は、東海道53次の吉原宿を描いたもの。この位置から富士を望むと、左手前方にその姿を捉えるために、「左富士」と称されたというのです。

 そう言えば、江戸から都に向かう時、大概、富士山は右方向に見えるもの。左に見える富士の姿は、貴重と言えば、そう言えなくもありません。

 

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※左、工場地のはずれ。右、左富士のモニュメント。

 左富士神社

 「左富士」のモニュメントから、少し南に向かったところには、今度は、左富士神社がありました。

 それほど大きな社ではなく、地域の氏神様といった感じです。境内には、陽が降り注ぎ、絶好の休憩場所となりました。

 

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※左富士神社。

 

 依田橋村一里塚

 この境内には、また、依田橋村一里塚跡の石標が置かれていて、一里塚や吉原宿の由来などが記された、説明板がありました。

 その説明を読んでみると、移設された3か所の、吉原宿の位置関係も分かります。2番目に設置された、中吉原の宿場の位置は、「現荒田嶋付近」とされていて、この依田橋村からは、もう少し、西に入ったところです。

 一里塚が置かれた場所も、その当時は、今の位置ではなかったということです。宿場の位置に合わせるように、道筋や一里塚も、変遷してきたのでしょう。

 

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※一里塚跡。

 

 境内には、依田橋村の絵図も置かれて、この絵を見ると、かつての、この付近の様子が窺えます。

 

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※依田橋村古絵図。

 

 元吉原へ

 街道は、この後、国道1号線の高架下を潜り抜け、道幅が広がった県道へと合流した後、斜め右に入り込む、旧道へと進みます。

 元々の、吉原宿があった場所、元吉原は、もうすぐのところです。そして、その先は、13番原宿へとつながります。

 

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※左、前方が国道1号線の高架。右、県道から右側の吉原駅方面に向かいます。

*1:源頼朝と平家との戦いの一つ、”富士川の戦い”の舞台となった所だそうです。平家は敗退しています。

歩き旅のスケッチ[東海道]76・・・吉原宿へ

 再び"海道"へ

 

 富士川を、最適な位置で渡るため、街道は、海岸から少し離れた、富士山の裾野近くを通ります。今は、富士市の市街地を、巡るように縫い歩き、吉原の宿場を目指すのです。

 13番目の吉原宿。初めの頃は、海の近くに設けられたようですが、高潮などの影響で、次第に内陸へと移っていったということです。東海道の名前の由来は、海の近くを通る道。

 ”海道”は、富士の街の中心地から、少しずつ、海に向かって進みます。

 

 

 本市場の一里塚

 街道は、JR富士駅前の商店街を横切って、落ち着いた雰囲気の住宅地へと入ります。ここからの道の流れも、しばらくは旧道の状態で、緩やかに弧を描きながら進みます。

 住宅が並んだ先は、学校や工場などに挟まれたような道筋です。道幅は、狭いままで、裏道のような道路が続きます。

 

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※学校(左)や工場(右)の間を通ります。

 少し進むと、道端に、小さな花壇がありました。花壇の奥の僅かな土地には、「旧東海道一里塚」と刻まれた、古い石碑が置かれています。ここは、かつての一里塚。本市場(もといちば)の一里塚跡ということです。

 この辺りから、本市場という地域に入ります。

 

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※本市場の一里塚。

 

 本市場へ

 曲線を描きながらの旧道は、その先で、一旦、県道に入ります。そこは、変則的な5叉路になる交差点。街道は、県道の1本北の旧道へと進むのです。

 少し複雑な道筋を、地図を頼りに、忠実に、旧道を辿ります。

 

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※左、県道に向かう旧道。右、県道と5叉路のような交差点。

 

 この後、道幅が少し広がると、街並みも、新しい区画に変わります。途中では、それこそ、近年整備されたような計画道路が、街道を分断して横切ります。左右に通る計画道路の向こうには、街道の先が見えてはいますが、遠回りしなければ、そこに辿り着くことはできません。

 旧来の街道をよく残している富士市であっても、ここだけは、残念な街づくりとしか言いようがありません。

 計画道路を越えた先の旧道は、さらに道幅は広がります。そして、道路上には、「富士市フィランセ」という、福祉施設の案内表示が見えました。

 

