旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)最終回・・・京の2寺(乙訓寺)

 混乱の中で

 

 空海がまだ若い頃、世の中は大きく動きます。空海が10歳の時、都は平城京から長岡京へと遷都して、わずかその10年後には、平安京へと移るのです。この頃、長岡京の造営を巡る混乱や、桓武天皇の後を継いだ平城天皇を巡る動きは、混沌とした情勢に拍車をかけてしまいます。

 この混乱期を平定に向けたのが、次の天皇である嵯峨天皇空海は、嵯峨天皇の敬愛を受け、さらにその地位を高めます。

 

 

 長岡京の混乱

 長岡京は、京都市の南西部、京都盆地の一角にあり、奈良からは50Kmほどのところです。京都市の中心部とは、わずか数キロほどの位置関係。街の西には山が迫り、すぐ南の地点で、桂川宇治川、木津川の3つの河川が合流します。

 山や川の配置とともに、平地の状況などを見定めると、都に相応しい土地だったのか。とにかく、桓武天皇は、この地に都の建設を命じます。そして、784年には、平城京から長岡京への遷都が執り行われることになり、奈良の都は政治の中心地を手放します。

 この頃、長岡京の造営をめぐっては、朝廷内で対立が起こります。奈良の都を重視する人たちと、長岡京への遷都を進める人たちの確執があったのか。結果として、長岡京の建設を任されていた、藤原種継という人が暗殺されてしまうのです。

 

 この事件を受けて、何人もの役人たちが処分されることになりますが、嫌疑は、桓武天皇の異母弟である、早良親王(さわらしんのう)にも及びます。そして、早良親王は、長岡京の乙訓寺(おとくにでら)に幽閉されることになるのです。

 早良親王は、終には、淡路島への流罪の刑が下されますが、抗議の断食を貫いて、憤死されたと言われています。

 この事件の後、桓武天皇の身の回りで不幸が相次ぎ、都では、日照りや川の氾濫も起こります。この時代、天皇周辺では、早良親王の怨霊の仕業だと考えれれても不思議ではなかったのだと思います。

 結局、桓武天皇は、早良親王に「崇道天皇(すどうてんのう)」の名を与え、その霊を祀ることになるのです。

 

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京都市左京区の崇道神社。

 

 崇道神社

 「崇道天皇」は、従って、実際に存在された天皇ではありません。混乱した世の中の平定を願う必要に迫られて、名誉の回復が図られたということです。

 この天皇を祀る神社は、幾つか残っているようですが、京都市左京区にも、崇道神社が佇みます。それほど広い敷地ではないものの、ひっそりと、森の中に姿を隠し、都の安寧を見つめられているようです。

 

 薬子の変

 早良親王が、長岡京の乙訓寺に幽閉されていたのが、785年のこと。この16年後の811年に、空海は乙訓寺の別当に就任します。

 この16年間の空海は、これまでも触れてきた通り、大学、修行、遣唐使、高雄山寺、と、多忙を極めた人生を歩みます。

 世の中は、早良親王の件もあり、わずか10年で都を京都へと遷都して、天皇も、平城天皇へと変わるのです。そして、空海が高雄山寺に入った翌年の810年、再び大きな事件が起こります。

 

 平城天皇は、もとより身体が丈夫ではなかったと言われています。806年の即位から3年後に、弟の嵯峨天皇に譲位して、奈良の地に暮らします。

 ところが、平城天皇は、長岡京で暗殺された藤原種継(先の早良親王はこの事件で幽閉されます)の娘である、藤原薬子(くすこ)と深い関係になっていて、薬子は、平城天皇(その時点では上皇)と共に、平城京への遷都の企てを図るのです。

 平安京平城京の二つの都を拠点とした対立は、この時期の人々に、大いに不安を与えたに違いありません。

 

