旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]36・・・吉田宿から二川宿へ

 三河の国の最後の宿場

 

 いよいよ、三河の国の最終章。豊橋市にある2つの宿場、吉田宿と二川宿を訪ねます。

 近江の国の草津宿から出発して、伊勢、尾張へとつなぎ歩いて、三河の国へ。そして、愛知県の最東端の豊橋です。静岡の遠江の国を目前にして、三河最後の街道歩きを楽しみます

 

 

 吉田宿

 広い国道の交差点を横切って、吉田宿に入ります。吉田宿は、市街地が整備され、再開発されたような街中です。街道沿いは、ほとんどが新しくできた街。かつてここが、宿場町であったことなど、なかなか感じることができません。

 豊橋は、空襲や地震のために、往時の町の姿は、ほとんど見られないということです。

 

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※吉田宿の入口付近。

 吉田宿の沿道には、コンクリートの建物が並びます。街道は、ところどころで街角を直角に曲がることになりますが、道路標識が整っていて、迷うことはありません。「東海道」と記された案内を確認しながら、東へと向かいます。

 ビルの間には、時々、老舗らしい店の名前の建物も見られます。しばらく進むと、本陣跡を示す石標などもありました。

 

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※吉田宿の様子。

 

 東へ

 街道が通過する街の様子は、次第に住宅地へと変わります。道幅もやや狭くなり、歩道などもありません。道案内に従って、忠実に街道を辿ります。

 豊橋の官庁街や、吉田城跡に整備された公園などは、街道のすぐ北側を通過する、国道1号線沿いに広がっていて、交差点から、わずかながら、その様子なども見られます。

 

 東惣門

 街道は、やがて、その国道へ。その先は、しばらく国道の歩道を歩きます。

 街道が国道と交わる所には、歴史ある小さな門がありました。この門は東惣門というもので、そこが、吉田城下の入口だったということです。

 

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※左、吉田宿の後半。右、東惣門跡。

 

 東惣門のすぐ傍に立てられた説明板には、この門は、「鍛冶町の東側に位置する下モ町(ママ)の吉田城惣堀西で、東海道にまたがって南向きに建てられていた」と記されています。惣門は、朝6時から夜10時まで開けられており、これ以外の時間は、一般の通行は禁止されていたようです。

 門がある大きな交差点は、歩道橋で渡ります。橋の上から眺めると、東海道の先の景色をわずかながら、眺めることが可能です。

 

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※歩道橋から国道1号を確認します。遠方の低い山並みの下が次の宿場の二川宿。

 国道から旧道へ

 この後しばらくは、国道1号線に沿って歩きます。途中には、街道らしい景色のところはありません。わずかに、趣のある寺院などが目に止まる程度です。

 やがて、飯村というとこから、街道は左手の旧道に入ります。この旧道の入口付近に、飯村の一里塚跡がありました。

 

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※国道の風景。

 クロマツの並木

 旧道を進んで行くと、街道は、もう一度斜め左の道に入ります。上り坂が勾配を増し、丘陵のような地形のところを進みます。この辺りは、大岩というところ。後で少し触れますが、ここは、当初、宿場の機能を持ち合わせていたようです。

 美しく整備された歩道を進むと、「旧東海道クロマツ跡」と刻まれた石標が。そして、その先の歩道脇には、近年植えられた様子の、幾本かの小さな松の木がありました。今ではもう、姿を消したクロ松並木。地域による、復活の試みが行われている様子です。

 

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旧東海道クロマツ跡の石標。

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クロマツが植えられた街道。

 

 二川宿へ

 街道は、やがて下り坂。右側には、森林公園のような、森が広がります。道は、突き当りのT字路を右折です。そこからは、さらに下り勾配がきつくなり、一気に坂を下ります。

 坂道を下りきったところは、火打坂の交差点。その先が二川の宿場です。

 

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※坂道を二川へと下ります。

 

 日打坂の交差点を直進すると、街道は、緩やかに左方向に向かいます。その先の右側に、JR東海道本線二川駅がありました。

 

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※火打坂の交差点。
 

 二川駅辺り

 二川の宿場町は、二川駅を越えてから、その醍醐味が味わえます。駅前自体は、ごく普通の郊外の駅の風景ですが、何となく、モニュメントや宿場案内の説明板を見ていると、これから先の宿場町の姿を予感させるような気配です。

 

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二川駅前に設置されたモニュメントと案内板。

 駅前広場に掲げられた二川宿の案内は、宿場の成り立ちについて、次のように記しています。

 

 「東海道の開設当時は、二川村と大岩村の二か村で一宿分の業務を行っていましたが、正保元年(1644)に両村は現在地に移転して、二川宿と加宿(かしゅく)*1大岩となり、東海道53次中33番目の宿駅として業務を行うことになりました。」 

 

 二川宿

 二川駅を通り過ぎ、少し東に向かったところで、街道は、一気に道幅が狭まります。そして、街の様子は、次第に宿場町の雰囲気に変わります。

 三河の国の最後の宿場、二川宿は、今残る東海道の宿場の中で、第2第3を争うような、かつての姿が良く残る宿場町。伊勢の国の関宿は別格ではありますが、近江の国の土山宿と、この二川宿の2つの宿場は、関宿の次に位置するぐらい、趣があるところです。

 

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※二川宿の入口辺り。

 

*1:ウィキペディアによると、「加宿とは、宿場において人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの。」とされています。