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富士市フィランセの案内表示。

 間の宿本市場

 富士市フィランセの建物前を歩いていると、歩道の際に、「東海道 間宿 本市場」と表示された案内板がありました。

 安藤広重の浮世絵にも描かれたという本市場。数々の茶店などが並んでいて、多くの旅人で賑わっていたということです。

 宿場間の休憩地である間の宿。富士川の少し手前の岩淵もそうでした。ただ、本市場の位置としては、次の吉原宿とそれほど離れた場所ではありません。それでもここに、間の宿ができたのは、冒頭で少し触れた話と関係しているのかも知れません。

 つまり、当初、吉原宿が置かれた場所は、江戸後期の場所と比べて、随分東にありました。距離にして、数キロも離れた所で、それこそ、海の近くです。それを思うと、本市場の集落に、間の宿が置かれたことは、頷けることだと思います。

 

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※間の宿の案内板。

 

 吉原宿へ

 街道は、その後、富士見大通りと名付けられた、広々とした道路に出てきます。この道路には信号が設けられ、迂回せずに横断することが可能です。左を見ると、富士山がそそり立ち、街と富士とのコントラストが見事です。

 横断歩道の先に進むと、旧道が続くのですが、そこは、落ち着いた感じの住宅が並びます。そして、潤井川(うるいがわ)と呼ばれている、富士市の街中の川を渡ります。

 街道は、潤井川を越えた後、少ししてから右に折れ、県道に合流です。

 

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※左、富士見大通り。右、潤井川(うるいがわ)の橋。

 

 県道は、やがて、高島の大きな交差点を迎えます。県道同士が交差する、その交差点。ここに、北に向かう東海道の旧道が加わります。どの方向も、車が激しく走る中、街道だけは、静かな、ひっそりとした雰囲気を残します。

 住宅が建ち並ぶ静かな道を進んで行くと、やがて、富士市のメイン道路の一つである、青葉通りに至ります。

 青葉通りは、道幅の広い道路で、沿道には、富士市役所や、たくさんのビルが並びます。

 

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※左、県道交差点から北方向へ斜めに入った街道。右、街道が青葉通りに達したところの歩道。

 

 吉原宿

 街道が、青葉通りを迎えたところの歩道には、「(新)吉原宿・西木戸跡」の表示です。3回ほど位置を変えた吉原宿。最後に構えた宿場町は、この辺りが西の入口だった様子です。

 富士市にある宿場町は、14番吉原宿。かつては、吉原市に属していて、富士市とは別の街でした。後に(1966年)両市は合併し、今は富士市となったのです。

 

 青葉通りを渡った先は、少しの間、整備された道路を北上します。街並みは、全くの再開発された姿です。宿場町の名残など、見つけることはできません。

 

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※青葉通りを越えた先の街道。

 

 街道は、その後、右方向の旧道に入ります。緩やかに曲線を描きながら、小さな川を横切って、何となく、宿場町の名残のような町並みに近づきます。

 この先は、落ち着いた町が続くのですが、吉原宿の中心地は、まだもう少し先の方。何か、宿場の面影が残ってはいないかと、辺りを眺めながら歩きます。

 

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※左、整備道路から斜め左に向かう旧道。右、小さな川を越え、宿場町へと向かいます。

 

歩き旅のスケッチ[東海道]75・・・富士川から富士の街へ

 富士市

 

 富士市は、なかなか、特徴ある街だと思います。新幹線や高速道路を利用して、街の様子を眺めていても、製紙工場の煙突と、そこから吐き出す白い蒸気に目が止まり、街の様子を窺い知ることはできません。一方では、富士山の秀麗な姿が圧倒的で、その裾野に広がる街のことなど、意識が向かうはずもないのです。

 このような富士の街。街道を歩いていると、様々な風景が見られます。ビルの向こうや、広い道路の先に見える富士山は、その頂は、天にも届く勢いで、眺望の素晴らしさは超一級。富士の裾野は、扇を広く開けたように、なだらかに街の方へと迫ります。

 駿河湾に面する平地は、建物などの人工物が、その土地を埋め尽くし、新旧の街並みが、凹凸に重なります。様々な表情を見せる富士の街。歩いて初めて、その魅力が分かります。

 

 

 富士川

 岩淵の集落から、一気に坂道を下ります。細い道を伝っていくと、目の前が開けたところの眼下には、富士川の流れと富士川橋が見えました。私たちは、さらに下って、富士川の右岸道路におり立ちます。

 富士川右岸のこの辺り、道は、広い県道と、その内側に旧道が残っています。坂道は、旧道につながりますが、その道沿いは、かつては、渡船に関わる建物や、お店などが並んでいたような光景です。

