旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]12・・・関宿

 東海道の宿場町

 

 関宿は、東海道の中では随一と言っても過言でないほど、往時の姿を良く残している宿場です。この町は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定され、宿場町を味わうために、多くの観光客が訪れます。

 私のブログ、「歩き旅のスケッチ[中山道総集編]3」の中でも触れたように、関の宿場は、中山道妻籠宿や奈良井宿と肩を並べる、我が国の宿場町の代表です。

 

 宿場町へ

 西の追分のところから、国道を左にそれて旧道に入ります。国道と分岐したところの三角地のスペースは小公園のようになっていて、関宿を紹介する案内板などがありました。

 少しの間、上り坂の街道を進んで行くと、やがて道は平たんになり、その先から木造の軒が連なる宿場町に入ります。この辺りは住宅地でありながら、古くからの建物や板塀などが良く残っていて、宿場の雰囲気が漂います。

 ところどころに、新しく建て替えられた住宅が見られるものの、全体として、往時の町並みが良く残った道筋です。

 

f:id:soranokaori:20201224113004j:plain
f:id:soranokaori:20201224113038j:plain

※左、宿場町の西辺り(新所の家並)。右、地蔵院前の街道。

 

 関宿

 関宿の西半分は新所と呼ばれるところです。その家並みを通り過ぎると、少し開けた空間が現れて、三差路や地蔵院の境内に行き着きます。

 関宿の中心はこの辺りから。宿場の面影満載の町並みが広がります。

 

f:id:soranokaori:20201224150935j:plain
f:id:soranokaori:20201224150956j:plain

※左、地蔵院。右、宿場町の様子。

 

 地蔵院の付近からは、飲食店や土産物店などが目立ちます。会津屋という食堂は、かつての旅籠の跡らしく、由緒ある店構えに魅かれるものを感じます。この辺り、休日には、大変賑わうことでしょう。

 この先の街道筋には、休憩所や資料館なども点在し、町並みはタイムスリップしたような情景です。

 

f:id:soranokaori:20201224113112j:plain
f:id:soranokaori:20201224113200j:plain

※左、休憩所の中にあった宿場町の案内。右、高札場とその向こうが関の郵便局入口。

 

 鈴鹿の関所

 関宿は、その昔、”鈴鹿の関”があったとされるところです。東国から奈良や京都の都を守るため、この地に関所を設けることで、守りを固めていたのでしょう。関という名前の由来は、ここから来ているということです。

 今では、平坦地に近いこの位置に関所があったということは、俄かに信じられないことですが、かつては、北に山が迫り、南には鈴鹿川が流れるという狭隘な土地だったのかも知れません。

 

 東へ

 江戸時代の宿場町の様子を楽しみながら、一路東へと 進みます。途中、町の中央部にある交差点に差し掛かると、より一層、街道の町並みが重みを増してくるように感じます。

 この交差点、右に折れて200mほど先のところが国道1号線。さらにその先がJR関西本線の関駅です。国道は、西の追分を過ぎた後、街道の右側を大回りするように、関駅前へと向かうのです。

 

f:id:soranokaori:20201224151140j:plain
f:id:soranokaori:20201224151216j:plain

※左、宿場町の中央部。右、東に向かう街道。

 

 宿場内をさらに東へと向かいます。街道は、やや下り坂になりながら、宿場の風景を保ったままで集落外れへと近づきます。

 関宿の東の外れ辺りは、さすがに町並みは変化して、老朽化した建物も目に止まります。それでも、ここまで宿場町が保全され、往時の様子を伝えてくれるところは、東海道では関宿しかありません。貴重な国の財産と言っても良いでしょう。

 

 東の追分

 宿場町の東の端は、東の追分の辺りです。ここには、関の一里塚跡と、追分の灯籠などがありました。

 東の追分は、東海道と伊勢別街道との分かれ道。追分を右に折れると、伊勢へと続く街道に入ります。伊勢別街道と称される街道の入口には鳥居がかかり、まさに、伊勢神宮への入口のような情景です。

 

f:id:soranokaori:20201224151252j:plain

※東の追分。

 

 伊勢別街道

 伊勢別街道は、東の追分から南に向かい、津市の江戸橋で伊勢街道と合流します。一方、伊勢街道は、後に紹介することになりますが、44番石薬師宿と43番四日市宿の間にある、日永(ひなが)の追分で東海道と分かれた後、南へと向かいます。そして、伊勢別街道と江戸橋で出合うことになるのです。

 江戸から伊勢参りに向かった”やじさん・きたさん”。この2人は、日永の追分から伊勢街道に入って伊勢神宮を目指します。かたや、京の都を発った斎王の群行は、鈴鹿峠を越えた後、関宿の東の追分から伊勢別街道に入ります。その後、この街道を南下して、津の江戸橋で伊勢街道へ。そして、そこからさらに南下して、松坂と伊勢の中間にある斎宮(いつきのみや)に向かったのだと思います。

 

 斎宮

 斎宮(いつきのみや)は、伊勢神宮天照大神に仕える斎王の宮殿があった施設です。斎王は、そこで住まいし、祈りを捧げながら、年数回の祭事の時に伊勢神宮を訪れて祭祀をあげたとされています。

 この斎宮。今でも、三重県明和町というところの、近鉄山田線斎宮駅のすぐ東側にその遺跡が残っています。斎宮跡は、結構な広さの敷地を有し、「いつきの宮歴史体験館」や斎宮跡の模型などが整備され、かつての様子を窺い知ることができました。(この斎宮には、別の機会に訪ねたのですが、不思議なロマンに浸ることができました。)

 

f:id:soranokaori:20201226143232j:plain
f:id:soranokaori:20201226143255j:plain

※左、いつきの宮歴史体験館。右、斎宮跡。(いずれも三重県明和町

 

 亀山宿へ

 東の追分を後にして、次は城下町でもある亀山の宿場へと向かいます。