旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]79・・・原宿へ

 愛鷹山駿河湾

 

 富士市から沼津市へと向かうには、愛鷹山(あしたかやま)の裾野を辿る、国道1号線を走るのが一般的なルートです。ただ、この辺りには、山際を通過する、東名高速道路を初めとして、駿河湾に沿って延びる県道など、幾つかの主要道路が走っています。

 街道は、県道と合流してはまた離れ、或いは、別の県道に入るなど、駿河湾に近いルートを辿りながら、原宿へ、沼津宿へと向かいます。

 

 

 原宿へ

 旧道に入った街道は、しばらく先で、JR東海道本線の踏切を渡ります。辺りには、ゆったりとした敷地を有する民家などが並ぶ他、ところどころに、農地なども見られます。

 踏切付近は、視界が広がり、左手の後方には、美しい富士山の姿も見えました。

 

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※左、旧道である新たな県道が踏切を横切ります。右、踏切からの富士山の眺望。

 踏切を渡った後は、しばらくの間、東海道本線の線路に沿って進みます。この辺りの交通施設の状況は、駿河湾の松林のすぐ傍に、県道が設けられ、そのすぐ北には、JRの軌道です。そして、JRの次にあるのが、私たちが歩いている、東海道(もう一つの県道)。さらに、その少し北には、国道1号線が通過するという状況です。

 並行して、幾つもの交通ルートが整備され、円滑な、人と物の流れをつくり上げているのです。

 

 沿道は、依然として気持ちの良い住宅地が続きます。道は真っすぐ延びる直線道路。そこには、街道の面影はありません。それでも、ところどころに、由緒ある寺院などが見受けられ、その辺りには、落ち着いた空気が漂います。

 

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※原宿に向かう街道。

 

 住宅が連なる道筋を、東へと進んで行くと、少しずつ、辺りの様子が変わります。次第に、建物の密度が増して、お店なども見られるようになりました。

 

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※原宿への道。

 

 原宿
 あいかわらずの直線道路。昼も近づき、空腹を感じる中で、ようやく、原小学校のバス停留所に到着です。バス停の、「原」の表示を見た時は、次の宿場に辿り着いた、安堵感さえ覚えたような気がします。

 

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※原小学校近くの街道の様子。

 

 西見附

 バス停から、少し東に進んで行くと、道端に、「西木戸(見付)跡」の表示です。この辺りには、木戸があり、実際には、ここから東に宿場町が設けられていた様子です。

 見附跡からさらに進むと、右側には、高嶋酒造の建物です。”白隠正宗”(はくいんまさむね)と表示された看板は、由緒あり気な、酒蔵の雰囲気を放っています。

 

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※左、西木戸跡の表示板。右、高嶋酒造の建物。

 

 原駅

 街道は、依然として、住宅が中心の町並みです。それでも、銀行やお店の数が増してくると、やがて、JR原駅入口の交差点。駅は、交差点を右折して、その突き当りにあるようです。

 

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※原駅入口の交差点。

 

 私たちは、街道沿いの、ちょっとお洒落で奥ゆかしい、カジュアルな料理屋さんが目に止まり、そこで、昼食の休憩です。思いもかけず、美味しい昼食をいただくことができました。

 

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※左、料理屋前から東の街道を望みます。右、焼き鯖の定食。

 

 本陣跡

 昼食後、原の宿場の町中を、先を目指して進みます。町並みは、住宅が中心で、ところどころにお店などが点在するという状況です。

 少し進んだところには、新しい住宅前の道端に、本陣跡を表示した、石の案内がありました。今はもう、本陣の建物などは、影も形もありません。ここに本陣があったのかと、ただ想像するばかりです。

 

 案内板には、この本陣は、阿野全成(あのぜんじょう)を祖先に持つ、渡邊家が務めていたということです。阿野全成は、源頼朝の異母弟で義経の兄にあたる人。常盤御前を母をに持つ鎌倉初期の僧侶です。

 渡邊家は、この辺りでは、かなりの実力者だったということで、本陣は、広大な敷地を有していたと書かれています。

 

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※本陣跡。

 白隠禅師誕生地

 街道は、銀行などの支店が並ぶ、少し賑やかな所を通ります。原交番東の交差点付近には、お店や神社、交番などが入り混じり、原地域の中心地の様相です。

 

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※原駅の東の地域。少し賑やかな雰囲気です。

 

 交差点を越えた先で、町並みは、再び落ち着いた雰囲気に変わります。そして、街道の右側には、「白隠禅師(はくいんぜんじ)誕生地」との、案内表示が掲げられてありました。

 少し奥まったところには、山門や、石造りの標石が建ち並び、その向こうには、小さなお堂のような建物です。ひっそりと、姿を隠すように佇むお堂は、奥ゆかしさすら感じます。

 白隠禅師は、白隠慧鶴(はくいんえかく)とも言われ、江戸時代中期の臨済宗の僧侶として、名を馳せられたということです。この原宿で命を授かり、若くして、隣接地の松陰寺で得度されました。その後、全国各地で修業を重ね、1716年に、地元松陰寺に戻ってこられたということです。

 先に、”白隠正宗”の酒造所があったように、白隠は、原宿で、最も敬愛される人として、崇められているのです。

 

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白隠禅師の誕生地。

 

 松陰寺

 白隠禅師の誕生地から、少し東に向かった所に、今度は、松蔭寺への参道が現れました。参道の正面には、立派な石柱がそそり立ち、その向こうは山門です。

 私たちは、昼食後の、道草の気分の中で、白隠禅師ゆかりの寺院、松蔭寺の参拝に向かいます。
 

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※松陰寺門前。

 

 松陰寺は、立派な山門を有する寺院です。境内は、それほど広くは無いものの、開山堂や座禅堂など、幾つかの建物が並びます。境内の解説には、次のように書かれています。


 松陰寺は、考案2年(1279)に鎌倉円覚寺の無学祖元禅師の法嗣、天詳西堂によって創建されたと伝わる。享保2年(1717)に入寺した白隠慧鶴禅師(はくいんえかくぜんじ)により全国から雲水が来参する修行道場として知られるようになった。

 

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※松陰寺境内の様子。

 私たちは、松陰寺の参拝を終え、再び街道歩きを続けます。街道は、原宿を終え、次の宿場、12番沼津宿へと向かいます。