旅素描~たびのスケッチ

気ままな旅のブログです。目に写る風景や歴史の跡を描ければと思います。

歩き旅のスケッチ[東海道]81・・・沼津宿から三島宿へ

 伊豆の国

 

 東海道は、遠江駿河の国を横断し、いよいよ静岡県の最後の国、伊豆の地へと向かいます。

 伊豆と言えば、その昔、源頼朝が流刑を受けて、身を潜めたところです。当時は、都から随分離れた、最果てとも言えるような場所だったのだと思います。

 伊豆の国には、険しい山々が壁のように立ちはだかって、その先の、相模の国との往来を容易には許しません。都に暮らす人にとっては、ここから東は、異国とも思えるような、遥か彼方の土地だったことでしょう。

 このような、関東の荒涼とした土地に地の利を悟り、後に、鎌倉幕府を築いた頼朝は、伊豆の国から日本を眺め、より広い視野を持ちながら、国の行く末を考えていたのかも知れません。

 街道は、伊豆の国、唯一の宿場町、三島の宿場を目指します。

 

 

 沼津宿

 沼津宿の中心地、本町通りを少し歩いて、次の信号を右折すると、御成橋通りに入ります。街道は、さらにその先の、通横町(とおりよこちょう)交差点を左折して、北方向に進むのです。

 

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※左右方向の道が御成橋通り。

 

 通横町の交差点を南北に貫く道は、沼津市の中心道路。北に向かうと、JR沼津駅に行き着きます。この道は、整備された片側2車線の広い道。沿道には、ホテルや商業ビルなどの大きな建物が並びます。

 街道は、この道の東側歩道をしばらく歩き、途中で、右方向の路地のような道に入ります。この路地は、注意しないと見過ごすような道ですが、その入口に、「旧東海道 川廓(かわぐるわ)通り」と刻まれた、石の表示があることと、石畳を模した舗装が目印となり、確認さえ怠らなければ、間違うことはありません。 

 

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※川廓通りの入口。

 

 川廓

 川廓通りを東に進むと、道は途中で左方向に湾曲し、北向きの道に変わります。この辺り、狭い道幅や湾曲した道の形は、昔からの道筋を彷彿とさせる界隈です。

 沼津の宿場は、都市整備などにより、大きくその姿を変えていますが、この道だけは、辛うじて、往時の面影をとどめているように感じます。

 

 川廓通りをさらに進むと、今は県道になっている、かつての国道1号線に合流します。この合流地点の直前に、「川廓の由来」と書かれた、お洒落な説明板がありました。

 それによると、「川廓町は志多町と上土町との間の東海道往還沿いにあって東側は狩野川に接し、背後は沼津城の外廓に接した狭い町であった。」と記されていて、この道の左側に、沼津城の城域が広がっていたことが分かります。

 

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※左、川廓通り。右、通りから県道への出口付近。

 

 県道から旧道へ

 県道と合流した街道は、少しの間、広々とした幹線道路を進みます。途中、国道との交差点を、歩道橋で越えた後は、街の様子は、少し寂し気な雰囲気に変わります。

 

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※旧国道1号線の県道。とその歩道。

 街道は、途中で、一旦県道から右にそれ、狩野川伝いの旧道へと入ります。緩やかな弓なり状のこの道は、道幅もそこそこあって、この付近の生活道路の様子です。

 旧道を少し進むと、左手に、一里塚跡の表示がありました。ここが、沼津の一里塚。かつての塚の面影は無いものの、静かに、その存在を伝えています。

 

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※沼津一里塚跡。

 

 旧道の道筋は、静かな住宅が連なります。そして、次第に狩野川に近づくと、右側に、コンクリートの堤防の壁。私たちは、その壁に沿うように、一段低くなった、堤防下の道を進みます。

 狩野川に架かる橋の下を潜り抜け、わずかに曲線を描いた道を東に向かうと、その先で、再び幹線道路に合流します。

 

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※左、堤防下の旧道。狩野川に架かる橋の下を潜ります。右、県道との合流地点。

 

 きせがわ

 少しの間、旧国道の県道を、歩道伝いに歩きます。この道筋は単調ですが、やがて迎える三島の宿場に想いを馳せて、我慢の街道歩きが続きます。

 県道を、数百メートル東に進むと、右にそれる旧道が現れます。街道は、東下石田と案内されたこの交差点から、旧道の道に入ります。

 この辺りは、沼津市の大岡と呼ばれる地域ですが、「きせがわ」という名前の建物などが目立ちます。「きせがわ自動車学校」や「きせがわ病院」などが目に止まり、街道歩きの目印ともなりました。

 

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※東下石田の交差点。街道は、右方向です。

 傍示石

 旧道に入って少し進むと、左側の道端に、「従是西 沼津領」と刻まれた、大きな石柱がありました。この石柱は、傍示石(ぼうじいし)と呼ばれるもので、伊豆の韮山(にらやま)代官所により、設けられたということです。

 説明書きでは、1600年代の初めの頃に、沼津は天領(幕府直轄の領地)となり、韮山の代官、江川太郎左衛門支配下に入ったとのこと。その後、水野忠友が沼津藩を任されたのを機に、この石柱が設けられたとされています。

 

 江川太郎左衛門と言えば、伊豆韮山世襲代官として有名です。幕末には、韮山反射炉を建設し(この反射炉は、世界遺産として登録されています)、攘夷のための大砲を鋳造した実力者。伊豆の人が、この沼津にまでも影響を与えていたのかと、驚きを覚えたものでした。

 

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※沼津との境を示す石柱と説明看板。

 

 黄瀬川

 街道は、住宅が連なる道を、さらに東へと進みます。途中、狩野川の支流の一つ、黄瀬川を迎えると、その上流の方向には、愛鷹山の山頂から頭を覗かす、富士の姿が見えました。

 私たちがこの黄瀬川を越えたのは、昨年(2021年)2月のことでした。この時は、実に優雅な風景で、早春の、清々しい空気が漂っていたのです。

 ところが、梅雨を迎えた7月上旬、この川は、大雨の影響で、凶暴な姿に変貌します。沼津市の本宿や大岡辺りは、この黄瀬川の増水で、大きな被害を受けたのです。テレビのニュースの映像で、黄瀬川の氾濫状況を見た時は、何とも、やるせない思いになりました。

 

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※左、黄瀬川に架かる橋へと向かう街道。右、黄瀬川の橋から愛鷹山と富士山を望みます。

 清水町

 黄瀬川を越えた先で、街道は、静岡県清水町に入ります。右側は、そこそこ広い敷地を有する事業所で、沿道には、松の木々が連なります。しばらくすると、新旧の建物が混在した住宅地。昔から、街道沿いに民家などが並ぶ地だったのかも知れません。

 

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※左、事業所前に並ぶ松並木。右、清水町の街道。

 

 その後、旧道は、国道1号線の広い道路を横切ります。そして、再び旧道に進んで行くと、伊豆の国、三島の宿場は、もう間もなくのところに迫ります。

 

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※八幡交差点。ここで国道1号線を渡ります。