空海の生誕地
空海は、西暦774年、四国八十八か所霊場の第75番札所である、今の善通寺で生を受けました。時は、奈良時代末期。世の中は大きく動き始めている頃で、この後、遷都の波が押し寄せます。
桓武天皇が長岡京への遷都を命じたのが884年のこと。そのわずか10年後には、平安京へと都は移って行くのです。
空海の歳に重ねると、誕生時が平城京。そして、10歳の時に平城京から長岡京へ。さらに、20歳の時には平安京へと変遷します。この時代の流れの中で、空海は成長し、その才能をいかんなく発揮しながら、来るべき平安の時代に大きく花を咲かせることになるのです。
善通寺は、数ある四国霊場の中でも、最も広い境内を持つ寺院のひとつです。境内は、仁王門を挟んで、東西二つの敷地に別れています。東には、本堂にあたる金堂や五重塔などが、そして西には、大師堂にあたる御影堂などのお堂が並びます。
駐車場からのアクセスは、まず、右手に空海記念碑を見ながら石造りの太鼓橋である済世橋を渡ります。その先には、中国風の屋根を有する山門です。この山門を通り抜けると西院(あるいは誕生院)で、空海の誕生地がこの辺り。左手にはパゴダ供養塔と呼ばれる、一風変わった建物や幾つかのお堂などがありました。パゴダ供養塔は、第二次世界大戦のビルマ戦線の犠牲者を弔う記念碑です。
※左、空海記念碑。右、済世橋と山門。
参道は、しばらく直進後、右手にある御影堂の正面へと続きます。御影堂は、これも、四国霊場の中では最大級。空海の生誕地としての威厳を感じます。
西院を横切って、東院へと向かうと、途中二つの境内を挟むところには、仁王門がありました。通常、仁王門は境内の入口にありますが、善通寺だけは、少し趣が異なります。
※左、御影堂(大師堂)。右、仁王門。仁王門の向こうは西院で、手前が東院。
西院から東院に入った辺りにも、幾つかのお堂があって、その先が広々とした境内です。金堂(本堂)は、東院の左手奥で、右手には、五重の塔がそびえます。
金堂には、かなり大きな黄金の薬師如来が祀られていて、その前で、多くのお遍路さんたちが読経を唱える様子は圧巻です。
※左、金堂。右、金堂と五重の塔。
私たちは、まずこの金堂で参拝し、その後西院に戻って、御影堂で再び参拝。納経所も西院にあることから、ほどよく境内を巡ることができるのです。
この善通寺、御影堂がある西院は、元は讃岐の佐伯氏の屋敷があったところです。空海は佐伯善通卿を父に持ち、この屋敷で誕生したのです。
善通寺の名称は、空海の父親の名前をとったもの。空海が唐から帰国した後に、屋敷の隣(東の敷地)に伽藍を整備し、父の名前をいただいて、善通寺と名付けられたということです。
空海のこと
空海は、幼少の頃から学問の才能をいかんなく発揮したようです。元は、讃岐の国の国府で学び、その後15歳の時、ふるさとを離れて奈良に向かいます。この当時、既に都は長岡京へと遷都されていましたが、依然として、奈良は重要なところだったことでしょう。
そして、ほどなく新しい都の長岡京へと居を移し、そこでさらに学問を磨きます。空海は、官吏になることを期待されていたようですが、彼は違った道を歩みます。
18歳か19歳の頃、密教の姿を追い求め、様々なところで修業を行ったあげく、遂に四国に渡ります。その四国の地は、讃岐ではなく阿波の国。奥深い山が連なる山岳地で修業をされたということです。
四国霊場21番目の札所は太龍寺(たいりゅうじ)。この霊場に向かうために整備されたロープウエイから、山中の岩場で修業する空海の像が望めます。この地が確かに空海の修行地かどうかは分かりませんが、このような阿波の国の山中で、密教の真理を追い求められたということは、確かだと思います。
空海は、その後、さらに修行を重ねるために、土佐の国の最御崎(ほつみさき)に向かいます。この地は、今の室戸岬。太平洋の波が岩場を砕く厳しい環境のところです。
かつては、阿波の国から最御崎に至る道中は、人里も少なく、険しい道のりだったということです。今でも、23番札所の薬王寺*1と24番札所の最御崎寺は、80Kmほどの距離があり、歩き遍路の方たちは、途中で2~3泊しなければならない長丁場。空海の時代は、”最果ての地”という感覚だったと思います。
この最御崎、岬の最先端には、今は室戸岬灯台があり、その真後ろの山の中に最御崎寺があるのです。
空海が修行をした場所は、岬の最先端からやや北側で、その場所は「御厨人窟(みくろど)」と呼ばれています。今も、海岸沿いの国道を走っていると、道路のすぐ山側にこの洞窟が残っています。
洞窟は二つあって、向かって右が修行の洞窟、左側は生活の洞窟だったということです。今ではこの洞窟に入ることは許されていませんが、そこから外を眺めると、果てしない空と海の世界が広がっていたことでしょう。
※左、御厨人窟。右、岬の岩場。
ここで明星を認め(御厨人窟にあった解説では、明星が空海の口に入ったと記されています。)、真言密教への足掛かりをつかんだ空海は、いつの日か再び都にもどります。そして、空海がおよそ30歳の頃、真の密教を求めて遣唐使の一行に加わることになるのです。
次回の巡り旅のスケッチは、空海が幼少の頃から親しんだ善通寺近くの古刹、74番甲山寺へと向かいます。