 どこか、懐かしさを感じるような家並は、富士川と関わり続けた歴史の証が、残っているような場所でした。

 

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※急坂の途中からの眺め。

 

 富士川

 街道は、今は、県道の富士川橋を渡ります。川沿いの交差点を渡った先で、橋の歩道に入ります。

 かつては、向こう岸の渡船場まで、舟で渡ったとのことですが、この急流をどのようにして克服したのか、なかなか想像できません。

 

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※左、富士川橋。右、富士川橋から望む富士山。

 

 富士川橋から左を見ると、富士の美形が、眩しいぐらいに輝きます。富士川は、大量に水を集めて、堰の上から溢れています。

 川底をえぐるような勢いの、川の流れを見つめつつ、対岸へと向かいます。

 

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※富士山の絶景。

 

 水神社と渡船場

 富士川を渡った先の左には、鎮守の森のような姿を残す、水神社の境内がありました。この神社、創建は1646年ということで、それほど古くはありません。

 それでも、神社前の説明書きには、火災により社伝の記録が消失し、由来の詳細は、よく分からないと書かれています。ただ、富士川がすぐ傍に流れているため、水害や水難を防ぐ神社として、地域の人や旅人から崇められつつ、今に至ったのだと思います。

 

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※水神社の入り口付近。

 

 私たちは、水神社で、少しの間、休憩です。境内を見回すと、奥には、朱塗りの柱で造られた、小さな社が見えました。さらに奥の左側は、富士川の堤です。渡船場は、その辺りにあったようで、川と一体となった神社の配置は、安全な渡船を祈るための絶妙な位置取りだったのだと思います。

 境内の入口に戻ってみると、そこには、幾つかの石柱がありました。その一つは、「冨士山道(ママ)」と刻まれた、由緒がありそうな道標です。解説には、「富士山禅定(ぜんじょう(登山))を目指す道者のための道しるべである。」とされ、その昔、神社の東方で道を北に折れ、富士山本宮浅間大社に向かうための、道の分岐点に置かれていたということです。

 もう一つの大きな石柱は、「富士川船場跡」の石標です。こちらは、比較的新しく、側面には、説明書きがありました。それによると、ここから数十メートル南の辺りに、渡船場の詰所があったようだと書かれています。

 

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※左、水神社の社。右、神社境内入り口の石柱。

 

 富士の街へ

 水神社を後にして、県道を少し東に向かうと、富士市四丁河原と表示された歩道橋が、県道の上を跨いでいます。

 街道は、その交差点を左に折れて、しばらくの間、弓なりの旧道を進みます。

 

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※県道を跨ぐ歩道橋。ここを左に折れて、細い道に入ります。

 

 この道筋は、初めは、新しい住宅も建ち並ぶところではありますが、やがて、空き地も目立つ、郊外の景色に変わります。心地よい陽の光を浴びながら、清々しい空気を感じて歩きます。

 しばらく進むと、街道は、再び県道に合流です。車が行き交う道路の脇を、少しの間、淡々と歩きます。

 

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※左、県道から旧道に入ったところ。右、再び県道に戻った辺り。

 

 市街地へ

 県道をしばらく進むと、鉄道の高架線路が道を跨いで走っています。この軌道は、JRの身延線(みのぶせん)。富士駅山梨県甲府駅を結ぶ路線です。

 鉄道の高架を潜り、さらにもう少し、東に向かったところから、今度は、街道は右方向の旧道へと移ります。この旧道は、この後しばらく、緩やかに、右に左に波打ちながら、富士の市街へと向かうのです。

 

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※右前に延びる旧道を進みます。

 街道の名残りと誇り

 旧道は、入り口付近は、民家が連なる住宅地。そして、次第に、事務所やお店などもその道沿いに加わります。

 本来なら、こうした道は、早くから開発の波が押し寄せて、かつての道は、跡形も無くなってしまうものだと思います。ところが、富士の街は、このような旧道を、かなりの延長で残しています。

 勿論、背景には、様々な理由があるのでしょう。それでも、富士市という、静岡県第3の都市でありながら、市街地に、街道の流れを残した人々の、誇りのような気高さを感じます。

 

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※左、金正寺(左)前の街道。右、市街地中心部に向かう街道。

 

 街道は、この先、富士駅前の商店街を横切って、新しい、市街地の中心部へと向かいます。

 

 ※「歩き旅のスケッチ[東海道]」は、1回だけ休憩させて頂きます。次回は、正月3日から、引き続き、東海道の歩き旅の風景をお伝えしたいと思います。