旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]77・・・吉原宿から原宿へ

 吉原の道

 

 吉原の宿場から、海に向かう街道は、様々な表情を見せながら、初期の頃の、宿場の地へと誘います。3か所も場所を変えた吉原宿。海近くから内陸へと、少しずつ移動を重ねてきたのです。

 富士山も、次第に姿を変化させ、私たちの背後へと遠ざかり、視界には、幾たびかの噴火の跡が見て取れる、愛鷹山(あしたかやま)が、広がります。

 

 

 吉原宿

 吉原の旧道の道筋は、新旧の住宅が並びます。ところどころに、お店も見られ、その軒先は、老舗のような雰囲気が漂います。

 道の流れは、街道の名残を感じるものの、全体として、宿場町の面影はありません。この道は、東に向かえば向かうほど、街並みは、新しく区画された、整然とした姿に変わります。

 

f:id:soranokaori:20211106164339j:plain

※宿場町の西側。旧道の道筋です。

 

 街道は、少し先で、一旦北へと向かいます。この道筋は、事務所やアパートなどが建ち並ぶ、ごく普通の街の様子です。

 道幅は、そこそこあって、明るい感じの街ですが、この先で、吉原の商店街に入るため、賑わう街の裏通り、といった感じです。

 道は、吉原の中心地に近づいて、次第に賑やかな雰囲気へと変わります。

 

f:id:soranokaori:20211106164408j:plain
f:id:soranokaori:20211111153025j:plain

※吉原の商店街に向かう街道。

 

 吉原宿の中心地

 旧道は、やがて、中央駅と称される、交差点に出てきます。この近くには、鉄道の駅があるのかどうか。地図を見ても定かではありません。ただ、交差点の左には、バスのターミナルが見えました。

 幾つもの系統がありそうな、バスの発着拠点。もしかして、中央駅の名称は、ここからきているのかも知れません。

 

 中央駅の交差点を、右に折れた街道は、吉原の商店街に入ります。この商店街が、吉原宿の中心地。旅籠が60軒ほど、軒を連ねていたということです。

 

f:id:soranokaori:20211111153454j:plain

※吉原宿の中心地。今は商店街となっています。

 

 吉原宿は、東海道の14番目の宿場町として、重要な役割を与えられていましたが、その他にも、幾つかの街道の起点が集中し、この地方の、交通の要衝だったということです。

 富士山の浅間大社や、甲斐の国に向かうための、大宮街道をはじめとして、主要な道が、この吉原の中心部に収束していたのです。

 そのために、街道が、四方に向かう、宿場町の周辺には、人々の目印となる、街道の道しるべがありました。向かう先が確認できる、重要な道案内。その痕跡を残すため、今も商店街の一角に、その道しるべが復元されて置かれています。

 

f:id:soranokaori:20211111153523j:plain

東海道・大宮街道の道しるべ。

 

 吉原本町駅

 商店街を東に向かうと、やがてアーケード街も終わりを告げて、次第に、ひっそりとした街に変わります。

 その先で、道が大きく弧を描いた辺りには、「吉原本町駅」の表示です。道の先には線路が横切り、街道は、その踏切を渡ります。

 この鉄道は、岳南鉄道と呼ばれていて、この先のJR吉原駅と、愛鷹山の裾野にある、岳南江尾(えのお)駅とを結んでいます。どのような人たちが、この路線を利用されているのでしょうか。恐らくは、地元に密着した、地域の重要な交通手段なのだと思います。

 

f:id:soranokaori:20211111153542j:plain

岳南鉄道吉原本町駅

 

 依田原へ

 街道は、この先しばらく、真っすぐな直線道路を進みます。初めのうちは、住宅などもありますが、次第に、中小の事業所が建ち並ぶ地域に変わります。

 やがて、前方に橋が見え、小規模の川を渡ります。この川は、和田川と呼ぶそうで、深さのある、運河のような河川です。

 橋を渡ったところの左には、ポケットパークが整備され、そこには、「平家越の碑」*1と記された標識や石碑などがありました。

 

f:id:soranokaori:20211111153600j:plain
f:id:soranokaori:20211111153617j:plain

※左、東に向かう直線道路。右、和田川の橋。

 

 和田川に架かる橋を越えた後、街道は右折して、南の方角に向かいます。この先の道筋は、工場が連なって、街道の面影はありません。

 この辺りは、依田原(よだはら)という地域。第2の吉原の宿場があった近くです。

 

f:id:soranokaori:20211111153635j:plain

※依田原の道筋。

 

 左富士

 工場が並ぶ地域のはずれに来ると、「名称 左富士」の案内が目立ちます。意味が分からず歩いていると、やがて、歩道の端に、「左富士」のモニュメント。石でできた立派なもので、安藤広重の浮世絵が、その大半に写し出されているのです。

 この浮世絵は、東海道53次の吉原宿を描いたもの。この位置から富士を望むと、左手前方にその姿を捉えるために、「左富士」と称されたというのです。

 そう言えば、江戸から都に向かう時、大概、富士山は右方向に見えるもの。左に見える富士の姿は、貴重と言えば、そう言えなくもありません。

 

f:id:soranokaori:20211111153722j:plain
f:id:soranokaori:20211111154543j:plain

※左、工場地のはずれ。右、左富士のモニュメント。

 左富士神社

 「左富士」のモニュメントから、少し南に向かったところには、今度は、左富士神社がありました。

 それほど大きな社ではなく、地域の氏神様といった感じです。境内には、陽が降り注ぎ、絶好の休憩場所となりました。

 

f:id:soranokaori:20211111153738j:plain

※左富士神社。

 

 依田橋村一里塚

 この境内には、また、依田橋村一里塚跡の石標が置かれていて、一里塚や吉原宿の由来などが記された、説明板がありました。

 その説明を読んでみると、移設された3か所の、吉原宿の位置関係も分かります。2番目に設置された、中吉原の宿場の位置は、「現荒田嶋付近」とされていて、この依田橋村からは、もう少し、西に入ったところです。

 一里塚が置かれた場所も、その当時は、今の位置ではなかったということです。宿場の位置に合わせるように、道筋や一里塚も、変遷してきたのでしょう。

 

f:id:soranokaori:20211111153757j:plain

※一里塚跡。

 

 境内には、依田橋村の絵図も置かれて、この絵を見ると、かつての、この付近の様子が窺えます。

 

f:id:soranokaori:20211111154552j:plain

※依田橋村古絵図。

 

 元吉原へ

 街道は、この後、国道1号線の高架下を潜り抜け、道幅が広がった県道へと合流した後、斜め右に入り込む、旧道へと進みます。

 元々の、吉原宿があった場所、元吉原は、もうすぐのところです。そして、その先は、13番原宿へとつながります。

 

f:id:soranokaori:20211111153814j:plain
f:id:soranokaori:20211111153832j:plain

※左、前方が国道1号線の高架。右、県道から右側の吉原駅方面に向かいます。

*1:源頼朝と平家との戦いの一つ、”富士川の戦い”の舞台となった所だそうです。平家は敗退しています。