 空海はこの時、高雄山寺にこもりつつ、事態の収拾を願っていたのだと思います。やがて、嵯峨天皇の采配で、薬子らの企ては、何とか収拾がつき、平城天皇の剃髪と薬子の自害をもって、平定されることになりました。(この事態は、「薬子の変」と呼ばれています。)

 

 乙訓寺

 空海が、乙訓寺の別当に任ぜられたのは、薬子の変の翌年です。長岡京で薬子の父親が暗殺されて、暗殺の嫌疑がかけられた早良親王が幽閉の後憤死するという出来事は、その後の社会不安と相まって、不吉な影を落とすのです。

 そんな不穏な乙訓寺への赴任について、空海は、どのように考えたのか。想像するに、空海をもってしか達しえない、乙訓寺の再興に、手ぐすね引いて待ち構えていたのかも知れません。

 

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 ※乙訓寺の山門。

 

 乙訓寺は、長岡京跡の南西部、今は、静かな住宅地に囲まれて、ひっそりとその姿を隠します。

 かつては、空海の尽力もあり、大寺院の威厳を誇ったとされますが、今は昔、その面影は、それほど感じるところはありません。

 山門を通り過ぎ、細い参道を進んで行くと、その正面に五輪塔のような石塔が目に入ります。この石塔こそ、早良親王の供養塔。悠久の時を経て、今もこの乙訓の地に、壮絶な歴史の証を残しています。

 

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早良親王の供養塔。

 

 その後の空海

 空海は、1年後、乙訓寺から再び洛北にある高雄山寺に戻ります。この頃、空海比叡山最澄から度々の連絡を受け、実際に面会もしています。

 最澄は、空海と共に遣唐使として唐に渡ったとは言うものの、彼が唐で修得した密教天台宗は、空海真言密教と比べると、やや趣が異なったのか。最澄は、空海が獲得した、真言密教の教えを請うことになるのです。

 それでも、何か噛み合わないところがあったのでしょう。やがて、空海最澄から距離を開けてしまいます。

 密教の奥義を得た空海の超越した思想の体系は、何物も寄せつけないほど、圧倒的であったのかも知れません。

 

 東大寺と東寺

 空海は、この時期、奈良の東大寺別当を務めるなど、次第に幅広く、活躍の場を広げます。東大寺は、廬舎那仏(るしゃなぶつ)と呼ばれる大仏で有名な寺ですが、その宗派である華厳宗は、真言密教の原点でもあるのです。従って、東大寺別当の任を得た空海は、本望であったことでしょう。

 やがて空海は、816年に、高野山を開きます。今でも、信じ難いほどの山奥に、宗教の一大拠点を構築し、真言密教の聖地を確立することになるのです。

 さらに、823年には、平安京九条通りに雄姿を誇る、東寺を得て、真言密教の道場の運営にもあたります。

 

 数々の寺院と関わりながら、様々な分野で能力を発揮した空海は、まさに、超人ともいうべき存在です。あたかも、大日如来の生まれ変わりのようなその生きざまは、「遍照金剛(へんじょうこんごう)」そのものです。

 誰もが、今も自分の傍に空海の影を見て、四国八十八か所霊場巡りを行っているのです。

 

f:id:soranokaori:20210620145407j:plain ※乙訓寺の弘法大師像と本堂。

 

 今回で、「巡り旅のスケッチ(四国巡拝)」は終了です。

 少しの間、このブログも夏休みを頂戴し、お盆明けから、「歩き旅のスケッチ[東海道]」の第2部を始めたいと思います。

 草津追分から始めた東海道の歩き旅。第1部では、近江路から三河路までの道筋を記してきたところです。次の第2部は、遠江。そして、駿河の国へと向かいます。

 新型コロナの状況が見通せないこの時期は、私たちもなかなか都心に向かうことはできません。まだ踏破できていない東海道。今の時点で残る区間は、平塚から日本橋。あとわずかな距離ですが、秋には終えることができればと願っています。