後に弘法大師と崇められ、多くの人々の信仰を集めることになる空海は、若い頃、奈良の都で学問を修めるも、途中で大学を退いて、修業の道を歩みます。
当初は、奈良の山々などで修業に励まれたようですが、やがて紀州に渡り、そして、阿波の国に入ります。この阿波の国での修行の場所が「舎心嶽(しゃしんがだけ)」と言われています。あるいは、「太龍嶽」と記された資料などもありますが、両者は、同じ山なのかも知れません。
何れにしても、今、私たちが向かっている太龍寺付近の山に違いなく、空海の修行の地を訪ねつつ、21番目の札所を巡ります。
深い山越え
太龍寺(たいりゅうじ)へは、那珂川の河原近くに設けられた、ロープウエイの麓駅から、空中を一気に翔けるように上ります。
全長2775m、高低差が422mのところを、わずか10分で結ぶ、太龍寺ロープウエイ。年中無休で運行され、お遍路さんたちの貴重な交通手段です。*1
※ロープウエイで太龍寺へと向かいます。
山頂駅
ロープウエイの山頂駅は、それほど大きな建物ではありません。ちょっとした、土産物が並べられたスペースを通り抜け、屋外に踏み出すと、すぐ正面が境内の入口です。何となく、冷気を感じる空気感は、一気に標高が上がった証かも知れません。
正面の入口には、左右に黒々とした大きな石門が建てられて、その姿は勇壮です。石門の間には、真っ直ぐ続く石段が。その先は、本堂へと続く境内です。
※山頂駅正面の石門。
本堂へ
石段を上って行くと、一旦、踊り場のスペースに至ります。手水舎が、この左手にあり、正面には、さらに石段が続きます。石段の先には、立派なお堂が佇みますが、これが、太龍寺の本堂です。
※本堂へと向かう石段。
太龍寺の本堂は、木々に覆われ、厳かさを感じます。本堂がある境内は、それほど広い場所ではないものの、寺院全体の領域は、太龍寺山の頂上近くに広がって、全体としては、かなりの広さを誇っています。
大師堂は、本堂から右に進んで、左方向へと回り込んだ奥にあり、本堂からは、少し離れたところです。
※本堂。
太龍寺の縁起を記した資料には、「太龍寺は徳島県那賀町の東北にそびえる海抜600mの太龍寺山の山頂近くに在り、古来より『西の高野』と呼ばれています。」との一文が書かれています。
「西の高野」は、和歌山の高野山に因んだ呼び方ではありますが、その姿は、随分と異なる印象です。本来の高野山と比べると、その規模は小さくて、また、門前町の賑わいも、「西の高野」にはありません。
ただ、空海が若き日に修行を続けた山であり、その地に築かれた寺院であるなら、「西の高野」の表現も、理解できるような気がします。
そう言えば、太龍寺の大師堂に向かう時、御廟の橋を渡ることになりますが、この道筋は、弘法大師御廟に向かう、高野山と同様の配置です。さらには、大師堂の裏側に、弘法大師御廟と呼ばれるお堂が設けられ、高野山の奥の院を彷彿とさせる姿です。
山深い「西の高野」は、かすかに、空海の面影が感じられるような霊場です。
※左、御廟橋と大師堂。右、大師堂の裏に設けられている「弘法大師御廟」。
鶴林寺遠景
太龍寺の境内からは、20番目の札所である、鶴林寺(かくりんじ)の遠景が望めます。何気なく歩いていると、気づかない場所ではありますが、大師堂から納経所に向かう時、境内の北側に、特別の場所があるのです。
逆回りの巡拝では、太龍寺の次の札所が鶴林寺。今いる場所と同じような、深い山の霊場を眺めていると、何故か、神秘的な空気を感じます。
※鶴林寺の遠景。三重塔の屋根が良く見えます。
舎心嶽
太龍寺と麓を結ぶロープウエイは、壮大な自然の中に築かれていて、眼下に広がる景色には、圧倒されるような凄さを感じます。深い緑が、起伏を繰り返しながら、どこまでも続きます。
この山の中には、かつては、野生のオオカミなども暮らしていたとのことですが、そんな山に分け入ることさえ、躊躇するような世界です。
今から、1200年以上も前の、自然が大方を支配する時代の中で、空海は、この山中をさまよいながら、舎心嶽(しゃしんがだけ)に行き着きます。そして、この地で修業を重ね、その後、室戸岬へと向かうことになるのです。
太龍寺ロープウエイの頂上駅にほど近い崖地の上には、空海が、修行を行う姿を模した石像が置かれています。
深い山の頂が、崖地になって突き出てたところの石像は、現実味はないものの、空海の修行の様子を思い描くには、絶好の光景のような気がします。
※舎心嶽での空海の修行の像。
阿波の国の「舎心嶽」は、この漢字をあてるのですが、以前のブログに記した、73番出釈迦寺近くの、讃岐の国の”しゃしんがだけ”は「捨身ヶ嶽」と書くのです。
後者の山は、空海の伝説を背景にした山の名で、この字も頷ける気がするのと同様に、阿波の国の山の名も、空海の心が宿る山として、納得できる名前だと思います。