旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)11・・・讃岐路(74番→73番)

 善通寺市郊外の3寺院

 

 善通寺市にある88か所霊場は、合わせて5か寺。これまでの金倉寺善通寺を除くと、あと3か寺です。

 いずれの霊場も、空海が生まれた善通寺から、それほど離れたところではありません。むしろ、往時としては、空海たちにとっては庭や裏山のような場所。幼少の子どもたちでも、駆け回っていたような、ふるさとの野山といったところです。

 

 

 74番甲山寺

 善通寺から甲山寺(こうやまじ)へは、5分もあれば到着します。位置的には善通寺の西側で、弘田川と言うのでしょうか、それほど大きくはない川のすぐ傍に境内がありました。

 ただ、甲山寺の侵入口には、砕石工場があるために、この方角に本当に霊場があるのかと、ためらってしまうようなところです。川伝いの道を工場へと入っていく感覚で車を進めると、意外と立派な駐車場が広がります。仁王門は、駐車場からすぐのところ。門をくぐると、その奥に境内が佇みます。

 

 甲山寺

 駐車場から仁王門をくぐって少し進むと、左手にもう一つの山門です。この山門から真っすぐに延びる参道の正面に本堂が見えました。

 

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※左、仁王門。右、山門。

 私たちは本堂で参拝し、次にその左側、少し石段を上ったところの大師堂へと向かいます。この霊場も、全体的に整備が行き届き、気持ちの良い境内です。

 帰り際、大師堂の左を見ると、小さな祠のようなお堂がありました。お堂の脇には、”弘法大師御作 毘沙門天尊”と記された大きな石碑が建っていて、興味深々。中に入って空海自身が彫られたという、毘沙門天に頭を下げました。

 どうして空海が、毘沙門天の石像を彫られたのか、少し興味も湧きますが、四国霊場の中には、一か所だけ、毘沙門天を本尊に仰ぐ寺院もあるようです。*1*2

 

 善通寺からほど近いこの寺院の辺りは、空海が幼少の頃から親しんでいた場所だったと思います。そんなことも背景としてあったのか、甲山寺の起源は、後に有名な満濃池の整備に取り組んだ弘法大師が、その工事の完了を記念して、造営したということです。

 

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※左、正面が本堂でその左隣が大師堂です。右、毘沙門天を祀ったお堂。

 

 73番出釈迦寺

 甲山寺から少し南西の方角に、少し高めの山地が連なります。ここは、善通寺市に隣接する、三豊市との境界あたり。山地の稜線を越えると、三豊市です。

 出釈迦寺(しゅっしゃかじ)は、この山地の山裾あたり。山に向かう扇状地のような傾斜地に、境内がありました。

 実は、出釈迦寺に向かう坂道の入口には、72番曼荼羅寺の案内が。二つの霊場は、それこそ目と鼻の先ほどの位置関係になるのです。

 

 出釈迦寺

 坂道を少し上ると、左手に駐車場がありました。そこから、少し戻って、境内の入口に向かいます。

 境内への導入路は、細長い坂道になっていて、その先は石段が続きます。坂道の左手は、整備が行き届いた庭園のようなスペースです。そこには、緑濃い山を背景にした弘法大師像などもありました。

 

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※左、駐車場から背面にもどると境内への入口です。中、右、境内へ続く坂道。

 石段を上り、山門をくぐって境内に入ります。砂利敷きの境内右奥に本堂があり、その右側が大師堂。それほど広くはない敷地です。

 この境内からは、善通寺市の街が俯瞰でき、見晴らしの良いところです。もしかして、遠方には、丸亀市などが見えているのかも知れません。

 

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※左、大師堂。その左手に見える屋根が本堂です。右、境内からの景色。

 捨身ヶ嶽の伝説

 出釈迦寺には、少し変わった空海の伝説が残っています。

 空海が7歳の時、この霊場の背後にある我拝師山という小高い山に登り、「我仏法に入りて一切の衆生を済度(しゅじょうをさいど)せん*3と欲す。吾願成就(わがねがいじょうじゅ)するものならば、釈迦牟尼世尊影現(しゃかむにせそんようげん)して*4證明(しょうめい)を与え給え。成就せざるものならば一命を捨てて此身を諸仏に供養し奉る」と唱え、断崖絶壁頂より谷底に身を投じたとのこと。その時、釈迦如来と天女が現れて、空海を抱き留め、「一生成仏」と説かれたというのです。*5

 

 「一生成仏(いっしょうじょうぶつ)」とはどういう意味なのか。調べてみると、信心を厚くして励めば、一生の間に成仏できる。つまり、悟りを開くことができるということなのでしょうか。

 仏教への理解が乏しい私にとっては、表面的なことしか分かりませんが、この言葉は、かなり奥深い言葉であるようです。

 

 いずれにしても、空海は、こうした体験に基づいて、この地に釈迦を祀る寺院を建立されたというもので、その名前も、出釈迦寺。本尊は、釈迦如来となっているのです。

 

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※左、境内にあった弘法大師の像。右、捨身ヶ嶽の伝説を記す案内板。

 

 以上の伝説は、仏教と空海の関りを、強烈に示唆しているように受け取れます。しかし、何度も触れてきたように、空海は仏教のさらにその先にある、真言密教を極めた人。顕教と呼ばれる、釈迦如来によって広められた、経典に基づく仏教とは根本的に異なる体系です。

 釈迦の名を頂いたこの古刹。真言密教の祖である弘法大師とのつながりが、奇妙のようにも感じます。

*1:その霊場は、63番吉祥寺。伊予の国の西条市にある寺院です。

*2:真言密教の原点は、ヒンドゥー教などインド古代の思想とも関連があるようで、毘沙門天像もこのあたりのこととの繋がりなのかも知れません。

*3:生きているみんなを、救済するといういみでしょうか。

*4:釈迦如来が姿を現しということでしょうか。

*5:この記述は、下の写真にある案内板から引用しました。この案内板は、出釈迦寺の境内に掲げられています。