旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

巡り旅のスケッチ(四国巡拝)28・・・伊予路(41番→40番)

 伊予路の終わり

 

 讃岐の国の88番大窪寺から逆回りで四国をほぼ半周し、ついに伊予の国の最終章になりました。残る札所はあと2か所。土佐の国に近づきます。

 伊予の国の霊場は、四国4県で最も多い26。そのうちの幾つかは、険しい山岳の霊場です。それに加えて、寺院と寺院の間隔が大きく離れているところも少なくはありません。歩き遍路の方たちは、次の霊場に向かうため、歩いて数日を要することもあるようです。

 菩提の道場と言われるように、この国を乗り切ることができたなら、初めて悟りをひらく資格が与えられるのかも知れません。

 

 

 41番龍光寺へ

 仏木寺から龍光寺(りゅうこうじ)へは、僅か10分ほどの道のりです。県道31号を南に下り、途中で三間(みま)の集落の中を進んで左に折れると、その先の左手に小さな鳥居が現れます。鳥居の左側には、数台が停められる駐車場がありますが、そこは鳥居脇にある食堂のものかも知れません。

 龍光寺の駐車場は、鳥居からさらに集落の中へと進んで行ったところです。以前訪れた時は、私の車は軽乗用車だったため、この細道を難なく進むことができました。ところが、今回は普通乗用車。とても奥へと進む勇気はありません。

 やむなく、鳥居前の少し開けた道路脇に路上駐車をさせて頂き、参拝へと向かうことになりました。*1

   

 龍光寺

 車を降りて、集落の中を真っ直ぐに延びる道を歩きます。正面奥には、長い石段が境内へと延びていて、その上に見える朱塗りの鳥居が鮮やかです。

 鳥居の奥は、さらに石段が上へと続き、その先に稲荷神社が見えました。

 

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※龍光の参道入口。

 

 境内へと続く石段を上って行くと、鳥居の手前が龍光寺の境内です。この境内は仁王門や山門はなく、また、白壁などで区切られている訳でもありません。平地に向かって開けた斜面を、平たく整地した敷地です。

 細長く小さく開けた空間には、幾つかのお堂や石像が並びます。本堂は、稲荷神社の鳥居に向かって左側。大師堂は反対の右側です。

 

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※左、本堂と納経所。右、本堂前から反対方向の大師堂を見たところ。

 

 40番観自在寺

 龍光寺の参拝を終えると、いよいよ愛媛県霊場で残すところはあと1つ。高知県との県境にほど近い、愛南町にある観自在寺(かんじざいじ)へと向かいます。

 先ずは、再び三間ICから松山自動車道に乗り、南の方角を目指します。自動車専用道路は、宇和島市の市街地を縦断するように貫いていて、途中には、宇和島の街や宇和島城を見ることができました。

 

 自動車道は、津島岩松ICが終点で、その先は国道56号を走ります。国道は、山から海へ、海から山へと景色を変えて続きます。海岸は岩場が多く、風光明媚な景観です。

 やがて、少し平地が現れて、愛南の街中に入ると、観自在寺は間もなくです。

 

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※駐車場から境内に向かう細道の入口。

 

 観自在寺

 観自在寺には、正面前にも駐車場はありますが、私たちが車を停めたところは、境内の西側にある駐車場。愛南町立平城(ひらじょう)小学校の校庭に面したところです。

 後ほど少し触れますが、この辺りは”平城”と呼ぶようです。観自在寺の由来として、空海平城天皇(へいぜいてんのう)の勅命を受け、この地に寺院を開いたということで、地名もこの由来に関係しているのかも知れません。

 

 駐車場から境内へは、人が一人通れるぐらいの、細い道を通ります。50mほど歩き進むと、左手に仁王門。境内は、石垣と白壁にしっかりと囲まれて、少し威厳を感じます。

 

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※左、仁王門。右、門をくぐり、境内を望みます。正面奥は本堂です。

 

 仁王門をくぐると境内が広がります。参道は奥へと続き、その途中の右手には、お堂や石像などが並んでいます。境内の左側は、庫裏などの建物です。

 本堂は、正面奥。コンクリート造りのような新しいお堂です。大師堂は、本堂から少し離れた右の奥。こちらも新しい感じの建物です。

 

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※左、本堂。右、観自在菩薩と大師堂。

 

 平城天皇

 観自在寺は、平城天皇の勅願を受けて開かれた寺院です。どうして、四国の果てのこの地が選ばれたのか、不思議という他ありません。おそらく、弘法大師信仰とどこかで結びついていて、寺伝が形作られてきたのでしょう。

 この平城天皇は、第51代天皇として、806年から809年まで在位されたということで、空海が唐の長安から帰国した時(806年秋)は、まさしく平城天皇の御代でした。

 この天皇、僅か3年で皇位を弟の嵯峨天皇に譲ることになりますが、その後、平城京を拠点として上皇となり、嵯峨天皇と対立します。このあたりのいきさつは、高校日本史の中で、かすかに記憶が残る「薬子の乱(くすこのらん)」と絡んでいて、権力を争う平安初期の混乱が目に浮かびます。

 

 話は、他でもありません。実は、この平城天皇弘法大師とどのような関係であったのか、ということが、司馬遼太郎の「空海の風景」の中で触れられています。その内容をここで記すことはできませんが、どちらかといえば弘法大師は、平城天皇との直接的なつながりは、それほどでもなかったような様子です。

 弘法大師と言えば、次の天皇である嵯峨天皇。書道の大家とされる三筆(さんぴつ)も、空海嵯峨天皇、そして、空海と共に遣唐使となった橘逸勢(たちばなのはやなり)の三人です。

 

 どのようないきさつで、平城天皇空海に勅命を下されたのか、興味深いところです。もしかすると、平城天皇嵯峨天皇に敗れた後、仏門に入られることになりますが、その時代に、嵯峨天皇のはからいが働いたのかも知れません。(寺院開創年からすると、あり得ない話ではあるのですが‥‥)

 

 

 ここまでで、伊予の国の巡拝は終了です。「巡り旅のスケッチ」も、次は高知県、土佐の国へと進むのですが、このシリーズは、勝手ながら少し休憩を挟みます。

 

 私自身の今の旅路は、東海道の歩き旅。「巡り旅」を一休みして、暫くの間、こちらの話題に移ります。

 東海道の歩き旅は、今秋に佳境を迎え、概ね3分の2の行程を進むことができました。その後、色々と行事が重なり、さらに新型コロナウイルスの猛威もあって、計画は滞りがち。

 それでも、「旅のスケッチ」の気分転換という意味合いも込めながら、暫くの間、東海道の風景をお届けできればと思います。

*1:それでも、普通自動車で奥の駐車場に向かわれる方もおられます。その場合は、くれぐれも細心の注意が必要だと思います。